拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

着たきり雀

2018-10-31 17:43:04 | 日記

所用で小田原方面に向かう途中、小田急線から富士山がくっきり。さて。「いーじまさん、女の人ができたんでしょ」とおっしゃったのは某姐さんである。理由は着てる服がいつものと違うから。まったく、着たきり雀じゃあるまいし、私だって違う服を着ることはある……いや、やはり着たきり雀か。だいたい服にはとんと興味がないから、大きな穴が開くまで着続ける(小さな穴でも着る)。で、穴のあいてない服がなくなると一斉に代えを買うから、ある時点で着てるものがガラッと変わるわけだ。因みに、私が合唱団のコンサートで礼服を着たときも「見違えた」と言われたことがある。よほど普段がひどいらしい。その際、「メガネも変えたんですね」とおっしゃったのは別の姐さんである。変えてませんから。

バッハのヨハネの終曲の歌詞はシュッツの"Herzlich lieb"と同じ

2018-10-30 06:54:46 | 音楽
先日、通唱会で慟哭を禁じ得なかったバッハのヨハネ受難曲の終曲コラールの歌詞は、シャリング(1532~1608)という教会詩人の作った詩の一部である。この詩には、他にシュッツが曲を付けている。「Herzlich lieb」であり、こちらは、三節からなる(その三節目だけピックアップしたのがヨハネの終曲である)。いやぁ、シュッツもすごい。この詩に付けられたバッハの音が奇跡だと書いたが、あっちが奇跡ならこっち(シュッツ)だって奇跡である。というか、詩と音楽の結びつきから言えば、断然シュッツである。シュッツの歌というのは、ドイツ語を正しく発音しさえすればそのまま曲になってしまう、とさえ思える。そう思って作ったのがシュッツを歌う会であった(因みに、シュッツを歌う会で、まっさきに歌いたかったのは「Die Himmel」)。いっとき、シュッツを歌う会でテナーが払底し、一番歌いたかった「Geistliche-chormusik」(教会合唱曲集)を歌うことがままならなくなった。それで、ブクステフーデとかの比重が増したのだが、ここにきて、素晴らしいテナーの参加が相次ぎ、あっという間にテノール王国の様相を呈してきた。そこで再び「Geistiche……」を歌うことになり、手始めに「Das Wort」「Die Himmel」、そして次回は、その「Herzlich lieb」も歌うのだが、ここでいいことを思いついた。併せてバッハのヨハネの終曲を歌おう。同じ歌詞だから比較が面白いぞ、きっと。ということで、ご興味のある方は是非ご一緒に!すっかり番宣と化したわがブログである。

ガンバの路上ライブ(熱愛発覚!?)

2018-10-29 11:55:50 | 音楽

ということで(承前)、神谷さんとイケメンの加藤さん(お二人とも私が主宰する「歌いまくる会」と「シュッツを歌う会」のメンバーになってくれている)のヴィオラ・ダ・ガンバのデュオによる路上ライブを聴くべく下北沢に移動。だが、場所が分からない。「ガード下」ということだったので、ガード下に行ったみたがやってる気配はない。「ガード下」って一箇所かどうかもよくわからんし。よし、こうなったら長期戦だ、ガソリンを補充しよう。ということで、サイゼリヤにお一人様で入ってワインを一本近く飲んで、再びガード下へ。おおー、ちょうどこれから始まるところだ。だが、はたして屋外で聴くガンバってどうなのだろう。と思ったのはまったくの杞憂。すごい。よーく響いている。しかも音が街の雰囲気に合っている。これを聴けるのはラッキー。来てワインをたっぷり飲んで待ったかいがあった。二時間、たっぷり聴かせてもらいました。途中、多くの人々が足を止めてガンバに聴き入っていた。そんな中で、私とともに最後まで聞いていた人が一人。その方と私とガンバの二人の四人で記念写真を撮る。私、自分の写真はまず載せないんだけど、その写真はどっかにアップされるようだ。さて、ここからはワイドショー・ネタ。実は、こないだ「歌いまくる会」に神谷さんが加藤さんを連れてきたときから、われわれ下世話な連中の間でこの二人の関係について話題が集中していた。で、私が神谷さんへのメールで「神谷さんもスミにおけないね」と言ったらスルーされたことも話題にいっそう火をそそぐ結果となった。よし、この際だ、はっきりさせよう、ってんで、路上ライブの合間で「ねえねえ、二人の関係って怪しい関係?」と聞いてみた。誰もが聞きたいが誰も聞けないことをシラーっと聞き出すのが私である。そしたら「いやだ、いーじまさん、そんな目で見てたんですか?そんなわけあるはずないじゃないですか、もーっ(しかし、いーじま警部の執拗な尋問に対して)ここだけの話ですよ、誰にも言っちゃだめですよ、実はねー、あっもー、はずかしいー……」って展開にはならなかったのである。実際はこうである。「えー、そんな話になってるんですか?じゃあそれでいいですよー、(加藤さんに向いて)ねっ、いいよねっ、実名でブログに書いていいですよー。写真も載せていいですよー……」。これはどう解せばいいのだろう。こんなにあっけなく認められると逆にほんとかなーって思ってしまう。だからタイトルにには「発覚!?」とクエスチョンマークを付けたのである。でもまあ、ご本人がそうだとおっしゃってるんだから、そういうことにしておこう。

とうとう嬉しいときが来た(A先生の門下生の発表会)

2018-10-29 11:17:47 | 音楽
1/14のミサソレの会場決定。当初、公共施設を借りる予定だったが申込開始前に全室埋まっていることが判明したので、急遽一般の貸しホールを探して、西武線井荻駅近くのホールを借りました。近々、サイトをアップします。さて、昨日の午後は、ソプラノのA先生の門下生の発表会。合唱仲間のFさん(私の親世代。だから80をとうに超えられている)が歌うし、かわりばんこで伴奏を弾くピアニストの一人がS先生なもんだから、毎年聴きにきている。今年は、第1部がフィガロの結婚の抜粋、第2部がソロ・コーナー。やはりフィガロはいつ聴いても楽しい。コンサート形式で芝居はないのだが、生徒さんのなかには曲をよーく知ってらっしゃる方がいて、声で芝居をなさる。だから、椅子の覆いの中に隠れたケルビーノを伯爵が発見する場面など、思わず笑ってしまった。マルチェリーネは、まさにマルチェリーネって感じのお歳だったし(失礼!)。そんなこと言ったら数人いたスザンナの何人かはどちらかと言えばマルチェリーネだったが、新婚さんいらっしゃいにだって70代の新婦が登場する。実は、かねてから不安なことがあって、もし私が再婚したとして、お相手が新婚さんいらっしゃいに絶対出たいと言ったらどうしようということ。これ冗談です(真に受ける人もいるので念のため。そもそも再婚しません)。でも、終幕で焼き餅焼いてフィガロに暴行するスザンナにはもっと演技をしてほしかった。スザンナを演じたルチア・ポップは、このシーン激しかったよー。叩いて、蹴って、靴を投げつけて。いや、それより、もっと心残りだったのは、K子さん(=S先生)の出番が限られていたこと。もっと弾いてほしかった。あの「声に優しく寄り添う」ピアノでもっと聴きたかった。それでも、スザンナが最後に歌う「Giunse alfin」(とうとう嬉しいときがきた)のときK子さんがピアノの前に座ったときは「やったー」と思った。この歌の伴奏はK子さんでなければいけません。で、第2部では、FさんがA先生とオテロとデズデーモナのデュエットを歌うのも聴けて5時すぎにはお開き。思ったよりも早い。よし、下北沢で神谷さんがイケメンの加藤さんとガンバの路上ライブをやる、と言っていたから聞きに行こう(その話は稿を変えて。ワイドショーネタもあるよー)。

バタフライとバラの騎士(共通点は「バ」ではなく東淳子)

2018-10-28 08:35:33 | 音楽
菊川怜一人でも恥ずかしいのに、今度の○○○ルーペのCMでは、三人の女性が連続技でルーペをお尻で踏んづける。赤面ものである。さてバタフライの話を書いたので、その視聴の思い出を。日本が舞台なので公演の機会も多く、かなりの公演を観た。カーテンコールでは蝶々さんが正座して日本風の挨拶をするのも流行った。だが。正直に言うと、所作がしっかりしているけど声のない蝶々さんより、所作はでたらめだが声が素晴らしい蝶々さんが私は好きである(大体、声フェチである)。そんな中で印象に残った舞台を二つ。一つはシノーポリ&フィルハーモニア管が来日時にやったコンサート形式のもの。ヒロインはユリア・ヴァラディ。この人は何度も聞いたが好不調の幅が大きい。幸いなことにバタフライのときは絶好調で、それはそれは素晴らしかった。因みに、夫のフィッシャー・ディースカウが気むずかし屋なのに対して、ヴァラディはかなり開放的な性格らしく、夫が自宅でインタビューを受けている場に、シャワー上がりでバスローブをまいた姿で現れるんだそうだ。私もヴァラディのバスローブ姿を見たかった。もう一つは東淳子が蝶々さんを歌った公演。このビッグネームもそのときは既に晩年で(東さんは63歳で早世している)、「昔の名前で出ています」感が強いと思って聴いていたのだが、ところがどっこい、最終幕、自決を決意したちょっちょさんが息子との別れを歌うシーン、その劇的表現に息を呑んだ。「昔の名前」云々は完全に撤回。やはり長年培われた芸というのはすごいものだと思った。その東さんがFMで語られていたのだが、ドレスデンのオペラで「バラの騎士」のゾフィーを歌ったことがあるという。東さんといえば蝶々夫人、イタリア物を歌う方だと思っていたから以外だった。そのときの批評は「お人形さんのように可愛い」だったそうだ。ゾフィーって役を歌うと天にも昇る気分になる、ともおっしゃっていた。これは想像できる。東さんとは逆にドイツものを歌う歌手だと思っていたらイタリア系だった(あくまで私のイメージ)のが、中丸三千絵さん。最初に聴いたのは小澤征爾指揮の「エレクトラ」だった。豊田喜代美さんがエレクトラのはずが、キャンセルされて、中丸さんが代役で歌ったのだった。そのときの印象は「透明な声で、かっちりドイツ語のオペラを歌う人」だった。だから、後年、イタリアに留学されてイタリアオペラを歌う歌手として有名になられたときは意外だった。

涙のワケもいろいろ

2018-10-27 13:59:14 | 日記
今日の萬平さんの慟哭を見て多くの人がもらい泣きしたことだろう(朝ドラ。萬平さん=立花さん)。でも、考えてみると、もらい泣きした人のほとんどは萬平さんと同じ経験をしていない(萬平さんが泣いたのは、戦局危ういなか、自分が何の役にもたってないと感じたから)。きっかけは萬平さんだが、見てる方はそれぞれ別々のことを思い出して、例えば、上司に怒られたとか、異性問題でもめたとか、おやつを猫にとられたとか、肥だめに落ちたとか、いろんなことを思って泣いたのだろう。それにしても萬平さんを演じる長谷川博己は迫真の演技である。この人を最初に見たのはドラマ「セカンドバージン」。私、このドラマと「ガラスの家」がよくごっちゃになるのだが、はたしてどっちも脚本は大石静。この方は、男の俳優さんの見る目がとってもあって、この方が目をつけた俳優さんは必ず大成するんだと。ほかに、「ふたりっこ」の内野聖陽、「オードリー」の佐々木蔵之介とか。みんなひょろっと背が高いが、どの方も芝居がうまいからやはり大石さんには見る目があるのだろう。そうそう、さっきの二つのドラマに出てた女優さんは、「セカンドバージン」は鈴木京香と深キョン。深キョン演じる若妻が怖くて、それ以来、深キョン恐怖症である。そして「ガラスの家」は井川遥。「半分、青い」の菱本さん役もよかったなぁ。

カレーラスとティーレマン(ペトレンコのことも)

2018-10-27 06:32:54 | 音楽
グルベローヴァの会場でもらったちらしのうち2枚だけ残す。行こうとか言うんじゃなくてネタになりそうなので。まずカレーラス。まだ歌ってるんだ。って、ファンの人に怒られるね。私らがグルベローヴァを追っかけるのと同様、カレーラスにもおっかけファンが沢山いるだろう。で、歳は?おろ。グルベローヴァと同い年だ(ってことは私と干支が同じだ)。この歳でテナーを歌ってるってがんばってる方だろうね。「三大テナー」のうちパヴァロッティは鬼籍に入っちゃたし、ドミンゴはバリトンに戻ったし。もう1枚、気になったちらし。ティーレマン。こっちは現役ばりばりの指揮者だが、その写真が興味深い。この人の指揮はどじょうすくいのようなのだが(下からえっちらほい、とほりあげるような指揮)、写真からはけっしてどじょうすくいだとは分からない(いや、どじょうすくいではないのだが)。いい瞬間を撮っている。それでも、手の指でわっかを作っているのがなんだか銭勘定をしている風である。いや、念のために言っとくが、私はティーレマンのファンである。ティーレマンのバイロイトでのリングは素晴らしかった。因みに、ティーレマンの後にバイロイトでリングを振ってるのがキリル・ペトレンコ。そう、ベルリン・フィルの新しいシェフである。世の中的には、この人がベルリン・フィルの時期首席指揮者に決まったとき「それ誰?」だったらしいが、私は大いに納得であった。バイロイトのリングの指揮が衝撃的だったから。

バタフライとシュッツ

2018-10-26 09:02:09 | 音楽

昨日は満月だったんだと。なるほど、ひときわ黄色が強かった。ところで(月とは全然関係ないが)、グルベローヴァがアンコールで歌ったバタフライの登場シーンの冒頭は、全音ずつ調が上がって行く。それがぞくぞくさせるのだが、それにしても、あまりに転調を繰り返すので(これでもかって感じ)、家に帰ってから何回転調したか確認した。すると、♭ラーソー♭ミファー(変イ長調)、♭シーラーファソー(変ロ長調)、ドーシーソラー(ハ長調。まだまだ)、レー♯ドーラシー(ニ長調。もっともっと)、ミー♯レーシ♯ドー(ホ長調。もう一声)、♭ソーーー……変ト長調。ようやくおさまって、ここからめくるめく歌の始まり。同じ段差の階段を五つ昇って踊り場に着く感じである。おっ、そう言えば、シュッツの「Das ist je gewißlich wahr」に、主音がドレミファソって音階に沿って転調する部分があった。シュッツならではだね、近代にはないよね、とか言っていたが、主音が全音で上がる点はバタフライも同じである……いや、シュッツはドレミファソだが(途中に半音が入る)、バタフライの主音の上がりは(♭ラをドに置き換えると)ドレミ♯ファ♯ソ。全部全音。こっちの方が、より「どっかへ行っちゃう感」が強い。グルベローヴァに戻る。この3年間でプッチーニを初めて聴かせてくれた、と書いたが、それどころではない、おととしは、アンコールでなんとヴァーグナーを歌ったっけ(タンホイザーのエリーザベト)。その後はなかったけど。

泣き笑い(グルベローヴァのラスト・コンサート)

2018-10-25 08:54:27 | 音楽

グルベローヴァが初来日したのは1980年、ウィーン国立歌劇場の引越公演だった。ツェルビネッタとコンスタンツェを歌って聴衆のどぎもを抜いた公演は伝説と化したが、私は大学4年の就活の年で行けなかった。初めて生で聴いたのは1986年の二度目の来日時。ソロ・コンサートだった。レコードで聴いていて、あまりにすごくて、これ現実?と思っていたら、生の歌はレコードよりすごくて、それからは来日公演はほぼ逃さず。2012年に「最後の公演」があったのだが、おととし日本公演再開。そのときから3年連続来日して今回、二度目の「ラスト・コンサート」である。場所はミューザ川崎。3年間ずっとエスコートしてきたヴァレントヴィチのピアノ伴奏(私は、今回の復活劇は、この若い才能を世に広めるためだったと見ている)。ひとことで言うと「心に沁みる歌」であった。しょっぱなは「ジュリオ・チェーザレ」のアリア。この日の公演全体を表すかのように、静かに始まって静かに終わる。そしてリヒャルト・シュトラウスのリートを6曲。これが絶品。こんなに遅くて、静かで、心に沁みる「献呈」は初めて。私はこの時点で既にうるうるである。第1部の最後は「春の声」。これとてテクニックだけではない味わいに満ちた歌だった。第2部はオペラ・アリア。その皮切りは「今の歌声は」(ロッシーニのセビリャの理髪師より)。これこそは、私が1986年に最初に聴いたグルベローヴァの生歌である。あのときはオケ伴で、オケが入ると普通は第1曲がオケの曲だったりするのだが、コンサートのしょっぱなもしょっぱな、いきなり出てきて「♪ウーナ・ヴォーチェ・ポーコ・ファ」とそろーっと入ったと思ったら次の瞬間(おー、当時を思い出して私は興奮している)、目がくらむような声の花火が打ち上がり、その数分のレチタティーヴォで私はすっかりKOされたのであった。気がつくと手がびっしょり。手に汗握るとはこのこと。そのアリアをラスト・コンサートで聴くというのは感慨無量である。そりゃー、あのときと同じというわけにはいかない。あっ、ここは、あんときはもっと装飾が付いたよな、もう一つ高いとこまで行ったよなとかは思ったが、その美声は当時のまま。手に汗握る歌から心に沁みる歌に変わったのだ、と思って拍手をしたらべとべと。なんだ、やはり手に汗を握っていた。次は「異国の女」(ベッリーニ)からアリア、で、ヴァレントヴィチのピアノ・ソロがあって、プログラムの最後は「オフェーリアの狂乱の場」(トーマのハムレットより)。これも1986年に生で聴いた曲である。さて、アンコールで何を歌ってくれるのか?ピアノが幽玄な響きを奏でる。おおおっ、「バタフライ」だ。第1幕の登場シーンで歌われる歌。グルベローヴァはずっとプッチーニを歌ってこなかったが、おととしのアンコールで「私のお父さん」(ジャンニ・スキッキ)を歌って、去年はリュー(トゥーランドット)、そしてことしが蝶々さん。グルベローヴァのプッチーニを聴けたのはこの3年間の収穫の一つである。それにしても、同じちょっちょさんでも「ある晴れた日」ではない今回の選曲に心からありがとうと言いたい。アンコール二曲目は「カディスの娘たち」(ドリーブ)。そして3曲目。おどろおどろしいピアノのイントロで人を欺いておいて始まったのはアデーレ!(「こうもり」の「Mein Herr Marquis」)。グルベローヴァのコメディエンヌぶりに大笑いしながら、35年間、毎回アンコールはアデーレだったことを思って泣けてくる。泣き笑いのラスト・ソングであった。実は、私、今回アンコールでツェルビネッタを歌ってくれるのではないかと秘かに期待していた。ピアノがあるし。その夢はかなわなかった。いい。次に期待しよう。え?今回がラスト・コンサートだって?うんにゃ、以前も「最後」と言っててまた来てくれた。二度あることは三度ある。グルベローヴァには年中「閉店大売り出し」をする洋服屋さんになってもらおう。別の若い才能を見つけたら絶対来てくれるって!

横濱ラーメン(の・ようなもの)

2018-10-24 10:19:42 | 音楽

私が行く横濱ラーメンは、海苔が3枚大きなまつげのように刺さっているのが特徴。これを真似してみた。その似ても似つかなさ加減は、スペインかどっかだっけ、イエスの肖像画をとある高齢のご婦人が修復と言いつつまるで違う絵にしてしまった、その絵のようである。因みに、その教会は、いまや観光名所と化していて、多くの人々が巡礼(?)に訪れているそうだ。因みに、「の・ようなもの」という映画は、見たことがあると思うのだが、中身はまるで覚えてない。今ググってみたら、秋吉久美子が出てて、落語家やお笑いがたくさん出てて、現在の円楽師匠が「楽太郎」で、関根勤さんが「ラビット関根」でなかなか面白そうである。

なんとかなるという気持ち(歌もクラも)

2018-10-24 08:37:56 | 音楽
こないだの日曜日の夜も歌の会。前日も前々日も歌って飲んで、特に前日はアフターでかなりくだをまいたので日曜日は声ががらがら。しかもこの日は人がいなくてテナーを歌う(カウンター・テナーよりテナーの方が咽の状態がストレートに響く)。でもなんとかなるだろうと思って歌ってたらどんどん声が出てきた。これが最近の傾向である。昔はそうではなかった。あ、今日はダメだ、と思うともうダメ。例えば、合唱団のコンサートでソロとか与えられたらそりゃもう神経質になって、コンサート直前は飲まなかったりして、そんなことをしていていながら当日のコンディションは最悪、と思うと結果も最悪で、「なんで私にソロなんか歌わせるんだ」と指揮者を恨む始末。でも今は違う。ソロを歌えと言われれば大喜びでいくらでも歌う(A合唱団ではエヴァンゲリストだってやる)。何が変わったのだろう。今は声が出なさそうでも歌ってるうちになんとかなる、と思っている。クラリネットもそうだ。昔はリードに神経質で、ひと箱に10枚入っているリードのこれもダメあれもダメで使えるのは1枚くらい。しかもその1枚にだって不信感たらたらで、ちょっとビヒャーって音がするとすぐリードのせいにして新品を買いに行ったもの。ところが、今40年ぶりにクラリネットを吹いているのだが、リードを選ぼうと思って1枚ずつ試すとどれも鳴る。へたをすると10枚が10枚、全部使えそうないきおいである。製法がよくなって不良品が減ったのかとも思ったが、こちらの気持ちもだいぶ変わっていて、どんなリードでもなんとかなるんじゃないか、と思っている。この「なんとかなる」が歌にもクラにも共通の最近の私の精神状態である。これがよいのだと思う。「なんとかなる」と思ってればなんとかなるものだ。こういう考え方は、A合唱団をはじめとする、この10年の間に参加した団体の中で培われた。だって先輩達、へこたれないもんねー。

きんぴら

2018-10-23 08:44:56 | グルメ

そっか。万平さんは憲兵から受けた暴行の後遺症で、夜のお勤めを十分に果たせないらしい(朝ドラの「まんぷく」)。ひどい話だ。日本国憲法には被疑者、被告人の人権規定が今の目からみると過剰と思えるくらい詳細にあるが、こういう歴史が背景にあったと思うと納得である。そんな万平さんに優しく寄り添う福子も安藤サクラなら、「万引き家族」でぞくっとするような濡れ場を演じたのも安藤サクラである(映画館で見ててどきどきした)。話は今朝の朝ドラから昨夜の夕食に遡る。サツマイモと豚バラ肉のきんぴらを作ってみた。これはNHKの「今日の料理」でやっていたのをK子さんが実践したらなかなかよかったと言うのでその真似をしたのである。まあまあの味だった。「まあまあ」どまりなのは私の料理の腕のせいである。和食の料理の経験はほとんどないし。なんてったって「きんぴら」はゴボウ・オンリーと思っていたくらいである。それでも日本酒にはよく合った。今朝、ゴミ出しから戻って家に入ると家中にまだその香りが漂っていた。それにしてもサツマイモを包丁で切ったのは初めてだがその硬いこと。包丁研ぎをさぼっているからなおさらである。と思っていたら、今朝のあさいちで、カボチャを楽に切る方法というのをやっていた。菜箸で穴を開けてそこを支点にして切ればよいという。これはサツマイモに応用できるかもしれない。そうそう、写真をチェックして思い出した。ご飯はもらいもののレトルト。なんと、普段炊いて食べてるご飯よりずっと旨かった。追記。早速実験。サツマイモに菜箸で穴を開けて(あまり深い穴は開かない)、そこを支点にして包丁をいれると、あらびっくり、ほんとに楽に切れたわ。

若返り

2018-10-22 10:04:25 | 日記
結婚しました!福子と立花さん!「福子」「万平さん」と呼び合う様は、まるで(フィデリオの)レオノーレとフローレスタンである。恵さんも白馬にまたがった歯医者さんと結婚したし。めでたしめでたし(朝ドラ。この後苦難の道が待っているらしいが)。ということで本題。近所のワイン・ショップではもちろんワインも買うのだが、身の上話をすることが多い。で、こないだ行ったら店主さんが私に「若くなった」と言う。そんなはずはない。たしかにそう言われた時期もあったが、2,3年前にがくっときて、「歳相応になったね」と言われたらますますがくっときて今に至る、のはずである。だが「たしかに若くなった」と言う。ふむ。思い当たること。ここ数年、ぼちぼち引退して、閉門蟄居して(意味が違う)、「余生」をどうやってちまちま暮らそうかなどといった後ろ向きのことばかり考えていた。が、最近になって、カンレキになったらハタチになって(変な日本語)、もう一回ばりばり働いて稼ぐぞと思うようになった。そこんとこの気持ちの変化が現れたのかもしれない。何事も気の持ちようである。因みに、そうした気持ちの変化を私にもたらしたのは「半分、青い」の例のキスシーンである。私にとって朝ドラは人生の指針である。いや待て。そもそも「若くなった」は店主さんのセールストークではないか?かもしれない。しかし「信ずる者は救われる」である。信じて救われたのなら決して(どれどれどのくらい若くなったか確かめてみようなどと思って)鏡を見てはいけない。奈落に落ちる。そう言えば、ファウストはメフィストフェレスの魔法で若返るのだった。原書を読み始めて早速中断したためまだ若返ってないのだが。

泣いた(ヨハネ受難曲の通唱会)

2018-10-21 08:27:52 | 音楽
泣いた。ヨハネ受難曲の終曲コラール(通唱会)。まるで、紅白初出場、感極まって泣いてしまったけどがんばって最後まで歌いましたの図である。だいたい曲がずるい。復活した魂が大いなる喜びのうちに主を賛美するという歌詞の内容がすでに泣けるというのにそれに付けられた音が奇跡的である(いや、奇跡ではなく現実なのだが)。N川先生の気合いの入った指揮(通唱会らしくない)も感動の大きな要因だった。この日、合唱とソロは例によってアルトで、他のソロ・パートは大人しくしてようと思っていたが、だいたい、飲み会で今日は控えようと思っても絶対そうならないのと同じでやはり男声のソロ・パートもそそられるまま歌いました。そういえば、始まる前の設営で女性が持つのに難儀していた板をひょいと持ち上げたら「いーじまさんも男だったんだ」と言われた。ばれました?はい、男です。オオカミにもなります!たっぷり歌ってたくさん感動して、そのまま「シュッツを歌う会」へ。電車内は同じく「次の現場」に向かう仲間であふれていた。で、「シュッツ」に着くと、そこにいたのは別の「現場」から流れてきた人ばかり。週末はかけもちが当たり前。で、ここでも3時間たっぷり歌ってエネルギーの残量はゼロ。その後、最近よく行くビストロでとっぷりとガソリン(!)を補充したら復活し(ヨハネの終曲と同じだ!)、いつものようにクダをまきまくって、もっと大人にならなきゃ(いくつだ!?)と反省しつつ一人で店に入って横濱ラーメンを食した私であった。