拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

かんちょうごっこ

2022-12-31 09:04:33 | 音楽

第1章 再開
年末のクリスマスオラトリオの通唱会はコロナ禍でお休みだったが、いよいよ再開。主宰者様のご苦労により、楽しい時間が戻ってきた。本当にありがとうございました。

第2章 顛末
この会は、毎回バロックトランペットの奏者が参加され、「本物」の音を聴けるのが楽しみだった。ところが、今回、事務局からの通信によると、今年は金管のエントリーがない、みんなでトランペットのパートを歌うしかないとのこと。歌うんだったら枯れ木も山の賑わい、ワタクシがクラリネットで吹きます!と申し出。すると、これが呼び水になったか、他のパートの方からエントリーがあり、私は本番前にお役御免となった(辞退した)。ところが分からないものである。その方が前日にキャンセル。再び、みんなで歌うしかないとの通信が回ってきた。歌うんだったら枯れ木も山の賑わい、ワタクシがクラリネットで吹きます!と復帰の申し出。ということで、パソコンの「ゴミ箱」のデータを「元の位置に戻す」ごとく、トランペットのパートをクラリネットで吹き、その合間にアルトのパートを歌うことになった。これが事の顛末である。

第3章 楽譜
違う楽器をクラリネットで代用する場合、しなければならないのが移調譜の作成。この曲はニ長調(♯二つ)だがこの会はバロックピッチ(半音低い)なので、実質は変ニ長調(♭五つ)。♭系の場合はクラリネットはB♭管を選択するから、結局、移調譜は♭が二つとれて変ホ長調(♭三つ)になる(さらに、トランペット譜は「in D」で書かれているのでもう一段階ややこしくなるのだが、読む方も退屈だろうから割愛)。そうやってできた移調譜の一部がこれ。

第1部の第8曲(バスのソロ)のトランペット1stの一部である。速いし、音符が細かいし、途中で♭が一個増えて四つになるし、で、目立つし、なので一番練習した曲である。だが、一番思い入れを込めて吹いたのは次の第9曲(第1部の終曲コラール)。

大きい音符がトランペットで、歌詞付きの小さい音符はアルト。通唱会では、隙を見ては歌おうと思っているのだが、楽器のパート譜と合唱譜を交互に見る余裕はないので、パート譜にアルトのパートを書き込むのが私流である(千人通唱会で、他の楽器の方々が休み時間に私の楽譜を覗いてあきれていた)。で、思い入れのワケはこういうワケ。30年近く前だろうか、合唱指導で有名なGさんの合唱団に2か月だけいたことがあるのだが、練習のときG先生がこのコラールがどれだけ素晴らしいかを現すため、トランペットを口三味線で歌われたのだ。♪たりらっら、たりらっら、たーりーらーたりらりらー……その口三味線が本当に素晴らしくて、曲の壮大さが十二分に感じられて、私にとって、クリスマスオラトリオで真っ先に思い出すのがこのコラールになった。で、図らずもトランペット・パートを吹くことになった今回、おお!あの「たりらっら」を吹けるんだ、と喜び勇んだのである。なお、半音低いピッチはクラリネットの管の途中を抜いて作れないのか?と思う人がいるだろうか。管を抜いて半音も下げることは不可能である。それができればA管(B♭より半音低い管)はいらなくなる。

第4章 練習
私はこれまで不真面目であった。歌も楽器もさして練習しなかった。まあ、それなりにカタチは作れるのだが、真の達成感は感じていなかった。だが、カンレキもすぎて(って、いつの話だい)、ぐるっと人生を一周したところで反省した。ちゃんと練習しよう。で、ちゃんと演奏しよう。きっと、その方が幸福度が高いに違いない。その第1歩として、最初はゆっくりやってみよう。誰かがネットに書いていたが、完璧に演奏できるまでテンポを落として練習するメリットは、それによって「成功体験」を神経に刻み込むことにある、と言う。なるほどー、おおいに納得。指導者によっては、本番の三日前までイン・テンポで演奏させないそうだ。よし、いただき!三日前まで超ゆっくりで吹こう……と思っていたら、五日前に辞退して、前日に復帰した。すなわち、イン・テンポで練習する時期を逸したのである(復帰が決まった前日は、松戸で忘年会だったから吹くひまがなかった)。さあ、どうなるだろうか……

第5章 結果
私としては、とてもうまくいきました。スローな練習(丁寧な練習)が効を奏した模様。そうやって、きちっと練習すると本番でいきなり速くなってもついていけるらしい。幸福感満載。だが、この幸福感を保つためにしなければならないことがある。人と感想を言い合ったりしないでとっとと退散することである。半世紀にわたり、世界の頂点=ベルリン・フィルでホルンのトップに君臨してきたGSは、定年間近でクビになった。理由は、楽屋で人を殴ったからである。殴った理由は、本番の後、訪ねてきた知人にGSが「感想を何なりと言ってくれ」と言ったので、知人が思ったことを言ったらGSが激怒したのであった。GSの人間性も見上げた(見下げた)ものであるが、人の感想を聞いてがっかりするのは世の常である。だから退散するのである。三十六計逃げるにしかず、である。

第6章 かんちょうごっこ
時計の針をちょっと戻そう。本番の間の休憩時間、誰かが、私のズボンの黄門あたりを指で突いた。子供がやる「かんちょうごっこ」である。振り返ると、犯人はY人妻。私は、この遊びをしたこともされたこともない。それをY人妻にしていただいて、とっても嬉しくなった。トランペットをクラリネットで吹かせてもらい、人妻にかんちょうごっこをしてもらった通唱会、私にとって思い出深いものになるであろう通唱会であった。


がくせい

2022-12-30 09:56:42 | 日記

松戸で電車に乗った。綾瀬で降りた。なんの問題もない?ある。時間である。電車で10分の距離なのに、この間、2時間が経過していた。多分、常磐線に乗ってる間、私は宇宙空間にワープしたのだろう(宇宙空間と地球上では時間の進行速度が違う。宇宙から戻った人間は浦島太郎になる)。既に、北綾瀬行きの電車はなくなっていた。半年前の私なら、迷わずタクシーに乗り、あー、また無駄遣いをしてしまったと嘆くところだが、今の私は迷わず歩く。お陰様で、今日既に7400歩を稼いだ(綾瀬駅から歩き始めたときは日付が変わっていたので)。私に運動をさせるべく天が配慮をあそばして、私を宇宙空間にワープさせたのであろう。

このまま、今日がお休みだったらまさしくなんの問題もない。だが、今日は、クラリネットを吹いて合間に歌う予定(歌う合間にクラリネットかもしれない)。果たして、それまでに正気に戻っているだろうか……

テレビでベートーヴェンの話をしていた。「がくせいべーとーう゛ぇん」は「学生ベートーヴェン」にも聞こえる(ベートーヴェンだって学生だった時期があるから間違いではない)。それにしても、人は肩書き好きである。偉い人にはたいてい肩書きがついている。しかも、それぞれダブらないように配慮がなされている。ベートーヴェンは「楽聖」、バッハは「音楽の父」、モーツァルトは「神童」……と言ったぐあい。だが、「音楽の神様」という直接的な仇名をつけられた人がいないのは、それこそ、候補者が何人もいて、それぞれが某大なファンをかかえているからだろう。例えば、もしベートーヴェンにこの仇名が付されたら、バッハ・ファンは、口角泡を飛ばして反論するだろう。馬のファン同士もそうである。そういう意味では、音楽ファンと競馬ファンは同類である。


新家計簿/バイロイトの第九

2022-12-29 08:53:43 | 音楽

家計簿を一新した。これまで使ってたやつは、20年前にエクセルで自作したものだが、さすがに現在の状況にそぐわなくなった。例えば、項目がないため、楽器は日用品費に、団費は雑費に計上しているが、いくらなんでもチェロと洗剤を同じ項目で扱うのは変。それでも、前年との比較ができる等々の理由で変えてこなかった。だが、親がいなくなり(家出をしたわけではない)、廃業して、音楽の会もいろいろやめて現在ミニマム状態。いつ変えるの?いまでしょう(「イェッツト」という馬がいる)、というわけで大改訂。今度のは趣味の部が大充実。「楽器」「CD・DVD」「本」「映画・演劇」「オペラ・コンサート」「温泉」「宿泊」「その他エンタメ」の豪華ラインナップである。これまで疑義があったダウンロードもCD等や本に含ませることで解釈を統一した。楽器や団費も間借りを返上し「持ち家」を持つこととなった……が、よく考えてみたら、今後、楽器を買う予定はない。せっかく作った項目に数字が並びそうもない。新装オープンの店に客が来ないのと同じである(かつて、資格をとって丁稚奉公してた頃「独立したら仕事を回しますよ」と言ってくれた人で独立後お客さんになった人は皆無)。楽器を買うと言えば、ある用途のために、この暮れ、クラリネットのEs管を買おうか迷っていたが、その用途はなくなった。あわてて変なヤツを買いそうになっていたが、そうならないで良かった。これからは、クランポンのEs管あたりの中古がお値打ち価格で出るのを辛抱強く待とう。でも、買って何に使うの?幻想交響曲のEsクラのパートを吹いて遊ぶの。え?それだけのために?もったいない(おなじみの1人問答)。

私の歌のお友達は、この時期になると、第九を歌ったりそのコンサートに行ったりで大忙し。けど、私は、一応バロック畑の住人を自称してるから第九を歌うことには縁が無い(大学のとき、大学の全合唱団が集まって歌ったときっきり)。それでも、隠れベートーヴェン・ファンだから(隠れてないという噂も)、第一楽章から全曲ソラで歌えるくらい聴いている。で、昨夜、ホントに久しぶりに「フルトヴェングラーのバイロイトの第九」を聴いた。名盤の誉れ高い演奏で、子供の頃、「名曲名盤500」等で、他の曲では意見が分かれる評論家達がこぞって一位に挙げたものである(だが、そこにも同調圧力を感じないでもなかった)。エンディングがぐだぐだにずれることで有名な演奏でもある。だが、フルトヴェングラーは、ロマン派の香りをひきずった時代の人で、ねっとり感は半端でない。私は、途中からsachlich(即物的)な傾向の強いバロック畑に移住したし(畑には住めないけれど)、フルトヴェングラーの対極にあるカラヤンについてアンチからファンに転向したこともあって、フルトヴェングラーはとんとご無沙汰であった。それを、ホントに久しぶりに聴いたのである。すごい。やはりすごい。一つ一つの音すべてに生命が宿っている。八百万の神のような演奏である。夕食や入浴を就寝の2時間前までにしなければならないのと同様、フルトヴェングラーを聴くのは就寝の2時間前までにすべきである。じゃないと眠れなくなるし、血圧も上がること請け合いである。

新家計簿に戻る。外食の部も大きく変えた。これまでは「外食(仕事場)」「外食(ゼリ)」「外食(その他)」の分類だったが、仕事で外で食べることなんてとんとないし(つうか、そもそも仕事はしてないし)、サ○○○ヤに行くことも随分少なくなった。そこで、場所で分類するのではなく、人数で分けることにした。「外食(お一人様)」「外食(2人)」「外食(3人以上)」である。このうち、「お一人様」は確実に数字が連なるし、「3人以上」もたまには数字が載るだろう。問題は「2人」、すなわち「おデート」である。ここが数字で埋まることは、「楽器」が数字で埋まることよりももっと期待できない(楽器の場合は、クラリネットのリードや弦楽器の弦を買うことがある)。しかし、気は心、諦めない心持ちが大切。「三苫選手の1ミリ」ってこともある。そう言えば、大学時代の合唱メイトが、在学中に親から結婚したら住む家を九十九里に建ててもらっていた。ずっと空き家だったそうだが、もう埋まっちゃっただろうか(浜に埋まった、ではない。埋まってなければ(家計簿を数字で埋める代わりに)私が埋まってもいいなと思って)。


ムゼットのワルツ(街を歩けばみんなボクに夢中!)

2022-12-28 08:21:33 | 音楽

シューベルトの「冬の旅」を勉強してみよか。だが、カウンターテナーで歌う例はあまり聞かない。もともと女に振られた男が主人公の歌だから男声によって歌われることが多い。だが、バッハがカントルを務めていたライプチヒの教会の聖歌隊の少年達の6割はキリスト教徒ではないという。キリスト愛を人類愛に置き換えて歌っているのだろう。だったら女性も「冬の旅」を「男に振られたあたし」に置き換えて歌えばよい(とか言うと、「あたし、男を振ったことはあっても振られたことはないからムリ」と言う人がごちゃまんといそうである)。現に、この曲を歌うメゾ・ソプラノの歌手がいる。カウンターテナーで歌うことに問題はなさそうである。

かように、現代はジェンダー・フリーの世の中。男女を固定することが間違っている。なーんてことを考えてたら名案を思いついた。「ボエーム」の男女を交換してみたらどうか。部屋の鍵をさがすロドルフォの手を握って「冷たい手」を歌うのはミミ。それを受けてロドルフォが「ボクの名はロドルフォ」と歌う……だが♪ミキアマーノ、ロドルフォ……これだと「ロドルフォ」を早口で歌わなければならない……いや待て。ミミだって本名は「ルチア」である。それをみんなが「ミミ」と呼んでいるのだ。だったら、ロドルフォも、これは本名だとして、短い名前を考えよう。適当なところで「ロディ」はどうか。♪ミキアマーノ、ローディ……はまりましたね!疑問その1=なぜ、「ルチア」が「ミミ」と呼ばれるのか。浅学の故不明。その2=「ロドルフォ」の愛称は「ロディ」でいいのか。浅学の故不明Part2。だが、「ロドルフォ」はもともとドイツ語の「ルドルフ」で、その愛称は「ルディ」。そこまでの調べはついている。

「ルチア」で思い出した。ナポリを始めとする南イタリアでは「ci」(標準語ではチ)を「シ」と発音するから「ルシア」である。そのことを、昨日のBSの紀行番組で、現地の人が「アミーシ」「クシーナ」と言っているのを聞いて思い出した。因みに、ナポリの人が「ci」を「シ」と発音することは、だいぶ前、NHKのイタリア語講座で今はタレントとして活躍中のジローラモさんで知った。他のイタリア人がみんな「チ」と言ってるのにジローラモさんだけは「シ」と言って誰も直さない。同調圧力の日本で吹いたイタリアの自由の風であった。あと、件の紀行番組で、日本語の「ありがとう」に対して、現地の人が「ニエンテ」と言っていた。ドイツ語の「Es macht nichts」と同じく「なんてことありませんよ」という意味だが、英語ではどうだろう。「You are welcome!」と習ったが「Nothing」ということはないだろうか。浅学の故不明Part3。おまけの話その1。私が「ナポリの人」で思い浮かべるのは、上記のジローラモさんと、ミルコ・デムーロ騎手である。その2。ジローラモさんのフルネームは「パンツェッタ・ジローラモ」と表記されるが、これは日本風の語順であり、母国では「ジローラモ・パンツェッタ」、すなわちファーストネーム=ジローラモ、名字=パンツェッタである。「ジローラモ」はドイツ名の「ヒエロニムス」に相当する。「Cantate Domino」を作曲したヒエロニム・プレトリウスも、イタリアでは「ジローラモさん」になる(なお、ヒエロニム・プレトリウスは、同時代の作曲家のミヒャエル・プレトリウスとは別人である)。今回、自らの誤りに気づいたのはその名字。てっきり「豚バラ肉(ベーコン)」だと思っていたら、そっちは「パンチェッタ」。「パンツェッタ」は「腹」の意味なんだと。語源は同じっぽいけれど。

話を締める前にさっきの話に戻る。ボエームの男女を入れ替えた場合、第2幕のワルツは「ムゼットのワルツ」になる。♪街を歩けばみんなボクに振り返る!タリラリラ、ラッタラーラー……それってボクのこと?そうよ、あなたみすぼらしいから、みんな振り返るの!


血圧を自由に操る(筑波山登山続報)

2022-12-27 18:32:49 | 日記

ほうらごらん!朝、上が170あった血圧が、筑波山登山でストレスがすべて解消して(昨夜の記事参照)、帰宅して測ってみたら125!今朝もその値を維持。さあ、ここで、あえてストレスの元となった面白くない事実を思い起こす。そして測ったら170!血圧上昇の原因がストレスであることのダメ押しの証拠である。さらに、このことは、私が自分の血圧をコントロールする技を得たことを意味する。すなわち、上げたいと思えば瞬時に上げることができるのである(ただし、この技は、今のところ、血圧を上げる場合にのみ威力を発揮する片面的技である。下げたいと思ったらいちいち登山をしなければならない。因みに、サンダーバード2号が4号についてできるのは発射のみか(片面的か)?それとも回収も可能なのかが取り沙汰されていたが、後年のアニメシリーズに回収シーンがあったので、片面的でないことが明らかとなった)。

さて。今回の筑波山登山で、着用したアンダーシャツはU製のH。

汗を多量にかかない平地での生活であれば、暖かいし着心地もよく、CPは相当に高い。だが、この製品は、大量に汗をかく登山には向かないという噂である(レーヨンという素材のせいで、汗冷えを防げない、という)。そこで、登山用のインナーを物色していたのだが、今回は間に合わなかったので、噂の真偽を自ら実験台となって確かめることとなった。結論:たしかに下山後、汗がしみて寒かった。つくば市内に気になるイタリアンがあったのでそこで夕食をとろう(それをもって、ずれ込んでいる誕生日当日祭としよう)と思っていたのだが、断念してとっとと帰ったのも、寒くて一刻も早く帰宅して風呂につかりたかったからである。だが、山にいる間は、4枚重ね着の一番外のダウンジャケットの表面にまで汗がしみてきたにもかかわらず、肌感覚ではそこまで汗をかいた感じがしなかったから、インナーがそれなりにがんばったのだと思う。平地では十分である。ただ、登山の際はもっと速乾性があってほしいので、先刻、登山用インナーとして名高い某商品をその公式オンラインサイトでポチったから(その商品は、有名ネット通販での価格がときとして定価より高いことがある、と聞いていたが、本当だった)、もうじき来る。来たら、また早々に登山をしなければならない。♪こまっちゃーうーなー、とルンルンな私である(これでまた血圧が下がる。因みに、この歌を知ってる読者はどのくらいいるだろう)。

あれこれ試行錯誤したインナーと違い、山歩きをする私の変わらぬお供は靴。

その現役生活は28年間に及び、いまだ継続中である。真冬のドイツ用に、スポーツ専門店で購入した。多分、私が所有する身につけるもので一番高価である。やはり、いいものは長く使えますねー。

それから、登山に限らず、一年を通して私の小旅の記録にかかせないのが、カシオのデジカメ。

以前使ってたカシオ製を重宝してたのだが、水に濡らして壊してしまった。スマホだと、そこそこ綺麗に撮れるのだが、登山の際のズームアップに難がある。そこで、わざわざ中古品を探して調達したものである。もちろん、でっかい望遠レンズをくっつけた本格的なカメラには全然かなわないだろうが、山登りにあんなでっかいヤツを持って行くほどのマニアではない。だが、天体望遠鏡はときどき欲しくなる。ベランダに置いといて、夜、星空を覗くのは楽しいかもしれない(血圧が下がるかもしれない)。冬場は寒い?それこそ、今回ポチった山登り用のインナーが来ればそれを着ればいいじゃん!

で、今回撮った遠くの山の写真も、このデジカメで撮ったもの。そう言えば、昨日、「男体山を始めとする日光連山」も見えた、と書いてその写真をアップしたが、実は、筑波山の北側には、日光連山だけではなく、それを含めて三つの連山が見えた。その三つを合成したのがこれである。

一番左(西)が日光連山なのは明らか(男体山は既におなじみ)。その右(東)の二つの連山が不明である。一応、地図を眺めながら、真ん中(日光連山の隣)が高原山、その右(東)が那須連山かな?と思っているのだがどうだろうか。

おまけ。筑波山にはケーブルカーもロープウェイもあって、別に私のように大汗をかかなくても頂上近くまで登ることができる。そのケーブルカーが上下交叉する写真をお見せして、今宵はお別れしましょう!

 

 


天は我に味方した(筑波山)

2022-12-26 18:30:57 | 音楽

というわけで、思い立ったが吉日、TXに飛び乗りつくばに向かう。今回は早めに出たので11時のバスに乗れた。山腹の神社まで行って、そこから登山なのだが、バス停で降りて早速出迎えてくれたのが関東平野の遥か彼方にそびえる富士山!

筑波山に登って富士山が見られたのは初めて。こんなに幸先のよいことはない。この瞬間、今朝まで抱えてストレスは全て霧散した。

筑波山は、男体山と女体山の二つの峰を持つ。

左が男体山で右が女体山。この写真だと逆の感じがするが、女体山の方が6メートル高くて877メートル。女体山の方が高いところが儒教が入ってくる前の原始日本の男女の関係性を表しているようだ。ところで、行きのバスの中では山の解説音声が流れていて、二つの峰を持つところから男女の「せいさん」の象徴である、と言っていたが、「せいさん」の意味・漢字が分からない。和合して子供を生産する、ということだろうか、それとも「凄惨」という意味だろうか。後者なら「ローズ家の戦争」を思い出す。あるいは、黄泉の国で「見たな~」から始まるいざなぎいざなみの壮絶なバトルのイメージか。

今日は本当に天気に恵まれ、男体山の頂上でも富士山が見えたし、

北の方角には、先日、しっかりその位置を確認した男体山を始めとする日光連山がいっそうはっきりと見えた。

さらに、東方に広がる霞ヶ浦も見えた。

霞ヶ浦を見るのは、筑波山からに限らず多分初めてである。

こうした景色は登山の後についてくるもの。まずは登山である。登り始めは、山道があるのだが、

そのうち、大岩だらけになり、岩と岩の間が「道」ということになる。

この山は、50を超えてから登り始めて、今回で5,6回目だろうか。今回が一番楽。ペース配分を覚えたのと、最近のマイブームの徘徊によって、相当に心肺機能と足腰の筋肉が鍛えられたようだ。前回など、下山の際、脚が痛くてしょうがなかったが、今回は最後までるんるんだった。で、♪るんるんとマイペースで登っていたら、いきなり後ろのおじさんが「いくつ?」と声をかけてきた。10X+4(Xには整数が入る)と答えると、「若いね」と言う。その意味が分からない。るんるん登ってるだけあって体が若いね、と言ってるのか、それとも、老けてると思ったけど結構若いね、の意味なのか。いずれにせよ、はた迷惑である。競馬で、レース中に、外側から他の馬にかぶせられると馬はペースが乱れて余分な体力を使ってしまい、最後の脚が残らなかったりする。そのパターンである。おじさんを意識して自然と早足になってしまい、すっかりペースが狂ってしまった。しかも、後ろから他の馬のひずめの音が聞こえ……じゃなくて、おじさんの足音が聞こえてきて追っかけられてるよう。尚更余計な脚を使ってしまった。ただし、おじさんは75だそうで、75で登山をする元気は見習いたいと思った。

筑波山と言ったら、絶対見ておきたいのが頂上付近にある「ガマ石」。

なんとなく、ハリウッドが最初に作ったゴジラに似ている。この岩は有名だが、

この猫は無名である。筑波山でもよく猫の写真を撮るワタクシである。

バス停に戻ってきたときは既に夕暮れ時。そこでも、なお、夕陽の中に富士山が見えた。

今日は、最後まで天が我に味方したようだ。因みに、歩数は2万歩をちょっと超えた程度。アップダウンは万歩計に反映されないから、実際の負荷は倍以上はかかっていると思う。


朗報!高血圧の原因判明

2022-12-26 08:36:50 | 日記

ずっと低血圧気味だったのだが、ある朝の血圧の上が久々に170。これは朗報である。ある日、ストレスのかかる出来事があった。血圧が上がったのはその翌日。すなわち、私の高血圧の原因がストレスだったことが判明したのである。なんと分かりやすい私。そう言えば、子供の頃、父に怒られてずっとふてくされてようと思っても、飴と鞭の飴を提示され思わずにんまりしてしまう正直な私であった。この正直さが人から愛される所以である(「誰からも愛されてないよ」と言わなくてよい。まったくもー、世の中には真実を言わなければ気が済まない人がいる)。とにかく、病気ではないことが判明したから、血圧が高くても病院には行かないし、降圧剤は飲む必要もなくなった(一度飲むと終生飲み続けなければならないというから、いずれにせよ、飲むつもりはなかったが)。

さて、そうすると、血圧を下げる方法はストレスを解消すること、ということになる。他の人なら「仲の良い友達に電話して聞いてもらう」のだろうが(ちょっと古さが出た。今なら「電話」は「ライン」に置き換えるべきである。私のウチだって、今や電話は鳴らないようにしてるから、光回線を維持するためのほか用途はない)、私には、自慢ではないが、そういう友達は皆無である。そこで、昨夜は「子供がいればよかったかなー」を考えたが、今朝は「パートナーがいればよかったかなー」と考えてみる。以下、シミュレーションである。

「ねえ」「(怒)なによーっ」「ちょっと聞いてくれるかなー」「(怒)忙しいんだからチャチャっと言ってね」「これこれこういうことがあってさー」「(怒)そんでー?」「で、こういうことになったんだよ」「(怒×3)ばっかばかしいー、それが一体なんだっていうのよ、こっちは忙しいんだからね、いちいちそんなつまらないことでじゃましないで」(しょぼん……)

これはいかん。逆にストレスが3倍増である。昨夜の「子供はやっぱいなくてよかった」と同様、「パートナーはやっぱりいなくてよかった」が結論である。なお、上記の会話は、私が実際に体験したものではない。私にパートナーがいたのはもう30年近く前であり、その頃のことは記憶の彼方。上記はあくまでも、劇作家たる私(え?いつから?)の創作である。

それでも、腹ふくるる災禍(ストレス)は除去せねばならん。まぁ、自転車のタイヤの空気が徐々に抜けていくように、腹の中のストレスも徐々に抜けていくものではある。さらに、当ブログにこうした駄文を書き連ねることも、具体的なことは書けないから間接的とは言え、自転車のタイヤに小さな穴を開ける程度の効果はある。もし、当ブログの読者が、「ほんとにバカだねー」と笑ってくださって、それで血圧が下がるのであればご同慶の至り。作家冥利につきる(だから、いつから作家になったんだって)。因みに、寅屋の面々は「あいつ(寅さん)はバカだねー」ということによって相当な健康増幅効果を得ていると思う。

実は、もっと腹の中のストレスを早く吐き出す方策がある。山登りである。今日は晴天だな……


おっちょこちょい

2022-12-25 22:24:52 | 音楽

テレビで危険生物の図鑑の特集を見てて、子供がいればいいなー、そしたら各社の図鑑を買いそろえるんだけどなー、と思った。因みに、各社とも表紙がサメの絵だが、海における生態系の頂点に君臨するのはサメではない。断然シャチである。

ちょっと待て。子供などいなくても図鑑は買える。そりゃあ、女性下着売場をおじさんがうろついたら妻のためという言い訳すら苦しいかもしれないが、子供用の本売場なら、子又は孫のためと言って十分言い訳になる。実際、私は子供用の本売場を徘徊しているが、誰からも白い目で見られない。あぶない、あぶない、危うく必要もないのに子供をつくるところであった(子供は一人では作れないんだけど)。

かように私はおっちょこちょいである。例えば、今、歌の会(団)を五つ休んでるのだが、なまじ体調がいいものだから、年明けにでも全部復活して更に一つや二つ増やす勢いであった。だが、休むには休むなりの理由があった。それを忘れてはいけない。忘れて戻れば元の木阿弥。また同じことを繰り返すところであった。

ときどきおっちょこちょいが災いして冷や水をかぶる。その都度理性を取り戻す。復帰は、一つ一つよーーーーく考えてしていこう。


ボッティチェリの「サギ」

2022-12-25 10:58:05 | 音楽

一昨日ちゃんと見られなかった利根川を見たい。と思ったらいてもたってもいられなくなり、どうせ暇だし、イブの予定もないし、ヒートテックのアンダーシャツは着たきり雀だからたくさん歩いてもOK、ということで、取手行きの常磐線に飛び乗った。予定ルートは取手から大利根橋で利根川を渡り、「四季の道」を南下して手賀沼に至る、である。

その今回の小旅、端緒でつまづいた。大利根橋が、こ、こ、こ、怖い。国道6号線(水戸街道)の橋なのだから、大きな橋を想像していた。しかし、歩道の幅は1.5メートルほど。フェンスも腰くらいまでしかない。なるべく車道側を歩こうとすると、あざ笑うかのように大型トラックが真横をぶんっと通過して威嚇する。よっぽどほふく前進しようかと思ったくらい。だから、この写真を撮ったときなどは、まるで、あさイチでニュースを読む森アナウンサーのようであった。

森アナのよう=股を開いて踏ん張って撮った、ということである。道理で、人が歩いてないはず。自転車だったらもっと怖かったろう(と思ったら、一台だけ自転車が通っていった。あの人はとび職をされているに違いない)。もう利根川はこりごり、来ることはないだろう(と、いいながら、銚子小旅で唯一行ってなくて心残りなのが銚子大橋。「大橋」って言うんだから、ここみたく歩道が狭いってことはないだろう、と思ったら行きたくなった)。

さて、冷や汗をかいた(かもしれないが、ヒートテックのシャツが全部吸い取ってくれたのせいか、汗の跡形もない。このシャツはすぐれものかもしれない。いや、最終評価は登山をしてからである)後は、地図上の「四季の道」をひたすら南下。こんな名前がついてるから、整備されたおしゃれな道かと思ったらただの産業道路。やはり歩く人などいないようで、歩道は蔓でふさがれていて、それをかきわけながらの行進であった(眠り姫を探す王子か)。

そんななか、多くの鳥が目の保養。こんな鳥だったり、

こんな鳥だったりがいて、

なかなかに可愛いものである(それでも恐竜の子孫である)。ただし、ついこないだまで、小鳥はみな雀だと思っていたワタクシだから、名前は分からない。

だんだん手賀沼が近くなってくると、沼とつながってるらしい水路にサギが現れた(冒頭の写真)。首の傾斜が奇っ怪。まるで、ボッティチェリの絵のヴィーナスである。童謡「森の子ヤギ」の3番で「♪とっこ(朽ち木)あたればくびこがおれる」と歌ってるのを思い出す(モディリアーニの絵のご婦人方もときどき「くびこがおれてる風」である)。

白ばかりではない。黒いのもいた。

なかなか不敵な面構えだ。と、こやつらが一斉にはばたいた。

いっとき都心にいてゴミをあさっていた烏が最近見なくなったと思ったら、このあたりに移動したのだろうか。

上空高いところには、こんなのも。

これは人工の鳥である。そう言えば、最近ちゃんと見てないのだが、朝ドラの舞ちゃんには彼氏ができたのだろうか。

なーんて思いながら空を見てたら、空の低いところに、移動せずに浮かんでいる飛行物体を発見。

未確認飛行物体(UFO)に違いない。

未確認の物体は、ようやっと着いた手賀沼にも。やぶの向こうにたたずんでいた物体、

水鳥だろうが、その正体は最後まで不明であった。

そうこうするうち、こないだ西白井から手賀沼まで歩いたときとほぼ同時刻に手賀沼大橋に行き着いた。再度、歩く。ほらー、広いんだよ、フェンスだって高いんだよ、だから怖くないんだよ。そう言えば、前回、富士山が見えた。今回も見えた。

富士山は手賀沼大橋のどこからでも見えるものではない。山陰が切れた一点のみから見える。そのことを確認した。

こうして歩きも歩いて3万歩超え。前日に1万8000歩歩いたうえでのことだから、この記録は偉大である。だが、外食はしなかったからお誕生日の当日祭をしたことにはならない。夕食は、拙宅にて、ボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーを開けた。

今年はインフレで超高い。去年、千円を切っていたペットボトル入りのヤツが1600円もする。だから、今年は買わないつもりだった。ところが、近所のディスカウントで、その1600円のと並んで、なんと、ヴィラージュで(普通のヤツより高級)、ガラス瓶で、木のコルクのヤツが千円ちょっとで売っていた。これは買わない手はない。ということで、私のボジョレー・ヌーヴォー歴は途切れることを免れたのである。なんで安いのか。船便が着いたのかもしれない。あるいは、この店には業者が処分に困った商品を持ち込み、それを社長が買いたたくというから、そういう理由か。いずれにせよ、哀れなのは1600円のヌーヴォー君である。ますます売れそうもない。因みに、「What's Michael」のある回で、ペットショップで売られていたニャジラちゃんは、二束三文がそのうちタダになり、さらにはおまけまでつけられていた。そう言えば、ウチのお嬢達も、タダのうえに、キャリーバッグのおまけまでつけてもらったっけ。


土手

2022-12-24 09:35:20 | 日記

"Herzlichen Glückwunsch zum Geburtstag!"(誕生日おめでとう!)
"Danke! Dir auch!"(ありがとう!君もね!)
「君もね!」ってことは、この二人とも誕生日だったのか。その通り。なぜなら、一人目も二人目もワタクシだからである。このような独り問答は、オペラ「ジークフリート」のミーメがするし、ミーメをモデルにしたと思われる映画「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムもする。つうか、考えてみれば、落語も腹話術も独りおままごともみんなこのパターンだから、別に一人暮らしが長くて頭が変になった兆候と見る必要はなかった。

当初の予定では、お誕生日前日祭、当日祭、後日祭の三日をかけて遊ぼうと思っていた。いつも遊んでるくせにと言われればその通りだが、いつもはプータローであるゆえに一抹の後ろめたさを感じているのに対し、この三日間は「堂々と」遊べる点に意義があるのである。ところが、諸般の事情により日程がずれ込み、昨日が前夜祭となった。さて、何をしよう。そうだ、ヒートテックの下着の効果を確かめるために筑波山に登ろう。と思ってTXでつくば駅まで行ったらあなた、11時半についたら山腹までのバスが1時までない。1時のバスに乗って2時頃から登り始めたら陽があるうちに下山できない。前もって調べなかったのかって?いいえ!この「いいえ」は欧米語的な「いいえ」である。つまり、否定疑問に対しての否定だから「調べなかった」ということである。何度か登ってるので甘くみた。とにかく登山は断念。残念(「断念」と「残念」で韻を踏んでいる)。じゃ、どうしよう?そうだ、京都ではなくて柏たなかに行こう!いつもTXに乗ってつくばに行く途中、利根川の手前に広がる田んぼを見て、一度歩いてみたいと思っていた。これが当たりであった。

TXの車窓からも見えたのだが、この街からも見えるのが、まずは筑波山。

これは当然である。筑波山は、関東のあちこちから見ることができる。驚いたのは、その筑波山の西側に日光連山がくっきり見えたこと。

その中でひときわ高い山が男体山。

男体山を含む日光連山のこの景色をこんな風に見た記憶はない。じゃ、なんで日光連山と言えるのか?と言えばその位置関係である。帰宅して調べてみると、うん、あの正面の縦の縞々は間違いなく男体山だ。さらに、これは街からはではなく車窓から見えたのだが、日光連山に夢中になっていて、ふと目をずずっと西に向けると、そこにはおなじみの白い円錐形。

TXの車窓から富士山を見たのは初めて。考えてみれば、あれだけ高けりゃ関東のどこから見えても不思議はない。

さて。柏たなかに行きたいと思ったそもそもの理由は利根川を間近で見たかったから。だが、近くになると柵がはられていて岸には出られなかった。ちらーっと見える川筋が恨めしかった。

羽音がして振り返ると鳥の群れ。

彼らは、柵など関係なく利根川の全貌を見ているのだな(ありがたみを分かってないに違いない。鳥は恐竜の子孫である(いつも言ってる))。

だが、利根川を間近で見られない鬱憤を晴らしてくれたのが手前の土手!これこそが今回の小旅のクライマックスであった。

「大草原の小さな家」のエンディングで、ローラたち三人姉妹が駆け下りる土手を思わせるこの土手がずーっと続いている。

これこそが「ペレーニの大地」。山よりも、川よりも、この土手が見られてあーよかったと思えた小旅であった。因みに、土手の手前は、ずーっと広がる田んぼ(の稲刈り後)。「柏たなか」というくらいだから、本来の主役は田んぼである。途中、こんな風景もあった。

なんてこたない、♪ピッチピッチチャップチャップランランラーンの水たまりだが、撮りようによっては立派な水景色である。

このようなたっぷりな自然が、駅前からちょっと歩いたところに広がっている。移住先にぴったり!と思ったら、既に、駅の周りにはおハイソな住宅街が広がっている。やはり、人は(つうか開発業者は)こういう立地をほっとかないのである。更なる開発もされているようだ。

その後、TXでウチの近所まで戻って、独りお誕生日前夜祭(本当は当日祭)。

久しぶりのマルゲリータ・ピザである。バジルが3枚乗っている。以前の私ならこの3枚にありがたみを感じたものだが、いまや冷凍庫には自家製バジルの葉っぱが腐るほど入ってるから「これっぽっち?」が偽らざる感想である。

さて。この後、当日祭と後日祭をこなさねばならないが、今日はイブ。レストランは憎たらしい連中(=カップル)であふれているだろう。そして明日は有馬記念。ジェンティルドンナの娘が走る。となると、当日祭以降がさらにずれそうである。いっそのこと、正月までずらそうか。「歳が一つ増えての抱負」と「新年を迎えての抱負」が二つあるのは変である。そう考えると、正月に一斉に歳をとるという昔の方式(馬は今もそうである)は合理的だった。

 

 


買って良かったモノ、損したモノ

2022-12-23 08:56:34 | 日記

今年買って損したモノ=ヒーター付きベスト。損した理由=暖かくない(安かったせいか?)。おかげで、暖房費ゼロ作戦が潰えた。

今年買って得したモノ=防寒スリッパ。

ベスト同様、暖房費ゼロ作戦の一環として購入したモノだが、こちらは、ヒーターなどついてなくても十分に暖かい。なお、同じく同作戦の一環として購入したダウンパンツは、購入時はおりたたまれた状態だったが、その後、まだ十分膨らんでおらず、したがって暖かさもいまいちである。ダウンの先輩はオニャンコポン(私のダウンジャケットのニックネーム)。そうだ、オニャンコポンを買ったのは約1年前(オニャンコポンの馬券を買って当てたのと同時期)。麹味噌合唱団に行く途中だったから既に年は変わっていたはず。麹味噌合唱団も、私がお休みしている団体の一つだが、私がお休みをしている期間は、同合唱団が(本格的には)活動してなかった期間とかぶるから、来年復帰しても別に休んではいなかったことになる。

今年ではないがホントに買ってよかったと思っているモノ=マーブルコーティングのミルクパン。

毎朝、かつてはラーメン、今はうどんを茹でるのに使っている。これをぶら下げるフックも買ってよかったモノ。

このおかげでキッチンがどれほどすっきりしたか。この存在を知らないで過ごした半世紀は、私の暗黒の時代である。

買ってよかったかどうかこれからタメされるモノ=ヒートテックの下着。冬山……と言っても、私の場合は高尾山、筑波山、大山(神奈川の「おおやま」。西の「だいせん」ではない)あたりだが、それでもバカにしたものではない、こうした冬山を登ると猛烈に汗をかき、冷えると風邪をひく。かと言って、頂上で裸になって着替えるのはもっと寒いし、裸になることは公序良俗違反でもある。ヒートテックの下着は、その汗を熱に変えると言うのでとびついたのだが果たして……結果はいずれ報告しよう。

そう言えば、随分前の正月にドイツのバーデンバーデンに1週間くらい宿泊したことがあった。日本でもドイツでも私のやることは同じで、そこらへんを徘徊していたら、雪に覆われた丘の斜面にぶちあたった。猪突猛進のワタクシであるから、迂回することなく、ひたすらその斜面を登ったら汗だくになり、夜、高熱が出た(今なら一大事である)。当時、「ドイツでは処方箋がないと薬は買えない」と聞いていたが、どうにも辛いので、イチかバチかで薬局に言って「処方箋はないんだけど」と言ったらあっさり薬を売ってくれた。その際、薬剤師さんかから「熱は細菌を殺すために出るのだから悪いモノではない」等々の講義を懇々と受けた。その薬は本当によく効いたが、とっくになくなっている。


おらストリップやるだよ(追悼・あき竹城)

2022-12-22 09:01:52 | 音楽

有名人の訃報が相次ぐが、あき竹城さんは、中学生のときからテレビで見てた人なので、あらま感が半端でない。そう。家人が寝静まった深夜にそっと居間に行ってテレビをつけて「11pm」を見ていて、あき竹城さんは、この番組にヌード・ダンサーとして出演していた。印象的だったのは山形弁丸出しのトーク。それもそのはず。舞台で踊ってた頃、踊りの間のコントで繰り出される山形弁が評判となり、それでテレビに出るようになったんだった。因みに、踊りの合間のコントは大変だそうだ。なにしろ、客は踊り子を見に来てるわけだから、そんなところに芸人が出て行っても「引っ込め」と言われるのだがオチ。あき竹城さんの場合は、踊り子自身がコントも演じて、しかもウケたというのだから相当なものだ。だが、トークだけではない。親にばれないようにこっそりテレビを見ている中学生にはその踊りも十二分に妖艶だった。私がこの手の踊りを見たのはあき竹城さんが多分初めてである。

その後、ドラマや映画でも見るようになった。代表作としてみんなが挙げるのが「楢山節考」。うん、覚えている。緒形拳の後妻役で「気立ての良い働き者」がぴったりだった。だが、映画で私的に一番印象的だったのは「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」。エンディングで、例によってヒロインにふられて地方を旅する寅さんの傍らにマイクロバスが止まる。降りてきたのはあき竹城さん。職場仲間との旅行中、見知った寅さんを見つけたのだった。誘いに応じた寅さんがバスに乗り込むと、喜んだあき竹城さんが「おらストリップやるだよ」。自らを重ね合わせるようなこの台詞をけれんみなく言い切ったあき竹城さんに映画館はどっと湧いたものである。因みに、このときのヒロインはキャンディーズのランちゃん(伊藤蘭)。ランちゃんの彼氏で寅さんを失恋に追い込むのが村田雄浩。このときの村田さんは、まさに「武骨隆々1万年」って感じで(この表現は、わが母校の高校の第1応援歌の一節である)、山田洋次監督の映画によく出てくるタイプ。すなわち、最初、ものすごく乱暴そうに登場して、後からさくらだとかおばちゃんに「それがいい人なのよ」って言わせる(こうしたギャップは、映画においても、交際に持ち込む手段としても有効らしい)。「鶴瓶の家族に乾杯」でも鶴瓶が出会った人のことを必ず「ものすごくいい人」と言う。私など、ひねくれてるから、世の中、そんなにいい人ばかりいるわけないじゃん、とか思っちゃう。そう言えば、寅さんこと渥美清もストリップ小屋出身である。当時、客は、渥美清のコント目当てに小屋に押し寄せたという。希有な例である。

あき竹城さんは、「男はつらいよ」に「かもめ歌」の後、もう一作「口笛を吹く寅次郎」に出演している。山田監督もその存在感を認めたのだろう。見て追悼とする所存である。


独りぼっち(ヒーロー、ヒロインの条件)

2022-12-21 10:33:35 | 音楽

今年の私を漢字一字で表せば「休」。今年になって4団体、「この一年間」なら5団体を休会(団)した。あと、「休」には休肝日を設けた意味も含んでいる。ただし、お医者さんによっては、一週間のトータルのアルコール摂取量が問題なのであり、休肝日には意味がない、休肝日を設けても肝臓は継続して働いている(休めるわけではない)、と仰っている。そうだとしても、休肝日を設けることによりトータルの摂取量が抑えられるのだから、意味はあるのだろう。

休肝日を設けたせいか、徘徊しまくってるせいか、観念して暖房をつけ始めたせいか(しもやけになったしー)、ぬるいお風呂に長時間浸かってるせいか、以上の効果によって血圧が下がったせいか、最近体調がすこぶる良い。ただし、科学の実験なら、これらを一度にやったのは失敗である。どれが真の原因だか分からないからである。真の原因を探るためには、他の要素を同じにしたうえで、一つ一つ要素を変えなければならない。いずれにせよ、回復したので、来年の一字は「複」の予定(追記:正しくは復)。ドイツ語の「wieder」である。ただし、同じ発音で「wider」だと「反対」「反抗」の意味になりネガティヴ。ドイツ人はどこで両者を区別してるんだろう?と思ったが、ざっと見たところ、この二つの言葉の後に同じ単語がくることはないようである(だから混同しない)。

さて。お風呂屋さんが「タトゥーお断り」なのは、タトゥーがアウトローの人々を想起させ、みんなが怖がるからだが、「アウトロー」という言葉、子供の頃から、西部劇等でよく聞いていて、当時は「一匹狼」のイメージで、どちらかというとヒーローだった。大人になった今(とっくになってる?)、改めて聞くと、「outlaw」=「法の外」。「スターウォーズ」で言えば、銀河の外縁の帝国の目の届かないところで好きに行動する若い頃のハン・ソロである。なーんてことを考えたのは、「スターウォーズ」のスピンオフの「ハン・ソロ」をドイツ語音声で聴いてて、「Gesetzeloser」って言葉が出てきたとき。直訳すると「法を無くした人」、すなわち、アウトローである。英語では「外」、ドイツ語では「無くす」でアプローチが異なるところが興味深い。なお、「out」に相当するドイツ語は「aus」。例えば、今回のW杯について、ドイツの新聞は、「ドイツ・チームは予選で『aus』になった」と怒りをこめて報じていた。決勝リーグの序盤で負けたブラジルのイレブンに対するブラジル国民の風当たりも大変なものだったという。日本は、決勝リーグの一試合目で負けても「選手のみなさん、よくやった!」という論調だが、もしこれが野球のWBCだったら、ただじゃ済まなかったろう。GⅠ7勝のジェンティルドンナは、天皇賞秋は2年続けて二着。普通ならこれをもって「稀代の名牝」と讃えられるところだが、ジェンティルは勝てなかったことで随分と言われたものである。

西部劇と言えば、私の記憶で最古のものはテレビで放送されていた「ローンレンジャー」。♪ローレンローレンローレン……という主題歌を覚えている。これもあらためて見てみると「lone……」だから「一匹狼」。西部劇の要素を備えている。「老練」とは関係なさそうである。

因みに、読者のみなさんのように、お友達がたくさんいて楽しく暮らしている方々は、西部劇の主人公になれないのみならず、オペラのヒロインにもなれない。なぜなら、オペラのヒロインは「独り寂しく」なければならないからだ。その証拠に、椿姫は、「sola abbandonata」((パリの街に)独り捨てられた)と歌ってる。マノン・レスコーが「Sola……abbandonata」と歌うのはアメリカの砂漠だから、サソリがお友達である。


ドルチェ

2022-12-20 11:04:16 | 言葉

ベランダから眼下の駐車場を眺めていたら、車から降りて釣り竿を持って運河方面に歩いていく人がいた。あの人は、これから魚を騙しにいくんだな。そう、釣りは「フィッシング詐欺」というくらいだから騙す行為である。だが、刑法の詐欺罪にはならない。詐欺罪は、「人を」騙す罪だからである。

メッシやそのチームメイトにも、日本の温泉の「タトゥーお断り」の適用があるのだろうか。以前、ある作家がトーク番組で「実はタトゥーを入れてるんです」と言って、足に彫ったヤツを見せていたが、それがえらく小さくて、普段真面目な優等生のささやかな反抗に感じられた。だが、メッシたちのはそれとは比べものにならないほど派手。そう言えば、以前、当ブログに「縄文時代の日本人はタトゥーを入れていた」と書いたが、縄文時代だけではない。「魏志倭人伝」にも「倭人はタトゥーを入れている」とあるから、われわれのご先祖様は、弥生時代までタトゥーを入れていたようだ。その作家の名前が出てこない。「女性作家 官能小説」でググったら出てきた(その「官能小説」は何冊か持っている)。それから、こないだ見た夢に出てきた俳優の名前も出てこない。その俳優が若い頃率いていたグループにいた別の俳優の名前から引っ張ろうと思ったらその俳優の名前も出てこない。その俳優は「男女七人秋物語」に出ていたことは覚えている。そこから柳葉敏郎を思いだし、そこから哀川翔を思い出した。この人が夢に出てきた人である(ファンではないのに、なんでこの人が夢に出てきたかはまったく不明である)。

アルゼンチンとフランスはどちらも強豪国だから、アルゼンチンが勝ったからといって「どんでん返し」とは言えないが、朝日杯に出走した「ドンデンガエシ」が優勝したならば、それは名前通り「どんでん返し」であった。

だが、「どんでん返し」は起こらなかった(12着)。

それから、「ウメムスビ」と聞いて、私は梅干しの入ったおむすびのことだと思い、食べたい、と思って馬券を買ったのだが、

「梅結び」とは、ご祝儀袋のヒモの結び方であることを後から知った。この勘違いが災いしたのか、ウメムスビの馬券も紙くずになった(15着。実際は、ネットで購入しているから、「馬券」という紙があるわけではない)。

こんなことを書いていると、当てる気があるのか?と言われそうだが、「ある」である。珍しく単勝を買った「ドルチェモア」は、

見事に一着でゴールイン。ま、ただ、この馬券を買ったのも、馬名がきっかけである。「dolce」は、「柔らかく弾け、吹け、歌え」という意味の音楽用語。もちろん、音楽用語は「後から」であり、そもそもは日常的に用いられるイタリア語である。男女間の「甘いささやき」の場面にも相応しい言葉である(書いてて、腹がたってくる)。スイーツを思い浮かべる人も多そう。その「ドルチェ」が「モア」ってことは、「もっと甘く」ってことだろうか(今調べた。当たりらしい)。それだと、イタリア語と英語のチャンポンである。まあ、いいのだろう。「Voces8」だって、イタリア語と英語のチャンポンである。その昔、(私以外)インテリばっかの合唱団のパーティーで、私が「gute voce」と言ったら、インテリたちから「ちゃんぽん」との総攻撃を受けたが、今なら、「Voces8」の例を出して反論したところである。

今日は、晴れていい天気。筑波山にでも登りたいところだったが、昨日もられた毒が抜けない(義時か!)。なので、近所を徘徊するのにとどめよう(私にアルコールという名の毒をもったのは私。この表現はドイツ語の再帰動詞的だ(Ich もるえ mich。この動詞の不定詞は「もるん」。変化形は、Ich もるえ、Du もるすと、Er もると、Wir もるん、Ihr もると、Sie もるん……である(嘘八百を何真面目にやってんだか ))。


食っ反

2022-12-19 09:58:09 | 日記

アルゲリチもさぞや喜んでいることだろう(W杯アルゼンチン優勝)。私も、名字に「メッシ」が入っているからちょっと嬉しい。因みに、子供の頃、レコード屋さんでもらうクラシック・カタログのピアノのページは、黒髪のきれいなお姉さんの写真で飾られていて、それがアルゲリチ。だいぶ経ってから、ドイツ語学校の同じクラスにいたアルゼンチン女性がアルゲリチに似ていて、私にとってはアルゲリチがアルゼンチン女性の顔の代表である。ただし、アルゲリチが来日する飛行機の中で同行する指揮者の夫と大げんかをしてそのまま帰国してしまったという性格の激しさも同国の女性を代表しているかどうかは不明だが、今後、アルゼンチン女性との結婚話が浮上したとき、思い出してどきどきするかもしれない(おなじみの妄想)。

W杯の決勝のPK戦で思い出すのは、28年前のアメリカ大会のブラジルVSイタリア。イタリアのエースのロベルト・バッジョともう一人が外してブラジルが優勝したのだが、あの大会は灼熱の大会で、PK戦の時点で選手はボロボロ。バッジョも、そのためか、踏ん張りが効かず、大きく上にそらしてしまった。それからすると、食っ反(メッシ)は、落ち着いて決めてさすがである。因みに、そのもう一人の名前が思い出せない。「バ」で始まる名前で、最初「バジリオ」だったかと思ったが、バジリオは、「ボーマルシェ三部作」の登場人物。ロッシーニの「セビリャ」ではバスで、モーツァルトの「フィガロ」では軽薄そうなテナーになっている。歳をとると声が高くなるっていうのはよく聞く話である。

W杯のフランス代表と言えば、決勝での「ジダンの頭突き」も記憶に新しい……いや、16年経ってる話を「新しい」というのは私が古い人間である証明か。この決勝もPK戦で決着がついたんだった。

今回、フランス代表で「いいな」と思ったのは、準決勝で勝ったあと、控え室かなんかで選手が輪になって喜んでるところにマクロン大統領が祝福に現れたのだが、選手が誰も見向きもせず、大統領は、輪の外(蚊帳の外)で苦笑していたシーン。例え、大統領だろうと忖度しない姿勢は、これこそ民主国家である。これが日本で総理大臣が来たならどうだろう。総理を真ん中にして記念写真とか撮りそうである。そのマクロンさん、めげずに決勝戦も現地にいて応援していた。メルケルさんがドイツの総理大臣だったときもよく試合会場に来てて、ドイツが得点すると諸手を挙げて喜んでいた。ヨーロッパの人は本当にサッカー好きである。これと対照的なのが、サッカーの話からは逸れるが、北京オリンピックの開会式んときスタンドにいた当時の日本の総理大臣。日本選手団が入場するとき暑いなーって顔がテレビカメラに抜かれていた。

実は、「マクロン」って名前がすぐ出てこなかった。フランス大統領の名前は、えーと、えーと、「サルコジ」?いや、この人はちょっと前。「マルコス」!違う、それはフィリピンの大統領。でも「マ」がついた覚えがある。まー、まー、「マクロン」!って感じで思い出したのである。さすがに「ジスカールデスタン」ではないと思いましたよ(ジスカールデスタン=私が物心ついた当時のフランスの大統領)。シラクさんも随分前だが、ジスカールデスタンに比べればついこないだの人である。あと、「マクロン」に似た名前のお菓子があった。まー、まー……だめだ、降参、「マクロン お菓子」でググる。「マカロン」であった(ほとんど同じじゃん)。因みに、マクロン大統領の奥さんは、マクロンさんが生徒だったときの先生で、そのご実家はお菓子屋さん。マカロンを売っているそうである。