拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

古楽のソルミゼーション(3年間ほっつき歩く放蕩息子)

2014-04-30 11:05:10 | 音楽
古楽には独特のソルミぜーション(移動ド)があって。音階がドからラまでの6個しかないから(ヘクサコード)、♭シより上に行こうと思ったら、途中で読替をしなきゃいけなかった。例えば、「レ、ミレミファソー、ソ、ラソラ♭シドー」(シュッツにありそうな音型)を歌う時、「♭シ」なんてないから途中で読み替えて、「レ、ミレミファソー、ソ=レ、ミレミファソー」って具合(読替が必要な場合はなるべく早い段階で、と言うなら「レ、ミレミドレー、レ、ミレミファソー」)。こうやって読み替えて上がった一つ上のステージは調性的に別の世界。そこに行ったっきりなかなか戻ってこない。私、このことが近代の調性音楽に慣れ親しんだ人が、譜面づらは簡単なのにルネサンス・バロックの音取りに苦労する原因ではないかと思う。R.シュトラウスがいきなり半音上又は下のピッチに移って難しいとか言っても、すぐ元のピッチに戻ってくる。私の子どもの頃の2時間家出みたいなもの。それに対し、古楽のソルミゼーションは、家を出て3年戻って来ない放蕩息子みたいなもの。放蕩息子と言えば、いきなり時代とジャンルをすっとびますが、ストラヴィンスキーの「放蕩息子の成り行き」は面白いオペラ。フェリシティ・ロットが出てる映像を見た。この人は何を歌ってもいい!

マタイ受難曲の元曲(ハスラーとの間に賛美歌の存在)

2014-04-29 12:44:53 | 音楽
バッハのマタイ受難曲に何度も出てくるコラールのメロディー「(移動ドで)ミー|ラーソーファーミー|レーーミ」は、もともとハンス・レオ・ハスラーの世俗曲「私の心は千々に乱れ」であることはよく知られてますが、この二つの間には賛美歌「血潮したたる」が存在します。Wikiドイツ語版(日本語版は主語が抜けててわかりにくい)で仕入れた情報を時系列で整理すると。ハスラーが「千々に」を作曲(1601年に発表)。賛美歌詩人のパウル・ゲルハルトがラテン語の詩をドイツ語に翻訳(1656年)。賛美歌作曲家でゲルハルトの仕事仲間だったヨハン・クリューガーが、ハスラーの曲のリズムを簡単にしたものをゲルハルトの訳詞に付ける(これで、賛美歌「血潮したたる」が完成)。で、バッハがその賛美歌をマタイ受難曲に用いた、ということ。さて、クリューガーがリズムを簡単にしたというハスラーの元曲のメロディーは「ミー|ラーソファーミ|レーミーシー|ドードシーシ|ラー」。楽譜には「3」と書いてありますが、アウフタクトを除いた一小節目は六拍子っぽい。でも六拍子だと次の小節がシンコペーションになる。どっちで歌ってもシンコペーションになる(だったらその場その場で使い分ければ良かったりして)。これを簡単にしたわけですね。詩は、「Mein Gmueth ist mir verwirret(私の心は混乱し)」で始まり、「verirret(迷う)」「kein Ruh(安らぎはない)」等々、まるでシューベルトの、というかゲーテの「糸を紡ぐグレートヒェン」の世界。しかし音楽の雰囲気はかなり違って、感情を優しい衣で被ったハスラーに対してシューベルトの方は狂気むき出し(ロマン派ですねー)。

顔つきで曲想が決まる?

2014-04-28 20:14:42 | 音楽
(承前)私が似てると思ってるカンタータ第82番の子守歌が長調で、マタイの「血塗られよ」は短調。歌詞の内容の違いが長調と短調の違いになった?でも、昔は調性の意識は薄かったし。一つ前の第81番のテナーのアリア(Die schaeumenden Wellen von Belial's Baechen~ベリアル(堕天使=悪魔)の小川の泡立つ波は怒りを倍加する)の出だしの「ディー・ショイ・メン・デン・ヴェル・レン・フォン」に付いてる音なんか、(移動土じゃなくて移動ド。どんな土じゃい)「ソー・ミド・ソミ・ドソ・ミド・ソミ・ドソ」って具合にやたらに元気。元気は元気でも悪魔だからなー、こんなに健康的でいいのだろうか。しかし、その後「ベーリアルス・ベッヒェン~ベリアル(悪魔)の小川」で短調になる。ここらへんは調性の意識の現れか?というか、その前の「ミド・ソミ・ドソ」も健康的なんかじゃなく、怒りを感じながら歌わなければいけないのかな。つまり、怖い顔をして歌う長調は怒りを現し、笑顔で歌う短調は喜びを現す。私はなんでもかんでも引きつって歌う(難しいんで)。ところで、夜想曲って、長調と短調どっちのイメージなんだろ?ショパンのノクターンは、大体半々のようだ。

バッハのカンタータ第82番は、ますますマタイ受難曲に似てる!

2014-04-28 10:48:49 | 音楽
カンタータ第82番(バッハ)の冒頭(ソ、ドレ♭ミーレド……)がマタイ受難曲の「Erbarme dich」に似てると書きましたが、このカンタータの中で、「子守歌」と呼ばれる珠玉の第3曲「ミファーミレドー、ド、♭シラーソ、ラソーファミ……」、これを短調にして、ちょっと変形したらどうなるか。「ドレーシドー、♭ララソ、ソソファ……」!マタイの「Blute nur」(血塗られよ)ですよ!バッハは、このカンタータに愛着を持っていて、いろんな曲に転用したそうですが、「子守歌」のマタイへの転用の発見は世界初!?(今まで、この手の「大発見」を当ブログに何度も書きましたが、発見者が私なんで信用する人はほぼなし。私を「男おぼかた」と呼んでちょうだい。)因みに、第1曲とマタイが似てることは、みんなが言ってる。それから、このカンタータはバスのソロ・カンタータですが、「子守歌」はもともとアルト用に着想されたものだし、バッハ自身がソプラノのための編曲をしたそうだ。

転用

2014-04-27 08:14:18 | 音楽
バッハのカンタータ第82番の冒頭「ソ、ドレ♭ミーレド……」を聴くと、おろっ、マタイ受難曲の「Erbarme dich」と同じか!?でも、似てるのはここまで。バッハでは、こんなのは転用のうちに入らない。第81番の終曲のメロディーは、モテット第3番「Jesu meine Freude」と同じ。これもまだ可愛い。曲によってはまるまる転用があるし。プッチーニは、学生の時に作ったグロリア・ミサのアニュス・デイをマノン・レスコーに転用したし、ボエームの第3幕の「さようなら、甘い(なんとか)」は歌曲「Sole e amore」の転用。ロッシーニは、「ランスへの旅」を「オリー伯爵」にまるまる転用……と聞いてたけど、ぜーんぶ一緒というわけではないようだ。

「ソ」「ラ」「シ」が重ねってしびれる(カーネーションの主題歌)

2014-04-26 08:33:27 | 音楽
毎朝、再び「カーネーション」の主題歌(椎名林檎)が聴ける(以下、移動ド)。上声部「ソドファシミラ……」に対する下声部「ラレソドファシ……」、音がぶつかってるはずなのに可憐に響く序奏を経て歌。1番はボロン、ボロンという伴奏。2番に入ると、弦が長い音で入ってくる。まず「ソーーー」、これに「ラーー」が重なって、さらに「シー」が重なる。思いっきりぶつかってるのに、し、しびれる。某合唱団で、ブルクハルト(20世紀の作曲家)の曲で、「ソ」と「ラ」と「♭シ」が同時に鳴るところ、やはり不思議で魅力的な音。

雑草ちゃんを眺める雑種ちゃんたち

2014-04-26 07:42:31 | 

雑草ちゃんを眺める雑種ちゃん。三毛猫(サビを含む)は雑種なんだと。「雑」には「混ざった」「いい加減」「(和歌なんかで)どれにも属しない」とかの意味があるそうだけど、「雑種」の「雑」は「混ざった」の意味ですね。「雑草」の「雑」は「属しない」?こんだけきれいな花を咲かせてるんだから「いい加減な草」のわけはない。「雑木林」の「雑」も同じか?(昔、大きい木の林=象木林だと思ってた)。じゃ、「雑巾」の「雑」はなんだ?

金鶏の思い出

2014-04-25 06:12:36 | 音楽
金鶏(リムスキー・コルサコフのオペラ)は、1989年のボリショイ・オペラの日本公演で聴いて、いやー、面白いオペラでござんした。ドドン王ってぇのが女好きで、この時某総理大臣が女性問題で就任後あっという間に辞任して、それを聞いたフェドセーエフ(この時の指揮者)が「ドドン王みたいだね」と言ったとか。それから、シェマハの女王(コロラトゥーラの役)が、なまめかしく、聴くからに難しそうなアリアを歌う。このときはベテランのイリーナ・ジューリナと新人のエレナ・ブリリョーワのダブル・キャストで。私が聴き、NHKが放送したのはジューリナの方でしたが、ブリリョーワが大評判になって。私、この少し後のソロ・リサイタルで夜の女王他を聴き、なるほど評判どおりと思ったのですが、その次に聴いたとき(さほど年数は経ってない)不調そうで、その後名前を聞かなくなりました。歌いすぎたんでしょうか(それでも、かの市原多朗さんは、フアン・ポンスに「歌わなきゃ声が持つってもんでもないよ」と言われたとか)。金鶏の話に戻って。私、聴いた後頭にやきついたのは二つ。一つは金鶏のテーマ(移動ドで、ドドミドソーー)。もう一つは、第二幕の冒頭で、二人の息子が差し違えて死んでるのを見てドドン王が泣くところ。「ああああああああああああああああ|ああああああああああああああああ」((ナチュラルがうまく変換されないので、(ナ)で表す)ファ♯ドファドミ(ナ)ドミド♯レシレシ♭シ(ナ)レシレ|♯レ(ナ)シレシ(ナ)レ♭シレシ♯ドラドラ♯ソ(ナ)ドソド)。奇々怪々!白状します。私、歌詞を間違って覚えてた。「あいあいあいあいあいあいああああ|あいあいあいあいあいあいあいああああ」だと思ってた(哀哀……!?)。「『アイアイ』って『おさーるさん』じゃあるまいし」と書こうと思って(またつまらないこと)、その前に楽譜を見とこ、と思って見たら誤りに気づいたのでした(それでも、しっかり『おさーるさん』のネタを書いてる)。

グルベローヴァの信者って、間違いではないですが

2014-04-23 08:07:11 | 音楽
声の趣味もいろいろ。私は、エディタ・グルベローヴァのツェルビネッタ(R.シュトラウスのナクソス島のアリアドネ)を初めてショルティのレコードで聴いたとき「空前絶後」と思い、それからグルベローヴァのオペラ、リサイタルに通い詰めた。ソロ・リサイタルでは、最後の歌が終わっ後、舞台袖に駆けつけた聴衆と握手をしてくれる。これで一度味をしめた私は毎回握手をしてもらってた。こういうイレギュラーなのだけでなく、一度サイン会(今はない六本木WAVE)で握手をしてもらったこともある(サイン会に並んだなんて後にも先にもこんときだけ)。「グルベローヴァと握手」!これは世の誰もがうらやむことだと思い、プリントゴッコ(販売終了)で年賀状に「グルベローヴァの御手を握りしめる私」の図を刷って出した。そ、そしたら複数の友達の反応=どっかの宗教に入った!?(最近は熱烈のファンのことを「信者」と言うらしく、その意味では間違いではないけれど。)。歌に興味のない人に出したのが間違いだった。歌の仲間なら……で、当時入ってた合唱団の新年会(Fさん宅)に、グルベローヴァのビデオ(後宮からの誘拐)を持って行き(グルベローヴァの素晴らしさを人に知らせるのが使命だと思った)、Fさんに拷問のアリアを再生してもらう。ところがこのアリア長くて、一番みんなに聴かせたいとこ=後半の三点Cをピアニッシモでながーく伸ばすとこではみんなおしゃべりで忙しくて聴いてない。ちょ、ちょっとみんな、ここを聴きそびれたらもったいないよ、で、Fさんに頼んでもう一度再生。やっぱりおしゃべりの花。オー、ナーメンローゼ・トラウアー(フィデリオの二重唱の歌詞のもじり)♪自分の趣味を人に押しつけてもだめだなー、と学習した私でした。

古典派より前に広がる大銀河

2014-04-22 17:36:22 | 音楽
(承前)一つの演奏だけを「絶対的」と言うなんて偏狭だと思うけど、当時(私が紅顔の美少年だった頃=昨日)は、今ほど多様じゃなかったもんね。ピリオド奏法なんて聞いたことなかったし、作曲家だって「ばらシリーズ」の「音楽」では、バッハもヘンデルも古典派で、それ以前はジュラ紀か白亜紀の扱いだった(ジュラ紀にいたのはアロサウルス、白亜紀がティラノサウルス)。因みに、「ばらシリーズ」は私が中学時代に売ってた参考書。コント55号がCMをしてた。こんな感じのCM。キンちゃん「ばらシリーズ読むとためになるよ~」ジローさん「そうじゃないでしょ?タレ目になるんでしょ」(すったもんだ)「ためになる~」。他に「馬のマークの参考書」ってぇのもCMやってたなあ(ソミー♯レミーシシレーレドラソ)。話を戻して。今ではとんでもない。私が大学の時入ってた古楽の合唱団は、バッハを「新しすぎる」って言う人がいて、曲を演奏会にのせるか否かの攻防戦が繰り広げられた(私は親バッハ派)。とにかく、古典派以降が銀河系とすると、それ以前に別の広大な銀河系が広がっていて、バロック期は一番近いからアンドロメダ銀河(銀河系のお隣)。ルネサンス期は……うっ、もう知ってる銀河の名前が尽きた、なむさん(汗)……「M78星雲」。中世は「M87星雲」(ウルトラマンの故郷は、当初M87星雲だったのが、台本の誤植で78になったんだとさ。)。

絶対的名盤ってなに?

2014-04-22 08:21:50 | 音楽
いくつか前のブログに「絶対的名盤」って書いた。その昔、「名曲名盤○○選」というのがあって(今でもあるのかな?)。複数の批評家が曲ごと好きな演奏に投票して上位が「名盤」というもの。で、第九については、批評家の誰も彼もがフルトヴェングラーのバイロイトの第九を1位に推して、で、絶対的名盤となったのでした。私、この演奏すごいと思うけど(ここから、天に向かって唾を吐く)。これって、現役時代の王選手が見逃した球を審判は必ず「ボール」と言ったのと似てる。そもそも「絶対的」ってあるのか?AKB48の「絶対的エース」だって「あたしのことは嫌いでもAKB48を嫌いにならないでくださいっ」って言ってた(キンタローの物真似の印象が強い)。ってことはファンじゃない人だっているってことだ。フルトヴェングラーの演奏は、音楽が生き物のよう。これを「ディオニュソス的」と言えば格好いいが「妖怪的」だと感じは違う。ドイツ人は、ずっと妖怪を聴かされていて、そこにカラヤンが出てきて新鮮な息吹を感じたんだと。ずっとステーキを食べてて、お茶漬けが美味しいごとし?私は、自分の趣味と合う批評家さんが褒めてるものは聴こうと思う(逆もまたしかり)。故黒田恭一さんは、「声楽ファンにとってのグルベローヴァは、猫にとってのまたたび」とおっしゃって、この方は絶対声楽好きだな、と思って、よくその批評を読んでました。