拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

電子書籍の暴走

2024-04-30 09:27:40 | 日記

電子書籍の端末は二代目なのだが、これがときどき暴走する。私は、本は専ら電子書籍で読んでいる。容量の少ないヤツでも2000冊以上入るから家の中でも外出時の鞄の中もかさばらないで済むし、なにより字を大きくできる点が大きい(私が電子書籍を利用する決定的理由がこれ)。ところが、その端末がときどき勝手に、エンドレスにページめくりを始める。始まったら容易には止まらない。まるで、「ゴジラ×メカゴジラ」で政府がゴジラ対策に開発したメカゴジラがゴジラを撃退した後に言うことを聞かなくなって暴走し、街を破壊し尽くしたごとしである。初代(メカゴジラの初代ではなく、電子書籍端末の初代)は、こんなことはなかった。もしかして使用法に問題があるのかもと思って様子を見てる間に保証期間は過ぎてしまった。まあ、毎回というわけではない。この世に完全なモノなどないのだから(人間の健康を含めて)、がまんして使っていこうと思う。発症したら、また発作だ、と思うことにして。上記のメカゴジラもエネルギーが切れたところで暴走は止まった。

その電子書籍で最近読んでたのが夏目漱石。その内容は「猫」「坊ちゃん」「草枕」「倫敦塔」「虞美人草」「坑夫」「夢十夜」「文鳥」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ(朝ドラ「こころ」との関連性はない模様)」「道草」ってところ。この読書を通じて、私は漱石及びそれをとりまく人々が上級国民であることを思い知った。主人公は大概帝大出であり、登場人物の住む家は皆、門構えで女中を雇っている。私は、これまで漱石ファンを自認してきたが、こういう感想を持ったのは今回が初めてである。それも当然、漱石ファンを名乗っていても、結局何度も読み返したのは「猫」と「坊っちゃん」だけ。猫は帝大を出ていないのは当然だし、坊っちゃんは、これは漱石の小説の主人公としては珍しく現在の東京理科大学の出身である(中学のときの理科の先生が同大の出身で、「坊っちゃん」と一緒だと言って自慢していた)。だから、分からなかったのである。そう言って、文句を言いながらも今回これだけ読んだのはなぜかというと、上級国民でも「愛情のもつれ」「不倫」等々については庶民と変わるところがないらしく、そのあたりの心のひだがこと細かく描かれていて、読み応えがあったからだ。そういえば、青山の某高級スーパーのレジに並んでたいかにもおハイソな親子が相続問題かなにかで親戚ともめているらしく、大いに親戚の悪口を(大声で)話しているのを聞いて、おハイソな人達も人生の問題を抱えてるんだなぁ、そういうときの人の悪口を言う様子はおハイソも庶民も同じか、あるいはおハイソなほど激烈なんだなぁ、と感心(?)したものである。

例外は「坑夫」。家出した青年がポン引きに引っかかって炭鉱で働くことになる話。ここで描かれる世界は、他の作品とは真逆の世界。なんと、女性が立ちションをする(私は、自分が間違って読んだのかと思って読み返した。間違っていなかった。因みに、そのとき私の脳裏に浮かんだのは寅さんの口上の中の「ちょろちょろ流れる御茶ノ水……粋な姉ちゃん立ち小便」であった)。労働者の生活も劣悪で、朝ドラ「あさが来た」に登場する炭鉱夫のガラの悪さもこういう実体を知って初めて理解できるものだと思った。炭鉱内の描写も微に入り細に入っている。その中で、各坑道には最底につながる落とし穴があり、そこから掘った石を落とす様は、ブラタモリでも描かれていたからよく分かった。漱石がなんでこのような世界を知ったか不思議だったが、なんでも、実際にそういう体験をした人が漱石を訪ねてきて語ったのだと言う。それでも、「上級社会」がちらっと顔をのぞかせるのは、主人公の青年。もともといいウチのお坊っちゃんで学校に通っていたのだが、三角関係のもつれで生きにくくなって家出をしたのである。

今回、かなり漱石を読んだ。まだ遺作の「明暗」が残ってるが、これは未完の作品だから今回はいいだろう……と思ったが、漱石の小説の終わり方はどれも未完ぽい。なら同じか、だったら読んでみよう。ということで、漱石の上級社会からの「卒業」は少しだけ延びそうである。


宝篋山登山の帰りにヒッチハイク(?)した件

2024-04-29 09:58:00 | 

宝篋山の頂上から見た筑波山。絶景哉!

その宝篋山のこと。いつも筑波山に行く途中に眺めてはいた。

左奥が筑波山。右手前が宝篋山。つくば市街から見ると宝篋山の方が手前にある。頂上の構造物が目印である。筑波山頂からもこの目印が目印になる。

写真は、昨年暮れに筑波山に登ったときに山頂から撮ったもの。筑波山は関東平野に突き出てると言われるが、一番先陣を切って平野に挑んでいるのは宝篋山である。つくば市も宝篋山トレッキングのパンフレットを作ったりして現在売り出し中。てなわけで気になる山であった。で、昨日、久々の晴れ。山びより。だが、休日だから筑波山はNG(山腹までの道は車で、頂上附近は人で超渋滞する)。よし、今日を宝篋山登山の初日としよう、と思ったわけ。クライマックス(頂上からの眺望)の写真は冒頭に掲載したので、以下、上り降りの道中の話。

行きは北条大池から登るコース。停留所で降りるといきなり大きな水たまり!

おお!これぞ北条大池か!と思ったらただの「ため池」。本物はこっち。

たしかに、整備されてるし、筑波山が見えたりして、いかにも観光名所の風情だが、私は、先ほどの「ただのため池」(この後稲が植えられて水田になるのかもしれない)も好きである。因みに、東京の「溜池」辺りは江戸時代においては実際にため池だった。おお!ここら辺に水がたまってたんだな、と思うと感慨もひとしおの私である(歌川広重も「名所江戸百景」で溜池を描いている)。

水田も好きである。日本人のDNAだろうか。

登り始めてもなお水田が現れ、合間から筑波山が覗けるあたりは、さすが、筑波山のお膝元だ。

帰りは沢を下った。小さい沢の流れがいくもある。

このくらいの大きさが、「美しい水車屋の娘」で言うところの「Bächlein」(小さい小川)だろうか。でも、この水量で水車を回すことはできない。途中なんども沢を右に左に渡った。そう言えば、通ってた高校は丘の上にあり、そこに行く途中に「沢渡」という地名があった。。

下山途中、なんと道に柵がある。え?通せんぼ?帰れない?私はここで野垂れ死ぬの?

と思ったら、猪の往来を防ぐための柵で、登山客は開け閉めをして通行することができた。

さて。下山が完了したが、バスが来るまで時間がある。このあたりに小田城跡とやらがあるらしい。よし、それを見物して時間をつぶそう。と思い、城址に来ると、全体が土塁で覆われている。

え?中に入れないの?じゃあ、土塁をよじ登ろうか?でも、住居侵入罪にならないかな。因みに、住居侵入罪は、体が完全に構内に入って既遂となるが、こういうしっかりした土塁の場合は、てっぺんに立っただけで既遂になる。なーんて考えながらぐるっと回ってたら、なーんだ階段があるじゃないか。

ってことは「お入り下さい」って言われてるんだから入っても住居侵入罪にはならない。では入ろう。中にどんな世界が広がってるんだろう!?「秘密の花園」のヒロインの気分である。

すると、こんなであった。筑波山と宝篋山が一望できるのは土地柄である。因みに、小田城の主であった小田氏の始祖は「鎌倉殿の13人」で上半身裸になって船を由比ヶ浜から海にこぎ出そうとして失敗した八田知家だそうである(ドラマで、勝手に上半身裸になったように思われた山本耕史が脱いだのは台本通りであり、逆に、八田知家を演じた市原隼人こそが勝手に脱いだのだそう)。

それでもバスが来るまで1時間ある。まあ、電車やバスをのんびり待てるのは奥地で暮らすうえで必要な資質。キンドルを読んで時間をつぶそうとバス停でたたずんでいると、通りがかった車が目の前で止まった。ドライバーも助手席の人も妙齢のご婦人である。そのご婦人達が「駅まで乗って行きませんか」と声をかけてくれたのでお言葉に甘えることに。旅人が通りがかる車に合図をして乗せてもらう通常のヒッチハイクのイメージとは違うが、「ヒッチハイクとは通りすがりの自動車に便乗させてもらいながら目的地まで行く無銭旅行」とする大辞林の定義には合致するからヒッチハイクと言っておこう。なんでも、ご婦人達は、毎週宝篋山を登ってると言う(いろいろな趣味があるものだ。毎週、合唱をやってる人もいるし)。で、この時間、バスが来ないことを知ってて私の窮状を見抜き、声をかけたのだという。ありがたいことこのうえなし。駅で降りるとき、いくばくかの心付けをお渡ししたい気持ちはあったが、せっかくのご厚意に白タク相手まがいの行為でお返しするのはいかにも無粋だからお礼は言葉だけにした。

さて、最近草木を愛でている、と公言している私であるから、出会った植物についてもちょっこし触れておく。山のいたるところにヤマツツジが咲いていて、

藤も多く見られたのは季節の賜物だが、

まだまだ草木についてはずぶずぶの初心者だな、と思い知ったのは、この花について画像検索をかけると、

シロツメクサと出て、で、この葉っぱについて画像検索にかけると、

クローバーと出た(クローバーにテントウムシはつきもの?)。ところが、この2つは同じモノだということを初めて知った。あえて、使い分けを言うならば、花に注目するとシロツメクサになり、葉っぱに注目するとクローバーになる、ということだろうか。

 

 


具のない天ぷら

2024-04-28 09:16:28 | グルメ

これまで廃油のことを考えて天ぷらをレパートリーに入れてこなかった私だけれど、廃油缶に入れた廃油をいくらでも炒め物に再利用できることを実証したので、ときどき夕食を天ぷらにしている。

なお、廃油缶の底の方の油はかなり変色しているが、そもそも油は(石川五右衛門一家を茹でるほどに)高温に熱して使うのだからばい菌に当たることはないと信じている。因みに、昔、某スーパーの揚げ物の油が臭くて閉口していたが、新規オープンした別のスーパーの揚げ物は別物のように旨かった。だが、しばらくするとやはり油臭くなった。そうか、スーパーはどこも揚げ油を使い回ししてるんだな、とガテンがいった(合ってるかどうかはしらないが)。閑話休題。

だが、私にとっては新しいレパートリーなので、まだ衣の分量がよく分かってない。昨夜なども、天ぷらにしようと買ってきたイワシ4尾(半額だったので)に衣をつけてもまだ余っている。タマネギにつけてもまだ余っている。ブリ(半額)につけてもまだ余っている。卵を混ぜてあるんだから、捨てるなどというバチ当たりは選択肢にない。仕方なく、衣だけを油鍋に流し込んだ。

色のついたところがブリであり、その周りは具なしの衣のみである。いや、これでも十分に生ける。冷蔵庫に何も入ってなくても小麦粉と水と油さえあればできるからお手軽。これに青のりを乗っけたらご馳走だ。

因みに、ブリは照焼用に買ったものだった。ブリは照焼に限る、と思っている。照焼もこれまた簡単である。魚の両面を焼いた後、フライパンに醤油と酒とみりんを入れればできてしまう。だが、今回、衣を無駄にしないため、背に腹をかえられず天ぷらの具にしたのだが、その後に見た「カネオ君」が天ぷら特集で、なんとブリの天ぷらを紹介していた。決して背徳の行為ではなかったようでホッとした。

当初予定していたイワシと、おまけに作ったタマネギの天ぷらは、

結局、これを食べる前にブリと具なしでお腹がいっぱいになったので冷蔵庫送りになった。

久々の料理ネタである。この機会に、アレの話もしておこう。チョコレートのことである。「トリセツショー」でチョコレートは体にいい(これは前から聞いていた)、チョコレートを料理に入れると味噌味になって美味しいと言ってたからラーメンに入れてみた。カカオ95%の全然甘くないヤツを1かけ。1かけなのに威力は強力で、煮てるそばからカカオが香って悪い予感。できあがりの色は恐ろしいものであった。

味は、見かけ通りだった。味噌味はしなかった。テレビで言ってたのと違ったのはなぜだろう?考えられる理由その1。料理の腕が違った。その2。テレビの出演者が演技上手だった(嘘つきだった、とも言う)。なお、ところどこに見える真っ黒のブツはキクラゲである。これも、テレビで体にいい、と言ってたので取り入れたモノ。そう言えば、舞茸もイカ墨もテレビが良いと言ってたのでずっと食していたがこのところ食卓に乗せてない。

 


返品

2024-04-27 15:31:25 | 日記

私は結構写真をバシャバシャ撮る。対象は大きく分けて3つ。「山」「草木」「料理」である。最近のスマホのカメラはなかなか綺麗に撮れるから、私のようなド素人には本来十分なのだけれど、遠くの山を撮るときはやはりズームが欲しい。かと言って、本格的なでかいカメラなどは私には到底使いこなせないし、山登りに携帯するには不便である。コンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)を持ち歩いているのはそのためである。だが、最近のコンデジは結構お高い。普通の写真だったらスマホで十分なところにわざわざコンデジを使うということは、なんらかの付加価値が求められているからであり(私の場合は倍率)、その分値段が張るのである。だから勢い中古品を探すことになる。

おりしも、使っていたコンデジが壊れた(早く壊れるのは中古品の宿命である)。そこで、倍率が20倍の中古のコンデジを某大手ネット通販でポチった。「倍率20倍」はコンデジとしてはなかなかである。荷物はすぐに来た。うきうきわくわく……気分はすっかりブギ!買い物はいくつになっても楽しい。それを持って、数日中に奥地や筑波山に行く計画を立てた。ところが、ダウンロードした取扱説明書と現物に符合しない点がある。しかも、そうした箇所が後から後から出てくる。もしや?と思い、底面の品番を見たら違っていた。旧モデルが送られてきたのである。取説と合わないはずである。

すぐに交換してもらおう、と思い、サイトから手続をすると、「返品」のボタンはあるが、この商品に関しては「交換」がない。なるほど、中古品は「特定物」である。「特定物」は「この世に一個しかない物」「代わりのない物」である。だから、それに問題があった場合「交換」という選択肢はない……というのが、法律の世界における伝統的な考え方だが、最近の学者先生は、そんな堅いことを言わずに中古品の交換を認めてもいいのではないか、と言っている。が、この通販サイトは、伝統的な考え方に基づいているものと見える。

で、あれやこれやの手続をし、商品を送り返した翌々日に「返金の手続が済みました」というメールが来た。まあ、スムーズに事がはこんだわけだが、この間、相手先とのやりとりはすべてネット経由。その顔も見なければ声も聴かずに終わった。うっとうしくなくて良かったとも言えるが、だが、今回の返品は先方が間違った商品を送りつけたことが原因であり、責めは100%相手方にある。「すみませんでした」が無理ならせめて「お気の毒です」くらい言ってもよさそうだと思う私はやはり昭和の人間なのだろうか(昭和の人間なのは間違いがないが)。

因みに、「お気の毒です」と言われたら「そっちのせいなのに、他人事のように言うのはけしからん」と怒りを倍増させる人が多いかもしれない。ドイツ語の「Tut mir leid」や英語の「I'm sorry」の直訳は「気の毒」だが「ごめんなさい」の意味もある。だが、日本語ではそういう使い方はしないか、と思ってたら、漱石の小説に、まさに「ごめんなさい」の意味で「お気の毒様」を使ってる箇所があった。このことをどこかに書きたかった。まさか返品の記事の流れで書けるとは思わなかった。望外の喜びである。だが、カメラ探しは振り出しに戻ったままである。


ダッシュするゴジラ~外国人レスラーたち

2024-04-27 07:08:39 | 映画

ゴジラのどこが好きかと聞かれたら、威厳のあるところと答えている。その威厳は、直立二足歩行で、かつ、伊福部昭の重厚な音楽に乗ってゆっくり進むところにある、と思っている。それは、ジャイアント馬場にも通じる。晩年のジャイアント馬場は、そのスローモーな動きがファンを魅了したものである。ところが、ハリウッド製ゴジラの新作「ゴジラ×コング 新たなる帝国」 の予告篇に気になるシーンがある。ゴジラがコングと並んで陸上選手よろしくダッシュしてるのだ。まさにこのポスターの絵である。

これはもしかすると、見てがっかりするパターンかもしれない。「ゴジラ-1.0」の山崎監督が、今作の感想を聞かれて「モスラが素晴らしかった」と言いながら肝心のゴジラについて触れなかったところも気になる。だが、私は、ゴジラとスターウォーズの新作は映画館で見る、と誓った身(誰に誓ったのか?と言えばそれはお天道様である)。見に行ってきた(以下、粗筋は言わないけれど、ディーテイルのネタバレはあり)。たしかにゴジラはコングと一緒に走っていた。腕をふっていたかどうかは定かでないが、ふっていたと思わせるような陸上短距離選手の走りであった(ポスターではふってるっぽい)。ハリウッド製のゴジラはこれだから困る、そこへいくと国産のゴジラは……などと言ってはいけない。東宝作の昭和のゴジラだって、飛び上がってシェーをしたこともある。逆に、ハリウッド製だって前々作の「キング・オブ・モンスターズ」のゴジラは威厳の塊であった。まあ、今作のゴジラは荘厳なゴジラではなかったが、迫力のある映像で、2時間余りを退屈することなく過ごしたのだから行って損はなかったのはたしかである。

ゴジラは走るだけではない。ジャンプする。ジャンプで意表をつかれたのは「スターウォーズ・エピソード2」のヨーダ以来である。あそこでのヨーダは、ドゥークー伯爵とライトセイバーで切り結ぶ際、身長差をカバーするためしきりにジャンプしていた。

他にスターウォーズとかぶるのは、損傷したコングの右腕に補助器具が取り付けられたところ。ルークスカイウォーカーも、そしてその父アナキン・スカイウォーカー(後のダースベイダー)も、損傷した右手は義手である。

戦い終えたゴジラはローマの円形コロシウムで寝込んでしまうが、あんなところで寝られてはローマ市民には相当な迷惑だろう。いつ起きて暴れ出すかもしれないのだから観光客が来るはずはない……それとも怖い物見たさで来るのだろうか。因みに、「シン・ゴジラ」ではゴジラは都心で寝込んでしまったが、あっちは体内が凍ってしまってるからいくぶんは安心である。その後、どうなるんだろう?と思ったが、東宝がその後作った「ゴジラ-1.0」は設定が異なるから、都心で凍ったゴジラの行く末は不明なままである。

怪獣が二頭ずつ二組に分かれて戦うところは、まるでプロレスのタッグマッチである。ゴジラはジャイアント馬場だから、そうするとゴジラとタッグを組むコングは機敏に動き回るところがアントニオ猪木である。対する悪役二体は誰と誰にしようか。記憶に残っている悪役レスラーの筆頭はアブドーラ・ザ・ブッチャー。それと誰かもう一人。因みに、現役時代のブッチャーは相当な巨体だった。曙のように巨体の主は体を壊すことが多いがブッチャーはが83歳でご健在だそうでなによりである。

悪役レスラーでは、「鉄の爪」のフリッツ・フォン・エリックも記憶にある。今、「フリッツ・フォン・エリック」の名前を見て思うのは、ドイツ系であるということと、「フォン」が付いてるから元は貴族の家系である、ということである……と思ったら、この名前はギミックだそうである(ギミック=設定された履歴や出身)。つまり「元貴族」という設定であり、デーモン小暮閣下が悪魔だったり、山田ルイ53世がルイ王朝の末裔であるのと等しい。本名に「フォン」は付いてなかった。たしかなことは、この人のご子息がいずれもプロレスラーになったのだが不幸な人生を送ったこと。「呪われた一族」と言われた時期もあったそうだ(ウィキペディアより)。今、そのことを題材にした映画が上演されているそうで、あさイチの映画紹介コーナーで紹介されていた。因みに、「E.H.エリック」は日本の俳優で、岡田眞澄のお兄さんである。岡田眞澄は、私にとっては「マグマ大使」を呼ぶ笛を吹くマモル少年の父親を演じた人である。

外国人レスラーの話をするんだったらザ・デストロイヤーは欠かせない。この人は、和田アキ子さんの番組に出てたりしてすっかりお茶の間の人気者になってたから、もはやヒール(悪役)のイメージはない。この方は残念ながら5年前に88歳で他界されている。へー、この方、日本国から勲章をもらってるんだ!力道山の時代からずっと日本に来てたくらい日本との関係が長かったからね。日米親善に尽くした功績は多大だったのでしょう。

ベビーフェイスとヒールの区別で言うと、ゴジラは地球を悪い怪獣から守るために戦っているからベビーフェスである。が、その戦闘の際、多くの建物を破壊する。今作では、エジプトのピラミッドが被害を受けた。構成要件的には建造物損壊罪に該当する。この場合、ゴジラに侵害行為をしたのは他の怪獣であってピラミッドではなく、ピラミッドはとばっちりを受けたのであるから正当防衛は成立しないが、緊急避難にあたるからゴジラが建造物損壊罪に問われることはない(そもそも、ゴジラは人ではないから、犯罪主体にはならない)。


コロンボの声

2024-04-26 07:01:08 | ドラマ

昨日の母の写真を刑事コロンボが見つけたなら大得意で「いいですか?あなたのお母さんはたしかに琴を弾いたんです。あたしね、証拠を見つけたんです」とか言って私に見せつけたろう。刑事コロンボが流行ったのは私が高校生のときだってことは、通ってた高校にコロンボのようなレインコートを着た先生がいて「コロンボ」って仇名が付けられていたから間違いない。そのコロンボ先生はご自身でもまんざらでなかったようで、他校に転任する際の挨拶で「刑事コロンボも去り」と言って笑いをとっていた。そう、私の高校在学中にコロンボの放送が終了した。クラスメイトが「次の『警部マックロード』では視聴者も最初犯人が誰か分からないんだよ」と言っていたことを覚えている。因みに、そのコロンボ先生は、某女子学生から恋慕の情を寄せられていて、毎日当該女子学生がこしらえた弁当を食べさせられていた。転任はそのせいではないか?と半世紀ぶりに偶然某所で出会った同学年の同窓生と話し合ったものである。因みの因み、その女子学生は、いま、ある芸術分野で名を馳せている。

いったん終了した刑事コロンボは、10年以上経ってアメリカで製作が再開され、日本でも放送された。コロンボの髪もうっすら白くなっていたが、それよりもなによりも変わったのは日本語吹き替えの声。日本でコロンボが流行ったのは「うちのかみさん」に代表される小池朝雄の吹き替えの声と言い回しによるところが大きい。ところが、製作が中断した間に小池さんが亡くなったので石田太郎さんに変わったのだ。石田さんの声は小池さんの声よりも相当に太くて低い(私的には「大草原の小さな家」のガーベイの声がおなじみ)。それでも、石田太郎さんはよく小池さんの声・言い回しを再現した。

声優の交代と言えば、「ひょっこりひょうたん島」のドン・ガバチョ。藤村有広さんはドン・ガバチョの破天荒な性格にぴったりだった。島民に対してする「みなさ~ん」の呼びかけには力があった。だが、NHKが、一視聴者(放送当時は少年だった)のノートを基に「ひょっこり」をリメイクした際、ドン・ガバチョの声を担当していた藤村有広さんが亡くなっていたので他の方が引き継いだ。リメイクでは、私が望む「みなさ~ん」を聞くことはなかった。因みに、オリジナルの「ひょっこり」の最終回で映像がいきなり切り替わってなんと人形ではない人間のドン・ガバチョがポーズをつけながら歌っていた。私が藤村有広さんの実物を見たのはそれが初めて(でもしかすると最後)だった。

「コロンボ」に戻る。毎回、ゲストスターが登場して犯人を演じるのだが、その中には、「スタートレック」でミスター・スポックを演じたレナード・ニモイもいたし、その上官のカーク船長を演じたウィリアム・シャトナーもいた。が、吹き替えの声が「スタートレック」でなじんでいた声とは違っていて残念だった(シャトナーについては、放送権がNHKから民放に映ったときスタートレックのときの声優さんに戻ったそうだ)。

その「刑事コロンボ」を、例の古い録画の移行作業中に見返した。初回放送時(高校生の頃)は、犯人のトリックを見破るコロンボに喝采を送っていた。が、今回見方が変わった。犯人にシンパシーを感じることさえあった。原因はコロンボの遠回しの物言い。容疑者から事情を聞くときよく「ウチの甥っ子が」と言う。甥っ子はいいから何を言いたいの?聞きたいことをはっきり言ってちょうだい、と容疑者ならずとも言いたくなる。そもそも捜査手法があこぎ。犯人を罠にはめるのだが、ひどいのになると、真犯人をあぶりだすため、無実の息子を逮捕するなんてこともする(すぐ釈放すると言ったって、違法逮捕には違いない)。あるいは、「うちのかみさん」を死んだことにしてウソの葬式を挙げたりする。おとり捜査が発達しているアメリカだから許されるのだろうか。日本では、おとり捜査はアメリカ以上に問題視される。さらに、犯人を罠にはめて自供を引き出して逮捕する回もあったが、例えば日本国憲法では「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」とされている。アメリカでは違うのだろうか?日本国憲法の草案はアメリカ人が書いたものだけど。

とか言っても、「刑事コロンボ」は世界中でヒットした作品で、ドイツ人監督のヴィム・ヴェンダースが撮った「ベルリン 天使の詩」にもピーター・フォークは「コロンボを演じた俳優」として登場する。因みに、役所広司さんがトイレ清掃員を演じて賞を獲った「パーフェクトデイズ」はヴェンダースの監督作品である。


お琴(母と私の比較)

2024-04-25 10:11:27 | 日記

続いて、母の晩年と私の比較である。そりゃ親子だからDNAはしっかり受け継いでいる。特に、私の性格が悪いのはしっかり母譲り。それから、配偶者がロストした点も同じだが(ロスト原因は異なる)、決定的に違うのは、母は施設(サービス付き高齢者住宅=サ高住)に入居していた点。だから、私が一人暮らしであるのに対し、母は周りに人(他の入居者や施設のスタッフ)がいた。だから寂しくなくてよかった……とは一概に言えないようで、ああいう施設も猿山と似たところがあり君臨するボスがいて、母などは気を遣ったようである。因みに、群れができて序列が生まれるのは女性の入居者の間の話で、男性入居者は食堂でも他人と交じらず孤高を通す人が多い点は、ライオン等と同じで興味深いところである。

そう、食堂があるから、入居者は三食何も作らなくてすむ。一応、個室にIHコンロがあるのだが、母はまったく使わなかった。お湯さえも沸かさなかった。喉が渇いたときは、専ら私が冷蔵庫に補充していたペットボトルの飲料を飲んでいた。

そんな具合だから、頭もまったく使わないで済んでしまう。それでいいはずがない。だから施設もいろんな講座を用意してくれていて、母は、習字と、コーラスと、脳トレ講座に行っていた。驚いたことに、母は習字がたいそう上手かった。この点は、私は1ミリもDNAを受け継いでなかった。だが、この習字も含めて、母はなにかと理由をつけてはさぼろうとした。私は、子どもを塾に行かせる親よろしく、母に講座に行け行けと尻を叩いていた。だが、コロナ禍で家族の訪問が自由にできなくなってからは、転げ落ちるように認知症が進んでいった。良くしてくれた施設には感謝しかないのだが、他方、上げ膳据え膳も考え物だ、多少不便な方が良いのでは?と思わないこともない。少なくとも、私は自炊をしてるからその点母より脳みそを使ってると思うが、このところ活動が縮小気味なところが気がかりである。

そんな風に趣味のなかった母だが、遺品の中に、母らしき人が琴を弾いている写真があった。

そう言えば、母が琴を習っていたと聞いた覚えがうっすらとあるが、私が物心ついた後は、それを匂わせるような事柄は皆無だった。この写真が唯一の証拠品である(しかも、目隠しをつけてない人物が母だというのも、一緒に出てきた母と思しき人物の写真からの推測にすぎない。この人物、私が知ってる母の容貌からすると別人のようにふっくらしている)。そんな具合だから、母が上手だったか下手だったか知る由もない。この写真を見つけたのは母の没後だから本人に聞いて確かめることも能わずである。だが、私らに琴のことをほとんど話さなかったところをみると、無理矢理やらされていたかなんかでまったく気が入ったなかったものと思われる。琴を弾く母(と思しき人物)の表情も、いかにもつまならそうである。因みに、写真は今でいう音楽教室の発表会のようなものであろうか。後列には尺八を吹く御仁が並んでいる。本番で出演者がめかしているところなぞは、和服か洋服かの違いはあってもいつの世も同じなんだなー、と思う。

そう言えば、漱石の「虞美人草」に「こんな事なら琴の代りに洋琴(ピアノ)でも習って置けば善かった」という台詞がある。母は、そもそも習い事全般について価値を見いだしてなかったぽい。だから、厳しい家計のやりくりの中で、子どもに習い事をさせるお金があれば、ヨードラン光(卵)の購入に充てていた。私などは、ヨードラン光よりも習い事をさせて欲しかったが、妹は、ヨードラン光のおかげで健康に育ったと言って母のやり方を肯定していた。人の評価もまちまちである。そうそう、何事にも興味を示さない母だったが、健康おたくではあったのかもしれない。五文字のお店に連れてったとき、ミラノ風ドリアの黒い焦げを「焦げは体に悪い」と言ってひとつひとつ取り除いていた姿は異様であったが、このことも人によって評価は異なるのだろう。


帽子(父と私の比較)

2024-04-24 10:06:06 | 日記

あさイチで目のことを話していた。今でもときどき目が不調になる私だが、検診で軽度(年齢相応)の白内障があるほかは異常なしとの結果をもらってるので安心。眼科検診(区がただでやってくれた)にはホントに行ってよかった。あと、内科の検診も区がただでやってくれるのだが、これまでは、行ったら絶対血圧でひっかかるから、と思って二の足を踏んでいた。だが、最近は血圧が低い日もあるし、高くてもその場で拘束されて病院に連行されるわけではないのだから、今年はタダ券が送られて来たら行こうかな、な思う。

はて、じゃなくて、さて。昨日は「パーフェクトデイズ」の主人公と自分のルーティンを比較したが、どうせ比較するなら父母である。DNAを受け継いでいるのだから、生活習慣も同じだったら今後の人生をおおいに占うことができる。ということで、まず父と。

晩年の父と最近の私は恐ろしいくらい相似である。父は、リタイアしてから、奥地の家を買って母と移住したし、山登りを始めたし、園芸に励んでいたし、料理も好きだった。

ただし、ディーテイルは異なる。父はテントを背負って2,3000メートル級の高山に登ったのに対し、私は高くても筑波山(877メートル)がいいとこ。登山と言うより山歩きである。父の園芸は本格的で、妹夫婦の家の垣根を剪定したときはご近所から業者と間違えられたというが、私は草木の写真を撮って眺めたり、雑草をちょこっと抜く程度。料理は逆で、父は休日だけうどんを打ったり焼き飯を作ったりして自慢たらたらだったのに対し(配偶者から白い目で見られるパターン)、私は日々生きるために普通に自炊をしている。

明らかに違うのはファッション。父はおしゃれだった。外出するときは必ず帽子をかぶっていた。

写真は父が30代半ばの頃である。それに対し、私の辞書に「おしゃれ」の四文字(三文字半?)はない。因みに、漱石の小説には、帽子をかぶること=礼儀又は教育の表れ、との記述がよく出てくる。だが、今はそんなことはないと思う。地下鉄でキンドルを読んでるときこの記述に出くわしたので思わず周囲を見回したが帽子をかぶった人はいなかった。この点、漱石のときからは時代が変わったのだろう。それでも、父母がリタイア後に団体旅行をしたときの集合写真を見ると、やはり父母が帽子をかぶっている。父母だけである。父母は漱石の時代の遺物かもしれない。ま、最後まで自己の流儀を押し通したことは見上げたものだ、とは思う。

決定的に違うのは、父は、亡くなる瞬間まで母が一緒だったことである。つまり、一人暮らしではなかったということ。75まで生きられたのはそのおかげであろうか、あるいは、75までしか生きられなかったのはそのせいであろうか。

このくらい違うのだから、私の寿命は父のそれとは違ったものになりそうである(長くなるか短くなるか分からない)。まお(中国語で猫)ではなく、なお、母は、父の没後、15年以上生き延びた。ということで、次は母と私の比較の番だが、それは次回に。


なんだかんだ言って幸せ

2024-04-23 18:13:05 | 日記

映画「パーフェクトデイズ」の主人公は一人暮らし。私も一人暮らし。同じである。

主人公は毎朝霧吹きで草木に水をやっていた。私も毎朝猫にご飯をやる。この点も同じである。

主人公は毎朝空を見上げてにっこりする。にっこりすることは精神に良いという。だから、私が洗い物をしてて手がすべって茶碗を割ったときもにっこりしてみた。見た人はいないけどきっとひきつっていたと思う。精神に良かったかどうかは分からない。

主人公は毎夕銭湯に行く。私は行かない、というより行けない。近くに銭湯がない。奥地の家の近くにも銭湯はない。ちょっと遠くにもない。あったら行った。昔の人は銭湯との行き帰りをぶらぶら歩くのが日課だった。漱石の坊ちゃんなどは、毎夕電車に乗って銭湯に通っていた。軽い運動で体にいいし気分転換にもなる。今どき銭湯は1回520円。値上がったものだ。それでも、毎日行ったとしても月に15000円程度。そのくらいの価値はあると思う。

主人公は毎晩「浅草やきそば」で一杯やりつつ夕食を済ませる。そこで、甲本雅裕演じる店主と軽いコミュニケーションをとる。この点も私は違う。私は基本的に自炊をする。たまに外食するときはサイゼリヤ。そこでは誰ともコミュニケーションはとらず、ワインを舐めながらキンドルを読んでいる。主人公も本を読むが、主人公は読むのは布団に入ってからである。

主人公は毎日曜にママのいるスナックに行って、ママさんとの仲を他の客にからかわれて「そんなんじゃないから」と言い訳をする。私とは決定的に違う。私はママやパパやお姉ちゃんやお兄ちゃんがいるところには行かない。因みに、奥地の家に行ったときに寄る駅前の中華では、中国人の店員さんが客を年齢に関係なく「お兄さん」「お姉さん」と呼ぶ。逆に、ドイツでは、給仕係の店員の女性を年齢に関係なく「お嬢さん」(フロイライン)と呼んでいたが、今ではあまり好ましい表現ではないらしい。

映画のエンディングで主人公は笑顔だった。なんだかんだ言って主人公は幸せそうである。

パーフェクトデイズの主人公とのルーティーン比べはあたためていたネタである。銭湯賛美もあたためていたネタである。まとめて日の目を見させることができた。なんだかんだ言って私も幸せそうである。


決め手は定規(奥多摩の山座推定(同定ではない))

2024-04-23 09:28:08 | 

というわけで(いつからの話の続きだ?)、奥多摩の写真と地図と地形図とガイドブックとネット情報を相互ににらめっこしながら奥多摩のうち多摩川の谷の北側の山座同定を試みる。決め手は、地図に定規をあてて、視点から線を引っ張ること。すると、この山はこの山の後ろだから見えないはず、とか、この山はこの山とこの山の間に見えるはず、とかが見えてくる。まさに机上の空論であるが、ほかに手立てがない。その結果がこう。

特に、前列(雷電山、三方山等の青梅丘陵ではないか?と推測した列)の自信がない。その後列(高水山、惣岳山等の高水三山ではないか?と推測した列)も疑問が残る。間違いないのは鷹ノ巣山くらいのもの。だから、決して「山座同定」とは言えないから「山座推定」と言っておこう。苦戦の原因は、このあたりのメジャーとは言えないクラスの山々となると、資料となる写真が少ないのである。そんな中に、当記事が加わり、一層、世の中に混乱をもたらすことを案ずるワタクシである(いや、ほとんど見る人がいないから大丈夫か。もともと、私の友達って音楽をやる人ばかりだし(私はやらないけど))。


猫=マオ

2024-04-22 08:11:41 | 音楽

猫のことを「ネコちゃん」と言うのに犬のことを「イヌちゃん」と言わないのはなぜだろう?逆に、犬のことを「ワンちゃん」と言うのは鳴き声から来てると思うのだが、猫のことを「ニャーちゃん」と言わないのはなぜだろう?ところで、欧米の猫の鳴き声は「みゃお」だって話は前から聞いていたが、中国でも「みゃお」だってことをさっき知った。しかも、中国では「猫」を「マオ」と読むらしい(鳴き声が呼び名になったのなら「ワンちゃん」的である)。え?そうすると、もしかして浅田真央は猫を意識しての命名?それは不明だが、ググってみたら、中国のファンは浅田真央を親しみを込めて「猫ちゃん」と呼んでるって話が複数ヒットした。因みに、この陽気だから、ウチのマオ達はコタツから出てきて私の横にいることが多くなった。ケメ子しかり、

ワサビしかり、

啓蟄のごとくである。まお、じゃなくて、なお、中国語で「ワン」は「王」である。王貞治選手を「ワンちゃん」と言ったのはこのためなのと、もう一つ、背番号が「1」だったこともある。ピアニストのユジャワンも「王ユジャ」さんである。だから、中国では「ワン」=「犬」ではない。中国で犬は「狗=ゴウ」と言うらしい。そう言われると、犬(狗)の鳴き声はゴウと思えてくる。

お父さんのことを「おとっつぁん」と言うのに、お母さんのことを「おかっつぁん」と言わずに「おっかさん」と言う。「っ」の位置が違う。なぜだろう?とは言わない。多分、「おとうさん」と「おかあさん」は、それぞれ発音しやすいように別々の進化を遂げたと思われるから。

昨日の当ブログの「見る角度」三部作をIさんがフェイスブックでシェアしてくれたんだけど、その1「単線」とその3「奥多摩の山座同定」にはいくつかイイネがついたのに、その2「競馬中継」に一個もイイネがつかなかったのは実に興味深い。なぜだろう?考えられる理由その1。Iさんのお友達は「競馬」に興味がなかったから。その2。「走ってる馬の順位は角度によって違って見える」なんざ当たり前すぎて今さら騒ぐべきことがらではなかったから。その3。フェイスブックのAIが、「競馬」に反応して当記事を人目につかないようにしたから。どれも正解であろうが、私的に一番注目するのはその3。日頃からAI様のお利口ぶりに感嘆しているワタクシ。AI様のことがだーいすきなワタクシである(しかも、AI様は素直であらせられるだろうから、言葉の裏の意味を勘ぐるような下司なことはなさらないに違いない)。


見る角度その3(奥多摩の山座同定)

2024-04-21 08:39:52 | 

そもそも山ってヤツは、きれいな円錐形をしてるのはまれ(富士山はそのまれな例)。それに加えて、高さ、水平距離、見る角度によって見え方が全然違ってくる(遠近法の影響をもろに受ける)。赤城山、榛名山に続いて、今私が山座同定で苦戦してるのが奥多摩の山々。特に、多摩川の谷の北側に鎮座まします山々には苦労している。

それでも後列はなんとなく当たりがついた(鷹ノ巣山、本仁田山、川苔山etc)。だが、前列がよく分からない。一応、黄色でかこったあたりが高水三山で、赤でかこったあたりが青梅丘陵?と推測しているのだけれど、それこそ推測の域である。詳しい人がいたら是非お教え願いたい。

困難には理由がある。例えば、「これは○○山だと思うんだけど、なんでその横にぴょこたんと別の峰があるんだろ。地図にはないのに」と思った場合、○○山とその「ぴょこたん」が並んでるように見えるのはこの角度から撮ってるからで、実は前後の位置にあったりする。逆光だとどっちも黒いから余計重なって見える。ってことは、朝撮ればいいんだ。いずれ、朝に撮りにいって、劇的に山座同定が進むことを期待してます。

でも、朝は苦手。因みに、横野君も朝が苦手で、合唱団とかの本番に乗りたくないのは本番の日って大概朝が早いからって言ってる。横野君はバカだけど、この点は、理解できる(同病相憐れむ)。


見る角度その2(競馬中継)

2024-04-21 08:39:17 | 競馬

まだ、それほど競馬になじんでなかった頃、テレビの競馬中継で、実況アナウンサーが「○○ここで先頭に立ったっ」と言っても、ちっとも先頭に見えなかったことがよくあった。それもそのはず。テレビカメラはどうやらゴール付近にあるらしい。すると、ゴール前の馬たちは斜めから撮ってることになる。だから、ゴールが左端にあるとして(ってことは右回りの競馬場だ。中山競馬場みたいな)、ゴール前がこんなだった場合、

一番左でゴールに近いように見えるのは上から一頭目だが、これがゴールに近くなっていくとだんだん角度が直ってきて、ゴールではこのようになる。

そう、先頭を走っていたのは上から二頭目であった。このからくりが分かるようになってからは、ゴール前で見えている景色を脳内で修正するクセがつき、正確に順位を見られるようになった。かりに、コースに横線が引いてあったら分かりやすいと思う。こんな風に。

いや、コースに引くのは大変だろうが、テレビ画面に横線を挿入することぐらいは技術でできないだろうか。

以上、述べてきたことは、馬だけでなく人間も同じ。人間の陸上競技の短距離走でも競走中は順位が分かりにくい。因みに、「馬娘」というゲームがあって、競馬場を模したコースで競走するのは秋葉原にいそうなメイドさん風の女子で、それぞれに実在する馬の名前が付けられているが、「王様の耳はロバの耳」ならぬ「馬娘の耳は馬の耳」である。その馬娘に、ついにわが愛しのジェンティルドンナが現れて嬉しい……と言っても、私はゲームはやらない。その他、合コンもゴルフもやらない……と釣書に書いておこう。


見る角度その1(単線)

2024-04-21 08:38:35 | 風景

奥地の家から帰るとき(まだ引越前だから、奥地の家からは「帰る」)、電車の運転席に張り付いて前方を撮影。

駅では上下線に別れていて、複線を装っても(別に装ってないか)、すぐ先で単線になる(お里が知れる)。単線になってすぐのところに第1の踏切があり、その先に第2の踏切が見える。二つの踏切が近接してるように見えるけど、直線は、その端から反対側の端を眺めるとすぐそこにあるように見えるもの。この二つの踏切の間も300メートル近くある。

第1の踏切の先から線路の両側が高くなっていてそこにあるのは畑。こないだはその畑の脇を歩いて、崖下の線路を走る電車を見下ろしたのだった。

二つの踏切の間は線路が上り坂になっていて、畑と線路の高低差が徐々に解消していき、2番目の踏切のあたりで線路の高さが畑においつくカタチ。

これだとずいぶん狭い踏切に見えるけど、これは角度のせい。前回、この踏切を渡ったときの様子はこう。

まっこと角度によって見え方が違う。

因みに、私の郷里を走る電車は、私が成人する頃まで単線だった。単線に郷愁を感じるのはそのせいだろうか。

 


半分当たり=半分はずれ(草木特定)

2024-04-20 10:36:58 | 園芸

こないだ、奥地の家の「猫の額」(庭)のこの写真をアップして、

「開花して分かった、これはモッコウバラだ!」と書いたのは、黄色い花の周りにたくさんある白いのを蕾だと思ったからなんだけど、もしかして白と黄は別物?と思い始めて、で、昨日も奥地に行って、♪みーあーげてー、ごらん、よるのー、ほーしをー……じゃなくて、午後の奥地の上空を見上げてみれば一目瞭然。

黄色いのは蔓に咲いた花で、白いのは木に咲いた花(蕾だと言って失礼しました(花に謝ってる))、別物でした。モッコウバラは蔓の方。木に咲いてる白いのはハナズオウだと思う。因みに、ハナズオウとおぼしき木の葉っぱはこう。

草木辞典に書いてあるハナズオウの葉っぱの特徴(広い卵型で、先が尖って、付け根がハート形)と一致。ということで、モッコウバラと断定した私の判断は半分当たり、半分はずれ。原告の100万円の支払請求に対して裁判所が被告に50万円の支払いを命じた場合、一部勝訴であり、同時に一部敗訴であるのと同じ。因みに、この場合、弁護士先生は、原告側なら半分取れたと言って、被告側なら半分取られないですんだと言ってどっちも一部勝訴!その分の成功報酬を要求されます。

以上に対し、すんなりと特定できたのがコレ。

トキワマンサクということで疑いがなかったんだけど、今回、同じ形の白いヤツを発見。

トキワマンサクには白いヤツもある、というから、それだと思う。

「猫の額」には他にもいろいろ生えていて、例えばコレ。

グーグル画像検索で一択。「シャガ」。それに対してコレは、

グーグル先生は「ハルジオン」と「ヒメジョオン」の二つの候補を出してきた。花びらが若干下を向いていて、蕾が垂れ下がってて、葉っぱが巻くようについてるからハルジオンだと思う。

とにかく、自分で植えた草木じゃないから、何が出てくるか想像できない。出てきたらすぐに捜査開始。捜査資料の収集にも励んでる。だから、これまであさイチでは「おーい、ごはんだよ」のコーナー(料理コーナー)が大好きで、金曜日だけ「おーい、グリーンだよ」(園芸コーナー)になるのが恨めしかったけど、今では待ち遠しい。

もともと山座同定に励んでいたところに入って来た草木の特定。のみならず、ときどき鳥の特定も入る。奥地の駅の横の公園の桜に来てたこの鳥は、

ほっぺたが黒いからスズメでしょうね。それに対し、こないだ錦糸町公園で見たコレは、

嘴が黄色いからムクドリ。大勢でギャーギャー鳴いてうるさいヤツ。

私も楽器をやろうか、朝ドラで見たジャズもあさイチで見たスカパラオーケストラも恰好良かったからそういうのを…とも思ったんだけど、こんな具合に年がら年中特定作業に追われてとてもじゃないが時間がない。だからやめておこう。