拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

バッハと朝ドラをこよなく愛す(スズメとリツは40でくっついてよかったね)

2018-09-30 08:14:39 | 音楽
バッハを歌った後の打ち上げで朝ドラの話はほとんど通じず。バッハと朝ドラを同時にこよなく愛する人間はそうはいない模様。昨日はその朝ドラ「半分、青い」の最終回だった。あひるのおるがーのの本番の前にしっかり見届けましたとも。スズメとリツは、結ばれたのかどうか、一応、お互い離れないでやっていこうという話にはなったけど、まあ、このご時世、くっつく=結婚ではない(最近は同棲が先だという話がバッハの打ち上げでも出た)。おさまるところにおさまったのでしょう。何より互いに40歳というのがよかった。そう、恋愛は若者の専売特許ではない。40歳でくっついたということは、50でも、60でも、70でも、80でもくっつくということである(新婚さんいらっしゃいにも80歳の新郎ってのが出てきた。話してるうちに入れ歯が飛び出した新郎もいた)。そういえば、こないだ「マイ・インターン」って映画をBSでやっていて、シニアのロバート・デ・ニーロが若いアン・ハサウェイの部下につくって話。予告編ではこの二人の心が次第に通ってきて、で、ベッドに二人して座るシーンがあってどきどきしたが、いや、そういう話ではなく、ロバート・デ・ニーロ演じる誰とかさんにはしっかり同年配の彼女ができる。70歳の男に彼女ができたことはご同慶の至りだが、どうせならアン・ハサウェイとどうかなってほしかった(因みに、アン・ハサウェイは私が一番好きなハリウッド女優である)。さて、バッハの後の打ち上げに話を戻す。朝ドラの話は通じなくても、かと言って堅物だらけということではない。すっごい話を聞いた。大昔の某合唱団の中の艶聞である。へーえっ。そうだったの?あの人がねー。もうびっくり。全然知らなかった。いや、私だけ知らなかったというのではなく、同席したT君(その合唱団にいた)も同様に腰を抜かさんばかりに驚いていた。で、T君は、帰ったら奥さんに話すとうれしそう。私も誰かとこの話を共有したい。でも共有する相手がいない。ここには書けない。書いたら刺される。因みに、バッハは若い頃血の気が多く喧嘩が昂じて剣を抜いたことがある。相手はファゴットで応戦したそうだ。楽器は武器にもなる?

コラール隊で歌ってきました

2018-09-29 22:43:41 | 音楽

今日は、米沢陽子さんのオルガン・レクチャーコンサートのコラール隊の一員。毎年この時期に東京純心大学で開かれるこのコンサートに数年前から参加させてもらっている。コラール隊がコラールを歌うとそれを材料にしたバッハのオルガン曲を米沢さんが弾く。それを何度も繰り返す。毎年、この仕組みは同じだが(コラール隊は歌い手であると同時にオルガンの聴衆である)、今年はいつも以上にしょっちゅう歌っていた気がする。その分、緊張感に満ちていた。充実した演奏会であった。午前中の練習んとき、ホールの響きを体感しようと顔を上げて楽譜から目を離したらてきめんに間違えた。やはり調子に乗ってはいけない。本番では楽譜に集中した。毎回書いているが、いい体験をさせていただき感謝である(歌って感動、聴いて感動)。

クラリネット五重奏曲の想い出(モーツァルト)

2018-09-29 05:34:57 | 音楽

写真は数分前の東の空。さて。クラリネットといったらミサソレと第九の練習をしなければいけないのだが(やってはいるが)、A管が手元にくると(ジャンク品で音程がところどころ甘いが)、どうしてもモーツァルトの協奏曲と五重奏曲を吹きたくなる。クラリネットを再び吹き出したのは今年に入って。40年ぶりだが結構体が覚えていて、だが、ところどころ指がもつれる。昔は指だけはくるくる回ってもつれるなんてことはなかった。まあ、地道に練習しよう。その「昔」というのは高校時代で、大学のときは室内合唱団で歌を歌っていたが、コンパの余興ではクラリネットを吹いていた(余興でカウンター・テナーも歌っていた)。そう、あれは春合宿だっけ、合宿の最後を飾る宴会の余興にモーツァルトのクラリネット五重奏曲の第1楽章をピアノ伴奏で吹こうって急にそういう話になった。だが、曲はA管用のイ長調なのに私の楽器はB♭管。しかもあるのは五重奏用のスコアのみでピアノ譜などない。そこで、前の晩、徹夜でイ長調の五重奏のスコアを変ロ長調のピアノ伴奏譜に書き換えた(当時は楽譜作成ソフトなどないから手書きである。もっとも、パソコンに一個一個音を入力するより早いかもしれない)。で、翌日(本番(?)の日)、歌の練習が夕方に終わり、宴会までの合間に練習。おおっ、いい!これはうける!みんなを音の天国にいざなおう。で、いよいよ宴会開始。私の隣には一学年上のS馬さんというお姉様が座ってて、この方が見目麗しいうえにつぎ上手。私が飲み出すと歯止めがきかないのは今も当時も変わらない。で、吹く時はもうへべれけ。ぼろぼろの演奏で最後のカデンツも派手にはずして(ド、ド、ビヒャー)、みんなをいざなったのは音の天国ならぬ笑いの天国であった。鈴木仁先生も大笑いしてたなー。S馬さんは「いーじまくんがああなったのは私のせい」と言っていた。まあ、うけたことには間違いない(別の意味で)。その夜。宴会がはねると大体カップルができあがってあちらこちらでいちゃいちゃし始める(あくまでも40年前、まだ男子が肉食だった時代です)。私、相手がいなくてクラリネット持ってうろうろしてた。そうした不純な空気が漂う宴会後の広間で聖書を読んでる後輩女子がいたっけ。その方は、今大学の先生をされている。

人生は希望と絶望の繰り返し

2018-09-28 08:24:55 | 日記
しかし、人には想像力がある、夢見る力がある、生きる力がある……by秋風羽織。人生訓を朝ドラから学ぶ安上がりな私です。ゆうこは寝たきりの患者を置き去りにできずに犠牲になったが現実にそういう看護師さんがいたに違いない。さあ、泣いても笑っても(あまり笑わなかったこの1週間だが)残るは明日の放送のみ。あひるのおるがーのの本番前にしっかり見届けます。

♪ランランラン=卵卵卵

2018-09-28 06:00:32 | 言葉
まずは昨日の記事に関して。タイトルの「半分、○イ」を「半分、エロい」などという輩はいったい誰だ?だいたいこれでは字余りである。え?「エロ」と半角にすればよい?まったく。というか「誰だ?」は私である。だが私の人格を非難してはいけない。そもそも「エロス」とは、ギリシャ神話の愛の神様であり、プラトンの著述では「美しいものに対する探求心」である。その「エロス」の「ス」がとれるとやらしい意味になるのは日本独特だ。まあ逆もある。「歌麿」と聞いて日本人は教科書に載ってる偉い画家の先生を思い浮かべるが、外国人が「Utamaro」で想像するのは春画である。あと、昨日の記事で「泣けるオペラ」を書いたが、一つ追加。私は「ヴァルキューレ」でノートゥングのテーマが鳴るたびに泣く。なんかのスイッチが入るようだ。スイッチと言えば、このところの「半分、青い」は泣くスイッチが入りっぱなし。俳優陣がうまいんだな。電話でゆうこがだめだったことを知らせたボクテ(志尊淳)の声の演技!ゆうこの骨壺をだきしめるスズメもホントに泣いていた。永野芽郁の実年齢はドラマ撮影時18歳。最近ようやく19になったばかりであるが、しっかり40歳のお母さんになっている。すごい俳優さんっているもんだ。と感心しながらピーピー泣くと、「男が泣くもんじゃない」と言われる。しかし、それは差別である。小さい男の子を身よ。始終ピーピー泣いている。光源氏(源氏物語)だっていい大人だがピーピー泣いている。それがいつからか男が泣いてはいけないことになった。源氏物語以降に入って来た思想の影響なのか。で、その源氏物語だが、生涯二度目に挑んだ「読破」は挫折。読むもの聴くものが多すぎて。「グリム童話」も「ファウスト」も中断している。その「ファウスト」を久しぶりに開いたら(キンドル)、登場人物が「Ei,ei」(アイアイ)と言っている(ドイツ語版)。♪おさーるさーんだよー……ではない。これは「あれまぁ」と言った感嘆符である。同時に「Ei」は「卵」でもある。なぜ「卵」が「あれまぁ」になるんだろう、面白いなぁ、日本語でも名詞が全然違う意味の感嘆符になるものってあったっけ。あった。うれしいときの「♪ランランラン」。「卵卵卵」である。おおっ、「Ei」=「卵」でつながった。今日も一日いいことがあって「♪ランランラン」といきたいものだ。因みに、最近は卵1パック99円のセールにはいかなくなった。500円以上の買い物が条件で、なんだか卵のために買わなくていいものを買わされている気がするので。

半分、○イ

2018-09-27 08:19:54 | 音楽
「半分、青い」でゆうこが死んだ。昨日は一日中泣きっぱなし。涙も涸れるほど(と言っても実際出る涙の量はわずかで枯れることは決してない)。そんな中で、小西真奈美扮するケイコさんの台詞「生きてる人は、昨日と同じく今日も生きる」がよかった。小西真奈美はタイプである。上から下まで緑色でも全然いい。と言いながら実際に目の前にあのファションの人が現れたら動揺するかもしれないが、でも小西真奈美なら大丈夫だと思う(井川遥の菱本さんときも同じようなことを思った)。てな具合に私の涙の堤防はきわめて低い。映画でもオペラでもよーく泣きます。そんななかでも特に泣けたのは、映画では「ET」。「ET」で泣くなんてあまりにもベタで大きな声で言える話ではないが、しかし事実である。それから「コープスブライド」。これで泣く人はあまりいないだろう。ストップモーションを使ったアニメで分類はブラック・コメディー。死体の花嫁に追いかけられる話である。だが、この「死体の花嫁」の心があまりにも純なのに感じ入って号泣。このとき、女性関係でトラブってて、心がすさんでいたからその影響があったのかもしれない。そう言えば、映画から音楽の話に移るが、タワーレコードの店内にかかっていたBCJのマタイで子供のリピエーノを聴いてひと目をはばからず号泣したときも女性関係でトラブっていた。「糸を紡ぐグレートヒェン」を聴いて泣いていたときも女にふられたときだった。なーんて女性といろいろあったことを書くのは「半分、ゲイ」説(カウンター・テナーをやってると時々そう言われる。逆に女好きとも言われる。真ん中はないんかい?)を必死に否定するためのように聞こえるか。私は、ゲイならゲイでなんら恥じることはないが、ゲイではない、と自覚したのは20代の頃。前夜の深酒のアルコールを抜くべく朝からサウナに入って洗い場で体を洗ってたら、ちびで小太りではげたじじーが私の真横に来た。なんだか気持ち悪くて別のところに移動したらついてきて、で、耳元で「故郷の話をしようよ」と言ってきた。私は、全身総毛立つ思いで即座に店から出た。サウナにまだ入ってなかったから料金を損したわけだが気持ち悪さが先にたった。同時に、私はゲイではないと確信した。という話を某先生にしたら、それは相手が悪かっただけだ、と言われたっけ。いや、やはり私は女好きである。歴代の名馬の中で最高に好きなのは牝馬のジェンティルドンナである。だいぶ話がそれた。泣く話に戻る。クライバー指揮の「バラの騎士」の映像(ミュンヘンの方)を見たときも相当泣いた。世の中にこんなに甘美な世界があるのかと思った。吉田秀和氏がかつて新聞に「オペラハウスに来るご婦人方は、ほんとはオペラを聴いて泣きたいのだが、泣かせるもんなら泣かせてみろって身構えている。Rシュトラウスはそんなご婦人方の涙のスイッチの入れ方を知っていて、簡単に泣かせる」と書いていた。ご婦人方に限らず、男の涙のスイッチも入ります。とまあ、今回は大分プライベートなことを書いたが、今のところ、差し障りのある相手はいないのでへっちゃらである。そういう相手ができたらこの手の記事は削除します。なお、文中の「半分、ゲイ」は、「半分、青い」にかけたものである。

ゆうこを通じて被災者を想う

2018-09-26 09:25:17 | 日記
スズメはりょーちゃんからの復縁の申込みを「ありがとう、りょーちゃん、でも、それは」で却下(半分、青い)。娘にも「結婚は好きな人とするもの」と言ってもらって(後押し?ずいぶんと聞き分けのよい子だ)、いよいよリツと再婚?「マグマ大使」の笛がリツの手に渡ったことで、え?りょうちゃんと復縁?とも思ったが、いや、これからはずっと近くにいるからもう必要ない、という意味だったのかもしれない。しかし、普通じゃない脚本だからどうなるかは分からない。再婚すれば「マル2バツ1」。そう、このご時世、バツ1くらいで人生経験豊富などといってられない。ドイツの社民党の二大巨頭のシュレーダーさんとラフォンテーヌさんは両者ともバツ3マル4で拮抗している。私もがんばってマルとバツを増やそうか。しかし、今日の放送は悲しかった。悪い予感は先週の土曜日の回からあった。ゆうこは仙台在住だし、スズメたちのプレゼンの場に現れて最後空に飛んでいった蝶はゆうこじゃないかと思った。でも、ブログに書いたらそうなりそうなので書かなかった。今日の回でゆうこが見つかった。だめだった。「あまちゃん」ではみんながダメだと思ったユイちゃんが無事で、その後、現実の紅白へとつながって、ああ、無事だったからこそだ、よかった、と思ったものだ。だから今度の脚本家さんも登場人物を犠牲にしてお涙頂戴などというあざといことはしないでね、と願っていたがだめだった。しかし、考えてみれば、現実には、多くの方が震災で犠牲になり、そのご家族や知人が悲しい思いをされた。そういうリアリティを描いて、決して当時の人々の思いを風化させないというのが映画やドラマの意義なのかもしれない。ということで、ゆうこちゃんを通じて現実の被災者に想いをはせた悲しい悲しい朝であった。

BWV82は大坂選手の「がまん」とは無関係だった話

2018-09-26 08:38:11 | 音楽
ムジカリッシェ・ガルテン横濱の演奏曲目で重要な一曲のことを書いていなかった。中川郁太郎さんが指揮をしながら歌ったBWV82(バス用ソロ・カンタータ)である。中川先生が振る合唱団で歌わせてもらうつもりであるというのに書き忘れたのは失態であった。いや、歌は素晴らしいに決まっているから(先生だし)、曲についてのことを徒然と。この曲は、カンタータを歌うそっくりな二つの会のうち元からある方(番号順に歌う方)で歌ったことがある。にもかかわらず、私は重大な勘違いをしていた。冒頭の歌詞を「Ich habe Geduld」(私はガマンをする)だと思っていたのだ。「がまん」と言えば、大阪なおみ選手が全米OP開催中に覚えてはまった言葉。なんとタイムリーな。でも歌詞の訳としては「がまん」より「忍耐」の方がいいな、「辛抱」はちょっとな、とか思っていた。そしたら根底からがらがらぽんである。冒頭の歌詞は「Ich habe genung」(私は満ち足りた)であった。道理で。「Geduld」だったらあるはずの語尾の「t」が聞こえないなぁ、おかしいなぁと思っていたらそういうことであった(ここに書かなきゃこんな恥かきは誰にもばれないものを、ブログのためには自分の名誉もかなぐりすてる私である)。それにしてもこの曲、あちこちがマタイ受難曲と似ている。その冒頭の曲は、あのアルトの名アリア「Erbarme dich」とメロディーがそっくりだし、第3曲(白眉)の「まどろめ」は、「Blute nur」を長調にした感じである。レチタティーヴォの中で「Welt」(世界)への決別を歌ってるところは「Mache dich」の中間部と相通じる。はたして、この曲とマタイが初演されたのは同じ1927年である。ということで、ここまでがBWV82の話。ここからは、私が入ってるカンタータを歌う会の話。二つあって中身はそっくりだが、元からある方は番号順に歌うのに対し、私が鈴木架哉子先生や仲間と1年前にたちあげた「歌いまくる会」は作曲年代順である。私はこれまでどちらの会についても人集めに奔走してきた。なぜか。「歌いまくる会」は自分が主宰だから当然である。じゃあ元からある方は?それには切実な理由がある。ここにはテナーがいない。だから私がテナーを連れてこないと私がテナーを歌わなければならない(アルトを歌えない)からだ。「歌わなければならない」って、いやなら来なきゃいいじゃん、と思うだろう。たしかにそうで、実際、テナーを歌えと言われてやめた合唱団がある。しかし、この会(元からある方)は、私はBWV47から入って次回がBWV134、その間7年間ずっとがんばって来た(今年、KMCと重なって休んだ数回を除き無欠席である)。かなり長い間、男は私一人で、だからバスもテナーも、そして「本業」のアルトも全部歌ってきた(合唱のところは、目立つところを拾って)。そういう自負又は思い入れがあるからそう簡単にいやだからやめるとは言えない。しかし、そうやって私がテナーを歌ってると誰も本気でテナーを連れてこようとしない。だから、こないだとうとうアフターのガストで「もう来ない」と言った。が、そう言ったって来るに決まってるし、みんな分かってるから「言っただけ」でおしまいである。とりあえず、次回はKさんが来て下さるから(たのもしい、よろしくお願いしますね)、ひとまず安心。まったく、この会は、私にとっては、そう言う意味で「自転車操業的」である。

ムジカリッシェ・ガルテン横濱(思ひでぼろぼろ)

2018-09-25 08:36:02 | 音楽
ムジカリッシェ・ガルテン横濱のコンサートを聴いてきた。バッハのモテットとカンタータ、それにシュッツのGeistliche-chormusikとKleine-geistliche-Konzerteと言ったらこれはもう私にとって鴨がネギをしょってやってきたような黄金の組合せ。しかも、少数精鋭、各パート二人ずつだからダブルコーラスは一人1パート。こういう感じの編成で私はずっと歌ってきたから興味津々である。いやー、充実の一語。たっぷり聴かせていただきました。以上総論。以下各論を徒然と。しょっぱなからソロ。Nさんが「Kleine……」から「Eile,mich」を歌う。この曲はこの曲集の冒頭の曲で人気曲。Nさんがどうだと言わんばかりに美声を響かせていた。私、次の某会のソロ・コーナーで「ミミ」を歌おうと思ってたけどアルトの音域にしてこっちにしようかな(ミミとはえらい違い。因みに、この曲の中に「ミミ」ではなく「ダダ」という歌詞が出てきます。ウルトラマンにも「ダダ」という宇宙人が出ていた)。前半の最後の曲はバッハのモテット4番。ダブルコーラスで一人1パートになったのはこの曲。このコンサートを教えてくれたソプラノのKさん、さすがの存在感。あと、別んとこでご一緒のHさんがカウンター・テナーでアルトを歌ってる(並び順だとテナーの位置だったけどやっぱアルトだったって(誰に言ってんだか))。カウンター・テナー仲間がまた増えました。このモテット4番は思い出の曲。室内合唱団で私が学生指揮者だったときいちばんやりたかった1番(Singet)が仲間から反対されるのは目に見えていたので、ひそかに用意した「隠し球」が4番だった。曲決めの日、案の定、1番が却下されたので、じゃあーと言って出したのが4番。学生指揮者の提案を二度連続して却下するわけにはいかないだろう、と見越しての作戦である。で、まんまとコンサートで歌うことになったのだが、そんなわけで、この4番には私は複雑な思いをずっといだいていたのだが、いや、最近(というか今頃)どんどん好きになってきた。名曲である。今回聴けてうれしかった。学生時代の思い出の曲と言えば、後半冒頭の「Geistliche……」からの「Selig」もそう。学生指揮者になって最初に振ったのがこの曲で、で、私、「Selig」で始まる冒頭を、意味が「幸せ」だからってんでがつーんとフォルティッシモでやろうとしたら、聴いてらした鈴木仁先生から「ありえない」とのお叱り。つまり、「Selig」の「e」は長母音だから、優しく伸ばさなければ音楽にならないということだった。今から思うとお叱りは当然。まあそのときは何も知らない貧乏学生だったので(「貧乏」はは関係ない)。で、その冒頭、今回のコンサートでも優しく伸ばしてましたねー。実力者揃いだからアカペラもとってもきれいでした。同じ曲集からもう一曲歌われたのが「Das Wort」。これは最近、シュッツを歌う会で歌った話をブログに書いた。聴き応えも歌い応えもする曲です。で、コンサートの最後を飾ったのがBWV106。カンタータを歌うとなると、モテットやシュッツ以上に少数精鋭さが際立つ。ガンバやリコーダー付きのオケ相手に負けてなかったもんね。この曲についても思い出がありまして。私、室内合唱団には半年遅れで入ったため、1年んときの6月の演奏会には乗らなかった。その演奏会で歌われたのがBWV106。だもんだから、B子(私が学生指揮者のときのソプラノのパートリーダー。このブログではおなじみ)は、106番の話が出るたびに「いーじまくんが歌わなかった106番」という風に余計な形容詞を付ける(ほんとに40年間変わらず。私はその都度寂しい思いをした)。その106番、こないだ歌いまくる会で歌いました。もりあがりましたねー。ってことで、どの曲もなにかしらの思い出とリンクする今回のコンサート、聴かせていただいてありがとうございました。聴きにいって本当にようございました。  

民族

2018-09-23 14:23:12 | 日記
西域(中央アジア)はトルコ系といっても、それは以前、この地を支配したのがトルコ系民族だった、ということであって、トルコ系以外の住民の占める割合は決して少なくないらしい。そういえば、歴史上、地中海東岸から中央アジアまで広汎な地域を支配したオスマン・トルコだって、支配者がトルコ系ということであって、住民は様々だった。だいたいからして、トルコ系と言っても、トルコ系の言葉を話す人たちというこで、必ずしも決まった民族を言うわけではない。なーんてことを本で読んでると、いったい民族ってなんなのだろうと思うし、「日本は単一民族」ってセンテンスがまったくナンセンスに思えてくる。だいたい、アイヌの人がいたわけだし、それ以外だって、大きく分けて、北方から入ってきた人と南方から入ってきた人がいる。とてもじゃないが「単一」だとは思えない。結局、トルコ人の定義と同様、日本人=日本語を話す人ってことかな、と思ってしまう。そんなあやふやな「民族」を理由にいがみあうって変だなー。猫は、それこそいろんな品種がいるが、例えば、フランスの「猫の集会」で日本猫が肩身の狭い思いをするとは思えない。だって、人間のことを同類だと思うくらいだもんな。

「ゴールよりもスタートを切っていたい」

2018-09-23 08:17:30 | 日記
津曲(つまがり。有田哲平演じる「半分、青い」の胡散臭い登場人物)は、リツたちが開発した扇風機を盗んで他社に売り込みを図った。改心して「戻したから盗みではない」と言っているが、刑法的には、いったん占有を移したから窃盗既遂です。その津曲、好きなラーメンは「サッポロ一丁」だって。「サッポロ一番」と「出前一丁」の合体ですね。私は「サッポロ一番」で育ちました。津曲の妹の緑大好きさんを演じてるのは小西真奈美さん。初めて見たのはちゅらさんのお医者さんの役でした。さて、その「半分、青い」、脚本家の北川悦吏子さんによると、「ゴールよりもスタートを切っていたい」がスズメのテーマであり、作品自体のテーマでもあるそうだ。はっと思った。私、完全にゴールばかりを考えていた。猫と肩を寄せ合いながら、人生を逆算して、どう終末にたどりつくかばかりを考えていた(年金はいつからだよな、でも国民年金だから大して出ないよな、でも生命保険を解約すればいくら入るよな等々)。しかし、それでは人生楽しくない。私はあと3か月で40歳+ウン十歳である。よしっ、誕生日が来たら、リセットして、私の歳=実年齢-40、ということにしよう。で、ばりばり働いて、おおいに青春を謳歌しよう(実年齢から40引いたら間違いなく青春時代である)。てな具合に朝ドラで人生が変わってしまうかるーい私です(たしかに頭は若い……というより幼稚である)。そう言えば、次の朝ドラは、即席メンを発明した夫婦の物語である。影響され、ラーメン屋になるとか言いだす自分が見えている。ヒロインは安藤サクラさん。超期待。

「ボクの名はミミ」

2018-09-22 17:04:24 | 音楽

(承前)ロドルフォ(男声)がだめならやはりミミ(女声)である(ミミは、一つ前の記事に書いた、男に手を握られる女性である)。男心をミミに託して歌おう。少し変ではある。一応男である私が「私の名はミミ」を歌うということは「ボクの名はミミ」ってことか。まあいい(よくない?)。ところでミミはソプラノ。音を下げてアルトの曲にする必要がある。まかしといて(誰に言ってるの?自分にです)。最近、無料の楽譜作成ソフトにだいぶ慣れてきて、一つ一つ音を打ち込むのではあるが、結構すぐできるようになった。それを使って、元の調で楽譜を作ったら、ワンタッチで移調譜の出来上がりだ。早速とりかかる。2時間くらいでピアノ譜ができた。移調する前に再生してみる。強弱やテンポの変化はないから、原曲からはほど遠いが、それでも感じは出ている。甘美ですねー。さて、何度下げようか。ってその前にミミのパートを入れなきゃいけないんだけど、いっかー。鈴木先生は歌のパートなんか書いてなくなって完璧に合わせてくれるからね。

ボエームごっこ(やるなら一人が安全)

2018-09-22 16:29:02 | 音楽
今日の「半分、青い」でスズメが元夫と離婚後初めて対面してかけた言葉が「りょうちゃん、売れてよかったね」。もう泣きそう。私だったら何と言われるか。「まーちゃん(なんて言われてなかった。だからこれはフィクションである)、売れてよかったと思ったら○○と○○○でお金をすってしまって残念だったね」てなとこ。それにしても、今週の朝ドラは胸キュン祭りであった。私、すっかり欲情して、表現がよくない、さかりがついて、もっとよくない、とにかくそういう感じで(どういう感じだ)、久々に男の歌でも歌おうかって気になって、練習場にちょっと早くいって「冷たい手」(プッチーニのボエームの中のロドルフォ(テナー)のアリア)を歌おうと思ったら男声が出ない。そりゃそうだ。普段、人に、テナーやバス歌えって言ったって無理だからね、と言っておいて、自分の都合で歌おうたってそうは問屋が卸さなかった。因みに、私が考案した「ボエームごっこ」って遊びがある。それはこんな感じ。チャララチャッチャー……え?何が始まったかって?口三味線で「冷たい手」のイントロを歌うのだ。じゃ、もう一回頭から。チャララチャッチャー、チャララチャッチャー、(以下rit)チャララ、チャララ、チャ、ラ、ラ。ここで、近くにいる女性の手を握る。相手の女性に「あっ」と言ってもらったら「ポーン」と口三味線を入れて、で、おもむろに「ケジェリダマニナー」と歌い始める。つまり「冷たい手」の舞台の再現である(暗い部屋の中で二人で鍵を探しているうちに手を握ってしまう、その手が「なんて冷たい手」ってわけだ)。うまくいけばこんなに胸キュンな遊びはない。しかし、危険だ。なにせ女性の手を握るからセクハラ認定のおそれがある。とにかく相手がどう思うかでセクハラかどうかが決まると言うなら、まず、ロドルフォ(に扮する男)はいい男で、イントロの口三味線を上手に歌わなければいけない。そうでなければ、手を握ったところで「あっ」と言ってもらう代わりに「あ”っ」と怒鳴られてビンタを喰らうのがオチである。私?私は、ビンタをもらうのが確実だから(イントロの口三味線は誰にも負けないんだけど、いかんせんもう一つの要件をどうにも満たせない)、この遊びは一人でやる(一人ボエームごっこ)。つまり、右の手で握るのは自分の左手。これなら決してセクハラにはならない(続く)。

♪Das Wort ward Fleisch(Musik)

2018-09-21 06:12:13 | 音楽
シュッツを歌う会で、「Geistliche-chormusik」(宗教的合唱曲集)から「Das Wort ward Fleisch」(言葉が肉体になり)を歌う。素晴らしい曲。「voller Gnade」(満ち足りた慈悲)の満ち足りること!余計なことはしなくても、音楽自体が満ち足りるようにできている。まさにシュッツは言葉がそのまま肉体になり、いや、音楽になり、である(Das Wort ward Musik)。もともとシュッツを歌う会を作ったのは、「Geistliche-chormusik」を歌うため、そして、「ここは強く、ここは弱く」とか言わないで、言葉に忠実に歌う、そうすれば自然に音楽ができると考えて、それを実践したかったから。しかし、現実はなかなか手強い。さらに、団員の変動で一時テナーがいなくなった。てなーなことで(ダジャレです)、「Geistliche-chormusik」(5声や6声が多い)が難しくなり、受難曲や四声の曲、さらにブクステフーデ等にシフトしていった。このブクステフーデがまた面白く、いっときブクステフーデを歌う会の様相を呈していたが(その過程で、ヨハン・シェレなんて面白いのも見つけた)。最近、ありがたいことに、素晴らしいテナーが三人戻って来たり新規に入ったりして(ただし、この三人が一同に会したことはまだない。合唱人はみんな掛け持ちで忙しいのである)、声部の多い曲ができるようになった。ということで「Geitliche-chormusik」を再開し、その手始めに選んだのが「Das Wort」であった。今後、再び、この曲集からたくさん歌って行こう、糸を紡ぐように(私らんとこは、演奏会ってないのです。あればいいかな、と思うこともあるけで)。ちなみに、こないだの会では、ヒエロニムス・プレトリウスの「カンターテ・ドミノ」も歌った。プレトリウスといっても有名なミヒャエルではない。だが、室内合唱団の私の同期にとっては、プレトリウスと言えばミヒァエルよりもヒエロニムスである。そう、学生時代に歌ってからずっと心に残った曲。こればかりは以後歌う機会は皆無で、今回40年ぶり。なかなかの難物であるが、ちびりちびりとやっていこう。で、この会も、団員募集中ですから。歌いまくる会ともどもごひいきのほど、よろしくお願い申し上げます。

しじゅーでキスしてなにがわるいのさ

2018-09-20 11:08:50 | 日記
昨夜、酔っ払って家に着くと11時。おっ、「半分、青い」のBSの再放送に間に合う!で、チャンネルを合わせて(表現が古い)待つ。いよいよ始まる。本日4回目……と思ったら、次に意識を回復したのが日付が変わった0時半。見損ねた(十分見てるんですけど)。悔しい(だから十分見てるっていうのに)。で、録画したやつを再生して4回目の視聴を果たした(録画してるんならいちいち決まった時間にテレビをつけることないのに、そこが男心の分からないところである)。いやー、思い出しても、いい……というか美しい回であった。アサイチのMCの華丸さんも泣いてたもんね。だが、このドラマには、話の展開が急すぎることもあってアンチが多い。アンチってやつは、なにごとにつけてもケチを付ける。昨日のキス・シーンだって「40歳でキスなんて気持ち悪い」と言ってる人がいた。しかし、この批判こそはおおいに批判されるべきである。なんでしじゅーでキスしちゃいけないのさ。キスに年齢制限があんのけ?何歳以上何歳未満とか。ナンセンスである。そういえば、亡くなった野際陽子さんは57だかなんだかでドラマで佐野史郎さんとしたキスがほんとに久々のキスで、それが最後のキスになったと徹子の部屋でおっしゃっていた。へー、華やかな芸能人もプライベートは結構地味なんだなー、と思った。それにしても野際陽子さんは最後まできれいだったなー。