拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

不審者

2022-01-31 09:14:51 | 日記

いっとき、たいそう出不精になった。原因の一つは距離。長距離の代表レースである春の天皇賞だって3200メートル。だが、綾瀬チャリ杯のコースは4000メートルである。いかにも長い。最近、特に帰り道で脚が止まるようになった。ここで人生の選択。その1。出走を控える。いくら運動になるといってもやり過ぎて体を壊したら元も子もない。「なんとかに冷や水」という格言もある。それに対して選択肢その2は出走を続ける。体のためには楽をしてはいけない、負荷がかかる程度がちょうどいい。もしここで出走をやめれば運動不足に陥りたちどころに成人病の餌食となる。そもそも疲労とは脳で感じるもの。脳が疲れるとやる気が失せるという。「幸せは自分の心が決める」という格言もある。ポジティヴ・シンキングで挑めば再び距離もこなせるはず。よし!2を選ぼう。こうして距離を克服しても、問題は残っている。寒さである。その昔ドイツの厳寒から私を守ったダウンジャケットは縫い目から羽毛をまき散らしていた。これを着て練習場には行けない。だが、これについては、既述した通り奮発してジャケットを新調してみたら、あらびっくり、これまで一本たりとも羽毛が飛び出てこない(高いものはいい、を実感したのは、若狭塗り箸に続いて二度目である。高級塗り箸は使っても使ってもきれい。因みに、購入した塗り箸は夫婦箸である。「本気度の見えない婚活」の中で唯一本気度を示した行動であった)。だが問題は残る。寒波がくると、ハンドルを握る手が手袋をしていてもちぎれそう。もっと寒くなると、耳も痛くなるはずである。だが、ジャケットの教訓があった。よいものを買えばいいのだ。ということで、防寒手袋を買い、ニット帽を買ったら、あらあなた、冬の夜のサイクリングが快適時間となった。逆に、せっかく揃えたんだからと外に出かけて行きたくなるほどである。こうして出不精の原因の二つ目も克服。先週末は、A合唱団、味噌煮込合唱団、麹味噌合唱団の3連チャンを完遂し、最後のドイツ・レクイエムが終わった後は、さすがにくたくただったが心地よい疲労。気分は最高であった。実は、私を再びに外に向かわせたモチベーションは他にもあって、一つは電車に乗るとキンドルで読書ができること、もう一つは、綾瀬駅前のパン屋さんでパンを買って帰ることである。そうして新装なったワタクシのいでたちはこんな具合。

だが、不満だ。帽子につばがついていて、これがうっとうしい。それから防寒手袋の色が派手派手でまるで騎手の勝負服だ。これではおしゃれ番長の名が泣く(ジャケットを一着新調しただけでもう「おしゃれ番長」を名乗るずうずうしさは、チェロを始めて間がないのにもうサンサーンスの白鳥を弾こうとする精神構造と共通である)。早速買換を考えている私である。それにしても、この風貌はいかにも不審者。身元がばれないのをよいことに生まれて一度もしたことのない「なんぱ」なるものをしてみようか。「なんぱ」は、街でご婦人に「Yoh!Yoh!Ne-chan!」と声をかけるところからスタートすると聞く。こんな言葉、発したことがない。因みに、これは英語読みである。ドイツ語で読むと「ねーちゃん」が「ねーひゃん」になって具合が悪い。ドイツ語なら「Jo!Jo!Ne-tschan!」である。だが、合唱のときのように「Ne」の長母音を意識すると「にーちゃん」になり、ご婦人に声をかけたつもりが殿方の反応を呼びオホホに陥るかもしれない。ここは、あまり発音にこだわらない方がよさそうだ。


天井桟敷の人々

2022-01-30 09:01:14 | 音楽

テレビで長ネギを使ったレシピを紹介していた。青い部分を残し……うんうん……ぬめりをとって……えーっ?青い部分のぬめりに免疫促進成分があるのにそこを捨てるの?私が泥ネギを買うのはそこが欲しいからなのに。江戸時代まで、魚のとろを捨てていたのと同じである(体にいい部分を捨てるのと、美味しいところを捨てるのでは正反対だが、もったいないという点では同じである)。閑話休題。D社の「島シリーズ」の第2号を買いに久々に本屋に行く。すると、某評論家を「知の巨人」ともちあげた中吊りが目に付いた。この方(故人)は、たしかにたくさんのことを知ってらっしゃったと思うが、朝ドラのことはどうだろう?朝ドラについては別の「知の巨人」がいてもおかしくない。一人だけにスポットライトを浴びせるのは不愉快である。閑話休題。今やってる大河ドラマで、そろそろ頼朝が挙兵して石橋山の戦いで負けて船で房総半島に逃げ、そこ(安房国。阿波の国だと徳島になってしまうから変換注意である)から、上総、下総と房総半島(千葉県)を北上して、その後は東京、神奈川と南下して鎌倉に入るはずである。そのルートをたどろうと思ったが、たしかなことは分かってないようだ。房総半島の上陸地点ですら、今では竜島ということになってるが、かつては議論があったそうだ。北上の際、白井あたりを通ったのだろうか。その白井の味噌煮込合唱団の練習場から富士山がよく見える。

今は太陽は富士山の左側(南側)の裾あたりに沈むが、もう少し季節が進むと、中央火口あたりに沈むはず。すると「ダイアモンド富士」である。大河ドラマと言えば、そのオープニング・クレジットにテーマ曲の指揮者の名前が紹介されるが、録画をみた古いフランス映画「天井桟敷の人々」のクレジットにシャルル・ミュンシュの名前があってびっくり。大指揮者である。因みに、私がものごころがついて最初に見た大河ドラマは「源義経」(タッキー主演の「義経」の何十年も前である)。そのテーマ曲を作曲したのが武満徹だった。当時、そんな偉い人の曲とは知る由もなかったが(「武満徹」は読めなかったと思う)、印象的なメロディーはずっと覚えていた。その「天井桟敷の人々」の主役の一人・マイム役者のバチストは、「内気で純粋」なため女性を口説けない。いいね!いただき。今後の私のキャラクターは「内気で純粋で女性を口説けない男」である。前からそうだったのか、今回改心したのかについては、「あたし、イージマさんに口説かれた」という証言が飛び出さない限り前者が多数説になりそうである(昨日の「手」の写真も、「私自身の手」というのが多数説になりそうである)。いずれにせよ、当ブログの名称が「聖人君子の日記」(さっき変更したばかり)である限りは、ワタクシは聖人君子である(ブログ名の変更などは朝令暮改である)。「手」と言えば、しりとりで「て……」を言わなければならないときに「手」と言えば、次の人も「て……」を探さなければならない。じゃあ、次の人が「てっ」(山梨の人がびっくりしたとき発する言葉)と言った場合は、その次の人が探すべきは「て……」だろうか、「つ……」だろうか。


山のあな、あな、あな

2022-01-29 10:33:39 | 音楽

コーヒーミルは毎朝大活躍。手動だからそこそこ筋肉を使うが、こういう些細な運動だって塵も積もれば山となる。だが、挽いている最中に豆が飛び出すのには閉口する。子供の頃、山梨から出てきた父方の祖母がお土産で持参した生きたどじょうを熱湯にぶちこんだときぴょーんとはねたと言っていた。私は現場を目撃しなかったが母がこの世の地獄を見たような風情で語っていた。そのときのどじょうのはね具合は、今ミルから飛び出す豆のごとしか?と想像するワタクシである。さて。ルイは、ジョーが病気になったとたんにたくましくなった(朝ドラ)。あたしががんばらなければいけない、と思ってアドレナリンが出たのだろうか。映画「レベッカ」を思い出す。夫の抱える苦悩(前妻レベッカとの過去)を知ったとたんに元気になった新婦のごとしである(今日、言いたかったのはこれである)。さて(二回目)。写真に手が映っている。

これは誰の手かって?何を言ってるの?この手をあなたの手でしょ?え?あたし、昨日は合唱団の練習だった……いいえっ。あなたは私といたのだよ。え?あたし、昨日は、家族とご飯を食べていた……いいえっ、あなたは家族を捨てて私といたのだよ。え?あたし、昨日は、彼氏と二人でいた……その彼氏が私じゃないか、二人でブラームスの交響曲第4番の第1楽章を「シソー」と歌って、音が高いだの低いだの言ったじゃないか。そう、この手はあなた。あなた、あなた、山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う!(「あなた」と「かなた」ではどっちが遠いのだろう)え?自分の手だろって?……因みに、「山のあなたの空遠く」は「スターウォーズ」の冒頭のテロップを想起させるが、カール・ブッセの詩の上田敏訳で、原詩は「Ueber den Bergen weit zu wandern……」。そして、これを基にした落語が三遊亭歌奴(後の圓歌)の「山のあな、あな、あな」である(なお、今回の記事が音楽ジャンルなのは、ブラームスの第4交響曲の話がちらっと出てくる一事をもってである)。


マイクロプラスチック撲滅/スリー・ジャン

2022-01-28 09:17:01 | グルメ

先週の放送の話だが、ルイが町中を持って歩いた鍋はやはりお豆腐を入れるためのものだったと思う。私が子供の頃も、夕方になって♪ピープーの笛の音が聞こえると、鍋を持ってお豆腐を買いにいったものである。今では、豆腐はプラスチック容器に入ってスーパーで売られている。しかし、このプラスチックが大変な悪玉らしい。経年劣化で細かくなったやつ(=マイクロプラスチック)が川を経て海に入り、いまや地球の海はプラスチックだらけ。それを魚が食べ、微粒なやつは排出されず魚の体内に残っているという。だったら「サンマは内臓が美味しい」などと言っていられない。覚えがある。ベランダに出しっぱなしのプラスチックのじょうろが風雨にさらされているうちにボロボロになった。反省。これからは多少高くても金製のじょうろを買う。同様に、サイゼリヤにも反省してもらいたい。現在、ワイングラスがすべてプラスチック製である(グラスとは言えない)。ワインもまずくなるし地球にもよくない。サンマと言えば、高級魚に成り下がって(成り上がって)しまい、結局、昨秋は1回しか買わなかった。サンマの消費量が減ったため、余ってしまったのが大根。物価高騰のご時世で、大根は安い。畑でも大量に捨てられているという。もったいない。大根おろしは胃の薬であるタカジアスターゼの宝庫。漱石の「吾輩は猫である」にも登場する……と思ったが、この記憶が正しいだろうか。高峰譲吉がタカジアスターゼを発見したのが明治27年(「タカ」が付いてるのはそのため)、「猫」が発表されたのが明治28年。うん、時系列は合っているから間違いないだろう。食べ物ネタになったので、ちょっこし最近の料理事情。回鍋肉を作る際、おろしニンニクに加えて、豆板醤と甜麺醤と豆豉醤(スリー・ジャン)を加えている。上沼恵美子のおしゃべりキッチン」の入れ知恵である。

なかなか濃厚である。それから、豚もやし炒めの卵あんかけを作るときは、炒まった豚ともやしをフライパンの脇に寄せて空いたスペースに溶き卵を流し込み、10秒がまんしてからかき混ぜる。この10秒が「黄金の10秒」である。これはあさイチの「みんな、ゴハンだよー」の入れ知恵である。


ハイドンのおじいさん

2022-01-27 11:41:36 | 音楽

昨日、バッハのメヌエットはバッハ作ではない、と書いた。ひとくちに「偽作」と言ってもいろろあって、「バッハの偽作」で例えると、パターン1。後世の人が勝手にバッハの作だと思ったが違ってた(バッハは完全に無罪)。パターン2。バッハは自身のオリジナルと信じていたが実はそっくりな曲があって、それに影響されていた(過失犯)。パターン3。バッハは意図的に他人の曲を自分の曲に取り入れたが悪いこととは思っていなかった(故意犯だが、違法性の意識なし)。パターン4。バッハは悪いことと知りながら意図的に他人の曲を自分の曲に取り入れた(故意犯で、違法性の意識あり)。このうち、バッハのメヌエットはパターン3だと思われる。それに対し、「おもちゃの交響曲」はパターン1だろう。大昔はハイドンの作だとされていたが、その後、モーツァルトのお父さんのレオポルド・モーツァルトの作(で、ハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンが編曲した)って話になって、私は長らくこれが真相だと思っていたら、1990年代の新資料によって、いまではエトムント・アンゲラー作という説が最有力だそうだ。私が最初にこの曲に接したのは小学校低学年のとき(1960年代半ば)の音楽の授業。教科書にハイドン作として載っていた(レオポルド・モーツァルト作と言われ出したのは1950年代だから、日本の教科書は随分と長いこと改定を怠っていたことになる)。私の記憶では「ドー、ハイドン、ハイドン、ハイドンのおじさんは……」という歌詞が付いていた(写真はそれを再現したもの)。だが、この記憶は、今から考えるといろんな点で変である。まず、「ハイドンのおじさん」の「の」。この「の」は並列助詞(対等の関係にある二つの語を結ぶもの)であり、「ハイドン」=「おじさん」(大人の男性)ということだろうが、「of」の意味で読んでしまうと、ハイドンの身内(三親等傍系血族)のおじさんになってしまう。因みに、その意味でのハイドンのおじさんの兄弟(=ハイドンのお父さん)は大工さんである(ハリソン・フォードも、役者をやりながら、大道具の大工さんをやっていた。かつての朝ドラ「天うらら」のヒロイン(須藤理彩)も大工さん。後年、「半分青い」で見た須藤理彩の寝起きのすっぴん顔が私の心をとらえて離さない)。さらに問題なのは、楽譜を見ていただくとお分かりのとおり、一箇所16分音符になってる箇所があるが、それがちょうど「おじさん」の「じ」にかかっている。だから、この歌詞で歌うと「ハイドンのおじいさん」になってしまう(実際、今私はそうやって歌っている)。だが、小学1,2年生の教科書に16分音符はあまり登場しなだろうから、これは、後年、実際にこの曲を聴いた私が過去に遡って「おじさん」の「じ」に16分音符をあてはめてしまったものと推測している。変な点の二つ目は、「ハイドンのおじさん」の前に一つだけ「ドー」と音名を歌うこと。なぜ、ど頭に、しかも一つだけ音名を歌うのだろうか。別に「ドー、ミレドー、ソファミー、ラソソファミー」と歌った記憶もある。ホントは、「ハー、ハイドン……」とかだったのに、音名の意識が強くて、勝手に脳内で置き換えていたのだろうか?当時の教科書が残ってないので真相を確かめるすべがない(「ハー、ハイドン」だと、出だしの音が「シ」になってすこぶる変……なーんてことは言わないでおこう(と言って書いている。しかもそれで歌ってみた。かなりアバンギャルドな曲である))。ただ、一つ言えることは、「ドー、ミレドー、ソファミー……」と階名で歌ったことが、たいそうソルフェージュのお勉強になったということである。「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの唄」も同様に格好の教材であった。この後、上級生になり、口が早く回るようなると、「ドーミソ、シードレド、ラーソド、ソーファーミファミ、ラーシドレミファソラソファミレドシラ、ソーラシドレミファソファミレドシラソ……」が愛唱曲になる。因みに、この曲を歌って行くと(ってそもそも歌ではないが)、途中で困ったことになる。♯ドレドレドレドレ♮ドレドレドレドレのところ、「シャープ」と「フラット」を歌詞に入れる暇がない(♯が付いてても付いてなくても「ド」と歌わざるを得ない)。正確さに欠ける(涙)と忸怩たる思いで歌っていた少年のワタクシであった。


続・メヌエットのお里

2022-01-26 09:18:46 | 音楽

言われてみればたしかに「大月」は「big moon」である(朝ドラ)。では、山梨県の「大月」はなぜ「大月」なのだろう?月が大きく見えたのだろうか。たしかに大月市は山中にあり夜空の星が大きく輝きいていそうである。実は、私、天の川をはっきり認識したことがない。星がきれいに見えるところに旅して天の川をまじまじと見ることが夢である。さて。ボッケリーニの「メヌエット」のお里は分かった(弦楽五重奏曲だった)。この際である。私にとってお里が不明だった他のメヌエットもやっつけてしまおう。例えば、「何々交響曲の第3楽章のメヌエット」と言うのならはお里は明らか(その交響曲がお里である)。だが、単に「メヌエット」と呼ばれてるやつは、もとから「メヌエット」という名前で出版されたのか、それとも、ボッケリーニのメヌエットのように、一つの曲又は曲集の一部であったものがそこだけ有名になったのか不明のものがある。そこのところを明らかにしようという企画である。まず、ベートーヴェンの「メヌエット」。

ヴァイオリンの教則本に載っていた。その正体は、ベートーヴェン「6つのメヌエット」WoO.10の第2曲。つまり、もとから「メヌエット」であり、「メヌエット」と呼ばれるべくして呼ばれているものであった。もとはオーケストラ曲だったが、ピアノ編曲版しか残されていない。ピアノ編曲版が出版されたが、「WoO」だから作品番号が付けられなかった。ベートーヴェンからすれば、この程度では自分の作品リストに入れるに値しない、ということか?でもいい曲である。
次のお里探しは、巴赫すなわちバッハのメヌエット(中国首脳と会うバッハ会長の名札が「巴赫」だった)。

中学の音楽の授業でバッハがとりあげられたとき、先生に「バッハの曲で知ってるものを言ってみろ」と言われたので、管弦楽組曲やブランデンブルク協奏曲に加えて「メヌエット」と答えたのだが、ただ「メヌエット」と言うことに若干の恥ずかしさを感じたことを覚えている。はたしてその正体は?まずお里である。バッハの「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」の中の一曲である。だが、実親(真の作曲者)はクリスティアン・ペツォールト。つまり、バッハの曲集の中に紛れ込んだ他人の曲であった。こういうのをなんと言うのだろう。偽作?ぱくり?だが、著作権の意識のない当時は、この程度の「ぱくり」は日常茶飯事。バッハご自身も、え?どこがいけないの?とか言いそうである。
これで今回の捜索は終了。ちょっと触れた交響曲の第3楽章について。モーツァルトまでは、交響曲の第3楽章にメヌエットを使っていた。私はモーツァルトの交響曲のメヌエットが好きで、特に、第39番(クラリネットが大活躍)と第41番(当ブログの曲当てクイズに過去3回とりあげた)は大好物である。その後、ベートーヴェンは、交響曲第1番の第3楽章を一応メヌエットにしたが、その中身は高速でとても踊れるような代物ではない。実質的なスケルツォである。だが、晩年近くの第8番で、突如、昔返りが起きて、第3楽章にメヌエットらしいメヌエットを入れた。そのトリオは、クラリネットとホルンが大活躍。ベートーヴェンは絶対クラリネットが好きだったと思う。だが、最後の音がうーんと高い。出すだけならいくらでも出せるが、品良く美しく「ぽっ」って感じに出すのは容易ではない。ワタクシの生涯の課題である。


ピーちゃん

2022-01-25 09:31:39 | 日記

90歳のタキミカさんにとって年齢とは「ただの記号」だそうだが、そのことは、18歳のルイを演じている深津絵里にもあてはまるだろう。その朝ドラで、ジョーは、自分にはトランペットの道しかないと思ったから絶望して入水自殺を図った。医者を目指して進学校に通っていたが成績がふるわず絶望して受験生を刺した高校生も、彼にとっては医学の道しかないと思ったからだろう(犯行自体は許せない。きっちり刑に服してもらいたい)。えてして若者は「これしかない」と思いがちである。だが、これしかないってことはない。競馬予想家のスガダイも、自身のチャンネルで、人生いろいろだからがんばってほしい、自分も塾とかに行って受験勉強をしたのに受験日に遅刻したなんてこともあったが競馬予想家として生活できている、と若者にエールを送りつつ、受験生でこのチャンネルを見てるようなヤツはろくでもない、というオチも付け加えていた。大いに笑ったが、いや、ろくでもないことはない。競馬の道で大成すれば、それは万々歳だ。私も、音楽をやるには厳しい環境だったが、競馬をやる環境には恵まれていた。なのに、十代の頃競馬を見なかったのは父に反発していたからである。当時は、ご多分にもれず、ちゃんと学校を出て普通に就職することが唯一の道だという親の洗脳が効いていた。父と喧嘩して、「出て行け」と言われる前に家を飛び出して(言われる前にする=良い子!)、近所の林にこもって頭の中でリゴレットを一曲まるまる再生する。すると、2時間が経っていてほとぼりが冷めた頃だからこっそり家に戻る(プチ家出)。これをしょっちゅうやっていたが、本格的に家出をしなかったのは、これで学校に行けなくなったら「道」が絶たれると思ったからだ。だが、学校を出て大会社に入って結局5年で辞めて自営業で食いつないできた今思えば、グランド家出(プチ家出の反対)をして、板前の修業をしたり、パン屋で住みこみで働いたりして手に職をつけるのも選択肢として大いにアリだった(とか言って、弟子への鉄拳制裁が普通だった当時、そういった修行をする方がもっと大変だったろう。続いたろうか?)。書いてて思った。プチ家出ができたのは、時代が昔で、かつ、横浜市チベット区、つまり田舎だったから。今そんなことをしたら危険きわまりない。美少年(?)狩りにあって、私はホントのオホホになっていたかもしれない。ところで、朝ドラのクリーニング店で、客に「あれば電話番号も」と言ってる。そうそう、舞台は今1960年代前半でしょ?電話をひいている家はまだ少なかった。わが街で一斉に電話がひかれたのは1960年後半、私が小学3年生のときである。早速、クラスメイトの女子に電話をかけたからよく覚えている。そう、お風呂も家にあったが燃料に変遷がある。最初は薪で沸かしていた。だから家の裏で薪割りをした。それが途中から石油になった。最後はガスになったんだっけ。大昔の写真を見ると、鶏小屋もあって、私がエサをあげていた。あの鶏はどうなったんだろう、と思って後年親に聞いたら、家族で食べてしまったと聞いてショックを受けた。私と妹の心に暗い影を落としている事実である。同様の話が北野武の「たけしくん、はい」にも出てくる。たけしさんの姉上が「ピーちゃん」と呼んでひよこから慈しみ育てた鶏がある日学校から帰ったら鍋になっていたという話。お姉様は号泣されたそうな。私も、読んで号泣した。とか言って、今朝のラーメンの具は鶏肉である。因みに、歌の会の後よく行く中華ではいろんな食材を使っていて、ウサギもカエルもアメリカザリガニもある。全部試したからもういい。やはり普通に回鍋肉とかが美味しい。


ボッケリーニのメヌエット(競馬で深まる音楽の知識)

2022-01-24 08:53:51 | 音楽

音楽が1番で競馬が2番の人は、出馬表のボッケリーニの名を見て、あっ、作曲家と同じ名前だ、と思う。競馬が1番で音楽が2番の人は、作曲家リストのボッケリーニの名を見て、あっ、馬と同じ名前だ、と思う。ワタクシは、一応前者を自認しているが、育った環境から言えば後者でも全然おかしくない。府中の競馬場デビューは零歳児のときだし(完成直後の観覧席を背に父に抱かれている写真がある)、幼稚園のとき好きな絵を書けと言われて書いたのが競馬の第四コーナーで各馬がしのぎを削るシーンだった(騎手のお尻が上がっているところが「観察眼が鋭い」と褒められた)。そのボッケリーニ(馬)が昨日レースに出たので全力で応援。単複とワイドの馬券を買う。最後、馬群につつまれやばいと思ったら鞍上の横山武史騎手が空いていたインコースを突いてトップに立つ(このあたりのコースどりや駆け引きは陸上競技にも通じるところがある)。いけるか!と思ったら最後二頭にさされて三着。でもよく三着に残った。おかげで複勝が当たった。因みに、ボッケリーニをさして優勝した馬の鞍上は武史騎手の父・横山典弘騎手である。騎手には二世騎手が多い。政治家の二世は地盤・看板を受け継ぐが、騎手が受け継ぐのは能力・適性。すなわち、運動神経と小柄な体格である。相当なお給料だが、誰でもなれるものではない。危険と隣り合わせでもある。ところで、私は、そんな具合に「ボッケリーニ」は作曲家の名前を先に知っていたわけだが、ボッケリーニの一番の有名曲はメヌエット。たしか、ヴァイオリンの教則本に載ってたんだっけ。でも、知ってるのはそれだけである。このメヌエットの出典だって分かってない。この際だ、調べてみよう。すると、「メヌエット」は、弦楽五重奏曲の第3楽章だった(写真)。ご本人はチェリストだったこともあり、チェロの曲と室内楽が多いが交響曲も書いている。その中で、チェロ協奏曲(たくさんあるうちの一曲)を聴いてみた。ハイドンと同時代で、ハイドンの作風と似てるという触れ込みだが(風貌もハイドンに似ている)、なるほど、出だしこそはThe古典派って感じだが、ご本人がチェロの達人だったためだろう、ずいぶんとチェロの技巧が華やかである(その意味で、パガニーニのヴァイオリン協奏曲っぽくもある)。そして、明るい曲想のところどころに黄昏れムードが漂っている。うん、いいものを聴いた。古い教科書には、この時代の音楽ときたらウィーン古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)のことばかりで、近代のイタリアはオペラは盛んだが器楽は不振だった、レスピーギでようやく器楽が挽回したみたいなことが書いてあったが、それがドイツ至上主義のとんでもない誤解だったことが分かる(そう言えば、ヴァイオリンのパガニーニだってイタリア人だ)。てなわけで、スタートは作曲家のボッケリーニだったが、途中、馬がはさまったおかげで、より作曲家のことを知ることができた。競馬さまさまである。因みに、昨日は他のレースにオーベルニュって馬が出てて、「オーベルニュ」と言えばキリ・テ・カナワがよく歌ってた「オーベルニュの歌」(カントルーブの歌曲集)なもんだから、応援せざるを得ない(この「応援さぜるを得ない」感覚を分かっていただけるだろうか。以前、「ショウナンバッハ」って馬が走っていたときも、全然勝てない馬だったが買わざるを得なかった)。直線抜け出してトップ。おおっ、いけるか!と思ったら、ゴール直前でかわされて2着。買ってたのが単勝だからはずれ。てなわけで、昨日は、トータルで10円(10万円ではない)の儲けであった。


トムとジェリーとドホナーニ

2022-01-23 12:25:58 | 音楽

昨日は、夜のシュッツの会の前に、鶴見で室内楽を聴いてきた。昨年、二俣川でサン=サーンスのカプリッチョを聴いたときと同じ団体。ピアノの金澤亜希子さんは前回と同様だが、前回は管楽器のアンサンブルだったのに対し、今回は弦楽器が入って、シューベルトの「鱒」とドホナーニの六重奏曲(ピアノ+弦+クラリネット+ホルン)が演奏された。金澤さんのピアノは、前回のサン=サーンスは重厚でブリリアントな音だったが、今回は宝石がころがるようなきらきらした音。曲によって弾きわけてらっしゃる。金澤さん以外はアマチュアだというが、これほどにレベルの高いアマチュアを聴かされたわれわれの態度は二つ。その1。よし、こちらも負けないようにがんばろうと励む。その2。やる気をなくしてやけ酒を飲む。2は、われわれしがないアマチュアに限らず音大生にも見られるパターンのようで、声楽科を出た黒柳徹子さんは、テバルディを生で聴いて、「オペラは歌うものではなく聴くもの」と思ったそうだし、音大を訪問したカール・リッダーブッシュ(バイロイトで活躍したバス)の生声を聴いた学生の半数はやる気をなくしたそうだ(残りの半分は、自分もがんばろう、と思ったそうだ)。実は、私は以前合唱団でバス・パートを歌っていたことがあるが、私にバスを歌う気をなくさせたのも誰あろうカール・リッダーブッシュである。生ではなくオペラ映画だったが(オットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」)。その声はメガトン級。帰り道で真似するつもりで「ガオー」と出した声はまるで卵のおやじのピーヨコちゃん(耳の中にリッダーブッシュの声が残っていたせい)。もうバスは歌うまいと思った。昨日のコンサートの話に戻る。ハンガリー人のドホナーニの六重奏曲は、曲も演奏もすばらしかった。ハンガリーに留学経験のある金澤さんがやりたかった曲だそうで、曲目紹介も金澤さんが書いていたが、ご自身の経験を基にした解説は読み応え十分。こういう解説を聞きたいんだよね。その中に、ハンガリーの音楽院で教授から「この部分はトムとジェリーのように弾きなさい」と言われたという話があった。おおっ、と思った。移行作業中の録画の中に「ららら♪クラシック」が「トムとジェリー」を特集している回があり、「トムとジェリー」の音楽はクラシック音楽の粋を集めたもので、かつ、アニメの映像とぴたっと合っていてすばらしい、という話を聞いたばかりである。そしたら、リスト音楽院の教授までもが「トムとジェリー」。トムとジェリー、おそるべし、である(因みに、ネズミのジェリーにとって捕食者であるトム(猫)は、おそろしい存在である。日本版の主題歌に「トムとジェリー、仲良く喧嘩しな」とあるが、捕食者と被捕食者の関係に「仲良く」などあり得るか、と思う。だが、一度だけだったか、トムが完全に捕まえたジェリーを食べずに逃がした回があった)。そんな案配だったから、六重奏曲の演奏を聴いている間、私の全神経はどこが「トムとジェリー」なのかを探すことに向けられていた。すると、うねるような重厚な音圧のところどころに軽妙なパッセージが入る。ここかな?と勝手に合点のいったワタクシであった。とにかく、素晴らしい演奏を、響きのいいサルビアホールで、演奏者の間近で聴けて大満足であった。その後、新宿に移動してシュッツの会。こちらはサルビアホールでの重厚なアンサンブルとはひと味違う、軽やかで透明なアンサンブル。私も歌の一員であるが、同時に、他のメンバーの素晴らしいアンサンブルを楽しんで聴いている自分もいる。その中に交じるのであれば、(先ほど「歌うまい」と書いた)バスだって喜んで歌う。でも、やっぱり、歌うときは円くなった方がいいね。次回は、机を片付けて円くなりましょう。


仮面のアリア/天賦猫権/シフ・アンドラーシュの逆襲

2022-01-22 09:10:28 | 音楽

今週の朝ドラのおさらい。ジョーとトミーのトランペットの優勝決定戦はセッション方式。二人が同時にステージに立ってアンサンブルの中で妙技を競う。楽しそう。実際、負けたトミーも「楽しかった」と言っていた。クラシックのコンクール(一人ずつ演奏する)ではあまり見ない光景。だが、以前、レーザーディスクで見た「仮面のアリア」という映画では、「アリア合戦」で歌手が同時にステージに立ち、交互に声を張り上げ、どっちかの声がつぶれるまで続ける、というシーンがあった。なんだか声のでかさと高さ比べみたいな感じで、芸術を競う感じではなかった。朝ドラに戻る。ジョーは「あの少年」だったことが明らかになったが、「あの少年」とは進駐軍倶楽部でセッションを眺めていた少年であると同時に、金太の団子を食い逃げしようとした少年だよね?違う?そうなら、あるストーリーの伏線がごく初期から張られていたことになる(予告編てやつは、時系列をぐちゃぐちゃにしてるから必ずしも正確な予測を導くものではないが)。話は変わる。うちの猫は最近ご機嫌が悪い。以前は3回に1回は食品庫の扉が私のロープ鍵の閉め忘れで開き、中のラーメンを失敬できたのに、最近は飼い主が鍵を忘れないもんだからそれができなくなったから。写真は、扉を開けるのを断念した直後のケメ子。空のお椀を舐めている。

まるで修行僧(おひつの中にちょっとでも白いものを残してはいけない)である。彼女たちからすれば、既得権益はたまた生まれながらにして与えられた権利=天賦猫権を奪われた気分だろう。その腹いせに最近ではラーメンを茹でた後の鍋を舐めるようになった。だが、満足するまで際限なくご飯をあげないのは糖尿病予防のため。まったく親の心猫知らずだ。因みに、左上のとってに付いてるのがロープ鍵である。人権と言えば、さすがにコロナ禍で見なくなったが、以前は、コンサート・ホールで、持って生まれた当然の権利と言わんばかりに、誰に憚ることのない大声で「ごほん」とやる輩がいたものだ。例えば、40年近く前になろうか、東京文化会館でまだ髪が黒々としていたシフ・アンドラーシュ(ハンガリー式の名前順)を聞いていたときのこと、曲間で、例によってこれみよがしに「ごほんごほん」とやった人がいた。すると、すかさずステージの上のシフがそれを真似て「ごほんごほん」。会場から笑いが起きたが、あれはシフの逆襲だったと思っている。そのシフがピアノを弾きながら指揮もしたベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が、古い録画の移行作業の中で出てきた。髪が真っ白。昔はバッハのスペシャリストとしてならしていたと思うが、50を過ぎてから満を持してベートーヴェンを弾くようになったそうだ。その演奏は、素朴で暖かい。最近ユジャワン等の曲芸のような演奏に慣れた耳にはたいそう新鮮であった。シフのために集まったオケは小編成。シフの弾き振り、つまり、指揮台の上で目を光らせる指揮者がいないから、お互いに聞き合って、自発的に演奏している風が見て取れる(まさに、セッションである)。カペラ・アンドレア・バルカというその名は、シフの名前をイタリア風に表したものという(シフ=船(ドイツ語)=バルカ(イタリア語))。なのに、発足当初そのことを明らかにしなかったら、評論家たちが血眼になって「アンドレア・バルカ」という歴史上の人物を探しまくったそうだ。シフはいたずら好きのようだ。逆襲の「ごほん」もいたずら心がさせたものだろう。え?シフって私より5つ上なだけ?すると、「ごほん事件」のときは30前後。血気盛んでもあったんだね。


噂は大概嘘

2022-01-21 09:21:25 | 日記

いや、そう来ましたか(朝ドラ)。社長の娘がジョーに言い寄るのではなく、周りがあらぬ噂を立てて、他方、ジョーはトランペットが吹けなくなった自分はルイにとって洋梨(アプリコット?)ではなく用無しだと思い込んで別れるためにその噂を利用する。やはり、幸せなだけではドラマにならない。他人の不幸は蜜の味!?ドイツ語学校の教材で、あるオーケストラ奏者(たしかクラリネット)の一日をドイツ語で表現したのがあって、朝起きて、歯磨きして、ごはんを食べて、練習して、演奏して、帰宅して寝る、という内容。え?それだけ?それだけ。これだと教材にはなってもドラマにはなりようがない。因みに、噂のことであるが、本人からすればあり得ないような、びっくりする内容であっても立つ、それが噂である。つまり、噂は大概嘘である(この際だから言っておこう。私の内心について想像をめぐらしているあなた。その想像ははずれてます)。だから、今回の朝ドラで立った噂は、十分立ちそうな噂であった。ところで、ジョーと言えば、矢吹ジョー(あしたのジョー)、宍戸錠(エースのジョー)、ジョセフィーン・マーチ(若草物語の次女のジョー)……といろいろいるが、私にとっては、島村ジョー。サイボーグ009である。さてと。この後に別の本格ネタをもってくると大部になりすぎるから、一点、昨日の記事(料理好きは父譲り)の続きを書こう。私のことをまったく褒めなかった父に一度だけ褒めてもらったことがある。ずっと近寄らないでいた実家に妹の結婚を機に立ち寄ったとき(妹に料理を教える、というのが私に課せられた使命)、パスタを茹でて(元)家族にふるまった。一番シンプルなアーリオ・エ・オーリオであったが、父が口にした途端に「美味いっ」と叫んだ。父は、外で相当飲み歩いた人で、誰かがしゃりに比べてネタが大きすぎてはみ出てるという都内の寿司屋の話をしたときも「知ってる」。家族を一度も連れてったことがないくせに自分一人で美味しい思いをしてたんかい、と家族の反感を買ったものだが、私とは逆に洋食の経験は少なかったようで、家でも外でも(あの程度の)スパゲッティ・アーリオ・エ・オーリオですら食べたことがなかったようだ。


肉じゃが/みだれ髪

2022-01-20 09:27:19 | 日記

音楽は人と人とを結びつける。社長の娘はピアノが弾けてジョーの伴奏をできる(朝ドラ)。Also(しこうして)、結びつけて、音楽が(Alsoが文頭に来たので動詞を2番目にもってきたのだが、日本語では不要な気遣い)、ルイは哀しみに打ちひしがれるのであった……だが、これはあまりにもベタ。既に、他の登場人物(メリーさん)がそのことを危惧している。ということは、この線はないか?と思っていたら、ジョーのトランペットに異変が。これが悲劇のネタか(吹き替えの奏者さん、わざとミスって吹いていた。えらいものだ)。ところで、今朝の放送で、ルイが肉じゃがを作っていた。今回の脚本家の藤本さんは、以前、「ちりとてちん」で、肉じゃがを作って男に食べさせる女性を「肉じゃが女」と呼び否定的に描いていた。男の大好きな肉じゃがを作って男の歓心を買おうとする魂胆が見え透いているということなのだ。だが、この議論は、私には全くピンとこない。まず、私は肉じゃがが、嫌いではないが、とりたて好きでもない。私は洋食派である。なにより、現在の私は料理を女性に作ってもらうという発想がない。逆に、作りたいクチである。この気性は父譲り。父は、休日になると料理をし、「オレの作ったものは旨いだろ!」といつも自慢をしていた(ただし、レパートリーは、手打ち蕎麦と焼き飯(当時、わが家では、チャーハンという言葉がまだ入っていなかった)だけだったような)。そんな実家に「江上トミの料理全集」が鎮座ましましていて、ケースに入った全集は魅惑的。いずれ私が相続しようと思っていたのに今回処分した遺産の中になかった。父の死後、母が自分で処分したらしい(母からすれば、目障りだったようだ)。母が入った施設の自室にキッチンがあったが、母は一度も使わず、三食すべて食堂でいただいていた。自分で作っていたら、もうちっとボケるのが後れたろうか。料理はボケ防止によいという。楽器もよいという。おお、私、どっちも好きだからボケずに済むか。そんな私の昨夜の作品はベーコンとエリンギのピザ。

ホームベーカリーが壊れた後、買い換えてないが、手でこねても簡単に生地が作れることが分かり、例によってホームベーカリー代だけ儲けた気分である。だが、私は「肉じゃが男」にはなれない。和食はレパートリーにないからである。朝ドラに戻る。そう言えば、昔、「ひらり」って朝ドラがあった。ヒロインのひらり(石田ひかり)が活発な相撲ファンであるのに対し、姉のみのり(鍵本景子)は引っ込み思案の恋愛ベタ。だが、視聴者の関心はみのりの恋の行方に集まった。面白いドラマだったが、ひとつ、思い出したエピソードがある。相撲部屋の期待の星が、彼女とちょめちょめをしたことが親方(伊東四朗)にバレて、ぶっとばされた際、おかみさんがひらりに、「なぜ分かったとう思う?髷(まげ)が乱れていたからよ」と言っていた。そうか、「髪が乱れた=した」か。すると、与謝野晶子が、自らの詩集に「みだれ髪」と命名した際、そういうニュアンスをこめたのだろうか(「みだれ髪」の意味についての議論が近年あったんだって)。


年がら年中、惚れた腫れたと騒いでいるのは私(ではなく朝ドラ)

2022-01-19 09:23:20 | 日記

昨日の記事の「歌系で、年がら年中惚れた腫れたと騒いでいる人」とは、申すまでもなくワタクシのことであるが、いくつか疑問が湧いてきた。私は歌系半分、器楽系半分である。なのに、なぜ歌系の特質が強く出たか。この答えは簡単。多分、このことについては歌系遺伝子が優性なのだろう。白猫と黒猫の間の子は灰色猫になるのではなく白猫になるごとしである。もう一つの疑問はもっと根源的なこと。私がこれだけ惚れた腫れたと騒いでいるのに、そのお相手を自称する美女が一人も現れていないことである。もしや妄想?想像妊娠でもお腹が大きくなると言う(想像妊娠は男にもあるという。その症状はどんなだろう。朝、洗面所でオエッとすること?でもそれは前の晩の飲み過ぎのせいである)。すると、あの日、目の前でワイングラスを重ねた美女も幻であったか。疑い出すときりがない。そう言えば、私が元妻様と言っている某さんが私のことを元夫と言ったのを聞いた人はいない。ってことは、バツイチさえも蜃気楼だったか。おおっ、決してとれないはずのバツがあっさりととれてしまった。晴れて私はヴィルジーネ(ドイツ語ではkeusch。因みに、「パルシファル」で、えばってた悪魔クリングゾルは、仲間の魔女のクンドリーに「keuschのくせに」となじられて烈火のごとく怒る。しかし、keuschであることが「男の勲章」である時代もあったそうである)。しかし、妄想癖は問題である。今後おこりそうなこと。ある島に旅行して、2人分で宿をとる。朝食も2人分。しかし、席には私しかいない。なのに、いかにも相手がいる風情でしゃべってるし、朝ビールを二つのグラスに注いでいる。ふと厨房に目をやると、これまで心配そうにこちらをのぞき込んでいた宿の夫婦者があわてて顔をひっこめる。耳を凝らすとこんな会話をしている。「ちょっと、あのお客さん大丈夫かねー」「救急車呼ぼうか」「でも、そんなことして暴れられるとこまるし」「それより宿代」「それは前金でもらってるから大丈夫」「でも、ビール代は別だろ?」。因みに、「島」と言えば、私の妄想のパターンの中には「美女と共に暮らす」シリーズがあり、その第1弾は八王子の奥地で、第2弾は島だった。今でも「島」と聞くとわくわくする。だから、デアゴスティーニの新しいシリーズ「日本の島」(初回は特別価格の190円)には早速飛びついた。だが、いつまで続くか。ここのシリーズは何回かトライしているが、最後までいきついたのは「渥美清の泣いてたまるか」と「大草原の小さな家」のみである。ディアゴスティーニ自体が途中で打ち切ったシリーズもある。妄想と言えば、朝ドラのルイも相当な妄想家である。今朝は、テレビ番組の「私の秘密」で自分の秘密が暴かれる妄想をしていた(半世紀前、この番組をリアルタイムで見ていた記憶がある)。今朝は、クリーニング屋の夫婦に泣かされたなー。だが、一筋縄でいかないのが今回の朝ドラ。ジョーは東京に行って社長の家に泊まるというが、そこには社長の娘(佐々木希)がいる。脚本家の藤本さんには、イサムの部屋にユキエを忍び入らせた前科がある。クリーニング店のおばちゃんの前で「ママも知るとおり」と歌うのはルイかもしれない(より、「カヴァレリア・ルスティカーナ」に近くなった)。まったく、そんな話ばかりである。そうだ、「年がら年中、惚れた腫れたで騒いでいる」のは私ではない。朝ドラである(あと、オペラも)。


カーサ・クラシカでデビューしました!

2022-01-18 09:07:49 | 音楽

ジョニーとトミーがセッションを繰り広げてましたねー(朝ドラ)。かように「セッション」は本来ジャズとかに使う言葉だが、カーサ・クラシカ(赤坂のライブハウス)は、あえてクラシックにセッションという言葉を使っている。肩肘張らずに自由に、というポリシーなのだろう。クラシック・セッションの参加者は銘々、ピアノ伴奏に合わせて、ソロ、アンサンブルをし、演奏中以外は自席で飲食をしながら他人の演奏を聴く。U会のお友達なら、U会からカンタータをなくしてソロだけにしたものに飲食がついてくる、と思えば分かりやすいだろう。そのセッションに昨夜私はデビューした。既に、先月、見学してお友達もできてるし、他の会でご一緒のお友達も数人いるのでアウエー感はなし。なんといっても、ピアノの金澤亜希子さんのホスピタリティが暖かいからまったくアット・ホームである(「カーサ・カナザワ」の趣)。で、歌ったのは、「おお、よきしらせをシオンに伝えるものよ」(ヘンデルのメサイアより)、「ホフマンの舟歌」(Mま美女にお付き合いいただいた)、「あなたの声に心が開く」(「サムソンとデリラ」より)そして「Erbarme dich」(マタイ受難曲)。すべてカウンターテナーで歌い、舟歌とデリラのときはクラリネットもちょっこし吹いた。この日は、私を入れて4人がメサイアを歌ったメサイア・デーでもあった。ステージはとっても歌いやすい。のびのびと演奏できる。それでも、他の方々の名演を聴いて我が身の未熟さを痛感した(高校の後輩の某さんはここのセッションでは大先輩なのだがそれに加えてあの道(私が大好きな道)においても先輩であることがわかり、その点でも我が身の未熟さを痛感した)。だが、上手くなったものを人に聴かせるのではない。上手くなるために人に聴かせるのだ、と思い直し、今後、「本気度の感じられない婚活」(私のブログのプロフィールより)になどにうつつを抜かさず、ひらすらミューズの神に仕えるために精進する所存である。因みに、昨日、終わってからの「雑談コーナー」(スガダイの競馬番組か!?)で出た話であるが、歌系の人は、年がら年中「惚れた腫れた」で大騒ぎをしているが、器楽の人の色恋は誰も知らないところで進行し、人が気づくのはいきなりのゴールインの報に接した際だという。実は、ワタクシも、「うつつを抜かさず」などというのはウソで、ひそかに進行している関係があ……だから、そういう出任せを言うから歌の人はダメだと言われるのだ。え?ボク、半分、器楽の人だもんね。だったらもっとダメ(以上、一人芝居)。ところで、昨夜、未熟さを露呈したワタクシでも、一つだけ、圧倒的に他の方々に勝ったことがある。言わずと知れた飲酒量。なんてったって、私が飲んだワインは1本+1杯(それでも前回の見学のときより1杯減った)。2番手はワイン1杯であるから、これはもう20馬身以上離してのぶっちぎりの優勝である。しかも、この点にワタクシは自分の進歩を感じている。若い頃は、合唱団の本番前ともなると数時間前からいっさい胃に何も入れなかった。声の出が悪くなると思ったからである。でも、今ではそんなことは気にしない。飲み食いしたってナントカなる、と思っている。歳をとって前頭葉が退化したのだろうか。歳をとって駄洒落を言い出すようになるのも前頭葉の退化の現れだという話である。(追記)上記のワインから何杯かを金澤さんのグラスに注がせていただいたことが、この日、私に与えられた最大の栄誉である!


オニャンコポン/いつ来ーる?

2022-01-17 12:28:49 | 言葉

今朝のブログ記事に、奮発してダウンジャケットを新調したと書いたが、オニャンコポンって馬の単複を買ったらなんと1着に来て、ジャケット代の足しになった。この馬名、猫好きの馬主さんがジョークで付けた名前だと思ったらとんでもない。西アフリカの天空神の名前なんだと。「進撃の巨人」にも登場するそうな。いやいやおみそれいたしました。昨日は、他のレースにイッツクールって馬も出てて、こちらはスタート早々落馬。落馬事故となると騎手や馬が大けがを負うこともあるが、今回はどちらも異常なしでなにより。それどころか空馬(騎手が落馬して鞍上に誰もいなくなった馬)が他の馬と一緒に走り続けていっそうレースを盛り上げた。空馬は競走中止となるが、中止となるのは着順の付く「競走」であり、「走り」自体は今回のイッツクールのように止めない馬もいる(ついでに言うと、「イッツクール、落馬っ」って実況にも違和感がある。落馬したのは騎手である)。さあ、注目は空馬のイッツクールだ。鞍上が空だから50キロのハンディをもらったのも同然。速い、速い、あっという間に先頭に立って画面から消えてしまった。テレビカメラは、空馬を写す必要はない。だからテレビ局に文句は言えないが、イッツクールがその後どうなったか気になる。途中でコースアウトして「走り」すら止めてしまったかもしれない……と思ってたら、最後の直線になって、再びイッツクールが画面に映り込んできた。最初、飛ばしすぎてばてて下がってきたのだ(ペース配分も騎手の仕事である)。だが、ムチで叩かれなくても、きっちりコースを回ったのは偉い!最後も、力を振り絞って3着か4着には残っていた……って言っても着順はつかないから、かりに3着でゴールしても馬券は紙くずである。だから、買ってた人は怒り心頭だが他の人にとってはなかなか楽しいレースであった。たまに、空馬が先頭でゴールインすることもある。しかし、実況アナウンサーはそのことに触れない。ひたすら無視する。因みに、「イッツクール」は「It's cool」(いかしてる!)なのだろうが、「いつ来ーる?」なら馬名には向かない。any美女はいつ来ーる?と同じである。