拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

ちんどん屋様、おみそれいたしました/「題なし」で蝶々夫人を歌ったコメディエンヌ/11PMでハイFを出したバラドル

2021-05-31 11:55:51 | 音楽
ある報道番組のフリをしたヴァラエティでは、IOCのバッハ会長の話題のとき必ずBGMにJSバッハの無伴奏チェロ組曲を流す。その意味に気づく視聴者は100人中一人いるかいないかだろうが音声係は満足だろう。そうした自己満足は当ブログにも共通するものである。さて。久々に「題名のない音楽会」を見た。クラリネット特集で、クラシック、ジャズ、元チンドン屋の三人のクラリネット奏者が登場。どなたもすごい。このうち、クラシックの方は、私より無限大にお上手だが想定範囲内。これに対し、ジャズの方のあの奏法はちょっとやそっとでは真似できない。クラシックの方も、こういう吹き方をすると先生に叱られる、と言いながら真似をしようとしてすぐやめられた。無理と悟ったらしい。さらに、元チンドン屋さんときたら!おみそれいたしました。チンドン屋はこぶしが命なのだそうだ。実は私、第二の人生……いや、何度も人生が転換しているから第いくつの人生になるのだろうか……とにかく、今の仕事をやめた後はチンドン屋さんになるのが夢だった。しかし、とてもじゃないがあーは吹けない。因みに、この元チンドン屋さんは、独学……ってことは音大はもちろん、先生につかないでってことだろう、この道を究めた方で、東欧のユダヤ音楽なども研究されたそうである(以後、この方を「師匠」とお呼びする)。興味深かったのは各奏者のリードの固さ。リードは数字が大きいほど硬くなるのだが、クラシックの方が3半。あれ、私と同じだ。もっと硬い、4とかをお使いなのかと思った(高校生のとき見学に行った警察関係の音楽隊のおじさま方は4をお使いだった。3半だと薄くてピーピー言っちゃうんだよー、とおっしゃってた)。ジャズの方は2半。かなり薄い。そして、師匠は3。実は、私は高校でクラリネットを始めた頃から3半だった。リードは厚ければ厚いほど音がいい、というのが所属していた吹奏楽部における「神話」だったからだ。しかし、初心者で3半は厚い。今ふりかえると、私はかなり無理をしたと思う。無理は禁物である。だから、近年、クラリネットを再開する際は2半から始めた。だが、「三つ子の魂百まで」。吹いているうちにあっと言う間に3半に戻ってしまい、最近では4の方がいいかな、と思うことさえある。さて、「題名のない音楽会」と言えば、私などは黛敏郎さんのイメージが強い。山本直純さん司会のくだけた「オーケストラはやってきた」に対して、黛敏郎さんの「題名」(最近の人は「題なし」と言うそうだが、私は言い慣れてない。同様に、多くの人は「Der Rosenkavalier」を「ばらきし」と言っているが、言い慣れないし、豚のバラ肉みたいだから、私はあくまでも「の」をいれて「バラの騎士」と言う)はアカデミックだった。だから、山田邦子さんのことも「女芸人」などとは言わず、「コメディエンヌ」と呼んでいた。そのコメディエンヌの山田邦子さんが「題名」で「ある晴れた日」を歌ったことがある。随所で笑いをとりながら最後のB♭をきっちり出したと言って黛敏郎さんが感心されていた。って話をするならこの話も。バラドルの井森美幸さんは、その昔、自身がMCを務めていた11PMがオペラ特集をした際、本物のオペラ歌手の前で、鼻歌まじりで夜の女王のハイFを出した。歌手先生も、す、すごいと絶句していた。私はそのときから井森さんに一目置いている。最近は馬女としても有名である。「いもりみゆき、まだ誰のものでもありません」が最近のキャッチコピーだそうだ。これ、私のキャッチコピーにもなりそうである。だが、この「誰のものでもない」は、往々にしてウソだったりするそうである。

シャフリヤール

2021-05-30 17:16:58 | 日記
♪きょーは(ラーラ)ダービー(ソドドー)めでたいな(レファミレド)……ってことで、今日はダービー。断然の一番人気の馬にまたがるのは22歳の若武者。勝てば、ダービーを勝った騎手の最年少記録。だが、ゴール前のデッドヒートの末、ハナ差で敗れる。勝ったのは、私が今読んでる千一夜物語が語られるきっかけとなった王様の名を冠したシャフリヤール。この王様は、国中の娘という娘を妻にするたびにベッドを共にした翌朝その首をはねていた。そんな中、シェーラザードは自ら志願して王様の妻となり、毎夜毎夜面白い話を王様に語り聴かせ、王様に話の続きを聴きたいと思わせて生きながらえた。そうしてたまった話が千一夜物語である(実際は、千一話もない、という話である)。実は、「シャフリヤール」がこの王様の名前だということを私は知らないで読んでいた。某馬美女に教えてもらって知ったのである。なぜ教えてもらうまで知らなかったというと、私が読んでるドイツ語版ではその王様を「Scheherban」と表記していたせいである。そのまま読むと「シェ(ヘ)ールバン」。たしかに、イスラム名をドイツ語で表記したものを読むのは難しい。例えば、話し手である妻は「Schehersad」。でも、これなら「シェ(ヘ)ールザード」だから推測可能。それに対して「Scheherban」はどっからみても「シャフリヤール」とは読めない。なぜだろう。調べてみた。すると、ドイツ語訳にもいろいろあって、「Scheherban」を「Schhriar」と訳してるものがあった。全然別物である。でも後者なら「シャフリヤール」と読める。じゃあ、なぜ二つの読み方があるのか。今のところ不明である。因みに、「Schhriar」の元の意味は、ペルシャ語で「国の友」だそうである。ダービーの話に戻る。このレースには、上記の22歳の若武者の父親もジョッキーとしてレースに出ていた。こういうことは競馬ならではである。もし、最後のたたき合いを演じたのがその父子だったらどうだったろう。で、息子が勝ったら、父は悔しいのと同時にちょびっと嬉しかったりするのだろうか。だが、手加減は決してできない。そんなことをしようものなら馬券を買ったファンに「こらー、てめー、息子に勝ちをゆずりやがって。かねかえせー」と怒鳴られるのは必定だからだ。因みに、私は、唯一レースに参加した牝馬が3着までに来ると思って馬券を買っていたので、シャフリヤールは買ってはいたがはずれである。まあ、馬券が当たったらいつも一人で祝勝会をしに行くサイゼリヤがワインを出してくれないからお祝いのしようがない。だからはずれてもいいのである(負け惜しみ)。

裏声歌手に吹いたジェンダーフリーの追い風/表日本と裏日本

2021-05-30 09:14:11 | 音楽
先週、時間を間違えて練習に参加できなかった味噌煮込合唱団(仮名)であるが(で、矢切のハイキングとなったのであった)、昨日はちゃんと間に合った……どころではなく、30分も前に着いたので、主宰者を同じくするドイツ・レクイエム(ブラームス)にアルトで参加。味噌煮込とは主宰者が同じでもあまりメンバーが重なっていないので、例によってアルトのお姉様方にびっくりされたのだが、味噌煮込同様、ここのお姉様方もとってもフレンドリー(ドイツ語ではfreundlichよりnettが相応しい)で、「また来て下さいね」と言っていただいた。思えば、4年前に麹味噌合唱団(仮名)に初めて参加したときは、びっくりされたのは同じでも当時のお姉様方の視線は、それこそウィルスでも見るような恐怖のそれであった(それでも通い続けたのは、共同主催のお一人(=Y先生の大学の先輩)が練習後に「素晴らしかった」と声をかけて下さったからである)。最近の歓迎されぶりはそれとは大違い。なぜだろう。白井という土地柄だろうか。あっ、もしかすると、このところ急速に言われるようになった「ジェンダーフリー」の考え方からか。ってことは、お姉様方は私を普通の男ではないと認識した上で受け入れて下さっているということになる。それって、私の婚活戦略にはプラマイどちらに働くのだろう。女子会トークで入り込んで急に男になったら「話が違う」と言われるかもしれない。しかし、私自身は、自分は男ではないなどと一度も言ったことはない。先方が勝手に勘違いしたものである(もし、そうなったらの未来完了である)。因みに、ドイツ・レクイエムの指揮者が、私のことを「裏声で強い声を出す人」と紹介してくれたことには満足である。そう、まさに、私の目指しているところはそれである。つまり、「裏声」の「表声」化である。実際、別の団体で人がいなくてテナーをやらされるときも「裏声」で歌っているのだが、実声と勘違いした人が複数いたことにはびっくりであり、同時にしてやったりである。この「裏声」という言葉は、しかし、あまり好きな言葉ではない。私が子供時代、太平洋側は「表日本」、日本海側は「裏日本」と呼ばれていたことを、今、どのくらいの人がご存じだろうか。これが変わったのは、「裏」のイメージが良くないからである(たしかに、今、これらの言葉を見ると、日本の表の顔と裏の顔というニュアンスが感じられる)。「裏口入学」「裏街道」等々、ろくな言葉がない。だから、裏声歌手はファルセット歌手と呼ばれる方を好むのである(今日のタイトルは、自分で言っているからよいのである)。ところで、「裏表のある人」と言ったらネガティヴな感じだが、表の顔が冷酷で裏の顔が慈愛に満ちている人のことも「裏表のある人」と言うのだろうか(ニュアンスが違う気がする)。それから、「裏窓」というヒッチコックの映画がある。名作である。だが、この映画って、覗かれてる人が実は怖い人だったのだが、人んちを覗く主人公も決して褒められたものではない。

会津と薩摩をとりもったフランス語

2021-05-29 10:17:02 | 言葉
英仏独の三カ国語を自由に操った明治の女傑・ヒシアマゾン……まちがった、「女傑」ときくと反射的にヒシアマゾンを思い受けべてしまうのでご勘弁……もとい、大山捨松は、会津の生まれ。夫・大山巌は薩摩だから仇敵のはずである。だから、結婚後は、二人とも親戚との付き合いが絶たれたそうだ。まるで、モンタギュー家とキャプレット家である。だが、二人の間にも障壁があった。言葉である。結婚するかどうかはデートして決めましょう、という、当時としては極めて先進的な捨松の提案でデートしたはいいが、互いの会津弁と薩摩弁が理解できない。まるで国際カップル。唯一、通じた言葉があった。フランス語である。これで打ち解けて二人は結婚されたそうな。いいね!私もそのセンで行こう。相手の言葉が通じないとき、ドイツ語で会話をする。いっきに盛り上がって私の戸籍に二つ目の丸を付ける、という算段である(しかし、そこに持って行くためには、日本語が通じないフリをしなければならない)。思い出した。フライブルクのドイツ語学校で、いかにも日本人なのだが、クラスが違うので、出自が分からない。向こうも同様だったようで、休み時間に会うたびにドイツ語で話をした女性がいた。怪しい、多分、日本語に切り替えれば通じるんだろうな、と思いながら最後までドイツ語で通したお相手であった。狐と狸の化かし合いのようでもあった。いったん、話が変わる。テレビで、コーヒーの産地の話をしている。一定の緯度の範囲内にある国々で、新興国が多く含まれているのだが(その中にベトナムもあった。私がよくスーパーで買うインスタントコーヒーはベトナム産である)、偉い先生が、「環境を破壊しているような国のコーヒーは美味しくない。味は、そういう背景も含めて味わうものである」と言っておられた(どこの国かということはおっしゃらなかった)。へー。なるほど。いや、けっしてそうした卓見に異議を唱えるものではないが、そのことを音楽にあてはめて、夫や妻を泣かせた演奏家の演奏は決して美しいものではない、と言っちゃうと、三大テナーは全滅である。クライバーもクレンペラーもとんでもない。ルチア・ポップなんかそういう物差しではかっちゃえばもはやヘクセ(魔女)である。それに、何をもって偉いかの基準だって人それぞれ。浮気したパートナーを出刃包丁で刺そうとする人は、自分の行為に一点の曇りがないものと信じている。この人にとっては、「生命・身体」よりも「貞操」の方が優越した価値基準なのである。大山捨松は「鹿鳴館の花」だったそうだ。捨松側に立った見方によれば鹿鳴館は文明開化の象徴であるが、西洋のモノマネでみっともないという評もある。こんなことを書くと捨松の信奉者から刺されるだろうか(鹿鳴館がみっともなくても、捨松自身は真にかっこよかったそうである(フォロー))。そう言えば、高校のとき社会の先生が、上野の西郷さんの銅像のまわりで西郷さんの悪口を言ってはいけない、刺される、と言っていた。45年前のことである。ということで、捨松・巌(会津・薩摩)の話で始まって、途中寄り道をした後、捨松・西郷さん(会津・薩摩)の話で終える今回の記事は、うまくABAの三部形式にはまって大層悦な私である。なお、上野公園のある高台は、武蔵野台地の舌状台地だそうだ。東京も、ぽこんぽこんと台地がある。舌状台地だなぁ、と思う。私にそういう目を開かせてくれたのはブラタモリである。これはABAの先のコーダである。

私は平成の人

2021-05-28 10:21:21 | 音楽
体がアセトアルデヒドの攻撃を受けている。人類は、この厄介者に対するワクチンを開発することはできないのだろうか。ところで、ポットに残ったお湯の中の菌は、沸騰させれば死ぬはず。だが、なんかばっちい気がして、残ったお湯を翌日全部捨てていた。意味のない恐怖である。ワクチンを必要以上に怖がる同胞を笑っていられない。ということで、沸かし直すことにした。もちろん、体のどこにも異常はない(異常があるとすれば、それはアセトアルデヒドのせいである)。永遠に続く水のリサイクルの完成である。ワクチンのことを書いたが、あんなに多くの人が怖がってたのに、いざ大量摂取が始まってみれば、打つ方も打たれる方も我先状態である。世界的に評判の悪いアストラゼネカを日本が大量に買い取ったが嫌がる人が多くてあまっちゃったので年齢に関係なく打ちたい人が打つことになったってストーリーを妄想したが、そういうことにはなりそうもない。さて、カラヤンが60年代に入れたミサソレ(ヴァイオリン・ソロ=ミシェル・シュヴァルベ)の録音の話を書いた。Youtubeでも聴けるのが、途中に広告が入るし、やはり、CDをかけてスピーカーを通して聴きたいと思う私は昭和の人間である。そこで、久々に中古CD店に行く。アナログ・レコードの売り場面積がますます広がっている。お目当てのカラヤンのCDはすぐに見つかった。680円でゲット。おっ、トスカニーニのもあるぞ。私が最初にレコードで買った演奏だ。じぇじぇじぇのじぇ。テナーがユッシ・ビョルリング!そんなすごい人が歌ってたなんて田舎の中学生は知る由もなかった。録音が悪いなぁ、四畳半で録ったみたいだなぁ、と文句ばっかりたれていた。馬の耳に念仏。中学生の耳にビョルリング。今なら、そのすごさは百も承知である。おおいなる喜びをもって、こちらも680円でゲット。ちょっと待っとくれよ。自分のことを昭和の人間と書いたが、数えてみたら、私が昭和を生きたのは31年。平成も31年。令和が3年。あれ?これだとトータルで65で、ワクチンを打ってもらえる年齢になる。うって!(♪うってぇ、うってぇ、お、べーる・まぜっと)いや、これは、端数を全部切り上げたインチキである。月数を考慮すると、昭和は29年とちょっと。平成は30年半。令和は2年くらい、ということで計算が合う。おお!すると、私は昭和の人と言うよりも、平成の人であった!若返った!(若返ってはない)(追記)計算間違いをしていた。昭和は30年とちょっとだった。おおっ、平成との差が縮まったがクビ差で平成が逃げ切り。やはり私は平成の人。

ミシェル~ミサソレのソロ・ヴァイオリン~おしどり夫婦の成行き

2021-05-27 08:36:42 | 音楽
「ミシェル」というフランス名は男女共用(綴りは違うらしいが発音は同じ)。かつて、そのことでイージマ少年は混乱した。ビートルズが「ミーシェール」と歌う相手は女性なのに、映画「禁じられた遊び」でポーレットが「ミシェール」と呼びかける相手は男の子である。因みに、私が最初に口にしたある程度まとまったフランス語はビートルズのミシェルの歌詞である。♪ミーシェール、マーベール、そんでー、僕ー……と歌っていた。「ミシェル」の元は言わずとしれた「大天使ミカエル」。英語名は「マイケル」であり、アメリカで「マイケル」と言ったら男性。「ミシェル」は女性である。だから、マイケルとミシェルが結婚すると、夫婦同姓ならぬ同名となる。恥を忍んで告白。「ミッキー」が「マイケル」の省略形だと初めて知った。恥ついで。これも告白しよう。10代の私は、音楽については独墺一辺倒の当時の風潮にどっぷりはまっていた。だから、ベルリン・フィルのコンサートマスターが「ミシェル・シュヴァルベ」と聞いて、え?なんで、世界に冠たるドイツのオーケストラのトップがフランス人なの?と、不満であった。仕方がない。子供は馬鹿なものである。馬鹿を直すのは大人の役目であるが、当時、私の馬鹿を直す大人が私の周りにはいなかった。最近、カラヤンが60年代に録音したベートーヴェンのミサ・ソレムニスの録音を聴いた。子供の頃、レコード屋でもらうグラモフォンのカタログにでーんと載ってたやつである。批評家の某大先生に洗脳されてアンチ・カラヤンになり(馬鹿な子供をだます大人は大馬鹿である)、ミサソレについてはベームが愛聴盤になっていたから、この録音をまともに聴かずにここまで来ていた。今回聴いて、ベネディクトゥスのソロ・ヴァイオリンの最初の音でノックアウトされた。シュヴァルベである。因みに、この方は、ポーランド生まれのユダヤ系であった。「ミシェル」という名前で出身地を推し量ることはできない。その前に、フランス系で悪いはずはない、ということである(半世紀前の私に対する説教)。ところで、この録音は、歌のソロがこれまた素晴らしい。ヤノヴィッツ、ルートヴィヒ、テナーは、な、なんとヴンダーリヒ!!!、そしてヴァルター・ベリーという布陣である。ヴンダーリヒのミサソレを聴けることでもこの録音は相当な価値がある。因みに、ルートヴィヒとベリーはこの頃は相当なおしどり夫婦で、どこでもかしこでも一緒だった。私の音楽仲間にもそういうカップルが何組もある。だが、ルートヴィヒとベリーはその後離婚。とたんに、同じレコードで二人の名前を一緒に見ることがなくなった。見事な変わりようである。最後にもう一度「禁じられた遊び」について。ラストで、「ミシェール、ミシェール」と呼んでいたポーレットが最後に「ママー」と言うのが印象的(子役が芝居を忘れて本当の「ママ」を呼んだのだろうか)。雑踏に紛れてしまったポーレットがあの後どうなってしまうのか、と心配させて終わる本作は罪な映画である(そもそも、全編「罪」である)。この映画は、イエペスのギターが有名だが、撮影にお金がかかりすぎて、オーケストラを組めなかったのでギター・ソロになったという。そう言えば、中学のときクラスでギターが大はやり。私も例外ではなく、休み時間に「禁じられた遊び」を夢中になって練習したものである。

シャルル・クレイベルを聴きながらコルトン・シャルルマーニュを飲む(めくるめく夜の推奨企画)

2021-05-26 09:20:48 | 音楽
ちょっと前の記事に、カルロス・クライバーは、改名前はカール・クライバーだったと書いた。「カール」はドイツの代表的な男子名である。ドイツだけではない。日本にも「カールおじさん」(それにつけてもおやつはカール)がいるし、アメリカには「カールじいさん」がいる(風船を付けて家を飛ばした映画の主人公)。名字に使われることもある(山形弁が超上手なダニエル・カールさんとか)。だが、「カール」で一番有名なのは何と言ってもカール大帝であろう。ところで、「カール」はフランス語では「シャルル」(英語では「リチャード」、イタリア語では「カルロ」)。だから、カール大帝はフランスではシャルルマーニュである(「マーニュ」(マグナム)=「大帝」だから、シャルルマーニュ大帝と言っちゃうと、シャルルマーニュ大帝大帝になる。早く禁酒令が解除されて、サイゼリヤでマグナムボトルを頼みたいものだ)。ここで疑問。大帝ご自身は自分のことを「カール」と「シャルル」のどちらで読んでいたのだろうか。「カール」の語源は、古ドイツ語の「カラル」、さらに古ゲルマン語の「カルラツ」又は「カリタツ」(「自由人」の意味)にまで遡るという。ラテン語で「Carolus」と言うからと言ってルーツがラテン語というわけではない。中世では、公用語はラテン語だったから、どの国の言葉であろうと、ラテン語読み、ラテン語表記があったのである。だが、語源が古ゲルマン語で、大帝はゲルマン人のフランク王国の王様だったんならカールに決まってるじゃん、と思うのは早計である。フランク王国は、大帝の当時、今のドイツとフランスを支配していた。だから、フランス人も大帝のことを自分たちの始祖だと思っている。亡くなったのもパリのシテ島である。だったら、フランス風に自分のことをシャルルと言っていても不思議はない。ベートーヴェンのルートヴィヒだって、生前、「ルイ」「ルイージ」と表記されることがあった。フランスを「おフランス」と言って憧れるのは、日本人も、ドイツ人も、イヤミも同じである。ということで、この疑問は未解決のまま迷宮入り。私的には、ドイツ語びいきだからカールであってほしい反面、フランスワインが大好物なので、シャルルマーニュもあり!そう、大帝に因んだ名前のコルトン・シャルルマーニュは、ブルゴーニュの偉大な白ワインである。フォワグラによく合いそう。ということで、連日の募集であるが、新たな募集企画は、「シャルル・クレイベル(=カロールス・クレイベル=カール・クライバー=カルロス・クライバー)を聴き、コルトン・シャルルマーニュを飲みながら、ワタクシとめくるめく夜をすごそう」である。なんでも、一連の企画について「めくるめく夜」はいらない、という声を聞くが、ダメ。これはセットである。かつて、グルダのウィーンでの演奏会は、必ずご本人の「摩訶不思議な」自作曲と抱き合わせになっていて、グルダのベートーヴェンを聴きたい人は、その「摩訶不思議な音楽」も絶対聴かなければならなかった。同じである。なお、「めくるめく夜」はドイツ語でどう言ったらいいかな、「himmlische Nacht」はどうかな、パパゲーノが寿司を食べて「himmlisch!」と叫ぶ演出もあったしな、と思って「himmlische Nacht」でググったら、三大テナーのコンサートの宣伝文句だった。

私は白身の人/コチニージョとマンサニーアでめくるめく夜を過ごそう!

2021-05-25 17:55:42 | 音楽
自分で「塞翁が馬」と書いといて、どんな話だっけと気になりチェック。そうか、翁の自慢の駿馬がどこかに行ってしまった(ダウン)。だが、白馬を連れて帰ってきた(アップ)……って具合にアップダウンを繰り返す話だった。白馬と言えばソダシ。オークスでは、距離(2400m)が長いんじゃないかって不安視されていて、その不安が的中。馬群に沈んでしまった。その距離のことで、かねがね疑問に思っていたことがある。人間の陸上競技との比較である。競馬でマイル(1600m)は短距離の部類。長距離と言えば、例えば春の天皇賞は3200m。だが、マイルのたったの2倍である。人間の場合、100mの2倍の200メートル走はまだ短距離の部類である。長距離のマラソン(42.195キロ)は、なんと100メートル走の400倍以上を走る。そして、競馬の場合は、どちらかというとマイラー(短距離場)より、長距離をこなす馬をありがたがる傾向がある。だが、人間の場合、100メートル走もマラソンもどちらも競技の花である。以上が疑問である。なお、人間も動物も、どちらが向いているかは筋肉の性質で決まるのだそうで、長い距離を走る場合はヘモグロビンをたくさん蓄えなければならないので、筋肉は赤身がかかるという。魚も、短距離魚(って言い方はないが、今回だけ)は白身だが、長距離魚(回遊魚)は赤身。トリ肉も、飛ばない鶏は白いが飛ぶカモは赤い。だから、私は白身人間である。因みに、以前、いろんな動物を一緒に競走させる番組があって、驚いたのはラクダ。すさまじいスピードで走る。だが、いきなりバタッとつんのめって動かない。思いのほか短距離向きであった。この異種競走で断然強かったのはポニーであった。その名はナリタブラリアン(ナリタブライアンが全盛のときである)。さて、「塞翁が馬」を調べてたら、どういうつながりだか「酒池肉林」が出てきた。ちょうど、「肉」の話をしていたところだからベストタイミングではある。で、へえーって思ったこと。「肉林」と言ったらハーレムで多くの異性とちょめちょめをしているイメージを持つのは私だけではあるまいが、なんと、元の意味では、「肉林」は豚の丸焼きを指すんだそうで、「(豚)肉を縣けて林となし」の故事から来ているのだそうだ。豚の丸焼きは、どこの国にもあるようで、最近の日本でも、外国人が農場から子豚を盗んで丸焼きにしているけしからん動画をアップしていたが、私などは、そのけしからん動画を見て、まず最初に頭に浮かんだ言葉は「コチニージョ」である。スペインの豚の丸焼きの料理である(仔ウシの丸焼きは「コルデッロ」)。これとシェリーを合わせると最高に旨いそうだ。そう言えば、カルメンが「セギディーリャ」の中で「マンサニーア」がどうたらこうたらと歌っている。マンサニーアはシェリー酒の一種で、かなり美味である。ということで、今宵の募集企画(ワタクシと一緒にめくるめく夜をすごそう企画)は、「コチニージョとマンサニーアでめくるめく夜をすごそう!」である。因みに、私が感動のあまり号泣した映画ベスト5の中に「ベイブ」がある。子豚の物語である。コチニージョの話に続いて「ベイブ」で泣いた話をするところは、カビ対策として除湿の方法を紹介しているさなかに良い声を保つ秘訣を聞かれたゲストの堀内敬子さんが「加湿」と言い切った今朝のアサイチのごとしだが、本当のことだ。ベイブを見た後、生涯、断豚を誓った私である。その誓いは1か月の間守られた(それとも1か月しか守られなかったというべきか)。因みに、「私とめくるめく夜をすごそう」企画で次に公開を予定しているのは、「ブルゴーニュでコルトンシャルルマーニュを飲みながらめくるめく夜をすごそう」企画である。これもそそるねー、かなり。なお、今日のジャンルが「音楽」になったのはカルメンの話があったから。あしからず。

あたしって、そんなに綺麗?

2021-05-24 21:59:44 | 音楽
矢切の渡しって、江戸川の東京側も千葉側もどっちもそういう名称なのだね。単に、「矢切」という町名・駅名が千葉県にあるということなのだね。ただ、千葉側の渡しは、今、「臨時に」休業しているだけなのだね。あらためて、矢切のあたりの航空写真をみると、江戸川の河川敷は東京側も千葉側もそれなりに緑があるが、千葉側に広がる広大な畑は東京側にはない。コメントでも教えていただき、地図に書いてあったが、千葉側の広大な畑は冬になると「矢切ネギ」の畑になり、直売場がいくつもできるようである。いいなぁ。こういうところで働きたい。「農家の婿」の来てはどうなのだろう。もし来てがないなら、私、行きますよ!え?お呼びじゃない?もっとピチピチしたのがいい?けしからん、年齢による不合理な差別だ……と無駄に吠える。年齢と言えば、私の所属している某男声合唱団の正団員では、私だけ65歳未満。先輩方のラインの会話は、いつワクチンを打つ、自分は大手町で今日打った等々でもちきり。いいなぁ。いつ打てるかの見込みがたたないのは指導兼ピアノのK子先生と私だけである。もし、アストラゼネカが怖いって人が多くて余るんなら私に何度でもいいから打ってほしい。おっと、私が「男声合唱団所属」と聞いても某味噌煮込合唱団のお姉様方は理解不能であろう。なんでも、こちらのお姉様方は、とっても私によくしてくださるのだが、その実、私のことを「外見は男なのに女声で歌う意味不明の生物」ととらえていただいてるそうで、私のいないところで、私について「あの方は男声でも歌えるの?」と噂をされているとのこと。はーい!ときと場合によれば男になりますよおー(男としての生殖能力もありますよ(多分))。もし、「あなたに」耳元でドン・ホセになって愛をささやいて言われたら、いつでも、羊の仮面を脱ぎ捨てて狼になって、あるいは、羊の素顔に狼の仮面をかぶって歌いますともさ。まあ、しかし、本籍はアルトであるのはたしかである。「千人通唱会」でも、クラリネットよりもアルトの歌の方をほめられたって話を書いた。例えば、こういうことである。第1回の千人通唱会には、クラリネットのE先生が参加して下さった(E先生は、Y先生のクラリネットのお師匠さんである)。そのE先生が、打ち上げですっかりご機嫌になられて私に向かって、「あなたは、とってもきれいだね」とおっしゃる。あらん、E先生ったら、そんな風に言って下さると照れますわん……いや、情景描写が間違っている。男性のE先生は、決して私の容姿を「きれい」と言って下さったのではない。それは瞬時に理解した。それほど私は勘違いをしていない。私はてっきり、クラリネットの音を「きれい」と言って下さったのだと思った。これは光栄である。E先生はクラリネットの専門家である。そのE先生にほめていただいとのなら私も吹きがいがあったと言うもの……ところがこれがまた勘違いであった。あなたのアルトの声はきれいだね、と言うことであった。ほめていただいたのではあるが、なんだか複雑な心境であった。

人生、塞翁が馬(デムーロ復活)

2021-05-24 11:52:15 | 日記
昨日の記事に間違いがあった。「オークス」と書くべきところを「桜花賞」と書いてしまった(訂正済み)。だが、大事ないであろう。競馬好きなら間違いだとすぐ分かるし、競馬が好きでなければどうでもいい情報だからである。それに対して某通販会社の間違いは大事(おおごと)である。MCがシャープのエアコンを紹介しているのに思いっきり「ダイキン」と言ったのである。私は一瞬耳を疑った。「代金」のことかな、と思った。そのMCも数秒固まっていた。だが、「いろいろ売ってるんで」と言い訳をした後は平静を装っていた。メーカーの製品を「売ってやる」立場だからまだよかった(それでも、安く卸してもらってるだろうに)。もしアナウンサーがCMの商品で同じような間違いをしたら蟄居閉門の処分が下るに間違いない。そのオークスで優勝したのは、かつて当ブログでその名前を紹介した「ユーバーレーベン」。「生き残り」(Ueberleben)という名前は馬にとってしゃれにならないと言って紹介したのだが、「長生き」というニュアンスもある。「ユーバー」と言っているが、この「ウー・ウムラウト」の発音の表記は難しい。ウのクチをしてイを言う、と説明される。私は、シュッツの会の資料では「ウ(イ)ー」と表記している(酔っ払ってるのではない)。そう言えば、「ウーバーイーツ」が流行りだが、あれは元々英語(Uber-Eats)だから「ウーバー」で良いのだろうが、英語の「uber」も、もとはドイツ語の「über」だそうだ。オークスに戻る。そのユーバーレーベンを勝利に導いたジョッキーが、ミルコ・デムーロ。勝利騎手インタビューで、「人生は難しい。いいこともあれば悪いこともある。早く厄年を抜けたい」と語っていた。数年前までは、日本の競馬は、フランス人のルメールとイタリア人のデムーロが席巻していた。だが、ルメールが順調に勝ち続けているのに対し、デムーロの成績はこの2,3年がくっと落ちた。気性が激しくエージェント(騎手に代わって乗る馬を見つけてくる人)を代えまくったからだ、とか、干されたからだ、とかいろいろな理由がささやかれた。だが、今年になって、みるみる成績が上がってきた。このブログの多くの読者は、私に、音楽のことなんかどうでもいいから男女のことを書け、とおっしゃる。私のブログに期待されているのはどうもそこらしい。そうか、気乗りがしないけど(大ウソ)求められてるんならそっち系のことを書かなくてはなるまい。デムーロには、かつてイタリア人妻がいた。騎手らしく小柄なデムーロに対して妻はモデルのようだった。いいな、騎手はもてるんだな、と思ってたら離婚したという。成績が下がった頃である。ところが、今年になって再婚、妻の出産って話を聞いたと思ったらオークス制覇。人生と競馬の成績のアップダウンが見事に一致。デムーロが今回のインタビューで「人生は難しい」と言ったのは実感だろう。私生活が仕事に影響したのかもしれないし逆かもしれない。いずれにせよ、元気なデムーロが帰ってきてくれて嬉しい。それにしても「人生、塞翁が馬」。「栄枯盛衰」ともいう。もし、今が幸せなら、これらの言葉はあまり聞きたい言葉ではないだろう。「栄枯盛衰」ならまだいい。「盛者必衰」は落ちるだけである。そうそう、こないだ、千一夜物語で今読んでるのは大臣が王様に献上しようと思っていた女奴隷と大臣の息子が関係してしまった話だって書いた。その続きをまだ読んでいる。その後、その息子=ヌレディンは、父に許してもらってその女奴隷と結婚した(人生絶頂)。その後、大臣を相続して莫大な財産を相続した(なお絶頂)。それを、友達に惜しみなく振る舞っていたら破産して、友達がみんな去っていった(転落)。読んだのはここまでである。この後どうなるのだろう。盛者必衰で終わるのか、栄枯盛衰(逆転あり)となるのか。その結末はまだ知らない。

練習時間を間違った傷心を矢切のてふてふが癒やしてくれた話

2021-05-23 18:42:31 | 日記


このところ楽器ばかりでほぼ歌を忘れたカナリアであったが、思い起こしてみれば、二度の「千人通唱会」で私はクラリネットの合間にアルトを歌ったのだが、毎回、終わった後、指揮者を始め会う人会う人がほめてくれるのは歌(クラリネットをほめてくれた人はなし)。だから、歌は大事な私の一部であり、アルトを歌いに来い来いと言ってくれるM.I.N.(味噌煮込合唱団=仮名)は私にとって貴重。だから、今日も珍しく朝、発声をやったりして、練習に間に合うように早めに家を出た。オークスの馬券は購入済み。録画の準備も万端。「あら、イージマさん、今日は早いですね」「はい、大張り切りで来ました」、これは事前の想定問答である。すると、もうじき白井、3時に余裕で間に合うってところでスマホに主宰者からメッセージが入る。「今日はいらっしゃれないんですか」だって。否定疑問で聞いてこられるなんて某先生も奥ゆかしい。すぐさま「伺います」と返答。すると「1時から3時までなんですけど」!じぇじぇじぇのじぇー(久々に「あまちゃん」)。時間を間違えた。着く時間が終わる時間だ。なんて阿呆な私(アホじゃありません、パーでんねん)。もはや帰るしかない。傷心のワタクシ。せめて、行きと違うルートで帰ろうと思って高砂方面行きの北総線に乗る。すると「次は、矢切」との掲示。矢切かぁ、江戸川の渡し場だよな。私、葛飾区柴又の社宅に4年間住んだ。この機会に行ってみるか、と思って、途中下車。え?矢切って松戸市側だったの?ここでも目論見がはずれて傷心パート2。とりあえず歩いてみるか。ところが、住宅街を抜けて、江戸川の河原に広がるキャベツ畑を見てがぜん心が沸き立った。



こんなキャベツ畑を見たのは子供の時以来。キャベツ畑といえば青虫。青虫と言えばモンシロチョウ。たくさん、飛んでいましたとも。



思わず、♪てーふーてふ(ソーミーミ)、てーふーてふ(ファーレーレ)と口ずさむワタクシはやはり歌が好きである。
そして矢切の渡しに到着。現在は、柴又側から船が出ていて往復して戻るそうで、こちら側から出ていないという(逆に、柴又からまだ出てるんだ、ってことにびっくり)。そのまま歩き続けて、水戸街道の橋で江戸川を渡り、金町経由で家路に着いた。金町駅前の八百屋さんで、トマトを5個216円(税込み)で買えたのもうれしかった。



練習に行けなかったのは残念だったが、その傷心を癒やす小旅となった。橋を渡るとき思ったのだが、江戸川の松戸側はかように自然が豊かなのに、東京側は川岸にびっちり建物が立ち並んでいて風情がない。だから、矢切で降りたのは正解だった。人生塞翁が馬、オークスで勝ったデムーロも言ってたなぁ……その話はまた別の時に書くとして、三つおまけの話をする。

一つ目。白井方面の空にかかっていた雲が一列で壮観だった。



新しい朝ドラの影響で、気象予報士になりたい人が増えるんではないか。そう言えば、矢切駅から西に行けば江戸川だと思って太陽の位置より90度右側に向かって歩いたら北に向かってしまってた。もう5月、夏至まで後1か月。この時期、太陽は北西に沈むんだった。

二つ目。キャベツ畑の横に、妙に盛り上がった草原があった。もしかして古墳?と思ってパチリ。



だが、たしかに、この地域には古墳がいくつかあるらしいが、これは違うようだ。そのホントの古墳を今度訪ねてみるか。誰か私と古墳に行くひとー(性懲りも無く「募集」である)。

三つ目。江戸川っぺりから土手を見上げて撮った写真を後から見たのだが、



これ、「大草原の小さな家」のオープニングの景色とそっくりである!






クライバーが乗りたかったのは馬ではなくロールス・ロイスだった。

2021-05-22 22:14:40 | 音楽
ちょっと前の記事に、クライバーがベルリン・フィルとのコンサート前の顔合わせのときに「私は、皆さんの乗り方を学ばなければなりません」と言ったと書いた。書きながら思った。これってもしかして、指揮をする(ライテン)と、馬に乗る(ライテン)をかけたの?思いっきりはずれた。指揮をするは「leiten」であり、馬に乗るは「reiten」である。ちょっと言い訳をさせてほしい。ドイツ語学校で「馬に乗る」(reiten)など習わなかった。もし、習っていればこのような間違いはしなかった。ドイツ語のlとrの違いは大きい。じゃあどこで「馬に乗る」(ライテン)を知ったかと言うと、それはサルツブルク音楽祭でよくオペラが上演される「フェルゼンライトシューレ」の「ライト」である。これが「乗馬」の意味だと聞いていて、だが、日本語でしか聞いたことがなかったので、lとrのどっちであるかが分からなかったのである(「フェルゼンライトシューレ」は、岩場をくりぬいて作った乗馬学校跡に作った劇場である。映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも出てくる)。とにかく、指揮をする(ライテン)と、馬に乗る(ライテン)が違うことは分かった。では、クライバーはどっちの意味で言ったのだ?(疑問は続くよいつまでも)そうだ、うちにドイツ語で書かれた分厚いクライバーの伝記があった。普段、ドイツ語では童話しか読まない私にとって高いハードルであるが乗りかかった船だ。調べてみよう。1994年のベルリン・フィルとの2回目のセッションに関する記述からは答えは見つからなかった。1989年の1回目のセッションに答えがあった。クライバーはベルリン・フィルの団員に対して「Ich komme mir vor,als hätte ich einen Rolls-Royce vor mir und kenne die Gebrauchsanweisung nicht.」(私は、目の前にロールスロイスがあり、その使い方が分からないような気分だ)と言ったのである。すると、「乗る」対象はロールス・ロイス=車であって馬ではなかった。「指揮」の「leiten」も言ってなかった。つまり、どっちの「ライテン」も関係なかった。私の想像は大はずれ。しまらないので、ひとつ四方山知識。クライバーのファースト・ネイムは、もともとはカールであった。それが、超世界的指揮者の父エーリヒ・クライバーがナチスをきらって南米に移ったとき、息子のカールも同行したのだが、その地で南米っぽい「カルロス」に改名したのである。因みに、父エーリヒは小さい人だったが、息子カルロスは高身長のイケメンである。カルロスは、お母さん似でよかったね、って話でおさまっている……

弓子が来た

2021-05-22 10:03:03 | 音楽
まず、昨夜の続きをちょっこし。広末涼子は高知県出身。高知県と言えば四万十川。行きたい。次の「募集地」(「愛の逃避行」の目的地)は四万十川にしよう。だが、これまでの募集はすべて空振り。下手な鉄砲数撃ちゃ当たると言うが、ウソである。イワシの群れにつっこむ大型魚のでかい口に一匹ぐらい入りそうなのに入らないのを見ても分かる。それから、NHK。チコちゃんで鮨の話にかこつけて戦後の「飲食営業禁止」の話を持ち出したのは、現在の「禁酒法」に対する密かな抗議だろうか。そのNHKで商品名、会社名を言うのはタブーなのだが、アサイチで視聴者からのお便り紹介で「○○県の黒霧島さんから」と紹介していた。発信者のペンネームならなんでもいいのだろうか。なら「○○県の真っ赤なポルシェさんから」もOKなのだろうか(山口百恵は、「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えて歌ったそうだが)。ということで、ここからが本題。弓子が来た。弦子を奏でるためである。弓はヴァイオリン本体の半分くらいの価格がよいと聴くが、中古で買った弓子の新品価格は本体のヴァイオリンとほぼ同価格。本体が言えないほど安いからである。それでも、なんだか私、上手くなった気分。だが、これは明らかに錯覚である。それでも錯覚は大事だ。錯覚のおかげで張り切って練習をすればホントに上手くなるかもしれない(ひょうたんからコマ)。私は褒められて伸びる(調子に乗る)タイプである。一般論だが、錯覚というか、思い込みはたしかにある。かのホロヴィッツが来日したとき、吉田秀和氏などは「ひびの入った骨董品」と評したものだが、会場でNHKのインタビューに応じた聴衆などは「素晴らしかった」と感動のご様子。ホロヴィッツ=素晴らしいに違いない、の思い込みである(それはそれで、聴いたご本人は幸せなのだからよいだろう)。逆もある。オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の冒頭に裏でテナーがシチリアーノを歌うのだが、あまり有名でない歌手が歌って一つも拍手が起きないので、ある日マリオ・デル・モナコが名前を伏せて代わりに歌った。やはり一つも拍手がおきなかったそうである。そこへ行くと、競馬はリアルだ。名声があっても負ければこてんぱんに言われるし、逆に、しんがり人気でも優勝すると一夜にしてスターである。さて、来るものだがあれば去るものもある。先代弓子は「楽器墓場」「座敷牢」等々の異名を持つ押し入れの奥で、以後悠久の眠りにつくのである。ここには既に何人かの先住者がいる。先代の弦子、B子、A子である。因みに、「弓子が来た」と書いたが、「○○が来た」で思い出すのは「ペギラが来た」。ペギラは「ウルトラQ」の中で一番好きな怪獣である(三白眼のペンギン怪獣である)。それから「夏が来た」。故皆川達夫先生の中世音楽合唱団の演奏会の最後に聴衆全員が参加してこの歌を輪唱する。私は、テナーで歌うべきか、カウンターテナーで歌うべきかいつも悩んでいた。お友達にはだいぶ慣れていただいとはいえ(たまに男声で歌うと、そっちの方がびっくりされたりする)、まだまだ一般にはカウンターテナーは奇っ怪な存在であると自覚しているからである。

責任

2021-05-21 21:35:54 | 日記
アサイチのゲストは菅野美穂。へー、もう二人のお子さんのお母さんか。私、てっきりこの人の夫はIメンバーだと思ってたら勘違い。半沢直樹だった。昨日は徹子の部屋に広末涼子が出てきて子供が三人いるって言うし。広末が大学に入って大隈公の銅像んとこを歩いてる写真が夕刊に載ったのってついこの間じゃなかったっけ。そんな風に思うワタクシもそこそこ人生を重ねてるってことである(因みに、広末は撮影の都合で大隈公の銅像んとこを二回歩いたそうである)。その後、大学を中退されたのはOBとして残念である(もっとも、この大学は中退した方が偉くなるという噂がある)。アサイチの前の放送枠は朝ドラ。ヒロインの清原さんは「アサは来た」で既に人妻になっている。中番頭と夫婦になったのだが、逆プロポーズシーンが印象的。「お、お、およめさんにして下さい」と言ったのだが、この「お、お、」があり得ないくらいの棒読み。私、てっきり、お、お、おーたるこいっ、って言うのかと思った(フランスでもイタリアでもHは発音しない)。って具合にテレビネタで盛り上がったので、この後もテレビネタ。コロナのせいで、金曜日、家でチコちゃんの本放送を見ることが多くなった。今日の「チコちゃん」のお題はなぜ寿司が一人前10カンになったのか。戦中戦後に寿司は消滅の危機。それを救うために寿司職人が編み出した秘策がああなってこうなって10カンになったと言うのだが、へーっと思ったのは、戦後に「飲食営業禁止令」が出たって話。まさに禁酒法が蔓延している今と同じである。天然パーマで眼鏡をかけていつもラーメンをすすっている○○○さんと同じ名字の某知事は緊急事態宣言の延長を考えているのだろうか。だが、このたびの「禁酒法」によってどれだけの人の生活が奪われ、精神が疲弊してるかも考えてほしい……いや、無理だろう。こうしたことは数字に表れない。「偉い人」は数字に表れることだけを顧みる。それは、数字に表れたことには責任をとらなければいけないからである。日本がワクチン後進国になったのは、過去にワクチンの副反応のせいで官僚が刑事罰という思い責任をとらされたことによる萎縮的効果である。「責任」と言えば、連休中のことであるが、急に母のかかりつけのクリニックから私のスマホに電話が入り、母に下血があるから大至急大病院に連れてけと連絡が入った。私としては、すべてをこのクリニックにお任せしてあって、いざというときには救急車を呼ぶという話だったから、腑に落ちないところもあったが先生が言うもんだから急遽病院を探したのだが連休中でどこもやってない。そのことを施設に話して相談したら、もう一度クリニックに話してみると言う。その結果、大騒ぎしたのはいつもと違う先生(連休中だったので)。いつもの先生に話がつながると、連休後にそのクリニックでも対応できる、となって結局病院行きは白紙となり、いつもの先生に見ていただくと、出血は痔のせいだろうって話。病院に行かなくてよかったねって結論であった。思うに、その臨時の先生が大騒ぎしたのも、万が一のことがあったら責任をとらされる、と思ったせいだろう。かように、すぐに責任責任と言い立てる社会はろくなことにならない、と思う今日この頃である。責任を言い立てるなら、補償をしっかり考えるべきである(でなければ萎縮的効果が生じる)。その点、ワクチンを打ってもし亡くなった場合、補償金をいくら払いますと断言した厚労大臣の国会での答弁は大いに評価できると思った。

ウルトラマンはフォースを使えず、ジェダイの騎士はスペシウム光線を発射できない

2021-05-20 20:31:33 | 

耳型をしたこのパスタはオレキエッテっと言うらしい。もらいものが食料ストッカーに入っているのだが、その一粒がトイレの床にある(写真は、同種だが別の個体)。ははーん。ケメ子がトイレの扉の下の隙間から必死に中に手を伸ばしていたのは、これをとろうとしていたのだな。猫パンチをくれているうちに、トイレの中に入れてしまったのだな。ケメ子が必死に手を伸ばしている様子はベータカプセルを岩場の手が届かぬ先に落としてしまったときの早田隊員とそっくりである(ベータカプセルを天にかざさないと早田隊員はウルトラマンに変身できない)。もし、ケメ子が、そして早田隊員がジェダイの騎士だったら、フォースで手から離れた物を呼び寄せることができたはずだ。ウルトラマンはフォースを使えず、ジェダイの騎士はスペシウム光線を発射できない(天は二物を与えない)。さて、私はジェダイの騎士の心配をしている暇はなかった。トイレの床にあるオレキエッテを食するべきか否か、それが問題である。熱湯で10分間茹でるのだから衛生上の心配はないはず。しかし、心理的な抵抗がある。そう言えば、徳利に放尿した人が器物損壊罪に問われた裁判例があった。「損壊」とは物理的に破壊するのみならず、その物の効用を害する一切の行為をさす。徳利に放尿したらもうお酒を入れて使うわけにはいかない。だから「効用を害した」として犯人はとっつかまったのである。この判例を読んだとき、洗えばいいじゃんと思ったが、いざ、トイレの床にあるオレキエッテを前にして、洗ってすむ問題ではないのだなと合点がいった。因みに、器物損壊罪は、動物を「傷害」した場合にも成立する。この場合の「傷害」も、本来の効用を害する行為をいう。生け簀の鯉を逃がす行為が器物損壊罪に問われるのもそのためである。「効用」とはあくまでも人間目線でみた場合の効用であるから、生け簀の鯉を逃がす行為は、その鯉の本来の効用(鯉こくにして食する)を害する行為なのである。たが、鯉からしてみれば、それで一命を取り留めるのであるから「傷害」の逆である。で、問題のオレキエッテがどうなったかというと、いまだにどうしていいか分からずトイレの床に鎮座ましましている。今後、ヴィラ・イージマに連れ込まれたany美女(irgendeine美女)は、この一粒を確認することだろう。ところで、トイレだけではない、最近、家のあちこちに落ちている。どうやら、ケメ子とワサビは日常的にストッカーの中に入って(扉を開けるなど朝飯前)、一粒ずつくすねているらしい。以前は、ストッカーの中に入ると小麦粉をぶちまけてたからすぐ犯行が露見したが、一粒ずつとなるとバレにくい。なかなかの頭脳犯ぶりである。と、ほくそえむ私は親馬鹿である。