拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

夢診断

2022-11-30 09:14:06 | 音楽

あさイチで「チャーハンの最後の一粒をどうやってスプーンですくうか?」って話をしていた。はからずも、ワタクシ、ちょっと前に、チャーハンではなくサイゼリヤのニンジンサラダで同様の疑問を持ったところである。

あさイチの正解は、「無理をせず残った粒の上にスプーンをかぶせて見えないようにして『ごちそうさま』にする」。世界的に資源枯渇が叫ばれている現代においては落第の解答である。ワタクシなら、まずはとことん努力して最後まですくうよう努力するが、時間の問題もある。どうしてもすくえなかった場合の選択肢は次の三つである。
解答その1。指でずらしてフォークに乗せる。
解答その2。指でつまんで口に運ぶ。
解答その3。猫になる。
どれも「あり」である。なお、私が萌える女性のタイプは3。初デートで3の行動をとった女性にはその場で結婚を申し込むであろう。因みに、あさイチで、スプーンの裏の数字が「18-0」(何もなかったらこれ)なら金属臭がするタイプ、「18ー」の次が0以外なら金属臭がしないタイプと言っていた。自分ちのを見たら、なるほど、安く大量に買ったヤツには数字がなかったが、唯一のまともそうなヤツには「18-18」が彫られていた。

私の日記の夢欄は空欄であることが多い。毎日なにかしら見ていて、目が覚めた瞬間は覚えているのだが、次の瞬間には忘れているからだ。なぜこうもすぐ忘れてしまうのだろうか。気合いが足りないのだろうか、と思い、昨夜は気合いを入れて寝た。すると、3本覚えていた(やはり気合いの問題であった)。その3本は次のとおり。

夢その1。湘南の海で誰かがバッハの復活祭オラトリオのアルトのアリアを歌っていて、誰かと思ったら自分だった。他の人よりバカに大きくガリバーのように見えたのは遠近法のせいだろう、と夢の中の私が思った。
夢その2。見知らぬ女性といい仲になりそうになって、しっぽりする前に食事をしようっと話になって、そうこうするうちに逃げられた。彼女は、ビルの地下のうらぶれた温泉に浸かっていた。
夢その3。個人リサイタルをどっかの教会で開き、ガヤガヤしているなか、いきなりバッハのカンタータの第4番のバスのアリアを歌い始め、拍手をもらって挨拶を始めたところで目が覚めた。

こうやって振り返ると、どの夢も自分的には説明がつくものである。すなわち、
その1の説明。このアルトのアリアは現在練習中である。湘南の海で歌ったのは、岡村喬生さんがその著書の中で「湘南の海で練習した」と書いているのが頭にあったからである。
その2の説明。女性に逃げられた=まさに、私の人生の集約である(Das ist 私)。逃げた彼女が温泉に浸かっていたのは、昨夜のNHKの温泉の番組を見たからだろう。
その3の説明。BWV4のバスのアリアは私が大好きな曲である。だが、男声で歌うとカウンターテナーの声の出が悪くなるので歌わないようにしている。でも、歌いたいなー、という気持ちが夢に出たのだろう(先日のU会で、カンタータのテナーやバスのソロを歌ったのは、あのカンタータには女声のソロの出番がなかったから、声の心配をする必要がなかったからである)。因みに、以前、「男声を強いられたら合唱団を辞める」と当ブログに書いたのが随分読まれてるらしく(みんな読まないフリをして読んでいる)、最近は、男声が足りなくても男声を歌えとは言われなくなった。だが、某合唱団で、演奏会の1週間前になってもある曲のバスの音取りができておらず、練習が一向に進まなかったので、見かねて「バスを歌いましょうか」と言ったのだが、そのときの指揮者とピアニストの先生の顔が「え?いいの?歌ってもらったら助かるけど、でも、あなた人間がひねくれてるから、自分でやると言ったくせに後から逆ギレして『辞める』とか言い出さない?」と言っていた(あくまでも「お顔が」である)。人間がひねくれてるのはホントである。だが、1曲だけだし、1週間だけのことだからと思って、その曲のときだけアルトからバスに移動して歌ったものである。

 


万歩計

2022-11-29 10:15:04 | 日記

「ウッカリカサゴ」という名の魚がいる。昔の人がうっかりしてカサゴと間違えたのでついた名前だそうだ。「うっかり」が名前につくのは「八兵衛」だけではなかった。因みに、うっかり八兵衛を変じた高橋元太郎さんは歌手でもあり、持ち歌の一つが「マッハGoGoGo」の主題歌である。

下の写真を撮った位置から遠くの突き当たりにかろうじて見えるのピンクの建物までの距離はだいたい1km。

直線でこの距離がとれる所はあまりない。競馬場だって直線で1000mとれるのは新潟競馬場くらいのものである。これは、北綾瀬からわが家までの行程の一部。全体の距離はこの2倍はある。以前はチャリで通行していたのだが、最近、スマホに万歩計アプリを入れてからというものウォーキングがマイブームとなり、この行程をひたすら歩いている。歩数は片道で2900歩。普通の人なら3000歩を超えると思う。というのも、私はかなり大股で歩くから。健康のために、あるいは認知症予防のために大股がいいと聞いたせいもあるが、もともとは中学で100メートルハードルを専門としていたためである。ハードル間は3歩で走らなければならない。ところが、私の身長は中一で止まってしまい、比例して足の長さも止まってしまった。足の長さは歩幅に影響するから普通に走ったのではハードル間を3歩で走れない。ではどうやって歩幅を稼ぐか。飛ぶしかない。ということで「飛ぶように」走る技術を身につけたのである。その成果により、中2のとき市大会で優勝したし、普通に短距離を走る際にも有効でタイムが随分と伸びた。因みに、どこかの合唱団に紛れて歌った際、客席で見ていたお友達が「イージマさんは足が長い」などと、聞きようによっては皮肉ともディスったともとれないことを言っていたが、もしステージで走ったのであれば、そのように錯覚してもおかしくなかったろう。

そんな私なのだが、いっとき、とぼとぼとしか歩けず、このままでは「認知症にまっしぐら」といくらあせったところでいっこうに足が進まなかった。バイオリズムが低下した時期だったのだろう。

最近、自転車がパンクすることが多い。で、自転車屋にもってくと、決まって「タイヤがすり減ってるからそろそろタイヤの交換が必要」と言う。昔はそんなことは言われなかった。同じタイヤを何度も何度も修理したものである。営業戦略なのだろうか、それともゴムの品質が劣化したのだろうか。輪ゴムもあきれるほどすぐ切れる。だが、ウォーキングに励めば自転車のタイヤもすり減らないで済む。一石二鳥である……が、靴の底は減る。かように物事は多面である。

という感じで、昨夜も大股で内心得意になって歩いていたら、後ろから来た大男に軽く抜かされた。抜かれたら抜き返す!ジェンティルドンナの気持ちになって追いかけたがかなわなかった。体格で負けた感じで悔しい。もっと悔しかったのは、こないだチャリに乗ってたら後ろから来た別のチャリに抜かされた。若いお母さんで前にも後ろにも子供を乗せていた。だが速かった。


カウンターテナーの悪魔?(金澤亜希子さんのミニ・リサイタル)

2022-11-28 09:37:35 | 音楽

昨日は大変な一日だった。ジャパンカップがあり(競馬)、日本対コスタリカがあり(W杯)、実朝が大銀杏の傍らでいよいよ暗殺される(大河ドラマ)。だが、優先度一位は金澤亜希子さんのピアノ・ミニ・リサイタルだったから、他のものは全部留守録にして会場に向かった。前回と同じサロンに同じピアノ。バイロイトの工房が製作したもので、リストが生涯で一番好んだのがこの工房のピアノだったという。プログラムはそのリストを中心としたもの。金澤さんはハンガリーに留学したからリストとなるとスイッチが入る。プログラムが進むにつれどんどん馬力が増していって、最後の「魔王」になるとエンジン全開。聴いてるこちらは魂を抜かれてもぬけの殻(夜、飲みにいかなかったのはそのせいである……ウソ。家に待ってる彼女がいるからである……もっとウソ、しかも悪質なウソ(いや、猫が待ってたからまんざらウソでもない))。いやー、すごうございました。ハンガリーの婦人に扮し、チャールダッシュを歌うロザリンデを自分の妻と気づかずにくどいたアイゼンシュタインの気持ちが分かるというもの。金澤さんにはハンガリーの血が入っているに違いない(因みに、ハンガリー人はアジア系だから、われわれ日本人全員に多少は似た血が入っている)。この日は、前回司会進行に徹した主催者のソプラノ歌手の方がご自身も歌われてリサイタルに花を添えたし、金澤さんとの掛け合いトークによる曲の解説がたいへん面白かった。その解説(ドン・ジョヴァンニの「お手をどうぞ」のピアノ編曲版の解説)の中で、「ドン・ジョヴァンニは悪い奴」と言ったので、ふむふむ、このお二人にとってどんな男が悪い奴なのかな?と思ったら、婚約者のいるツェルリーナに手を出したことが悪いのだという(なかなかに道徳的な意見である)。だが、ツェルリーナだってドン・ジョヴァンニになびいたから二人は共犯である。そのなびくシーンのピアノがすごい♥と言っていたので注意して聴いたらこちらの想像以上になまめかしかった。それから、リスト編曲の「菩提樹」は、ピアノ譜なのに三段。へーえ、オルガン譜じゃなくても三段なんだ!その一番上を歌で、残りの二段をピアノで弾くという試みがたいそう刺激的。そしてプログラムの最後が前記の「魔王」。シューベルトの元歌をピアノ用に編曲したもの。これも三段だそうだが、こちらは金澤さんが全部ピアノで弾いて、私はノックアウトを喰らったのである。この曲、元歌は、一人でいろんな登場人物を歌い分けるのだが、ピアノ編曲でも、一台のピアノで各人を描き分ける。面白かったのは、魔王のパートが右手のひときわ高い音で奏でられたこと。これは魔女だな。あるいは、カウンターテナーの悪魔かな?

って具合で、リサイタルは大成功!金澤さんは大勝利を収めた。反面、ジャパンカップではデアリングタクトが負け、コスタリカ戦では日本が負け、大河では実朝が史実通り暗殺された。「史実通り」と書いたが、史実では、犯人の公卿が実朝の首を持って逃走し、公卿が成敗された後も実朝の首は行方不明だったのだが、ドラマでは、実朝の首はくっついていた。さすがに、あのイケメン俳優を首チョンパにするわけにはいかなかったのだろう。それから、デアリングタクトは一昨年牝馬三冠を勝ったあと大けがをし、以後一度も勝てず、最近では限界説がささやかれているが、昨日の走りなどは感動的ですらあった。ジェンティルドンナも5歳の年のジャパンカップは今回のデアリングタクトと同じ4着で、その後、有馬記念を勝った。よし、引退するまでデアリングタクトを応援するぞ!


ソロのようだったボエームの合唱

2022-11-27 09:36:24 | 音楽

ボエーム(ピアノ伴奏版)を聴きに行ってきた。ピアノの某子さん以外は、ほぼアマチュアで固めた布陣。だが熱演だった。

知り合いは、某子さんのほか、マルチェッロのMわさんと合唱の一員のMまさん。合唱と言っても、一番多いソプラノが4人で、各バートがバラバラに舞台に配置されるから一人一人がソリストのよう。これは大変だ。その昔、バイロイトのマイスタージンガーでやはり合唱がバラバラに配置されたことがあり、そのときの様子を合唱団員(日本人)がこう振り返ってた。「そりゃー、隣に同じパートの人がいれば歌えますよ。でもいなきゃ歌えませんよ。20回くらい歌ってりゃ別だけど。今回バッランバッランだったからみんな不安で練習のとき歌えなくて。で、オーディションをするってことになって。泣いた子もいるみたいですよ」(この方は夫殿がドイツ人でドイツが長いせいか、「バラバラ」を「バッランバッラン」と発音するのが印象的だった)。バイロイトの合唱団でもこんな具合である。だが、昨夜は「バッランバッラン」だったにもかかわらず各人がしっかり歌っていた。見上げたものである(みあーげてー、ごらんー、よるのー、ほーしをー(関係ない))。

ボエーム全曲はマルチェッロの「……ファラオーーーーン」で始まる。Mわさんの「ファラオーーーーン」を聴きたい、というのも聴きにいった動機の一つである。Mわさんはもともとバスだからボエームを歌うと聴いてコッリーネだな、「外套の歌」を歌うんだな、と思ったらバリトンのマルチェッロ!それを見事にこなすあたりはさすがである。Mわさんと一緒に合唱団で宗教曲を歌ってたときは、彼はまだオペラはやってなかった。だが、もともと超立派な声をお持ちだったからオペラの世界に足を踏み入れたら行く先々で絶賛され、今では引く手あまたのアマチュア・オペラ界の寵児である。やはり人は落ち着くべき所に落ち着くと見える。私が古楽に回帰しているのもそれが本来の落ち着き先なのだろう。

小さめのホールでの熱演は小劇場の芝居を見ている風でもあった。みんなががんばってる姿を見て元気をもらおうとの目論見は見事に当たった。以下は、その他の感想。

第1幕でボヘミアン(フランス語でボエーム)たちが暖房がなくて寒さに震えているシーンは、現在の現実世界に共通である。わが家でも観念してコタツを出したがそこまで。音楽室は北極なので困っている。どうしよう、コタツにあたりながら(正座して)ヴァイオリンを弾こうか。でも、コタツにあたりながらチェロは弾けないなぁ……

第1幕で、家賃をとりにきた大家のベノアが店子たちに追い出される理由は、「いい歳ぶっこいて若い彼女とねんごろになったから」ではない。奥さんがいながら別の人とそういう関係になったからである。だが、そのことと家賃滞納は無関係なはず。理屈をこねれば、大家のそういう態度が店子の心を傷つけた。その慰謝料と家賃を相殺するということになるが、屁理屈である(裁判所が認めるとは思えない)。

第2幕で、ムゼッタが足を見せてマルチェッロが「鼻血ブー」のシーン、例えばルチア・ポップなら太ももまで露わにして足をバタバタさせるのだが、昨夜のムゼッタはくるぶしをちらっと見せる程度。大和撫子だから?だが、あれでは私がマルチェッロだったらどんなに血圧が高くても鼻血は出ない。え?大家のベノアの歳なら出る?私、まだ若造なので分からない。

家で視聴するときはいつも第2幕までなのだが、ホールで聴くと否応なく全幕見ることになり、第3幕も聴いてみるといいなぁと思う。昨夜感心したのは激しい男女の言葉の応酬(口げんか)。そうか、男女で付き合うということは、喧嘩をするっていうことなのだな。

第1幕に戻る。ロドルフォが会ったばかりのミミに「Sei mia!」と言うのだが、私、ここんとこを勝手に(英語で言うところの)「Be mine」に解釈していたのだが、昨夜の字幕は「You are mine」だった。なるほど、言われて見れば、通常の現在文だよな。なぜ私が願望の意味に解したかというと、ヴァーグナーの「ジークフリート」にそっくりの台詞があり、ジークフリートが目覚めたばかりのブリュンヒルデに「Sei mein!」と言うのだが、これは接続法であり間違いなく「Be mine」だからだ。図らずもどっちも「sei」で綴りは同じ。どっちもB動詞の変化形で使用場面も同様だがニュアンスが違ったということ。因みに、読みは「セイ・ミーア」と「ザイ・マイン」である。


軍手

2022-11-26 10:57:13 | 日記

最近つけ始めた日記には夢の欄もある。昨日見た夢は、例の五文字のイタリアンに三人で行った夢。お会計がなんと一人2万円。この店では天地がひっくり返ってもこんな値段にはならない。夢の夢たる所以である(ドイツの銘醸ワインを空けていたが、そもそもこの店はドイツワインを置いてない。なお、イタリアの銘醸ワインはお店によっては置いてるところもある)。

チコちゃんが「好きなサッカー選手」の名前として元イタリア代表の「ロベルト・バッジョ」を挙げていた。28年前のW杯に出てた選手。灼熱のアメリカ大会の決勝戦で、バッジョ(ともう一人)がPK戦ではずしてロマーリオとベベトの2トップが率いるブラジルに負けたのだった。私もいっときバッジョのファンだったが、ハンティングが趣味と聞いてファンを止めた。娯楽目的の動物殺生は嫌いである(仕事でやっている「またぎ」は尊敬している)。だが、バッジョは、慈善活動には積極的で表彰もされているという。人間には優しいのだな。人の評価は多面的であり難しい。この方、最近名前を聞かないと思ったら、50半ばにして既に隠遁生活を送っているという。

古いモノ(本、ビデオテープ、カセットテープ、MD等々)の整理をしていると、手が真っ黒になる。汚れるだけならいい。たまに紙で手を切る。だから軍手が欠かせない。おしゃれなヤツはいらない。昔ながらの白いやつを百均で買った。一袋に三セット入っていた。贅沢、と思ったが、汚れた軍手を洗濯して干してる間(手が汚れない分、軍手が真っ黒になる)、他のを使う必要があるから3セットでちょうどよかった。今年購入したモノのなかでも、お役立ち度において5本の指に入る傑物である。

ニュースやCMなど好き好んで録画はしないし、混じって録れててもその部分はカットする。だが、大昔の録画に紛れてるヤツ(録画当初の粛正の嵐を逃げおうせた運良き者ども)は話が別。こんなニュースがあったんだ、みんな若い、当時のドイツの首相ってコールさんか、橋本さんって総理もいたっけ等々なかなか興味深い。そう言えば、昔こういう漫画があった。時は石器時代。ある一家の子供が洞窟の壁にいたずら書きをしていると、母親が「未来の人が『石器時代の人間はこんな下手な絵を書いたのか』と思ったらどうするの」と言って止めさせる話である。その絵は、多分、アルタミラかラスコーの洞窟絵画である。


Shall we ダンス?

2022-11-25 12:06:26 | 音楽

古い録画の移行作業の際、常に傍らにはりついているわけではない。機械にやってもらってる間にほかのことをしている(家電は私にとってR2-D2である)。だが、時折、見入ってしまうものもある。

例えば、「Shall we ダンス?」。この映画を見て社交ダンスを始めようなどとは露ほども思わないが、自分のやってる歌や楽器に置き換えてみると身につまされる話であり、前に見た映画なのだがあらためて全部見てしまった。ところで、劇中に「木本先生と舞さんはできてる」という台詞がある。この「できてる」はなかなか多義な言葉である。整理してみよう。
意義1。「完成した」。上記の台詞をこの意味で解すると「木本先生と舞をサイボーグにするための改造手術は完了した」みたいな感じになる。
意義2。「人格が優れている」。これだと上記の台詞は「木本先生と舞さんはいい人」になる。
意義3。「男女の関係にある」。私のようなお子ちゃまには理解の及ばない語意であり、口にするのも恥ずかしいが、敢えて「できてる」をこの意味で使って、この映画の監督とヒロインの関係を言うならば、制作当初は二人はできてなかったが、いつの間にかいい仲になり、公開してすぐ結婚した、ということになる。

それから20年くらい前の某フィルのニューイヤー・コンサート。これをリアルタイムで見てないってことはあの年だ。私が元旦からの一週間、ドイツを旅行した年で、元旦からユーロが導入された年。すぐにはユーロは浸透しないだろう、ってことでマルクを持っていったのだが、フタを開けると一斉にユーロに切り替わってる(さすが、ドイツ)。やむなく、ドイツの銀行で、手にいれたばかりのマルクをユーロに替えたのを覚えている。で、件のコンサートは留守録にしていたのだが、見る機会を逸し、そのうちビデオが行方不明になっていたのだ。それが出てきた。これもご縁である。見てみる。指揮は世界の某(「世界の王」ではない)。いつもの通り拍子を細かく指示している(橋田壽賀子の脚本を思い出す)。曲は弾いてる奏者の方が百も承知なのだから細かく振ったら逆にうざったいんじゃないかな。それよりも、中継したNHKがゲストに呼んだ映画監督の話が面白かった。世界の某がどれだけ家族思いか、ってことを言いたくてした話なのだが、当該指揮者の娘さんに大学でボーイフレンドができたとき、当該指揮者は心配のあまり大学の学食に一日張り込んでどんな男がやってくるか見張っていた、という話である。NHKで言う話かって気がしないでもないが(あくまでも映画監督は美談として話している)、私としては、この話を聞いて、妙に納得した別件がある(飲み屋で話そう)。だから、今回このビデオを発掘した甲斐が多いにあったと思っている。


悲劇

2022-11-24 12:03:48 | 日記

日本が「ドーハの歓喜」で沸き立つ一方で、ドイツのニュースは「riesige Enttäuschung」(ものすごい落胆)と報じ、喜ぶ日本のファンの様子を紹介しながら「kaum jemand gerechnet」(ほとんど誰もが(日本の勝利を)予想してなかった)と付け加えていた(W杯)。

「ドーハの歓喜」と言えば、かつて日本は「ドーハの悲劇」に見舞われていた。あれはもう30年くらい前になるのか。だが、この「悲劇」の呼び名はどうも私にはしっくりこない。私のイメージでは、「悲劇」とは本人にはどうにもならない運命にもてあそばれて被る惨事。だが、「ドーハの悲劇」は、別に誤審があったわけでも、相手のファウルがあったわけでもなく、それまでリードしていながら最後に相手にセンタリングを上げられて(カズがボールに足を伸ばしたが届かなかった)、それを頭で合わせられて同点に追いつかれ、それでW杯に行けなかったという話である。これが外国だったら「なにやってんだっ」となるところ、「悲劇」と名付けて選手をいたわるのだから、つくづく日本は優しい国である。それに対し、昨夜の勝利は、これは実力で勝ち取ったものだから「歓喜」は当然である。その「歓喜」に沸き立つ若者が渋谷で電柱によじ登り、降りて来させたおまわりさんに食ってかかっていた。外国だったら即逮捕のところ、注意だけで済むのだから、この点も日本は優しい国である。

因みに、「悲劇」の反対は、演劇やオペラでは「喜劇」だが、今回の快挙を「ドーハの喜劇」と言ったら意味が違ってくる。それから、ニーチェの著作に「悲劇の誕生」ってぇのがあるが、その内容は、悲しい出来事がどうやって起きるのか、ではなく、芸術作品である「悲劇」がどうやって生まれたかを論じるものである。まだニーチェがワグネリアンだった頃の作品であり、当時の彼にとっては、「悲劇」=最高の芸術作品=ヴァーグナーのオペラ、であった。

因みの因み、上記のカズは当時20代。つまり、今は50代。それで現役を続けてるんだから驚異である。走り回るサッカーの消耗度は他のスポーツの比ではない。30年経った今、私がもっとも尊敬するスポーツ選手の一人である。


仕事

2022-11-23 12:17:01 | 日記

ベランダの二個のプランターにはどっちもバジルを植えているのだが、そのうちの一個について収穫を敢行。一年草は寒くなるといきなり枯れる。それに備えてである。こんだけ穫れた。

これを新聞紙でくるみ、ジップロック(もどき)に入れて冷凍庫で保存。葉っぱだけにしたヤツと、茎のついたヤツで分けた。どっちが長持ちするかの実験である。

残る一個のプランターについては、収穫はもう少し待って様子を見る。

12月になると言っても、南向きのベランダは陽があたるとかなり暖かい。そこで作業すると暑いくらいである。まったく、この温度を北側の書斎(音楽室)に持っていけないものか、と思う。因みに、こうした栽培・収穫の作業は趣味でやっているのではない。しっかり食して大事な私のNahrung(栄養)とするためである。だから、これは私が生存するために必要な生産活動であり、仕事である。

それを言うなら料理も同じ。会社の社員食堂の厨房の作業やレストランの賄い作りが立派な仕事であるのと同様、料理は私が生きるための仕事である。

そのほか、ネットショッピングでお買い物をするのは会社が備品を購入するのと同様に仕事だし、次にどの山を登ろうかどの海岸を歩こうかと考えるのは総務課がレクリエーションを企画するのと同様に仕事。株や馬券で財産をなくすのは、経理部が会社のお金を運用しようとして損をするのと同様に仕事である。

そもそも、外に働きにいって給料を稼いでくるだけが仕事(Arbeit)ではない。もし、私がベランダでバジルを育てなければスーパーでその分出費するわけだし、もし料理をしなければ外食でその分出費するわけだし、もし山や海岸を歩かなければストレスから体調を崩して病院代を出費するわけだ。これらの出費をしないで済んでいるのだから、十分にわが家の財政に寄与し、ひいては私の生存に寄与しているのであり、立派な仕事である。

最後にオチがつかなかったのでおまけ。長いこと疑問に思っていたことを吐き出そう。ウルトラマン(初代)は、最終回でゼットンに倒されたときうつ伏せに倒れたのに、地面に横たわる姿は仰向けであった。なぜだろう。因みに、テレビ放送では、ウルトラマンの手元からスペシウム光線が発射されるシーンと、それが怪獣に命中するシーンはいつも別々だったが、映画「シン・ウルトラマン」は、横長のスクリーンサイズのおかげで、これを同時に見ることができた。同映画で一番感動したシーンである。


日記

2022-11-22 11:59:54 | 日記

母の生前、何もしなければボケるのは当然だから、毎日、平日の午後にテレ東でやってる映画を見てその感想文を書くように言った。平日の午後はBSでも映画を放送してるのになぜテレ東を勧めたかというと、BSは字幕なのに対し、テレ東は吹き替えで、そっちの方が負担が小さいと考えたからである。だが、息子の言うことを聞くような母ではなく、案の定しっかりボケた。

さて。次は自分の心配である。母に勧めたことを自分で実行しよう。つまり、視聴したものを記録しよう。視聴日記をつけよう。待てよ。既に、ラーメン日記と外食日記をつけている。最近は、血圧日記と歩数日記を始めた。これらをバラバラでやるよりも統合したらどうだろうか。いい考えだ。早速、エクセルで作った。こうしておけば、ある項目、例えば血圧のデータだけ取り出したいと思ったら、瞬時に(Augenblicklich)エクセルの並べ替え操作で可能。コツは、(血圧を除き)毎日、前日の内容を記録することだ。思い出すことにボケ防止効果があると考えるからである。

写真は一昨日のデータ(だから、入力したのは血圧を除き昨日。血圧を隠したのは、こんなのがバレたらお婿にいけなくなるから)。いくつか補足しよう。

夕食のピザはこの日に限った話ではない。(外食したときは除き)アラジンのトースターを買ってから、毎日ピザである。すなわち、毎日せっせと粉をこねて焼いている。さあ、そこで、アラジンのトースターとピザメーカーの勝敗の行方が気になる。予熱不要(前者)と400度の高温(後者)のどちらが優勢か。いまのところ、アラジンが10馬身引き離してリードしている。予熱不要の威力は大きかったし、400度でなくてもふっくら仕上げが可能である(カリカリに焼きたいときは、ピザメーカーの出番だろう)。

視聴したモノの一つ目の「ZDFのHeute」はドイツのニュースで、日本に置き換えれば「NHKの7時のニュース」。リアルタイムで放送しているもののほか、古い録画の移行作業で20年以上前のヤツが出てきて、当時のお天気お姉さんのインゲ・ニーデクを見ることができて懐かしいことこのうえない。この方は、私より3つ上で、気象学者であらせられる。そう、ドイツのニュースに登場するMCやお天気お姉さんやお兄さんはベテランばかり。タレントと見まごうアナウンサーがニュースを読む日本の民放とは大違い。それに比べれば、NHKは、大ベテランの森田アナの声がチコちゃんで聴けたりして、はるかにマシである。NHKと言えば、7時のニュースでお天気を担当している晴山さんは、最近、お名前に反してお顔が晴れ晴れしていない。顔色が悪い。これは、NHKが節電のため照明を落としてるせいだろう(テレビ局の照明は相当にキツい(だから昔は相当暑かった)と聞いていたが、キツくしないとこんなに暗くなるんだなぁ)。

視聴したモノの二つ目の「ベイブ」は私が大好きな、子豚が主人公の映画。ポイントは、全編に渡って、サン=サーンスの「オルガン付き」交響曲の音楽が使われていること。この映画を見た直後は心が癒やされたらしく血圧が下がっていた。

視聴したモノの三つ目の「マイルチャンピオンシップ」は競馬で、馬券ははずれた。ずっと3頭ボックスのワイドを買おうと思っていて、それなら当たったのに、直前に気が変わって一点勝負に出て玉砕した。負けた後は心がやさぐれたらしく血圧が上がっていた。かように、血圧が乱高下する騒がしい日曜日であった。


アス

2022-11-21 10:17:53 | 日記

寒い。日中毛布にくるまってるから何もできない。そこに猫が乗っかったり入って来たりするから尚更である。ここまで我慢すればお天道様も許してくれるだろう。コタツを出した。これを待ち望んでいたのは猫達。最初にわが家にコタツが来たときは戦々恐々としていた猫達だったが、今では、Augenblicklich(一瞬にして)、中の定位置に収まる(定位置とは、写真の通り、左にワサビ、右にケメ子である)。

おかげで、いつもは夕方になるとご飯をくれとうるさく催促する猫達がコタツの中で静か(こちらが「ご飯だよ」と呼んで初めて脱兎……ではなく脱猫のごとくコタツから出てくる)。食べ終わるとすぐ定位置に戻るから、私の上に乗ることもなくなったが、私自身がコタツに潜るから、結局、何もできない。コタツが出ている間は冬眠である。エアコンは?このご時世、なるべくつけない(これは、特に私がケチだからではなく、世界的な風潮である。北国ドイツにおいても、この冬の暖房は最高温度が19度に抑えられるという)。そんななか、政府が電気代・ガス代の2割補助を打ち出した。いまや、何をやっても支持率の上がらない岸田さんだが、私は、自民党支持者ではないが、政府の政策については是々非々の態度で臨んでいて、この「2割補助」は大いに評価するものである。

因みに、私は(前記の通り)自民党支持者ではないから、これまで国政選挙で自民党に投票したことはないが、一度だけ、都知事選で自民党候補に入れたことがある。続投を目指す現職に対し、政権側が対立候補を立て、現職知事が高齢であることについて派手にネガティブキャンペーンを張ったことに対抗して現職に票を入れたのである。その対立候補は、NHKの「ニュースセンター9時」の人気キャスター。キャスター氏には誰だっけか庶民派を自負する選挙参謀がつき、その参謀の入れ知恵だったのだろう、選挙運動中に、いきなりキャスター氏がカメラマンをひきつれて銭湯に入っていき、膏薬の貼られた背中どころかお尻までカメラに披露した。彼は、おフランス語ペラペラで粋なスーツをばしっと着こなしダンディーで売っていた。そういう人の膏薬とお尻を誰が見たいだろうか。参謀の浅知恵と言うしかない。結果、現職が圧勝した。人それぞれふさわしいイメージがある。例えば、私がブランドものを着たら私ではなくなるのである。

因みに、映画「ザ・マジックアワー」での西田敏行のお尻もあまり見たくなかった。ジュリア・ロバーツのお尻なら見たい人が多かったかもしれないが、映画「プリティ・ウーマン」の撮影時の長時間に及ぶ話し合いで、結局、パンティー姿に落ち着いたという。それに対し、メラニー・ホリデー(オペレッタスター。ソプラノ)はウィーンのフォルクスオーパーで一糸まとわぬ後ろ姿を披露し、ウィーン子を驚喜させたという。

なお、「ass」には、「尻」のほか「黄門様」の意味があり、私的には後者のイメージの方が強いので、タイトルを「アス」にすることについて若干躊躇したが、ジュリア・ロバーツ自身が「ass」と言っていたので、これを採用したものである。


だるまさん・はころんだ

2022-11-20 11:46:12 | 言葉

何週か前のチコちゃんで(先週、チコちゃんはお休みだったから、これで少しは追いつけた)、子供の遊びの「だるまさんはころんだ」で、鬼がそう唱えるのは、1から10まで数を数える代わりなのだと言っていた。だから意味はどうでもよくて10文字ならいいんだと。その10文字は全国的に「だるまさんはころんだ」が一般的なのだが、大阪の「ぼうさんがへをこいた」のほか、地方によっていろんなヴァリエーションがあるそうだ。そのいくつかが紹介されていたが、私が育った横浜市緑区(当時は港北区)で使われいた「のぎさんはえらいひと」は紹介されなかった。その「のぎさん」がどこの誰だかは、この遊びをしていた当時知る由もなかった。この遊びが外国から入ってきて、各地の子供らによって10文字が形成されたのは昭和初期。当時、乃木大将が明治天皇に殉死してから15年くらいしか経っておらず、大将を偲ぶ大人がたくさんいて、その大人の影響を受けた子供が「のぎさんは……」と言い出したのだろうか。子供は大人に影響されるものである。小学校時代、クラスに農家の息子がいて、そいつが自民党の宣伝ばかりするもんだからクラス中が自民党支持になり、一般に言われた「巨人、大鵬、卵焼き」は、わがクラスでは「巨人、大鵬、自民党」だったのだが(だから、子供に選挙権を与えてはいけない)、今考えると、そいつが農家の息子だったことに非常に合点がいく(自民党は農村に基盤がある)。あれは親からの請け売りだったのだろう。同様に、当時のクラシックを愛好する少年少女にアンチ・カラヤンが多かったのは、宇野某という評論家の影響である。

因みに、この10文字は、多くは、音節的には5字+5字であるが(のぎさんは・えらいひと、ぼうさんは・へをこいた)、「だるまさんは・ころんだ」は6字+4字である。これを5字×2で唱えると、「だるまさん・はころんだ」になる。我が愛しのジェンティルドンナの名前を「ジェンティ・ルドンナ」と呼ぶごとしである(そういう人がいる)。ジェンティルの現役当時、日本では「ドンナ」というイタリア語(女性の意味)が浸透していなかったせいもある。だから、「ジェンティルドンナ」は名前が変・呼びにくいなどと言うとんでもない輩がいたが(逆に、私がジェンティルに注目したきっかけは名前である)、最近のCMで「クルマドンナ」と言ってるのを聞いて、おお、「ドンナ」もここまで浸透したのか、と感無量だった。

それから「へをこいた」についても。「こく」という動詞は、「放く」と書き、その意味は、「体内にあるものを外に出す」という意味であり、転じて、「言う」という意味になるそうだ(例:バカこくでね)。なるほど。体に溜めてよくないのは、屁も思ってることも同じである。私がブログを書くのは健康のためであり、穴を掘って王様の耳はロバの耳と叫ぶのと同じである。


下手の計算休むに似たり

2022-11-19 10:48:03 | 音楽

昨夜の9時頃、南南西の空高くに明るく光る星があった。

木星だろうか?惑星や月のような衛星は自ら光を発しないにもかかわらず、よくぞここまで明るく輝くものだ。自らのがんばりではなく、他人の名声に乗っかって稼ぐ人間と同じである(別に悪口ではない)。

こないだ掲載した「鎌倉小旅・後編」でアップした仁王像の写真なのだが、

あらためてみると、格子戸の中に閉じ込められていて、まるで囚人である。格子戸に手をやって「出してくれ」と言ってるようでもある。しかも半裸。この時期、寒いだろう。なぜ格子があるのか。中に入ろうとする輩を食い止めるため?なら話は逆だ。格子のこっちにいるわれわれが囚人である。

近所のスーパーで、食パンが88円から99円に値上がりし、もはや頼みの綱は某Gスーパーのみである。ここは食パンがまだ77円。なので合唱練習の前に寄ったのだが、この日は8枚切りが売り切れていて6枚切りのみ。これを買っていつものように2枚食すと近所で99円で買うのより割高になる(77÷3×4=102.66……)。購入を中止して店を出る。しっかり計算ができて得した気分……待てよ、6枚切りを買って1回に1枚半食べれば量的にはいつもと一緒。で、コストも抑えられる。しまった、購入すべきであった。一転して暗澹たる気分になって歌の練習に挑んだ私であった。下手な計算休むに似たり、である。

昼食と言えば、学生時代、学食で、150円のカレーライス、30円の卵、20円の味噌汁を頼んで合計200円。これをずっと続けていた(つまり、あきもせず毎昼カレーライスだった。卵より味噌汁の方が安いことに若干の疑問を持っていたが今考えれば納得である)。で、3年生になってゼミに入ったら、ゼミの先生が「昼食に1000円以下なんてあり得ない」と言っていて、へーえ、大学の先生ってリッチなんだなー、ようし、私もお昼に1000円以上出せるような人になるぞー、がんばるぞー、と青年は大志を抱き、そのなれの果てが現在である。考えてみたら、今の私のお昼は学生時代よりも質素(要するにビンボー)である。このように、ありのままの自分をさらけ出すことができるのは、私が婚活と縁を切ったから。なお、あさイチに寄せられたメールだっけ、付き合ってた彼がビンボー自慢で、ファミレス(ってサ○○○ヤ?)に行っても必ず割り勘だったのだが、結婚したら実は社長の息子で、現在超セレブな生活を送ってるって話を聞いた。大丈夫。私についてはそのようなウソはない。正真正銘のビンボーであるから、どうぞ安心してほしい。


自己肯定感

2022-11-18 11:03:06 | 音楽

今日は資源ゴミの日。ついこの間出したと思ったらもう一週間たったのか。ゴミ出しついでにスーパーに行くと、なんとパンも牛乳も100円値上がり。値上がりが噂されていたボジョレー・ヌーヴォーはもはや店頭に並んでなかった。だから何も買わ(え)ないで帰ってきた。賃金の上昇は物価の上昇に追いついていないという。この点で、政府・日銀の政策は失敗である。だが、日銀総裁はとーっても偉そうで個々人間のヒエラルキーで「俺は総理よりも上」と思っているっぽい。だから、総理も日銀総裁にモノを申せないのかなー、と勘ぐっている。

さて。あさイチに出てた戸田恵梨香が外国の無医村で無料医療を行っているお医者さんの話をしてて、そのお医者さんが言う「自分を信じることの大事さ」に感銘を受けていて、仕事で無理だと思ってもその言葉を思い出してがんばってる、と言っていた。いいことを聞いた。私は、こう見えても、自己肯定感のとっても低い人間である。え~?あんなにいろいろやってるくせに?いろいろやるから返り血も大量に浴びているのである。そこにもってきて、周りに私が大好きな人=褒めてくれる人がいない(反対の人はたーくさんいる)。だから、歌で言えば、バスもテナーもやめて、唯一、カウンターテナーだけは、これは、相当に自分の声が好きなので、あまたの白い目に耐えつつ続けているのである。そんななか、古い録音の移行作業をしてたら、20代30代の頃の自分のバスの歌の練習風景が出てきた。これが、あらびっくり、なかなか上手なのである。こんだけ歌えてて、なんで当時あんなに悲観したんだろ。褒めてくれる人がいない点は今も昔も変わらない。自分で高いハードルを課していた?それが歳とって下がった?それもあるかもしれないが、思うに、当時、世界的名歌手の声を浴びるように聴いていた。それが耳に残っていて、自分の歌など、学校の机の中でひからびたコッペパンに生えたカビのようにしか思えなかったのかもしれない。例えば、カール・リッダーブッシュの声はオペラ映画で聴いたのだが、上映会場を出た後しばらく私は歌を忘れたカナリアであった。リッダーブッシュが音大の声楽科にやってきて生声を披露してガラスがビリビリ揺れたときは声楽科の学生の半分はやる気をなくしたそうだが、声楽家の卵がやる気をなくすんだったら、コッペパンのカビが裸足で逃げ出すのは当然である。だが、リッダーブッシュはバイロイトで番を張っていたような大歌手。そもそも古楽を歌いながらオペラ(しかもヴァーグナー)を聴くのが間違いのもとであった。因みに、最近、オペラはほとんど聴いてない。昔の自分の声の録音が良く聞こえるのはそのせいかもしれない。

それでも、いくら自己肯定感を強く持ったとしても、時と場所を選ぶことは、返り血を浴びないために必要である。カウンターテナーが活きるのはやはり古楽。シュッツの会で、シュッツやモンテヴェルディのアルトパートを歌うときこそ自己肯定感が満ちあふれていた(それもそのはず、アルトパートはもともとカウンターテナーのパートである)。だが、同会は現在休眠中。しばらくは、ソロ会やセッションで研鑽を積むことになりそう。ヴァイオリンやチェロも私は古楽の方が弾きやすいから同様である。近代ものは、もっぱらクラリネットに託そう(因みに、私の血圧は、クラリネットを吹いたときにもっとも上がるようである(最後にとんでもないオチがついた))。


2022-11-16 17:30:40 | 日記

「らん」と言えば、

「ゆきぃがぁとけて、かわぁにぃなってながれてゆきます」「らんちゃーん!」の「らん」。あるいは、

「ラン!ルーク、ラン!」の「らん」(オビワンケノービが発するこの台詞は、ドイツ語版では「Lauf!,Luke,lauf!」。第九のテノール・ソロの「Laufet!」と同じ動詞である)。

これら2つの「らん」が世に出たのは1970年代であり、時間の経過とともに人々の記憶の彼方に去ってしまうべきところ、記述され、後に読まれることにより記憶の奥から発掘される。民法を勉強する人が習う「雲右衛門事件」の「雲右衛門」(浪曲師)も、漱石が「猫」に書いてくれてるおかげで、現代人の身近に復活するのはその例である。当ブログのようなとるに足らない駄文であってもそうした役回りを担うことがあるかもしれないと思えば執筆のモチベーションになる(なーんてことをたった今思いついて、すぐ書いている。浅はかのそしりは免れまい)。なお、蘭さんについては、人々の記憶から遠のいているのは「キャンディーズのランちゃん」であって女優さんとしてはもろ現役だし、そのお嬢さんは来年秋からの朝ドラのヒロイン役が決まっている。因みに、蘭さんの夫殿(相棒)がデビュー作で演じたのがバンパイア役であったことこそどれだけの人が覚えているだろうか)。

黒澤明の「乱」は、ほんの少し時代が下って1980年代。シェークスピアのリア王を原案とした映画である。黒澤映画は大概観たが、どういうわけかこれだけ観損なっていて、今回、ようやく観ることができた。以下、その感想文である。

なかなかの映像美であった。セットのお城は、燃やすためだけに5億円かけて建てたのだという(同じ金額を仮設住宅のために使えば……という考えが頭をかすめたが、芸術のためだ、そういうことは言うまい(もう言ってる))。その燃えさかるお城から仲代達矢演じる狂気の殿が現れるシーン、背後から黒い煙がもくもく出てくる。危ない。あれをちょっとでも嗅いだら一酸化炭素中毒である。仲代達矢も怖かったのだろうか、心なしか早足だった気がしたが、あれはよろめく演技だったらしい。その際こけてしまったら5億円が台無しになるので、仲代達矢は、こけないように、こけないようにとそればかり考えていたという。だが、こけたとしても、意外にいいシーンになったかもしれない。「ラドン」のエンディングで、ラドンは阿蘇の火に焼かれるのだが、そのシーンでラドンを吊っていたピアノ線が切れてラドンが半吊りの状態となった。予想外の展開なのだが、それがなんとも切ない名シーンとなった。

「乱」には原田美枝子が御姫様役で出ている。白塗りで誰だか分からないところだが、前ドラ(前の朝ドラ)でオーナーを演じてたときあさイチにゲストで来て、「『乱』に出たとき眉毛を剃っていた」と言っていたので、眉毛のない御姫様が原田美枝子だと分かった。当時、原田美枝子は「100人中99人が敵」と思ってつっぱって生きていたというが、そのまんまの怖い役であった。因みに、私と原田美枝子の産まれた日はほんの数日違いである。原田美枝子は、その後、つっぱりから卒業されたそうだが、同い年の私の性格はねじ曲がったままである(つうか、一層ねじ曲がったという噂もある)。

音楽についても面白い話がある。作曲者はかの武満徹。武満は、自分の曲をいじり倒す黒澤明にぶち切れてその面前で席を蹴ったという。逆に、黒澤明は、演奏にロンドン交響楽団を使いたかったのに竹満に反対され(理由は、同オケが映画の仕事をやりすぎて仕事が荒れてるから、というもの。なるほどー、「スターウォーズ」の演奏もロンドン交響楽団である)、札幌交響楽団になったことが不満で団員の顔をろくに見なかったそうだ。だが、実際にその演奏を聴いた後は、至極満足し、団員に深々と頭を下げたそうだ。

映画の冒頭で「An Akira Kurosawa Film」の文字がスクリーンに映し出された。私は、瞬間的に「an」をドイツ語に解釈して「黒澤明に捧げる」と思ったのだが、この映画が公開されたとき黒澤明はまだ存命だった。普通、作品を捧げる相手は故人だから変だなぁ、と思いながら観てた。そうか、これは「A ○○ Film」(○○監督作品)の「A」か。次が「Akira」で母音始まりだから「A」が「An」になったのか、と中学校で習ったことを思い出して合点がいったのは映画も終わる頃であった。

冒頭に戻る。雪が解けて川になって流れるのはごく自然である。雪が解けて岩になって浮かんだら、それは自然摂理には反するが、どっかで見たことがある気もする。と思ったら、ルネ・マグリットの「ピレネーの城」であった。


滑川の末路に人生を見て、お坊さんの手に鳩サブレーを見たの巻(鎌倉小旅・後編)

2022-11-15 11:02:43 | 日記

鎌倉八幡宮を後にして、若宮大路をまっすぐ南下して由比ヶ浜に向かう。

天気がいいのもいいが、まだらな曇天は、雲の合間から差し込む太陽光線がルーベンスの絵を思い起こして乙である(ここでの「乙」は「洒落ている」の意味であり、ネット用語の「おつかれさま」ではない)。因みに、ルーベンスはバロック期の画家。なるほど!人物がてんこしゃんこを向いている様は、まさにバロック(いびつ)である(「てんこしゃんこ」とは、各人(物)がばらばらの様子。私はこの言葉が好きで多用するが大辞林には載ってない。東京の方言だとする説がある)。この日、おだやかな顔を見せるこの浜は、しかしながら和田合戦の主戦場であり、静御前が産んだ義経の男子が頼朝・北条によって沈められた場所である。

鎌倉の中心を流れ、由比ヶ浜に注いでいるのが鎌倉史にもちょこちょこその名を見る滑川。この川、浜に入ってくるあたりではそこそこの規模があるのだが、

浜を通るうちにみるみる細く、浅くなっていき、河口付近ではもはバッハ(小川)とも言えない「流れのある水たまり」である。

由緒正しき川の末路としては物足りない感じがしないでもないが、こういう控え目な人生の終わり方も良いかもしれない。他にも、何本か狭く浅い水流が浜を通って海に注いでいるが、滑川を含めいずれもひとっ飛びで越せる代物である。あるいは、ゴム長があれば水たまりに入る感覚で渡ることも可能である(♪ピッチピッチチャップチャップランランラン)。ただし、おデートでおめかしをした紳士淑女にとっては話は別。彼らにとってはジャンプもゴム長もNGだろう。そういえば、水流の傍らで佇んでいるカップルがいたが、彼らは渡るに渡れなかったのかもしれない。

さて。この後、滑川をひとっ飛びして材木座海岸を経て逗子に行こうか、それとも、近くの長谷駅(江ノ電)に行って帰途に着くか。既に3時間以上歩いているから後者を選び長谷駅に向かったのだが、そうだ!長谷には大仏様がいる、もう長いこと見てない、せっかくだ、見ようと思って駅を通り過ぎ、大仏様がおわす高徳院に向かった。途中、商店街に「鎌倉殿の13人」にあやかった旗がなびいている。

しかし、北条義時は、いまやヒールである。大河ドラマの主人公でこんなに視聴者から嫌われた人物がいたろうか。脚本の三谷幸喜、してやったりであろう。

そんなこんなで高徳院に到着。山門には、二体の仁王像。

子供の頃、この像を見て抱いた感想は腹が出てること。これが日本人の成年男子の体型のデフォルトなのだろうか?と、いぶかしく思ってきたが、いきなり謎が解けた。仁王像は金剛力士像ともいう。力士!なら腹が出ていて当然である。因みに、仁王像の頂点に君臨するのは奈良の大仏さんが鎮座する東大寺の仁王像(運慶快慶作)だろう。あと、松戸に結構有名な仁王像があるという。近くだ、行かない手はない。白状すると、私、仁王の2人と風神雷神をごっちゃにしていて、雷神つながりでマイティー・ソー(映画)やドンナー(オペラ)のネタに突入しようと手ぐすねをひいていた。で、二体の仁王像を見ながら、どっちが雷神でどっちが風神だろう?変だなぁ、どっちも雷を鳴らす太鼓や風を起こす風袋を持ってないなぁ……なーんて思っていた。当たり前である。まったく別物である(ということで、北欧神話ネタはお預け)。

そして、いよいよ大仏様にお目通り。おおっ。いいお顔をしてらっしゃる(そんな感想を持てるようになったお年頃のワタクシである)。しかも、見る角度によって表情が異なる。まずは正面。

続いて、斜め45度。

続いて、真横。

そして、真後ろ。

この角度からの大仏様は肩を丸めていて、なにやら悲哀を感じさせる。人生(仏生)はつらいよ、と仰ってるようでもある。

それにしても、八幡宮も人手が多かったが(「鎌倉殿」の影響?)、こっちは外国人の観光客が目立った。日本の外国人観光客の受け容れが再開されたのはつい最近なのがウソのよう。待ち望んでいたんだなぁ。円安だし。

以上で、3時間半、歩きっぱなしの小旅は終了。以下はおまけの話。

八幡宮から由比ヶ浜に行く途中に農協の直売場があった。黒キャベツが珍しかったので購入。

それから、円覚寺の境内を歩くお坊さんが紙袋をぶら下げているのが妙に俗っぽい。何かと思ったら鳩サブレーの袋だった。へー、お坊さんも鳩サブレーを召し上がるのか。肉じゃないからいいのか、と思っていたら、その鳩サブレーのお店が若宮大路にあった。

そうか、鳩サブレーって鎌倉名物だったのね。あと、若宮大路をずっと行って、農協を過ぎて、もうじき由比ヶ浜ってあたりに簡易裁判所があって、へー、こんなところに、と思ったけど、裁判所には誰も興味がないだろうから、写真の掲載は差し控える(撮ったけど)。