拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

赤いマフラーの謎(サイボーグ009)

2018-01-31 09:16:57 | 日記

そういえばパーマンには3号がいて、女子だった。するとパー子?はたしてそうであった。林家以外にパー子が存在したのだ。ところで「真っ赤なマントをひるがえし」とパーマン第1作の主題歌を歌っていて、他に赤いマントをひるがえしていたのは誰だっけ、と考えた。本家スーパーマン、それからサイボーグ009……まてよ、あっちは「赤いマフラー」だ。でもマフラーにしては大きすぎないかい?さらに、実は赤くなかった、黄色だったというコメントもいただいた。論点は絞られた。その1。009がはおっていたのはマフラーかマントか?(私が中学の文化祭でリゴレットを演じたときにはおっていたのは家のカーテン)その2。色は赤か黄色か?疑義が生じたら原典をあたろう(バッハやシュッツの歌詞で疑問が湧いたときも、ルターの1545年版聖書に答えがあったりする)。子供の頃買った「サイボーグ009第2巻」(写真上部にはなにごとだと様子を見に来たケメ子がちらっと写っている)。一目して分かるのは色。ほんとだ!黄色い!服が赤なのと「赤いマフラー」の歌詞ですっかりだまされていた。もう一つ、マントかマフラーか。マントははおる物、マフラーは首にまく物とすれば首にまいてるから、これはマフラーでよいようだ。でもでかすぎないかい?いや、貴乃花親方のマフラーだってでかい。でかいマフラーは時代を超えて存在する。これで二つの疑義は解消した。009がだらだらさせていたのは「黄色いマフラー」であった。そうすると、次の疑義がわいてくる。なぜ、主題歌が「赤いマフラー」なのだ?この歌詞はテレビアニメ(第1作)で歌われたのだが、実は、その前のアニメ映画版から引き継がれたものであることは知っている。そのあたりをふまえて調べた。分かった。映画版を作るとき、かなり設定の変更が行われた。009の服だけ白いし、目は髪に隠れてない(両眼とも描かれている)。そうした中、マフラーの色も赤に変更されたそうだ。で、よりマフラーらしく小さくなっている。それを踏まえた主題歌であった。その後、テレビ版を制作するとき、設定をかなり原作に戻したのだが、主題歌だけは昔のまま残ったというわけだ。ガッテン!因みに、009の単行本で最初に買ったのは写真をアップした第2巻。当時3巻まで出ていて、友達三人で買いに行って分担して買った結果だ。第4巻から第8巻までは出るたびに買っていた。その後、全巻揃ったのは大人になって(気分は子供のままだが)大人買いした結果。10年前くらいのことである。

パーマンとオバQの飛行速度

2018-01-30 16:12:21 | 音楽
こないだの通唱会の打上げで新旧激突となったパーマンの歌。私が属する旧世代が愛唱する方はローテンポでパーマンの情報がほどよく入っている。それを見ていこう(括弧内は注釈)。まず、パーマンは真っ赤なマントをつけている(本家のスーパーマンも真っ赤なマントをつけている)。飛行速度は91キロ(普通の飛行機は300キロ近く出さないと離陸できないという)。パーマン2号という相棒がいる(2号は猿である)。「くるりのぱ」と旋回する(ダチョウ倶楽部の上島さんの芸は「くるりんぱ」)。この後、歌は「パピプペパピプペパピプペパーマン」と歌って締める(単にアイウエオだけを言うところは「スーパースリー」と同じ。♪ラリホーラリホーラリルレロ)。私の記憶が正しければ(私の記憶が正しければこの台詞は「料理の鉄人」の台詞だ)、パーマン(旧)の前に同じ時間帯で放送されていたのは「おばけのQ太郎」であった(調べたら、この記憶は正しかった)。こっちもその後リメイクされ、そのアップテンポの主題歌も少しは歌えるが、心に強く残っているのは第1作(そう言えば、オバQはこないだの打上げでは出なかった)。歌っているのは石川進さん。♪キュー、キュー、キュー(チャンチャ、チャンチャチャン)おーばーけーのキュー(チャンチャン)。この曲もオバQの情報がつまっている。頭のてっぺんに毛が三本生えている(チビ太の頭には毛が一本)。「だけどもボクは飛べるんだ」(おっ、パーマンと同じだ)。8キロ、10キロ、50キロ(パーマンの91キロより遅い。だから歌も一層ローテンポだ)。一休みしようと着地すると犬がいて、「あらこわいー、キャー」(なんで女言葉になるのだろう)。で、「ボクは犬には弱いんだーあ、弱いんだ」でおしまい。しかし、パーマンにしてもオバQにしても第1作の主題歌のなんとローテンポなこと!私が育った時代はかようにゆったりとした時代であった。(緊急予告。この記事を書いている途中で、サイボーグ009についての重大な疑義を発見。次回の記事を乞うご期待!)

ウイウイウイ~I wanna do it

2018-01-30 09:14:50 | 言葉
今朝のアサイチにフランス人パティシエと共に登場した通訳さんの表情が豊かで、まるでご本人のようであった。どこがかなー、と思ったら分かった、言葉の最後に「よー」「ねー」を付けるからだ。逆方向の通訳もしかりで、イノッチが(言われた味が)「きたー、きたー」と言ったのを「ウイウイウイ」と訳していた(ウイが一個多い……とかそういう問題ではありませんね)。そういえば、昔、トルシエ監督についた通訳さんも、トルシエさんと動作まで同じで、トルシエさんが叫べば通訳も叫ぶという熱血ぶりであった。さて、ここからR12指定(閲覧やや注意)。昨日、「喧嘩はすな」という記事を書いたと思ったら、夜BSで放送された映画が「31年目の夫婦喧嘩」。Mストリープ演じる奥さんとTLジョーンズ演じる亭主が倦怠期を乗り切るべくカウンセラーにかかる話。冒頭、Mストリープが亭主の寝室に入ってなんかぼそぼそ言っている。字幕には「したいの」と出ているが、聞き取れない。もっと、大きな声ではっきり言ってよ……ってそういう台詞ではないことはよく分かっているが悔しい。また言って。今度は聞き取るから。で、そればかりを期待して見続けること数十分。きたーっ。今度は聞き取れました。"I wanna do it" やはり「it」なんだねー。もしここで亭主が「『それ』ってなんだよー」とか言ったらこの夫婦は終わりを迎えたであろう。因みに、このときの字幕が「やりたい」。ふむ。あるときは「したいの」、あるときは「やりたい」。このへんの違いの意味を訳者に聞いてみたい。で、物語は、紆余曲折を経ながら最後は再びラブラブカップルとなった夫婦が二回目の結婚式を挙げてみなに祝福されて終わる。なーんだ。私はてっきりMストリープが出て行っちゃうんだと思ってた。あるいは、途中で「it」を試みる場面で、TLジョーンズが真っ赤な顔をしてて、そのとき○○死するのかと思った(観てる人の性格の悪さが如実に表れる)。最後に一つ思ったこと。中盤で、Mストリープがやけ酒を飲んでると話に付き合っていた店員が店内の客に「セックスレスの人~」と手を挙げさせる。すると少なからぬ人数がはーいと手を挙げた。そうなんだ。これまで、欧米の亭主は「毎晩」奥さんに奉仕をする。それに引換え、日本人の男のだらしのないことといったら、という話をやまほど聞いてきた。全然そうじゃないじゃん。あの話は誰が言ったんだ、まったく(と私が怒る必要性はまったくないが)。

ジョージア・ワインが飲みたいな(栃ノ心、ジェシー・ノーマン、焼き鳥)

2018-01-29 19:48:41 | 音楽
優勝した栃ノ心はジョージア(以前はグルジアと言われていた)出身。ジョージアは実はワイン発祥の地。だけど日本の市場にはほとんど出回ってない。私も飲んだことがない。ジョージア・ワインが飲みたいな。ジョージアといえばもう一つ。焼き鳥。ジョージアの焼き鳥が美味しいかどうかは知らない。それはこういうことだ。名ソプラノのジェシー・ノーマンは、アメリカのジョージア州出身。そのジェシー・ノーマンが来日したときに食べた焼き鳥の数が半端ではなかったという記事が雑誌に載った。それ以来、私の脳内に、ジョージア=焼き鳥の構図ができあがったのだった。そういえば、ジェシー・ノーマンは今はどうしてるのだろう。ジェシー・ノーマンがアリアドネを歌ったときのツェルビエッタ、キャスリーン・バトルは最近来日したそうだが。

喧嘩はすな、仲良うせい!

2018-01-29 10:27:03 | 音楽
某会に新しい方が三名。お一人は高校の後輩。お二人(ご夫婦)は大学の合唱団の後輩。偶然。世間は狭い(といういつもの台詞をまた言う)。私はカンレキを前にしてまだ子供気分が抜けないので、彼らの2,3歳上の兄貴分の気分(韻を踏んだ)。だが、よーく考えたら、2,3歳上ではなく2,30歳上であった(ようく考えなくてもすぐ分かる厳然たる事実。兄貴分ではなく父世代だ。下手するとじーさん世代だ)。だが、気分は2,3歳上のままだから、とてもじゃないが、人生訓らしきことを言えるご身分ではない(もし、なんか言って「ははー、ためになりました」なんて言われたらもう人生終わりだと思う)。だが、こうした仲麗しい若夫婦をみると、どうしても「今を忘れないで、いつまでも仲良くね」と言いたくなる。で、言ったわけだが、すぐさまそばにいた某お姉様に「お前が言うか!?」とたしなめられる(ちょっと作りました。やさしい某お姉様はこんな言い方は決してなさりません)。いや、たしかに、この若夫婦は2,30歳下でも私よりよっぽど人間ができている。言わずもがなだ。撤回します。因みに、私がだーいすきな朝ドラ「ちりとてちん」で私が最高に好きな台詞は、主人公の親友のでき婚をその父親(焼き鯖屋の主人)が認める際に発する言葉=「喧嘩はすな、仲良うせい!」。この回が放送された日は朝から晩まで4回観てその都度涙腺崩壊であった(このドラマは落語(と塗り箸)がテーマになっていて、父親のこの台詞は喧嘩の仲裁が趣味の男を描いた落語(胴乱の幸助)が伏線になっている。あっぱれとしかいいようのない脚本であった)。

丸焼けの白鳥になって幸せ(カルミナブラーナの通唱会)

2018-01-28 10:11:01 | 音楽

通唱会の出席率はかなり良い方だと思うのだが、カルミナブラーナの通唱会は参加したことがなかった。楽譜を持ってなかったので。だが、今回直前にお誘いいただき楽譜の購入を決意。イギリスからの取り寄せで間に合うかやきもきしたが、1週間前に手元に来た。で、いよいよ開会。「Gott」や「Jesu」の出てこない「もろ世俗」の世界は久々。その荒々しさを十分堪能した。思えばこの曲を初めて聴いたのは35年前。レコードでも聴いたことがなく、いきなりN響のコンサートで。そのコンサートは、私が「生ルチア・ポップ」の初体験の場であり、最後の方のいきなり高い音に飛ぶソプラノのソロ、ポップの妙技に心を奪われたのだが、同じく印象的だったのが小林一男さんの歌うテナーのソロ。やたらに高い音のファルセットが絶望的に聞こえたと思ったら、あれは焼かれて食卓に提供される白鳥自身の歌だった(絶望的に聞こえたのは当然であった)。まさか、その歌を歌う機会が来るとは思ってもいなかった。大喜びで丸焼けの白鳥になった通唱会であった。休憩をはさんで後半は、ルネサンスの世俗曲を何曲か。私の合唱のルーツはこういうところだったんだな、と改めて。そのまま宴会に突入し、いつしかアニメソングの合唱大会となったのだが、例えばパーマンを「真っ赤なマントをひるがえし」と歌う私が属する世代と、聴いたことのない歌詞で歌う世代の勢力争いになった感じがして(なかには、どちらの世代の歌も歌える強者もいた)、で、オランダ船の幽霊水夫がダーラントの水夫を歌で圧倒したごとく、後者の世代の寄り切り勝ちの印象であった(本当に寄り切りで勝って優勝したのは栃ノ心であった)。会場は主催者個人のお宅。駅から高台に登っていくあたりは雪も残っていて空気がきれい。宴会のお料理も主催者さんの手作りで、なにからなにまでお世話になった。ありがとうございました。楽譜も買ったから来年以降も参加します。よろしくお願い申し上げます。

愛人一人、猫二人

2018-01-27 09:05:50 | 日記
練習の帰り、某姐さんが元宮崎県知事が詠んだ俳句を紹介して下さり、私に感想を尋ねられる。雪の中、主人の棺を追う犬の情景を詠んだものなのだが、正直よく分からない。家に帰ってあらためてその俳句をググって見てみたが、やはりよく分からない。言葉のせいだ。「攫う」と「しまく」は私にとって難しすぎた。やはり言葉の意味は重要。歌だってそうだ。私がドイツ語を勉強したのは、ドイツオペラを十分に堪能したかったから。それが今はバッハやシュッツを歌うのに役立っている。ところで、姐さんはその句が親一人猫一人のご自身の境遇と重なっていたく感動されたそうで、で、やはり親一人猫二人の私だったら感動を共有できるのではないかと思われたそうだが、すみません、詩心がないことがばれてしまった(それに、私としては、愛人一人猫二人だと思っている)。それにしても、親一人、猫(犬)一人又は二人というウチが結構ある。昨日、徹子の部屋に出てきた渡鬼のタキさん(役の野村昭子さん)は91歳におなりだそうだが、犬をかかえて登場された(その犬がタキさんの元気の源なのだそうだ)。そういう方達は、いざ自分にもしものことがあったときのことを考えているに違いない。私だって、詩心はないが、そういう心配はしていて、私になにかあったときにお嬢達を託す人を確保してある。そうだ、仲間内でそういうネットワークを作っておくのもよいかもしれない。

寝癖(サイボーグ009の髪をポマードで固めると鉄腕アトムになる件)

2018-01-26 11:47:22 | 日記

よく寝癖がつくのだが、今朝のはまたひどい。どうやったら直るのだろう。整髪料とかは絶対嫌だし。この時期、水をつけるのは寒いし。某合唱団のみなさん、寝癖がとれたら練習に行きます(停止条件付意思表示)。ところで、頭髪のてっぺんと横が立ってると言ったらサイボーグ009。あの髪型は寝癖なのだろうか?それをポマードかなんかでがっちり固めると鉄腕アトムになる。

赤味噌

2018-01-25 11:49:30 | グルメ

昔、登記申請は直接法務局に出頭してしなければならなかった。だから、たまに新幹線で行くような地方の仕事が入ると一日がかりになった。この季節、名古屋の先、長いトンネルを抜けると真っ白な伊吹山(だと思ってるのだが)が見えて、なかなかの眺めであった。で、昼頃仕事が終わるともうすることがないから、お城(があれば)を見て、名物料理を食べて帰ってきた(秘かな楽しみであった。今ではインターネットで申請ができるぐらいであるから、出頭の必要はなくなった。楽しみが減った)。名古屋に行った時は、一回目は味噌煮込みうどん、二回目は味噌カツを食べたのだが、これが美味で、是非また食べたいと願っているのだがその後名古屋に行く機会がなかったところ、昨日の「ガッテン」で、赤味噌の特集をしていた。そうだ、名古屋に行かなくても赤味噌を買って自分で作ればいいのだ。ということで、早速スーパーで物色。「赤だし八丁味噌」というのを買ったのだが、縮めれば「赤味噌」になるからこれで良いのだろう。原材料が豆だけで米が入ってないし(その意味では、ドイツで厳格なビール法のもとで作られるビールと重なるところがある)。

名無し

2018-01-25 11:00:32 | 音楽

今朝は冷えました。さて。胡椒入れに白胡椒を入れ、胡椒挽きに黒胡椒を入れる。こうした作業も「名前のない家事」(炊事、洗濯、掃除といった名前の付いてない家事)なのだろうか。それとも炊事の準備作業ということで炊事に入るのだろうか。「名前のない」で思い出すのは、多くの音楽ファンは「題無し」とあだ名するあの番組であろうが、私はベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」。妻レオノーレによってフローレスタンが救出されたとき、二人して「O!Namenlose Freude」と歌う。直訳すると「名前のない喜び」だが、こんな訳をしたら笑われる。「言いようのない喜び」といったとこだろう。高校生の頃、このデュエットを聴いて色っぽいなーと思ったが、少し(?)年を重ねた今は、ドイツ人の女性は激しいなぁ、これじゃぁとっても太刀打ちできないや、とドイツ人の彼女がいるわけでもないのに思う私である。同じ感想を持つのが映画「ブリキの太鼓」の1シーン。不倫する二人が部屋に入るなり脱兎のごとく脱衣してからまる(頭韻を踏んだ?)。その脱ぎっぷりの速さは、まるで一刻を争うトイレの前のよう。激しいなぁ、と思う。そう言えば、私、日本では、ナンパをしたこともされたことも一回もないが、ドイツでフライブルク行きの新幹線に乗って立ってたら、赤ん坊連れのドイツ人女性が私においでおいでをして自分の隣の空席に座らせてくれた。で、ひとしきりお話をして、フライブルクで降りようとしたら、紙にさっと自分ちの電話番号を書いて私によこした。人生で初めてナンパされた瞬間であった。20年前の話である。

「ボクと結婚して下さい!」

2018-01-24 17:32:09 | 
(承前)ラッソも真っ青なマイケル・ジャクソンであるが、しかし「マイケル」と聞いて日本人の猫好きがまっさきに思い浮かべるのはジャクソンではなく猫。そう言えば、昨日、ブログを書きながら、私は「What's Michael?」のあるエピソードを思い出していた。それはこういう話。発情したニャジラ(雌猫)が町中にフェロモンをまき散らす。それに誘われた雄猫たちがフェロモンを発する元を探してたどりついたのがニャジラ。雄猫たちはおじけづく。だが、雄には選択権はない。一匹が目をつぶってニャジラに飛びかかるもニャジラの片手のパンチ一発で遠くにふっとばされる(ニャジラは雄猫よりよほど強い。その意味ではジェンティルドンナと双璧)。その吹っ飛ばされた雄猫がニャジラに飛びかかるときに叫ぶ言葉が「ニャジラさん、僕と結婚して下さい」。昨日のブログに、パパゲーノとパパゲーナを念頭に「結婚しなくても子供はできる」と書いた。そのときの私の頭の中は、結婚=届出であった。しかし、件の哀れな雄猫にとっては、結婚=子作り行為のようである。考えてみれば、人間だってその長い歴史の中で婚姻届なんて制度が登場するのはごくごく最近のこと。雄猫の叫びの方が正しいのかもしれない。因みに、前記のエピソードは、ニャジラが産んだ仔猫たちがいい家の箱入り息子(猫)と同じ模様で、その家の奥さんが「よりによってなんであんな女と」と箱入り息子をなじって終わる。「What's Michael?」を初めて読んだのは電車の中。始めの2,3ページを読んですぐ本を閉じた。そのまま読んでいたら車内で爆笑するのが明らかだったからだ。

私の魂は死ぬほど悲しい(ラッソの銅像はマイケルの写真だらけ)

2018-01-24 15:44:07 | 音楽
街歩きの番組を見てたらミュンヘンにマイケル・ジャクソンが生前定宿にしていたホテルがあって、その辺りがファンの巡礼地になっている。そこに立っている立派な銅像の台座もマイケルの写真だらけ。まるでマイケルの銅像のようだがそうではない。その主は、誰あろう、ルネサンス後期の大作曲家、オルランド・ディ・ラッソであった。なるほど、ラッソはミュンヘンの宮廷で活躍した人だからな。しかし、インタビューを受けていた街の人も、マイケルのファンではあるが、銅像の主のことはまったく知らないと言う。哀れ、ラッソ。名曲「Tristis est anima mea」(私の魂は死ぬほどに悲しい)は、ラッソ自身のためにあるかのよう。