拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

遊び方改革(来年のこと)

2021-12-31 17:16:07 | 音楽
U会を離れると宣言したのはソロ会のすぐ後だったから8月か。あのときは自分の気持ちに落とし前を付けるのに苦労した。だが、神様は、苦悩と同じだけの喜びも用意してくれていた(塞翁が馬とも言う)。シュッツの会を再開し、チェロを始め、人に言えない恋が人知れず終わって新しい恋が始まったのは、すべてU会を離れたことと因果の糸でつながっている(風が吹けば桶屋が儲かる式のつながりである。なお、当ブログは、事実を基にしたフィクションである。フィクションには恋バナがつきもの。瀬戸内寂聴さんも「あたしは本当は淫乱な女じゃないの。だけど読者が喜ぶからそういう話を書くの」と仰っていた。私も、本当は淫乱な男ではないが読者が喜ぶからこういう話を書くの?)。ところで、SM合唱団時代から知己を得ているディーヴァ・Yさん(ソプラノ)が誕生日にメッセージを下さったのだが、そこに「イージマさんは息継ぎをしないで爆泳している。疲れないように」とあった。よくご存じ。私、息継ぎが苦手で、25メートルをノンブレスで泳いでいた……ってそういう話ではない。たしかに、この4年間(ということは、U会を始めてから)、走り続けてきて、心身共に疲れてきたのはたしかである。自宅と駅の間の25分間のちゃり漕ぎも、行きは良くても帰りが辛くなってきた。ここはいっそ、働き方改革ならぬ遊び方改革をする時期なのかもしれない。これからは、息継ぎができる程度に活動しよう。シュッツの会の再開は大ヒットだった。あれだけのハーモニーはそんじょそこらでは味わえない。H美女邸でのアンサンブルもしかり。だからこれらは「マスト」である。だが、いずれも私はバスだなぁ。「本職」のカウンターテナーで歌うためには、味噌煮込合唱団にも置いてもらわないと。それから楽器は、シュッツの会で毎回演奏する楽器の練習で十分であるが、並行して、「本職」のクラリネットと、「天職」かもしれないチェロの練習を欠かさないようにしよう。ヴァイオリンは?映画「オーケストラ・クラス」で、「合同練習で恥をかいたけど、見返してやろう」という台詞があった。その心境である。そしてソロ演奏。年が明けたら「クラシックの家」(本当はイタリア語)でのデビューが控えている。こないだ下見に行ってきたが、ピアノの某某美女が気立て良しだから集まってくるメンバーもいい人(かつインテリ)揃い。だが、皆さん、真面目に仕上げてきたものを披露されているから、私も最初はカウンターテナーで挑むつもりである。「遊び方改革」と言いながら、こんなに予定がある。ありがたいことである。遊びはそうだとして仕事をどうするか。多分、今の仕事からは足を洗う(そうすれば、お友達から仕事を頼まれてもお断りするのに苦労することはない)。じゃ、仕事を聞かれたら無職と言うのか。いや、「売れない小説家」と言うつもりである(当ブログがフィクションであるなら、既に私は「売れない小説家」である)。これまで法律関係の本が並んでいた本棚はほとんどドイツ語関係に入れ替わったし。ところで、「初夢」とは新年二日に見る夢だそうだ。すると、大晦日の前日に見た夢が「終夢」ということになるのだろうか。その「終夢」に、久々に6月に亡くなった母が出てきた。相変わらずボケていて、親戚の結婚式に一人で来られるか私が心配しているのだが、なんと、そこに亡父まで登場した。ところが、父は実際はボケる前に心臓で逝ったのだが、夢ではボケていた。で、別々のとろこで暮らしている二人が出会う直前でこの夢は終わった。互いに認識できるだろうかと心配しているところだった。だがそこで目が覚めたわけではない。この日の夢は二本立てで、もう一本は、any美女とデートをしている夢だった。こっちは正夢になればいいな、と思った(因みに、父母の夢は、正夢になる余地はない)。

ピッチのこと

2021-12-31 08:57:02 | 音楽
書いてるうちにいろんなことを思い出したので、今年の総括と来年への抱負は後で書くとして昨日の続きを。「お前のリードは材木かー」の先生の話である。先生はそこは某N響(仮名)の主席であられたから、原色の趣味のおよろしいアメリカ帰りかと思うようなシャツに隠された腹筋は鉄筋だったに違いない(因みに先生はフランス帰りである)。「ちょっと貸してみろ」と言って私からとりあげたクラリネットの「材木の」リードに吹き込まれた息の圧は圧倒的で、クラリネットの音の代わりに出た息の音は「ぶひーっ」と部屋中に轟いた。さすがである。「材木かー」の名言が飛び出したのはこの直後である。今、思った。人前でこれだけ派手に「ぶひーっ」とやっておいて、その後も平然と聴講生をディすり続けた先生こそ究極の「鈍感力」を持ってらしたに違いない。そんな先生が、講義が終わって主催の楽器店の人に「当店はいいクラリネットを多数取りそろえております。お選びいただく際は、先生が見て下さいます。ね?先生!?」と向けられた途端、声が小さくなって「ええ、まあ」と言った姿は、高校生に大人の世界を感じさせるものであった。この経験を思い出してみると、最近、私はディスられたことなどないように思えてくる。また、私は某国家試験の受験指導で先生と呼ばれたことがあり、そこでは、「えばらない」「生徒をディスらない」ことで一定の評価を得ていたのだが、これはその先生という反面教師がいたおかげである。そうやって考えれば、今あるのは先生のおかげである。遅ればせながら御礼申し上げます。ところで、有名オケの主席がすべてこの先生のような素晴らしい非人間性を備えているとは限らない。私は、大学では古楽の合唱に転じていたのだが、高校の吹奏楽部のOBOGが主体となって作った吹奏楽団にちょびっとだけいたことがある。指揮者は、某Tフィル(仮名)のクラリネットの主席を吹かれていた先生である。で、そこでマイスタージンガーの前奏曲をやることになり、私はソロを吹くことになった。ところが練習でその先生に「ピッチが低い」と何度も言われたからがんばっては見たが高くならない。業を煮やした先生は傍らの幹事役に「彼はピッチが低い」とささやき、私はソロを降ろされてしまった。いったんやることになったソロをクビになったのは後にも先にもこのときだけである。だが、私は、そのときはディすられたとは思っていない。ピッチが低いのは事実だったから。それよりも、その日の夜、ソロを降ろされた腹いせにさんざっぱら飲んではしゃいでいたら(腹いせでなくてもいつもそう、という噂もある)、「優秀な学生ははじけ方もすごいね」と仰ってくださった。そのときの、私を見守る先生の優しい眼差しこそ今私に残る先生のイメージである。因みに、このときのはじけ方は、数年前の麹味噌合唱団(仮名)の宴会の後の某駅のホームで歌って踊ったときと同様の感じ。そのホームの様子を後から映像で見たら(誰かが撮影していた)、楽器の某君も一緒にはじけていた。この合唱団の現在の関心事は、某君と某嬢の関係がどうなっているか?である(私は誰とも噂になってないのだろうか。なってないなら自分で作ろうか)。さて。そのときから数十年の冬眠期間を経て、近年、クラリネットを再開したのは神奈川で開かれたモツレク通唱会だった(Fさん主催)。Y先生美女がご一緒だった。で、演奏が始まってみると、どうも私の楽器のピッチが高い。クラリネットは高ければ管を抜いて調整できるのだが、私はピッチが低くてソロをクビになったトラウマがあり、自分の音が高いなんてにわかに信用できない。管を抜いて音を下げるなんざ私の辞書にはないことである。だが、どうにも高いので途中で管を抜いてみたらピッチが合った。楽器は、昔と同じものである。なんでピッチが高くなったんだろう。私にとっての七不思議の一つだ。それから最近始めたオーボエについても、今は行ってないU会で最後に吹いたとき、めちゃくちゃピッチが高く、オーボエはクラのように管を抜いて音を下げるわけにはいかないのにそうしたくなるくらい高かった。だからその日はろくに吹いてなかった。その後、オーボエの練習をするときは、もっぱらチューナーとにらめっこをしながら音を下げることに注力した。息の圧を下げ、リードも変えてみてようやく下げることができた。その成果が、シュッツの会での木管トリオ復活の三重奏であった。

鈍感力

2021-12-30 21:01:59 | 音楽
前の記事で「鈍感力」について触れた。合唱指導の先生に「そこのオバさん、帰って!」と言われた人が顔色一つ変えず帰らなかったって話を聞いて、その方は相当な「鈍感力」をお持ちだと感じ入ったのである。「鈍感力」とは、そもそも渡辺淳一さんがその著書で明らかにした「能力」である。私はその本を読んだ。たしか、ぶきっちょな若い医師が外科手術でいつも先輩医師からディスられているのにひょうひょうとして落ち込んだ様子がない。そのうち、名医になったって例が紹介されていたと思う。合唱指揮者から「帰って!」と言われたご婦人が帰らないでがんばっているうちに名歌手になったかどうかは知らない。だが、帰らなかったんだからその可能性は残したわけである。そこで帰ったらおしまいだもんな。私は、褒められたことも多いが、その10倍くらいディスられている(のこのこ人前に出てあれこれするのが好きだから、ディスられやすい。ディスられる機会を自ら作っているといってもよい)。例えば、ピアノの先生。最初についた女性の先生には最初に「一からやり直し」と言われたが、ピアノの腕以外のこと(ってなんだ?)をいろいろ褒めてもらってやる気が湧いていた。だが、先生が変わって、次の先生も女性の先生だったが、「右手はまだ鍛えればましになるかも知れないが、左手はもう見込み無し」と言い切られて、私はそれでピアノをやめた。そしてクラリネットも、高校の吹奏楽部でクラを始めてすぐの頃、伊勢佐木町の「ハマ楽器」でN響(仮名(になってる?))の主席の某先生が公開レッスンをするというので先輩達と受けにいって、独りずつ吹いたとき、私がうまく音を出せず、その先生(やたらと派手な服と長いネクタイを着用されていた)にこれ以上ないくらいにディスられた(あの先生に比べれば、最近ディスられたって言ったって全然たいしたことない)。だが、あまりに音が出ないので、そのうちリードのせいか?と思ったらしく、ちょっと貸してみろ、と言って私の楽器をとりあげて吹いたらまるっきり音が出なかった。なんだ先生だって吹けないじゃん。だが、そこで「ごめんな、リードのせいだったな」などという人だったらそもそも最初にひどいディスり方などしない。「お前のリードは材木かーっ」と来た。見事だと思った。あれくらいの非人間性の持ち主でなければN響(あくまで仮名(と言い張る))のトップは吹けないんだな、と思った。因みに、なんで「材木」のようなリードを付けていたかというと、当時所属した吹奏楽部で「リードは厚ければ厚いほどいい」という間違った信仰があったためである。でも、あれだけディスられてもクラリネットをやめなかったってことは、多少とも鈍感力が身についていただろうか。いや、あまりに先生が変人だったから現実の体験と感じなかったせいだろう。あんなにえばってたが、テレビで聴くその演奏は、カール・ライスターの上手さの100分の1くらいだった。以上は半世紀近く前の話である。現在のトップの方は、もっと人間性のある方に違いない(知らないけど)。自分の暗黒の過去を振り返っていたら私の人間性もゆがんできた(もともとゆがんでいるいう噂もあるが)。鈍感力に戻ろう。鈍感力は大切かもしれない。だが、そもそも、ディスられて怒るのは人間として必要なことである。例えば、冒頭の合唱指揮者の暴言に平気な人の中には、鈍感力で耐え抜く人のほか、ディスられて幸せ♥って人もいるという。だが、虎ががおーっと吠えてるところに居合わせて、あっふーん♥、もっと吠えてくださいなどと言ったらあっという間に虎のディナーになってしまう。だから、某合唱団の本番の打ち上げで指揮者が暴言を吐いたのでごそっとやめたあまたの団員の態度は人間としてごく自然のことだと思うのだ。さてさて、これで今年度中に書きたかったネタはおおよそ書いた。いよいよ明日は大晦日。今年の総括と来年の抱負を語って大団円としよう!

クチパク/オーケストラ・クラス

2021-12-30 09:32:26 | 音楽
私は友達が少ない。つうか、ほとんどいない。「あまちゃん」の劇中歌「潮騒のメモリー」の中の「♪友達少ないマーメイド」のくだりを聴いて、自分のことに感じておいおい泣いたものだ(ウソ)。そんな私の数少ない友達の中のお二人がWK氏(二人のK氏)。このたび、お二人が、松戸での会食に私を呼んでくださった。なんとありがたいこと!おいおいと泣く(再びウソ)。しかも、多くの人々が私とのかかわりあいをひたすら隠すなか、私のお友達として写真を載せてもいいとおっしゃる。



ありがたすぎて、さめざめと泣く(これもウソ。ウソばかりついてるが、気持ちは偽っていない。私の文章について、WK氏のうちのお一人が「針小棒大」と評された。なるほど、である。ブログ名の変更はこのことがきっかけであった)。因みに、指定されたお店(Kさんのなじみ店)の近くまで来ると暗がりの路上に二つの人影が見える。まさかのWK氏であった。どうしたのかしらと思ったらそのお店がお休みだという。あららら。急遽、別のピッツェリアに変更。



いや、このお店もいいお店だった。今度any美女を連れ込もう。さて、薬師丸ひろ子が「潮騒のメモリー」を歌った回は「あまちゃん」の中でも神回であった。歌のシーンの多くは事前に音だけ録って収録の際はクチパクだそうだが、薬師丸ひろ子は実際に収録の場で一発勝負で歌ったそうだ。今やってる「カムカム」での世良公則の熱唱もしかりである。やはり、クチパクはよくない。音とクチがずれるし、そもそも臨場感が違う。だが、ライブでさえもクチパクがある。トリノ冬期五輪でのパヴァロッティはクチパクだった。ばらしたのは指揮をしたマジエラ。マジエラは名ソプラノのミレッラ・フレーニの元夫。フレーニは結婚中に名バスのニコライ・ギャウロフといい仲になりマジエラに告白。二人の間の子であるミカエラの成人を待って離婚し、フレーニはギャウロフと結婚した。しかし、マジエラも、離婚には応じたが当然恨み辛みはあるだろう。それを元妻の幼なじみでSEX以外はなんでも一緒にやったというパヴァロッティにぶつけた、それがクチパク暴露の素因であった、と下司の私は勘ぐっている(下司の勘ぐりと言われる前に先手を打った)。だが、オリンピックにクチパクはつきもの。ロンドン五輪のポール・マッカートニーの「ヘイ・ジュード」も当初の予定はクチパクだったが、結局ライブで歌ったのは、ポールの直前の思いつきである。冒頭の「ヘイ」が二つ聞こえたのはそのせい。間に合わずに前に録った録音が一瞬出てしまい。生歌と重なったのだ。クチパクでひどかったのは映画「俺たちの交響楽」。みんなで第九を歌いましょう、初めての人も大丈夫、というわれわれの身近にもたくさんころがってそうな話で、最後に本番のシーンがあるのだが、主演を含めて俳優たちのクチが周りとまったく合ってない。ちゃんと歌っている周りの人の声を聴いて、それを後追いしているのがありあり。違う意味のクチパクだが実にみっともなかった。本番がはねた後、俳優たちが「来年も歌いたいなー」とか言ってるが、お前ら歌ってないじゃん、と思った。「初心者ががんばって本番を迎える」と言えば(いい流れで話がつながっていてほくほく)、古い録画の中に、映画「オーケストラ・クラス」があった。移民の子が通う小学校がオーケストラのクラスを作って本番をめざすというフランス映画である。二回前のブログに先生が生徒をディする話を書いたが、さすが自由の国フランス!生徒が「くそじじい」と言って先生をディスっている。フランスで先生をやるというのは大変のことのようだ。だが、なかなか感動的だった。実は、私、弦子と心中しようと思っていた。弦子をたたき割って薪にして火をつけて燃え上がる炎の中に飛び込もうと思っていた(今回、何度目かのウソ。因みに「弦子」とは私のヴィオリンである。なお、積み上げた薪から立ち上る炎の中に愛馬グラーネと飛び込んだのはブリュンヒルデである)。だが、この映画を見て、また弦子とやり直そうと思った。この時期に私がこの映画と出会ったことは、「続けなさい」という神様の思し召しに違いない。やはり古い録画の中にあった映画「母さんがどんなに僕を嫌っても」でも、息子が母親との人生のやり直しを模索していた(それにしても、吉田羊が演じる母親の幼児虐待ぶりは真に迫っていて怖かった)。因みに、その二回前のブログ(先生が生徒をディする)は、なかなかの反響。自分又は仲間が様々にディスられた経験をお持ちの皆さんが一斉にコメントをくださったのだ。その中でも、ある合唱指導の先生が「そこのオバさん、帰って!」と言った話は強烈だった。さらに、言われた人が顔色一つ変えず帰らなかったって話はもっと強烈だった。ふーむ、「音楽をやる」ためには鈍感力というか、そのくらいの強心臓でなければならないのだな。とーってもタメになるお話だった。

被害妄想

2021-12-29 09:48:02 | 音楽
朝ドラのこれまでの総集編を見て、ってことは安子は再婚したんだな、私は1回しか結婚してないのにずるい、と思った。そう言えば、かなり前になるが、ヨーロッパ帰りの某ピアニスト(と言っても某某美女ではない)が私に「自分の周りには音楽一途できたんでパートナーのいないピアニストがたくさんいる。よければ紹介する」と言ってくださった。ところで、そのサイゼでの会食には元妻様とBお姉様が同席していた。元妻様のいる場でこういう話はまずいと思われたのかBお姉様が「あ、あのね。このお二人、元ごふーふなのー♥」と魔の一撃。ピアニスト様は「うぐっ」と絶句し、紹介話は立ち消えとなった。後でBお姉様が「余計なこと言っちゃったかしら」と仰った。ホントですよ。私がいまだに独りでいるのはBお姉様のせいですっ……って、冗談ですから。先日も、私がいろいろ楽器をすることにについてBお姉様が「器用ねぇ」と仰ったが、器用=器用貧乏だから褒めたことにならないと書いたら次にお会いしたとき早速「ブログ読みました。ホントに褒めたんですよ」と仰る。私は妄想家で、中でも被害妄想が強い。反面、愛情をキャッチするチャンネルはさび付いている。今回、退団した某男声合唱団のお兄様方から多くの暖かいコメントをいただき、あらま、私って、ここで結構愛されてたのね、と初めて知ったくらいである。そんな私でも、Bお姉様が本気で褒めてくださったことはよーく感じておりました。ありがとうございます。因みに、偉い人と一緒にするな、と怒られそうだが、カルロス・クライバーもなかなかの被害妄想家である。例えば、クライバー指揮でボエームのCD録音が計画されたことがある。すべてがスタンバイOKだったが、ロドルフォ役のドミンゴが来ない。スケジュールの都合だったのだが、クライバーは、仲良しのドミンゴに否定された、と感じて降りてしまった。だから、彼の「正規の」ディスコグラフィーにはボエームがないのである。ところで、私は、このときのロドルフォがドミンゴだったと聞いてちょっと意外だった。なぜパヴァロッティでなかったんだろう。スカラ座でクライバーがボエームを振ったときのロドルフォはパヴァロッティ。圧巻の歌であった(ドミンゴは、「冷たい手」のハイCをあんなに伸ばせない)。因みに、このときのミミはコトルバシュ、ムゼッタはルチア・ポップ!クライバーとルチア・ポップが喧嘩別れする前である。以前、この二人は、クライバーがポップのところに押しかけ同棲を試みるような関係だった(クライバー没後のドキュメンタリーで知った)。恋多き者同士である(妻泣かせ、夫泣かせともいう)。クライバーが振るバラの騎士のゾフィーは常にポップだった。そのポップが、出世魚のように、役柄をゾフィーから元帥夫人にチェンジしたとき(軽い役から重い役へのチェンジ)、ゲネプロで大喧嘩してクライバーが降板してしまった。だが、ポップは別の指揮者の元でそのまま元帥夫人を歌った。満面の笑みで聴衆の喝采を浴びるポップをいきさつを知る関係者は複雑な思いで見たという。うーん、また脱線して予定の記事を書けなかった。旧年中に湧いたネタは旧年中に消化したいので、現在、「歳末大売り出し」の勢いで書いている。だから、投稿数が日に2,3本になっている。最後に一つ。最近、いずれかの美女に「私、裸になるとね、腹回りより胸回りの方が厚いんだよ」と自慢したうっすらとした記憶があるのだが、これって白昼夢(妄想)だったのだろうか。

先生にディスられた生徒の反応

2021-12-28 19:53:00 | 音楽
歌や楽器といった音楽に限らず習い事一般において、先生が生徒を指導するやり方にもいろいろあると思われ。その1。「あら、ちょっと間違ったわね。でもいいのよ。みんなここで間違えるんだから。次、注意しましょうね」評価:甘い。その2。「こらぁ、そこちゃうだろうが。まったくどいつもこいつもここを間違えやがって。ちゃんと弾けっていうの」(例がいつのまにかピアノの先生になっている)評価:厳しい。その3。その2に加えて「ぼこっ」って音がする。つまり先生が生徒を殴っている。評価:厳しすぎ(それで落選した政治家もいた)。その4。「まーた、間違えた。ほんとに下手ね。(聴講生に向かって)みんな聴いた?ホントに下手よね。笑っちゃう。ケケケケケケ」評価:人間性が疑われる。

かように指導方法にもいろいろあるが、その際の先生の思いもいろいろあると思われ。その1。心底、生徒のことを考え、上手くしようと思ってる。その2。ヒエラルキー(プロとアマの階級)が大好きで、先生は生徒をどう扱ってもいいと思っている。指導方法3と4のタイプの多くはこれだろう。その3。おしんタイプ。すなわち、自分が先生からやられたことをそのまま生徒にするタイプ。これは指導方法1~4に適合すると思われ。

さて、これに対する生徒の反応である。その1。やる気をなくす。指導方法その1に対してやる気をなくしたらこれは軟弱にすぎる。だが指導方法2~4に対しては普通に見られる反応である。その2。(指導方法2~4に対して)なにをー、今に見ておれと奮起してより頑張る。先生は、生徒がこういう態度に出ることを期待してこの方法をとるのかもしれない。

以上とは別に、何かを言うのではなく、そのパフォーマンスでもって生徒のやる気をなくさせる先生もいる。例えば、バス歌手のカール・リッダーブッシュが日本に来て音大で歌った際、窓ガラスがビリビリいって半数の生徒はやる気をなくしたそうである。逆に、ようし、自分もがんばろうと思った生徒が半数いたというところが驚きである。

で、私のことである。私は、ここ数年、ディスられてばかり。私がいただいた指導方法は概ね4であり(バカにして笑う)、私の反応は1、つまりやる気をなくす。だが、片っ端からダメだしされるとするものがなくなってくるから最初に戻ってまたがんばったりする(二巡目は多少、評価が上がることがある)。だが、過去をふりかってみると、褒められたこともある。これが面白いのだが、こないだ美女達と話していて、合唱界で有名な某先生はとにかく合唱団員をなじるそうだ。上記の指導方法で言えば4に近いだろうか。だが、そういう風になじられるのが快感となってずっと付いていく団員がいたという。で、私は、ちょびっとだが、その方の指揮で歌ったことがある。すると、まず、ドイツ語の発音練習が終わったとき、私のところにわざわざ見えて「ドイツ語をやってらしたんですか」とお聞きになる。続いて、フシを付けて歌うと(そのときはバスのパート)、やはり私のところに見えて「どこで歌ってらしたんですか」とお聞きになる。私としてはめずらしい褒められた経験であるのと同時に、大きいホールでたくさん人がいるなか、私の発音と歌を聞き分けた先生はすごいと思った次第である。

ミスター・マーサシ(私)

2021-12-28 16:47:54 | 音楽
1956年の「スタア誕生」という映画を見た。自分をスター女優に育ててくれた夫が自殺。失意の女優は引退を考えたが舞台に戻り、そこで「私は、ノーマン・メイン(夫)の妻です」と言って万雷の喝采を浴びて「The End」となる。最後のこの場面のために全編があるかのようなクライマックスだが、「私は、ノーマン・メインの妻です」の箇所、「I am Mrs.ノーマン・メイン」と言った気がして不思議だった。「Mrs.」「Miss」「Mr.」は名字につくものとばかり思っていたからだ。このように、「(夫の)ファーストネイム+名字」にも付くのだな。同様に、朝ドラで、ルイが読んでたO.ヘンリーの小説に、「Missマーサ」ってパン屋の店員さんが登場する。おお、これも、名字ではなく「ファーストネイム」に「Miss」が付いている。因みに、「Missマーサ」に「ター」と「シ」を足すと「ミスター・マーサシ」となって私になる。ところで、O.ヘンリーの小説には、足を洗った元金庫破りが、絶対に再び罪を犯すに違いないと付け狙う刑事の見ている前で、金庫を破って中に閉じ込められていた子供を救出する話があり、これを原作とするエピソードが「おそ松くん」にある。チビ太が元金庫破りで、刑事がイヤミだ。子供を救出した後、手錠をかけてくれと手を差し出すチビ太に対してイヤミ刑事は「ミーはあんたのことなど知らないざんす」と言って去る。そもそも子供を救出するために金庫を開けたところで何の罪にもならないが、この感動的な話の際はそういった無粋なことは言わないでおこう(と言って書いている)。O.ヘンリーの小説、キンドルに入れて読んでみたい……が、キンドルの中は、(読んでもらうための)順番待ちをしている本であふれている。

おやすみ

2021-12-28 06:22:21 | 音楽
「行く年来る年」の「行く年」ってどこに行くんだろう。ゴミ箱の中?(パソコン内の削除したデータのイメージ)「行く」というより「去る」って感じかね(gone、gegangen)。その「行く年」の2021年、私にとっては、母が死に、塩漬けだった○○を処分し、某会を休み、別の会を再開し、楽器を三つ始める等々いろいろあった年だった。もうないだろうと思った昨夜、押し詰まったこの時期に某男声合唱団を退団。いや、しらーと行かなくなって済むんならそうしたけどね、黙ってると団費が発生するからね、退団届を出しました。だから空き巣さん、月曜の夜に来ても私いるからね、こないでね。とにかく、こういう「移動」は精神的にもダメージだからもう御免。来年こそはおだやかにいきたいが……いや、まだある。大物が残っている。今の商売。続けるかどうか。進行中の案件があって年内に決着をつけられなかった。来年、その件が片付いたら考えよう。合唱団も進退を決めなければならないところがまだある。とりあえずは休息。今の気分は「冬の旅」の第1曲(おやすみ~Gute Nacht)である。とか書いてたら朝日が昇ってきた。だから、今言う「おやすみ」は二度寝のための挨拶である。

イエス・ノー枕

2021-12-27 15:45:57 | 音楽
スーパーのレジで、「袋はお持ちですか?」と聞かれて「はい」と答えているが、たまにフェイントで「ビニール袋をご入り用ですか」と聞かれて惰性で「はい」と答えると、いらないビニール袋を渡されて数円余分にとられることになる。こちらも惰性で聞いているからいけないのだが、店員さんも惰性で言ってるから発音は不明確でよく聞き取れなかったりするとおこりがちである。似たシーンが「フィガロの結婚」にある。伯爵とスザンナの逢い引きの相談のシーン。「約束を破らない?」「No!」「ほんとに破らない?」「No!」「じゃ来てくれる?」「No!」「えーっ、来てくれないの?」ってやりとり。惰性で「No!」と言って失敗するパターンである。なお、スザンナの三つの「No」のうち、最初の二つは日本語では「はい」。すなわち、欧米語では、否定疑問に対して相手に賛同する場合は「No」と言い、反対する場合は「Yes」と言うから日本語とは逆になる(ドイツ語の場合は「ja」ではなく「doch」)。端的な例は、男が女に「No?」と言って飲み物を勧めると女が「Yes」と言って受け取るシーン(映画「スタア誕生」(1956))。すると、上記のスザンナの答えは、日本語だと最初の二つが「はい」で最後が「いいえ」になり、惰性で同じことを言って失敗したことにならない。元の歌詞の面白さを残すためには、質問を否定疑問ではない形、例えば「約束を破るんじゃないの?」とかに変えなければならない。これなら「約束を破るんじゃないの?」「いいえ」「破るでしょ?」「いいえ」「じゃ来てくれる?」「いいえ」となって、元の形に近くなる。因みに、スザンナは本心で伯爵と逢い引きをするつもりはなく、伯爵夫人とつるんで伯爵を懲らしめようという魂胆。デートの途中で伯爵夫人と入れ替わるから伯爵は自分の妻に言い寄ることになる。あっ、「こうもり」もそうだったな。アイゼンシュタインも仮装した自分の妻(ロザリンデ)をくどくんだった。そして、伯爵もアイゼンシュタインも最後は妻に平謝り。だが、二人とも人がいい。ここで開き直って「分かってたさ。わざと騙されたふりをしたんだよ」などと強弁する手合いもいる。イエス・ノーと言えば、以前の「新婚さんいらっしゃい」は番組後半が二組の夫婦によるパネルクイズで、商品に「イエス・ノー枕」があった。私は子供の頃からこの番組を見ているが、この枕の正しい用法を知ったのはつい最近のことである。なお、私は、「新婚さんいらっしゃい」に出てる夫婦を見て笑うのは好きでも、ここに出て笑われようなどとは思ってない(そう、この番組の冒頭で「今日もおおいに笑ってください」と言っているから、これはお笑い番組である)。だから、もしいい仲になった相手が「新婚さんいらっしゃい」に出たいと言い出したらどうしようかと心配している(妄想の果ての不毛な心配)。

ガオーッは苦手/鶴と馬

2021-12-26 17:13:56 | 音楽
ベランダのホウレンソウは全部収穫して食べちゃったから水やりからは解放されたが、代わって二台ある加湿器付き空気清浄機への水やり作業が厄介。水をやってもやってもすぐにタンクが空になる。空気が乾燥してることを実感。機械に付いてる湿度計もしょっちゅう10%を切っている。話は変わる。美女たちと話していて、いわゆる「音楽通」は結構怖がられていることを知った。そこへいくと、私などは、「つう」は「つう」でも下半身痛……ではなく下半身通。人から軽蔑されることがあっても怖がられることはない(しかも、妄想だけで経験に裏打ちされていない)。因みに、昨日の美女たちは、本当は私にバスを歌わせたいのになかなかおっしゃらなかった。ブログに「男声」を歌いたくないって書いているのを読んでくださっている。結構、私のブログはみんな読んでないふりをして読んで下さってるようだ(読んでることが分かるとその品位が疑われるらしい)。だが、昨日のアンサンブルでは、バスを歌って本当に快適だった。シュッツの会でもそうである。考えたのだが、私が男声を歌いたくないのは、「ガオーッ」と吠える合唱団においてである。きれいにハモれるところで必要があればテナーやバスを歌うことを厭うものではない。H美女邸でのアンサンブルでは、今後も私は喜んで男になるつもりである(でも狼にはなら(れ)ないからご安心を)。因みに、私は「ビルの街にガオー」の鉄人28号は大好きである。また話が変わる。「つう」と言えば、歌劇「夕鶴」の鶴の名前がそれ。つうが惚れた男が「与ひょう」。つうは人間に化けて与ひょうの家に行き、自分を妻にしてくれと言う。「棚からぼた餅」のようでもあるが、現実ではこういう話はかえって怖い。高くついたりする。だが、「夕鶴」のつうはぼた餅に間違いなく、つうが自らの羽で織った織物で与ひょうは金持ちになり人間が変わる。それを嘆いて「与ひょう、与ひょう」と歌うつうのイメージは、私にとっては永遠に半世紀前に白黒テレビで見た伊藤京子さんである。たった今ググって知ったのだが、このレジェンド・ソプラノが亡くなったのはなんと今年。享年95歳であられた。鶴と言えば馬(こじつけ)。今日の有馬記念が引退レースだった女王クロノジェネシスは3着に敗れたが、直線で前が塞がって追い出しが遅くなった。それでも最後に詰め寄って3着になったのは流石である。その有馬記念の前に国歌独唱をしたのが「自衛隊の歌姫」。へーえ、自衛隊にはこういう人もいたんだねー。因みに、有馬記念の前の別の競馬場のレースに「エヒト」って馬が出ていた。ドイツ語で「echt」とは「本当」という意味。1番人気ではなかったが、名前につられて注目してたらそのレースを勝って「echt(まじ)?」って感じだった。

白井で歌ってもらった「ハッピー・バースデー」

2021-12-25 20:01:18 | 音楽
今日は、先月に引き続き、白井のH美女邸での歌のアンサンブル。実は前の日にA合唱団の忘年会があって参加の可否が危惧されたが、H美女はもちろん他の美女・美男とのアンサンブルは願ってもない吉事であるから、忘年会がはねた後、道で寝ることもなくちゃんと帰宅して備える。その甲斐があった。いやいや楽しゅうございました。混声のアンサンブルではバスを担当。普段、アルトじゃなきゃいやっと言っている私であるが、ここだとかシュッツの会だとかのハーモニーが美しい会では大喜びでバスを歌う(私が来るまで、イージマさんにバスを頼んじゃ悪いかな、と言っていたそうである。それにしては、M美女の「イージマさん、バスを歌って!」は明るく爽やかであった)。さらに、今回もH美女やK美女と「舟歌」を歌ったほか、H美女とのデュエットで歌わせていただいたのがブラームスの「Klosterfräulein」。突然のご指名であたふたしたが、H美女のリードのもと、最高に幸せでございました。H美女が豆から挽いてくださったコーヒーも美味しかった。H美女様、皆様、ありがとうございました。それにしてもドイツ・ロマン派のデュエットって、いいなぁ。くせになりそう。楽しい会もお開きとなり、白井駅までの帰り道に出くわしたこの公園は、



「Shall we dance?」のロケに使われたという公園である。それから時計の針を巻き戻して、H美女邸に行く途中の話。池の写真は前回もアップしたが、岸辺に何やら白黒模様が見える。



私は目が悪いが、猫にはめざとい。これは猫かもしれない。カメラのズームを拡大する。



ますます猫である。もっと拡大。



ということで、猫であった。実は、ここまで拡大する前に、私が「にゃー」と鳴いたら対象が反応したからその時点で猫と分かった。時計の針を進めて再びH美女邸での話。なんと、皆さんが私に「ハッピー・バースデー」を歌ってくれた。この歌を歌ってもらえるなんて多分半世紀ぶりである。感謝感激雨あられ(天気は良かったが)。感激して私も精一杯「ハッピー・バースデー・トゥー・ミー」を歌いました。多分、この日、一番声が出たと思う。

物色(泥棒姉妹)

2021-12-25 08:56:17 | 
ウチのワサビとケメ子は、同時に生まれた姉妹である。ネコだから双子だけってことはないだろうが、○つ子だったのかは知らない。この2ニャンのみが保護されたのである。ヴォランティアさんから譲り受けた場所は中央区だったが、保護された場所は足立区だっていうから、案外、ウチの近所の野良だったのかも知れない。この2ニャン、性格はかなり違う。ワサビは私の布団の中に潜ってくるが、ケメ子は布団の上に乗ってくる。ワサビはなかなか動じないがいったんびっくりして隠れるとなかなか出てこない。それに対し、ケメ子は、ちょっとした物音ですぐ逃げるがあっという間に帰ってくる。猫じゃらしで遊ぶときも、ワサビはじっと狙いを定めてぱっと飛びつくが、ケメ子は追いかけまくる。これだけ違う姉妹だが、共通するところがある。一つは毛並み。ワサビはサビ猫でケメ子は三毛猫だが、サビ猫は三毛猫の一種である。もう一つは泥棒猫であること。年がら年中、私の隙を狙ってはおやつにありつこうとする。家中のどこに何があるかは大体把握していて、例えば、食品庫に袋ラーメンが入っていることもよく知っていて、私が鍵をかけ忘れて外出すると、たいてい一袋はやられている。そうやってこそこそ食べたものはよく吐く。こないだも、吐いたものを確認したら黄色い棒状のもの、つまりラーメンであった。もちろん、後掃除をするのはワタクシである。私自身のご飯だってしょちゅう狙われていて、テーブルの上に用意してちょっと席をはずすともう射程圏内である。昨日も危ないところだった。爪立ちをして、そろ~とテーブルの上を「物色」している。



別の方角から狙うこともある。



窃盗罪は物色が着手だから、私に見つかって何も穫れなくても窃盗未遂罪が成立する。今回撮ったのはケメ子だが、ワサビも同じ。だいたい、キッチンの方面からガサゴソ音がするから見に行くと、そそくさと逃げ出す後ろ姿は、ワサビとケメ子で半々である。

飲む順序

2021-12-24 11:30:25 | グルメ
朝ドラで「スーダラ節」が流れていた。スーダラ節が流行ったのは私が2,3歳のとき。ってことは、ルイは私の親世代よりちょっぴり若いくらいだな。因みに、スーダラ節の♪ちょっと一杯のつもりで飲んでいつの間にやらはしご酒……は私には当てはまらない。私は店に根が張るタイプ。だが、「分かっちゃいるけどやめられない」のは同じである。で、昨日のことだが、サイゼリヤに行こうと思っていたのだが(自分自身のお祝いのためである。因みに、マタイの「Erbarme dich」(憐れみ給え)は、私の涙のために、である)、まてよ、そういえば冷蔵庫にボルドーが入っている。それで祝おう。サイゼはやめよう。だが待てよ(刻々と変わる男心)、あのボルドーを飲んじゃうと、突然any美女を家に連れ込んだとき一緒に飲むワインがなくなる。あのボルドーはやめよう。だが、既に頭の中が家飲みモードになっているから今更サイゼに行く気にはならない。ということで、近くのスーパーでボルドーはボルドーでも一番安めのボルドーを調達し、それで独り祝い酒ということにした(冷蔵庫のボルドーは温存した)。ボルドーとくれば肉。近くのスーパーはいっときステーキ肉を100g200円以下で売っていたが、最近は230円前後(この値段でも、お金持ちが生息する東京西部ではタダみたいな値段だろう)。コロナ禍で輸入肉の値段が上がったというニュースを肌で感じていたが、昨日は久々の199円。逃す手はない。「ロッキー」第1作で、スタローンが食肉冷凍倉庫で肉を叩いてトレーニングをしていると(さぞかし肉は柔らかくなったろう)、倉庫の主が肉塊を切り取ってドンッとプレゼントするシーンがある。そこに赤ワインを加えた光景が私の憧れ。だから、昨夜の食卓(独り祝いの席)は、私にとって理想の組合せであった。スクリューでないコルクは久しぶりである。



左奥のワサビは判別できないだろうな。ところで、赤ワインでステーキ肉をいただくとき、常にあることが問題となる。私は、家では、洋食のときはワイン、中華のときは紹興酒、刺身や焼き魚のときは日本酒を飲むのだが、その「露払い」としてまずビールを飲むことにしている。この順番、すなわち、アルコール度数の軽いビールから重いワイン等へ、という順番は、水が高い所から低い所に流れるごとく、あるいは太陽が東から昇って西に沈むがごとく絶対的である。ところが、ステーキだと困ったことになる。焼き上げて「いただきます」となったとき、肉は熱いうちに食べたい、肉にはワインだ、ということだと、最初にワインを飲まなければいけなくなる。これは私にとっての理(ことわり)に反する。だから、肉を食べる合間にサラダをつまむときそそくさとビールを流し込むといった「小細工」をしていた。ベートーヴェンが、ソナタの第3楽章を伝統に従って「メヌエット」と口では言っておいて全然メヌエットじゃないのと同じである。だが、そうしたベートーヴェンも途中から開き直って、「スケルツォ」と言うようになった。そう、固定観念に縛られる必要はない。ということで、昨夜は完全に開き直って、まず肉とワイン。その後にサラダとビールをいただいた。なんの問題もない。今後、これがわが家のスタンダードになりそうである。話は変わるが、今年、二回目の「本の断捨離」をした。今回は法律関係の本だ。法律の本と言っても偉い学者先生が書いた本は置いとく価値があるが、昔の法改正に関するハウツー本の類いは残しておいても今後読むことはない。どさっと処分した。



その反面、「新西洋音楽史」はこないだ酔っ払って中巻だけ買ったのだが、役に立ちそうなので、上巻と下巻の古本をぽちって補った。



こうして出て行く本があれば入ってくる本もある。だが、全体として輸出超過である。

Herzlichen Glückwunsch zu meinem Geburtstag!/組立大工(3)(4完)

2021-12-23 09:25:52 | 音楽


ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」はすっかりクリスマスの定番になった感じ。たしかに「War is over」がかぶさって相当な名曲だと思う。それにしても、歌詞が英語だなぁ、と思うのは冒頭の「So this is christmas」。ドイツ語なら「So」が来たら次は動詞が来なければいけないから(ドイツ語の動詞は文章の二番目と位置が決まっている)、「So ist das Weihnachten」となる。英語とドイツ語と言えば、昨日の放送回に戻るが、ルイが安子に「I hate you」と言ったのをドイツ語に直すと「Ich hasse dich」になる(という話をここでしなければならない必然性はないが)。それにしても、親に向かって強烈な言葉を発したものだ。しかも、安子の不注意によってできた自分のおでこの傷を見せつけて。そのきっかけは、ルイが、安子とロバートのハグを目撃したから。自分が捨てられたと思ったのだろう。だが、その後、安子はロバートに「一番大切なのはルイ」と言っている。しかし、そのときルイは既に走り去っていた。このタイミングの悪さは「嵐が丘」を思い起こさせる(ヒースクリフも話を全部聞かないで途中で駆けだしてしまった)。そのおでこの傷であるが、ルイは女の子だから尚更、と言った言い方は昔はありえた。逆に、例えば、私が母に「なんでイケメンに産んでくれなかったんだっ」と文句を言うと、男の子のくせになにつまらないことを言ってるんだと開き直られたものである。しかし、現代はジェンダーフリーの時代、男女を問わず、容姿は(大切な人には)大切である。そう言えば、9月に私が腕に負った火傷の跡は、今でもまだ残っている。お婿に行けなくなるかもしれない大問題である(本気で言ってない。そもそも容姿で売ってない。じゃ、なんで売ってる?ブログ?さほのものではござんせんしなー)。その朝ドラに村田雄浩さんが今日から登場。この方を最初に見たのはキャンディーズの蘭ちゃんが「寅さん」のマドンナを演じたときの蘭ちゃんの兄役だった。そのときは、武骨な漁師役(容姿にぴったり)だったのに、いつからこんなコミカルな役者になったのだろう。因みに、母が非イケメンに私を産んだのはうんじゅううん年前の今日である。イケメンには産んでくれなかったが、いろんな楽器で遊べる程度の能力を備えさせてくれたのだから感謝している。ということで、今回は、組立大工の(3)と(4)の合併号。これでおしまい。あと、クラの本来のパートだとか、オーボエやフルートも足そうと思えば足せるが、重ね録りはこのあたりが限界である。私としては、高校の吹奏楽部のトランペットの一番下手なヤツ(誰のことだって?この記事を読んでる方ではありませんよ)の音と似た音が出てなかなか悦である。実は、Geburtstagは、毎年、贅沢をしていい日と決めて、一人で美味しいものを食べに出かけていた。例えば、去年は青山にオーストリア料理を食べに行った。だが、今回は、組立大工仕事があるからやめておこうと思ってたら、あっという間に「完」になってしまった(超妥協の産物である。リズムの点で既録音との合わせが難しく、がんばってもたいして良くはならないと思ったので、超低レベルで手を打った)。さて、どうしよう。当初考えた通り、クロアチア料理でも食べに行こうか。でも、最近は、誕生日でなくても外食日記をつける口実で結構レストラン巡りをしている。クロアチア料理はany美女とのランデブーにとっておいて、今日は、私の原点に戻ろう。つまり、サイゼリヤに行こう。今年のサイゼリヤの訪問回数は例年と比べて激減。緊急事態宣言の影響である。それから、今日から1年間私が称することになる年齢は(1の他は)3でしか割り切れない。昨日までの年齢は2でしか割り切れない。その一つ前は、なんと1以外に割り切れる数はなかった。それがカンレキとなると、1,2,3,4,5,6,10で割り切れる。北千住みたいな数だなー(北千住は多くの路線が乗り入れていて相当便利)。それにしても、ブログのタイトルで自分におめでとう、なんて言うのは私くらいだ。アッ、アッ、アッ(笑い。急にラテン人になったのでHが入らない)。

日数が合わない/組立大工(1)(2)

2021-12-22 13:01:52 | 音楽


イサムとユキエが関係をもったのは昨日……ではなかった。放送回は昨日だが、その日から安子はサン太(ユキエに惚れていた)を探し回ってたから数日は経っている設定。それにしても、つわりはだいたい5週目くらいで来るというから(ネット情報)、日数が合わない。ってことは、ユキエのお腹の子の父親はイサムではない!?ってとこまでは私も分かった。が、あさイチに寄せられた視聴者のFAXに「サン太の子ではないか」というのがあった。そこまでは思い至らなかった。因みに、明日以降のことは私は何も知らないから推測だが、自分の子を身ごもったということでイサムがユキエと結婚したが実はその子がイサムの子でなかったことが判明したので、イサムが父子関係を否認しようとした場合、その子が生まれた時期が結婚後200日経ってるかどうかで否認の可能性がえらく変わってくる。が、法律の講義じゃないんだから詳細は割愛。さて。久しぶりの組立シリーズは時期にふさわしいあの曲の緩徐楽章の終わりの方。過去、二回クイズに出している。今回が三回目だが、既にクイズの体をなしていない。答えを言っているようなものである。で、その中身だが、(1)(映像前半)はクラリネットでホルンのパートを吹いている。それに重ねた(2)(後半)は、見たまんまのチェロ。実は、私がしつこくこの曲を出題するのは、ここのチェロ(とコントラバス)の後打ちパート(んーちゃ、んーちゃ)が大好きだからだ。せっかくチェロがあるんだったら是非実演したい。それが出題の動機である(これまではミュゼスコアの再生音等を使っていた)。(3)以下があるかどうかは分からない。あったとしてもちょびっと。重ね録りが過ぎると音程が分からなくなるほど音がゆがむからね。