拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

一人ボエームごっこ

2015-11-30 10:55:29 | 音楽
朝ドラの「アサが来た」では、毎回主題歌の前に1シーンあって、で、ときどきそのシーンの終わり頃に主題歌のイントロが始まって(シーンとかぶって)、で、いったんきれいに終止したところで主題歌が始まる(前が深刻なシーンの場合を除いて)。これが実に新鮮で好きだ。ところで、先週の「アサが来た」に、アサの夫の新次郎と姉のハツが思わず手を重ねてしまうシーンがあった。すぐ思い出したのはボエーム(の第1幕。ロドルフォとミミが暗がりで鍵を探すうちに手を重ねてしまって、「はっ」とするシーン)。私は「一人ボエームごっこ」をする。(さあ、「ひく」覚悟はできたかなー)右手と左手をテーブルの上でもぞもぞさせながら口三味線。「ソラシファ、ファー、ミファソレ、レー、ドレミ、シドレ、ラシド」ここで、右手と左手を重ねる。「はっ」と言って「ポーン」(音はソ。ホルンの声真似)。この後、「ケジェリダマニーナー」と始まるわけどす。

サギタリウス(ハインリクス・シュッツイス)

2015-11-30 09:21:37 | 音楽
ルネサンス期からバロック期にかけてのドイツ人作曲家(に限らない)は、ラテン姓を名乗ることが多い。プレトリウス(ヒエロニムス)は、ドイツ名はシュールハイスだった。かのシュッツも、文献にはサギタリウス(シュッツのラテン語訳。射手)の名前でよく登場する。そのシュッツのお墓には、「ハインリクス・シュッツイス」と彫られてるそうな。これって、単に、ドイツ名をラテン語風にもじったものじゃないか。それじゃ、私もマサシウス・イイジマウスと名乗ろうか。

「アルゲリチ 私こそ、音楽!」

2015-11-29 17:07:02 | 音楽
映画「アルゲリチ 私こそ、音楽!」をWOWOWで観た。アルゲリチの三女、ステファニーが監督を務めたドキュメンタリー。感じたことを徒然に記す。その1。題名が例によって原題と全然違う。原題は「Bloody daughter」。え?「血まみれの娘」?ホラー映画か。いや、これは父親(スティーヴン・コヴァセヴィチ(聞き慣れない名前だと思ったら、昔のスティーヴン・ビショップだって)にとってのステファニーの立ち位置で、「厄介な娘」ということだそうだ。娘に対してひどい?父親本人は、「bloody」は英語ではそんなに悪い意味ではない、と言い訳をしていた。いずれにせよ、そのように意味のある題名だったにもかかわらず、邦題は超ベタ。なんとかならないものか。その2。映画の中の車窓の景色が突然美しくなくなった。雑然としてる中、ときどきビルが見える。日本?そうだった。次のシーンが富士山だったので。その次のシーンは湯煙。別府?そうだった(アルゲリッチ音楽祭が開かれる)。その3。これから本番というとき、具合が悪い、弾きたくない、と言い出す。まるでデル・モナコだ。でも、出て行って、何もなかったように弾く(これもデル・モナコと同じだ。ゲート入りを嫌がりながらレースが始まると素晴らしい走りを見せる馬とも同じだ)。その4。マネージャーのジャックという人が、ショパンをショピンと言っていた。英語なのだろうか。その5。10年以上前、ピアニストの知人が「アルゲリチがガンにかかったらしいが、大丈夫だろうか」と言っていて、その後、そのまた知人に聞いた話として、「ありゃ絶対死なないよ」と言っていた。映画の中で手術の話が出てくる。肺がんだった。にもかかわらず、たばこを吸ってる。だめじゃん(手術の前の映像なのだろうか?)。今はホントにお元気そう。その6。長女が母の故郷のアルゼンチンに行って「母と同じ顔つきの人がいっぱいいた」と言ってた。私が子供の頃、グラモフォンのレコードのカタログに若きアルゲリチの印影いっぱいの顔写真が載ってて美人だなー、と思った。その後、ドイツ語学校にアルゼンチン人の女の子がいて、アルゲリチと似てるなー、と思った。あの顔つきは、インディオとスペインが混ざった顔なのだそうだ(映画の中でそう言ってた)。そう言えば、アルゲリチの面影ってどこかアジア人のテイストがあるな、と映画を観て初めて思った。以上、雑記(私は雑記しか書か(け)ない)でした。あっ、もう一つおまけ。アルゲリチは、ベートーヴェンもいいが、シューマンがとても好き、と言っていた。浅学ながらアルゲリチのベートーヴェンってイメージないなあ。どんなだろう。

熟女風シュッツ(エーマン)

2015-11-27 11:38:10 | 音楽
(承前)とか思いながら、いろんな「アルゾー」を聴く。最初にこの曲を聴いた時分は、シュッツの宗教的合唱曲集のレコードと言ったらマウアースベルガーの少年合唱しかなかったが、いまではぞろぞろ。わが家にもCDが8種類ある。その中にエーマンのがあって、久しぶりに聴く。おお、懐かしい!たっぷりしたアルゾーだ。そもそもエーマンは演奏全体が昔風なのだ。テンポはゆっくりだし、女声パートは女声が歌い、それもビブラートがたっぷりついた「熟女風」。なにより発音。われわれが鈴木仁先生から習ったのと同じ発音!(この発音で歌いたくて、シュッツを歌う会を作った。)そういえば、鈴木仁先生はエーマンに習ったときく。エーマンの演奏、今流行りの演奏(さらさら)とは随分違うが、でも、暖かみのある演奏で、今でも十分「あり」だと思う。因みに、私が個人的に一番気にいってるのは、ハノーファーの少年合唱の演奏。コルデス指揮のブレーメンのアンサンブルのも好きだ。

「アルゾー」を繰り返すことの意味

2015-11-27 11:06:53 | 音楽
(承前)そのシュッツの「Also」、冒頭、全音符で「アールゾー」と歌った後、改めて「also,hat Gott……」と歌う(「also」を言い直す)。「Gott」「Herr」等の恐れ多い言葉ではない単なる副詞、はたまたキュッヒルさんが言葉に詰まったときにぽろっと言うような間投詞だ。そんな言葉がえらくご丁重な扱いを受けている。ということで、学生時代、われわれを指導して下さった鈴木仁先生などは冒頭のアルゾー(と最後の「das ewige Leben」)のテンポを半分にして際立たせていた。あたかも、フルトヴェングラーが運命の冒頭をジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャ~~~ンとやるように。その頃は、これが当たり前の演奏だと思っていたが、運命の冒頭をさらっと弾くのが普通になったように、冒頭のアルゾーも同じテンポでさらっと歌うのがスタンダートになった。楽譜以上に伸ばすことの是非はさておいて、副詞にすぎない「アルゾー」に長い音が付いているのはどういうことなんだろう。キュッヒルさんがぽろっと言った「アルゾー」で考えると、これを強調するのは奇異。でも、そういえば、ドイツ人の先生が授業で「では」の意味で「アルゾー」を言うとき、「アルゾー」で一呼吸置いたっけ。それを考えると、冒頭の「言い直し」も分かる感じがする。なによりも、「(ひとり子を下さった)それほどに」なんだから、「そんなにも、そんなにも」と繰り返して言いたくなるのはよく分かる(ガッテン!)。

シュッツの「Also」(オールソーではない)

2015-11-26 09:57:00 | 音楽
「Also hat Gott die Welt geliebt」。ヨハネの福音書第3章第16節は、バッハもカンタータの歌詞に用いているが、シュッツの曲は学生時代の愛唱曲で思い入れが深い(学コンとして何ども振らせてもらった)。その「Also」をシュッツを歌う会でとりあげるんで対訳作り。冒頭の「Also」、これがくせ者なのだ。学生時代に見たやつは「しこうして」なんて仰々しい訳がついていたが、その意味は多義。辞書に最初に出てくるのは「こうして」「このように」。この用例:「Also sprach Zarathustra」(ツァラストゥラはかく語りき(「こう言った」でいいのに))。もっと軽い意味もある。「だから」「それでは」等々。ドイツ人の先生は、授業で「それでは(次にいきましょう)」というとき、よく「アルゾー」と言っていた。「アルゾー・ゲンマ」(それでは、(お散歩に)行きましょうか)とも言ってたなー(南ドイツでは「gehen wir」が「ゲンマ」に聞こえるとものの本で読んだがほんとだった。)。元ウィーン・フィルのコンマスのキュッヒルさんが、NHKニューイヤーオペラにゲストで出てきて、日本語でしゃべってたんだけど(奥さんは日本人)、途中で言葉につまって「アルゾー」と言ったのは、「だから、その」って感じか。で、問題の歌詞はどうだ?これ「dass」と対になっている。「Also」と「dass」以外を日本語訳に置き換えると「Also 神はこの世を愛した」「dass 神はひとり子を与えた」。で、結論を先に言うと(聖書に書いてある)「神はひとり子を与えたほどにこの世を愛した」という具合に後ろから先に訳している。じゃあ、それでいいじゃん、て、いや、なんでそうなるか、前から訳しちゃだめかを確認したいのだ。で、辞書を見てたら、雅言葉で「=so」とあった。soか!(だじゃれだす)アルゾーもアルをとればゾーだ(授業で、「アルゾー」の代わりに「ゾー」という先生もいた)。すると、英語の「so……that」構文と同じだ。だったら後ろから訳すのは当然だ。ガッテン!

シャルドネ・ゴールド(シャブリ)

2015-11-26 06:53:36 | 

わが家に20年以上眠ってる銘醸ワインを数年前からちょびちょび飲み始めた。いつまでも寝かしておいてもしかたがない。こちらとワインのどちらかが先にくたばっちまう。昨夜はシャブリ・プルミエ・クリュ。赤でも中身がぼろぼろになってることがあり心配したが、これは完全な状態だった。シャルドネ・ゴールドがまぶしい。味は濃厚。シャブリと言えば生牡蠣。スーパーで生食用のものを買ってきたが、土壇場でなんとかウィルスの話をきいて生食にくじけ、酒蒸しに変更。レモン汁をたらす。サンマは、ぶつ切りのを買ってきて、トマトソース・オレガノ風。

ジャガ芋の皮

2015-11-25 14:48:15 | 日記
ジャガ芋の皮の部分に栄養があると聞き、じゃあ、味噌汁に入れるジャガ芋は皮付きにするか、だが、芽は毒だし、古くて青くなってるのも毒だそうだ。だもんで、青くないやつの芽をとって、で、味噌汁の具としていただく。うーん、あまりおいしくない。焼いた皮はそこそこおいしいが、茹でた皮はどーもなー。さて、安さで足立区が負けてどうする(怒)と書いたわけだが、ここのところ、足立区でも(店によっては)野菜が安い。「冬になると安くなる大根」は、ホントに安くなって、一本丸々38円!ほうれん草も2パックで100円、ブロッコリーは90円台、カリフラワーも147円。だから、ついつい買ってしまう。人間は断食をするとその後体調がよくなるそうだから、冷蔵庫にも断食をさせよう(一度空にしよう)と思った矢先だったのに……

ラからドをとるとき(純正調と平均律的絶対音)

2015-11-25 11:23:27 | 音楽
「ビーチャムのヘンデル」で登場していただいた指揮者さんが指導している別の合唱団で、ここに歌いに来ている某ピアニストさん(Aさんと呼ぶ)と指揮者さんの会話。「Aさんは、ラからドをとるとき、ラの短三度としてとるの?それとも絶対音のドとしてとるの?」「ドとしてとってた」。この会話、純正調と平均律的絶対音の違いを表していて実に興味深かった。そう、純正調は、移動ドの世界。根音が絶えず移動し、移動した根音を基に純正調が構築される。そもそも、基準となる音が決まってない(ラ=442と決まってない)。基準は、それぞれの教会のオルガンのピッチで決まる。二人の会話に戻る。Aさんがその後おっしゃったこと「でも、(古楽のアカペラでは)それではいけない、と気づいた。がんばるから、変なところがあったら言ってちょうだい」。なんと立派なこと。偉い人こそこうだ。まさに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。見習おうっと。

大股速歩き

2015-11-24 21:59:33 | 日記
認知症予防には大股速歩きがいいんだと。よーし、がんばる。地下鉄の駅の床の大きなタイルは一個飛ばしで歩く。エスカレーターなんか乗ってたまるか。そうやって週末無理をして、週初がっくり……う、うそだい……もともと足腰は強い方だ。中学のとき100メートルハードルの選手で、ハードル間を3歩で走らなければならない。選手としては小柄(=足が短い!?)なもんだから、一歩一歩の間は飛ぶように走らざるを得ない。だから、大股には慣れてるのだ。そんな私たちの親世代はやばい年代。最近、介護疲れでどうのこうのというニュースをよくきく。だから、80代、90代、100代でスポーツしてまーす、元気でーすという映像を見ると、心から「すげー」と思うのだ。さて、次の2パターンのうち、自分の親だったらどちらがいいか(ましか)?パターン1:かなりやばいのに大丈夫と言い張って子供の言うことを聞かない。2:たいしてやばくないのに「もうだめだよ」とやばそうな声を出して大騒ぎする。

ビーチャムのヘンデル

2015-11-24 10:04:52 | 音楽
私が首をつっこんでる合唱団の一つ、ルネサンスの曲を中心とするアカペラの団体を指導する某さんは、他にも小オケ付きの合唱団の指揮もされてる。オケ付きを指揮できていいですね、と言ったら、いやいやとお顔を曇らせる。なんでもそこの器楽の奏者たちは普段バッハとかをやらない人ばっかりで、「バッハをブラームスのように」弾くんだそうだ(ブラ1の冒頭が頭に浮かぶ)。つい最近も、事前にバッハのように弾いてくれと指示を出していたのに本番では「ビーチャムのヘンデル」のように弾いた、と憤慨しておられた(まるで、クライバーから「ならず者」と言われたウィーン・フィルのようだ)。その「ならず者」加減は「ビーチャムのヘンデル」の例えから容易に想像できる。私が初めて買ったメサイアのレコードは(よりによって)ビーチャムのもの(どうせ値段で買ったに違いない)。聴いてびっくりぽん。なんだ、この仰々しい演奏は?シンバルまで鳴ってるではないか?当時、既に古楽に片足をつっこんでた私にとって、その演奏は「邪道」以外のなにものでもなかった。ところが、遊びにきた友人にそれを聴かせたら「悪くないじゃん」。近代物だけを聴いている人には普通の演奏なのだ。そういえば、大昔、バッハのマタイだったかヨハネだったかを生で聴いたとき、エヴァンゲリストは当時日本のテナーの第一人者と言われてる方だったのだが、その歌は、もう歌と言えないようなもの、咆哮して、ヴァーグナーじゃないんだよ、いや、ヴァーグナーだってこんな歌い方をしたらブーイングの嵐だ、という歌だった。私は、この人、ふざけてんのかなとホントに思った。でも、「第一人者」なのだ……

ご飯あげてるでしょっ(怒)

2015-11-23 21:12:58 | 
キッチンから、ザッ、ザッという音。誰かが猫トイレに入ってるんだなぁ、それにしても長い。さすがに変だと思い覗いてみたら、ケメ子がいたのは猫トイレではなくコンロの上。フライパンに敷いたアルミシート(サンマを焼いた後の汁が残ってた)を舐めてる。その音だった。こらあっ。歳をとってからの子供だからあまり怒らないのだが、これは怒った。塩焼きだから塩分が残ってる。猫には毒だ。陰でこんな風に盗み食いをするからときどき吐くんだ。親の心子知らず。それにしても卑しい。飼い主そっくりだ(子は親の背を見て育つ)。

貧乏自慢封印

2015-11-23 19:18:54 | 日記
本日はいきつけのスーパーの93円セールの日。この日に一週間分の豚肉(100g=93円)を買う。牛ステーキは、一切れが500円を超えるようになってから滅多に買わなくなった。こんな私、以前、貧乏自慢をよくしたが、もうしない。そりゃー、外食など滅多にせず、行ってもサ○○○ヤがせいぜいだが、冷蔵庫の野菜室は野菜であふれていて、毎朝、大量の野菜を小鉄(鉄の中華鍋)で炒めてラーメンに載せる……じゃなくて敷く(丼に先に炒めた野菜を入れて、後からラーメンと汁をかければそれが野菜にもしみて、炒める時に塩胡椒をする必要がなくなるのだ)。それに対して、野菜はもやしだけ、毎日味付けを変えて食べてる、というお宅が結構あるそうだ。私が貧乏自慢などしたら、そういう方に申し訳ない。だから貧乏自慢は封印。それにしても、1億総中流の社会はどこに行ったのだろう。「偉い人」たちは、なんでもかんでも物価を上げればいいと思ってるようだが、おかげで庶民の財布のひもは固くなり、消費はどんどん落ち込む。逆効果じゃん。そういう「偉い人」は、スライスチーズが8枚入りから7枚入りになったことなど知る由もないだろう。因みに、この記事における「偉い人」の用法と同様の用法を最近長嶋さんのインタビューで聞いた。長嶋さんは六大学のスターだった頃、とにかく個性をアピールしようと人のやらないことをやってたら、「ネット裏の偉い人」が「学生にあるまじき行為」だといちゃもんを付けたんだと。私、王と長嶋だったら王派だったが、このインタビューで長嶋さんも好きになった。

倍音(天使はたまた幽霊)

2015-11-23 11:21:52 | 音楽
こないだのシュッツを歌う会でのこと。ソプラノ1(A実さん)とソプラノ2(B子さん)の上下が逆になる箇所があるのだが、そこで私(練習進行役)は面食らってしまった。お二人とも完全な音程で歌っているのは分かる。ところが何か変。一番上のはずのB子さんの声が下に聞こえる。その上にもう一つ音がある。A実さんの声だ。でも、ここはA実さんは一番下のはず。現にちゃんと一番下を歌ってる。じゃ、なんだ?さては、出たか(うらめしやー)。でも、なんでA実さん(ぴんぴんしてる)の幽霊が出るんだ?まるで「あまちゃん」だ(若い頃の春子が幽霊みたく登場した)。しかも、生きてる本人と一緒に出るか~?(若い春子(有村架純)と今の春子(きょんきょん)は一緒には出なかったぞ)この正体は倍音だった。倍音のことを「天使の声」はたまた「幽霊の声」とはよく言ったものだ。が、幽霊の正体を暴こうと罪なきお二人に何度も歌っていただいた私は進行係として失態だった。倍音と言えば、東京文化会館の開演の鐘。よーく聞こえる。ちなみに5度上の倍音が連続して聞こえると近代音楽が禁じ手とする平行5度になる(だから、妙ちくりんな感じ)。でも、法律じゃないんだから、作曲家が妙ちくりんな感じを狙ってわざと平行5度で書くのに対して「間違ってる」といちゃもんを付ける必要はないだろう(ハイドンにそういういちゃもんをつけた人がいたそうだ。ハイドンは、「僕にとってはノー・プロブレム」と答えたそうだ)。