拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

カール・ベームと竜三の母

2019-08-31 10:05:23 | 音楽
私が最初に小遣いで買ったレコードは、ベームの第九だった。中学生のとき。ウィーンフィルではなく、ウィーンシンフォニカの方。当時はLP一枚がそれまで2000円だったのが、1000円の廉価版が出始めた頃だった。だが、財布に千円もなく、しかし、絶対買えるはずだとの根拠のない信念を持って町のレコード屋に行く。ありました、900円のが。財布ん中の小銭を必死にかき集めたらちょうど900円だった(まったく、今日の大草原のメアリーである)。だから、ひな鳥が最初にみた生き物を親と思うのと同じく、私にとって指揮者と言えばベームだった。そのベーム、ジャケットの写真はいかにも謹厳実直の風。きっと人格者に違いない。その後、高校でフルトヴェングラーを知って、この人は当時、ファンの間では神様と崇められていた。神様なんだからこの人も人格者に違いない。以上、こうあってほしいという願望だった(今から考えると)。彼らを偶像に押し上げるのに一役買ったのがカラヤン。カラヤンは黒柳徹子さんが徹子の部屋でよくおっしゃるところの「ハンサム」である。レコードもたくさん出てるから金持ちなんだろう。ハンサムで金持ちだったら非人格者に違いない。一方に非人格者がいることにより、他方の人格が一層高められるという構図である。そう言えば、前記の第九のレコードの解説もそうだった。カラヤンの悪口を並べ立てて、ベームを持ち上げていた。筆者は「あたし」でおなじみの官能小説家とよく似た名前の人。この人のおかげで、私はかなり事の真相を見誤った。最たるものは「カラヤンはオペラが得意だが、ベームはオペラが苦手」との記述。これは「鳥は飛べない」と言うのと同様の事実誤認である。ベームはなんといってもオペラ指揮者である。とにかく、この評論家氏のおかげもあって私の中で確立していたイメージだが、それが怪しくなるような話がぼちぼち聞こえてきだしたのはいつの頃からだろう。まず、ベーム。オケの稽古ではねちねちと団員をいびるという(まるで、おしんの亭主の竜三の母(姑)のようである)。ところが、いびってた相手がベームと同郷(グラーツ)と聞くと、ころっと態度が変わるのだという。変だ。人格者は人をいびったりしないし、手のひら返しもしないはず。それからフルトヴェングラー。頭角を現してきたカラヤンのことを「あのKというヤツ」と呼んでさげすんでいたという。これもおかしい。人格者はつまらない嫉妬はしないはずである。それに対して、そのKと呼ばれた彼。彼は、若手をとっても応援したという。自分の弟子の弟子のことまで気にかけたそうで、最近話題になった大物新婚カップルの話でなぜか連想してしまった某日本人指揮者(そのカップルの内輪の結婚式に新郎の父親も参列したと聞いて、一瞬、その指揮者が頭に浮かんだ)にもわざわざ電話をしてきて「だれそれを応援してやれ」と言うそうだ。K氏は、ナチスに協力したことで一時バッシングを受けたが、だったらベームも同じはずである。K氏も「ベームと同じなのになぜ自分だけ」とぼやいていたそうな。そんなこんなで、昨日までの(私の中での)人格者は非人格者となり、非人格者が人格者となる。と思ったのもつかの間。カラヤンと決別した偉大なビルギット・ニルソン(ソプラノ)の証言によると、カラヤンはいやな歌手がステージにいると、わざとオケの音量を大きくしたそうである(普段のカラヤンとは逆である)。なーんて話を聞くと、一体、誰が人格者なのか分からなくなる(そもそもそんな人はいない?)……因みに、私が大好きなカルロス・クライバーは、ルチア・ポップのところに押しかけ同棲を試みたそうだ。押しかけ同棲と聞くと、枕を抱えて行ったんだろうか、なんてことが気になる非人格者の私である。

青年と大根の皮

2019-08-30 13:58:03 | 日記
S男声合唱団(最近、晴れてここの「特別団員」から「団員」に昇格(降格?)とあいなった)の練習の後の飲み会でのこと。大根のキンピラが出て、旨い、大根の皮を使ったからに違いない、大根は皮が旨いとみんなが言っていたところに若いバイトの男子が来たので誰かが「これ皮だよね」と聞いたら男子が違いますと言う。え?そんなはずはない、これは皮だ皮だ、メニューにも皮と書いてあると突っ込まれると、いったん引っ込んでからまた来て「すみません、皮でした」と緊張の面持ち。いや、皮だから旨かったんだよ、と言うとようやく安心したようなので、「クレームだと思った?」と聞くと「はい」。「怖かった?」と聞くと「はい」。なかなか素直である。まあ、分かりますよ。人生の大先輩たち(私にとっても人生の大先輩ばかりである)が居並ぶところで「これは皮か」と聞かれたらそりゃ緊張するだろう。で、私が「ぼくだったら怖くないでしょ?」と一人若いふりをして(実際、団員の中では(ピアニストの先生を除いては)一番の若輩者である)聞くと「いえ、そんなことありません。年上の方だから」。歳を聞くとハタチ!バイトをしながら勉強をしているという。話を聞けば聞くほど好青年。最後はみんなが寅さんになって「がんばってね」と応援メッセージ。ほら、寅さんはよく若い男子に「青年!」と呼びかけて励ましていたじゃないですか。あの気分ですよ。寅さんこと渥美清さんと言えば黒柳徹子さん。NHKで共演した当初は、山の手のお嬢さんと浅草のストリップ小屋のコメディアンということで反目しあったそうだが、後年、相当の仲良しになったそうで、熱愛の噂も出たそうだ。寅さんが一回だけ徹子の部屋に出たときもその話をしていた。私は、あの回が徹子の部屋の神回だと思っている。徹子さんはイケメン好きのご様子でもある。今日の徹子の部屋でもさかんにゲストを「ハンサム」ともちあげるのがシャクに障ったわけだが、でも寅さんと仲良かったんだからホントのところはどうなんだろう。と言っても、寅さんは、今はやりの細面のイケメン風ではないが、相当な男前である(私はそう思っている)。

お悔やみを言っただけドイツの方がましか(ゲシュタポと特高)

2019-08-29 10:00:03 | 日記
おしんの亭主の竜三はなんとも鈍感な男である。おしんに対して平気で「(自分の母親が)気に入らない嫁」という言葉を連発する。いい人なのだろうが、いい人が人の気持ちが分かるとは限らない。人の気持ちが分かるのは苦労をした人である。お坊ちゃまにそこらへんを期待するのは無理である(「坊ちゃん」ならまだいい。「お坊ちゃん」だとかなりあぶない。「お坊ちゃま」になると救いようがない)。閑話休題(閑話継続)。昨夜「ヒトラーを欺いた黄色い星」ってドイツ映画の録画を見た(晩酌しながらだから途中で寝落ち。最後までたどりついてない)。題名から分かる通り戦時中の話。だが、ヒトラーは出てこない。原題は「Die Unsichtbaren」(見えざる者)。隠れて生きたユダヤ人のエピソードである。邦題に「ヒトラー」と付けたのはその方が客入りを見込めるからだろう。例によって、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)がえばっている。おりしも、昼にやってる「やすらぎの刻~道」も同時代で、こちらは特高(特別高等警察)がえばっている。まさに、ゲシュタポ=特高である。私はえばってる人がきらいである。だが、ゲシュタポの方は、尋問相手の身内がなくなったと聞いて「Beileid」(お悔やみを)と言った。おおっ、と思った。ついこないだ「やすらぎ……」では特高(なのか普通の警察なのか分からないが)が同様の場面で「お国のために戦わなければいけない者が入隊直前に死ぬとは何事かーっ」と遺族に怒鳴っていた。「Heil,Hitler!」と「天皇陛下万歳」のかけ声に満ちあふれた両国であるが、この点についてだけはドイツの方がましと思った。

キャスターの破顔一笑

2019-08-28 09:48:26 | 日記
え?三歳になったナツの子供のゆうがおさげをしている。男の子を女の子のように育てるってか(時々ある)。さすがアニメーター(って関係あるか)。いや、後から「ゆう」は「優」で女の子だと知ったのだが、思い込みというのはおそろしく、なかなか現実を受け入れられなかった。直前に放送している「おしん」の息子(雄)のイメージが重なったせいもある。そのナツが作ってるアニメ。「魔法少女アニー」は「魔法使いサリー」だろうし、「三代目カポネ」は「ルパン三世」なのだろうがパロり方があまり上手くない(アニーとサリーの音が同じ点は評価)。「キックジャガー」は、「キックの鬼」の要素もあるが(「キックの鬼」の主題歌=♪しんくーとびひざげりー……)、基本は「タイガーマスク」だろう。これも、あまり上手くないが、「タイガー」と「ジャガー」で同じネコ科である点は評価する(「評価」って偉そうだが、英語でも「appreciate」ってよく言う)。「マスク」をそのまま使って他のネコ科に変えたらどうだろう。「ライオンマスク」……ベタ。「キャットマスク」……弱そう。「チーターマスク」……水前寺清子みたいだ。だいぶ前置きが長くなった。ここから本題。私が子供の頃、某公共放送の報道番組で、北朝鮮と衛星回線でつないである重大事件の犯人さんたちとのインタビューが放送されたことがあった。インタビュアーはこの番組のキャスター。この方がそれはもうありえないくらの笑顔で犯人さんたちと話している。あなたたちとお話ができてこんなうれしいことはないと言わんばかりの破顔一笑である。よっぽど好きなんだなー、と思ったらどっこい、インタビューが終わった次の瞬間、キャスターの顔は一転、鬼の顔。「『キムチより味噌汁』なんて甘ったれている」と厳しい。私は、さっきまでの笑顔はなんだったの?と思った。そりゃまあ、インタビューがお仕事だから話を引き出すために多少はフレンドリーな雰囲気を作らなきゃいけないことぐらいは子供でも分かった。それでも、そのあまりの変わりように、大人に対する不信感を持たざるを得なかった。この方は、その後、民放に転出され、今ではご意見番のお立場。お偉い方なのは分かるが、見るたびにそのときのことが思い出されて複雑な心境になるわたくしである。

冷凍保存した精子を使って男性の死後に体外受精をして生まれた子の父親

2019-08-27 13:28:54 | 日記

しのちゃんのお腹に赤ちゃんがいると聞いて(やすらぎの刻~道の昨日の放送)、父親は私じゃないよと投稿しようとして、ばかばかしいからやめて、きっと三平兄ちゃんだよな、と思って今日の回を見たら当たり。一発的中である。もし子供ができたと知ったなら三平兄ちゃんは死ぬことはなかったかもと思うと惜しい。ドラマでは、兄弟の誰かとしのちゃんを結婚させて父親をでっちあげようと策略を練っている。因みに、冷凍保存した精子を使って男性(夫ではない)の死後に女性が体外受精をして生まれた子供と、精子の主(故人)との間に父子関係を生じさせることができる思う?できません(判例)。男の死後も3年間は裁判で認知が可能だが、受精の時点で男が死んでる場合、受精後出産前に死ぬのとわけが違って、男の「受精の意思」を確認できないから、というのが理由である。精子の話が出たので卵子の話も。A子の卵子を取り出して体外受精させて、B子のお腹の中に入れて生まれた子供の母親はどちらでしょう?B子です(判例)。日本の法律は、お腹から出てきた子の母はそのお腹の主、という考え方に立っているからだ。裁判所もこういう判決をする際、古くさいって言われそうでいやだな、と思うらしく、「法律がそうなってるんだから仕方がない」「必要なら法律を変えるべきだ」としきりに言い訳をする。まあそれは事実だ。よく、なんか社会的に不都合があると、「行政が悪い」「不当判決」とか言って行政や司法を責める向きがあるが、基本は法律である。逆に、法律があるのに行政や司法が勝手な判断をしたらそっちの方がよほど問題である。仕事をしてないと責められるべきは国会議員である。あっ、読み返したら写真の説明をしてなかった。綾瀬駅付近の子猫ちゃん。あくびをしたベストタイミングで撮れました。

だから子供に選挙権を与えてはいけない

2019-08-26 10:30:30 | 日記
私が小学3年の頃、クラスの全員が某保守政党支持だった。もちろん分かって支持しているわけではない。原因は一人の農家の息子。某革新政党をディスりまくる一方でその保守政党支持を言う。で、他のクラスメイトはワケが分からないまま遅れてはならじと「俺も○党支持」「俺も」「僕も」と右にならえ。その保守政党が農村に支持基盤があることを知った今、そのことを思い返すと、そいつが「農家の息子」であったことに合点がいくし、絶対親からそのように言い聞かされてたんだな、ということも想像がつく。その請け売りをクラスでやって、で、子供たちがそれに乗っかったのであった。だから子供に選挙権を与えてはいけない……まてよ、大人も大して変わらないか。因みに、私が居住している区は東京23区の中で最も地価の安い地区(3000万円も出せば新築一戸建てが買える。中古のマンションだったら一千万円台でごろごろある)。私を含む住民の多くは現在の政権の掲げるトリクルダウンの恩恵にあずからない人々(シャンパンタワーの一番下なもんだから、シャンパンが落ちてこない)。だから50年前にクラスでディスられた某革新政党が強い。かつて区長を輩出したくらいである。このあたりの相関関係も如実である。強い地域だと元気が出るようで、私んちの近所では頻繁にこの政党の街宣車と出会う。因みに、この革新政党と同名のイタリアの政党にピアニストのポリーニが入っていて、そのことをベルリン・フィルのメンバーが「え?ホントかよ?」って感じで話題にしていて、でもイタリアではこの政党に入ってないと音楽家の仕事に差し支えがあるらしい、往年の名バリトンのアルド・プロッティはそのために割をくった、なんて話を飲み会でしたばかりなのだが、自分の発言の確認をしようとこの政党をググってみたら、あらま、なくなってた!他の政党に合流したかなんかで今ではこの名前の政党はないそうだ。こんど、同じメンバーで飲んだとき訂正しとかなきゃ。

溶かされる鐘、生まれる鐘、鐘もいろいろ、人生もいろいろ

2019-08-24 18:47:17 | 日記
いよいよ小さい子供をかかえて亭主を見切って東京に逃げるか(おしんの話)。お腹に第二子がいるっていうから、ああ、これで東京行きは諦めるのか、一人目ができたときに離婚を断念したのと同じだな、と思ったらさにあらず。一層東京行きの決心が固まりいよいよ今日(の放送)が実行の日。あの頃の佐賀から東京って言ったら時間だけからすればドイツに行くのと同じだ。すごい決心だな、と思ったら、一緒に行くはずだったサワの裏切りにあって亭主にばれて、行くなら「ゆう」(子供)を置いてけと言われて突き飛ばされて出血して失神。ここまでするか(脚本)。最近、「おしん」が渡鬼化したようにも感じていたが、いやいや、そんな生半可なものではありませんでした。で、7時半におしんが終わって(BS)、続いて「なつぞら」になると、ヒロインが子供を産んだばかりで乳飲み子が登場するのは同じ。しかも、名前も「ゆう」で同じ。だが、幸せ加減は天と地である。まるで、辛さ50倍のカレーを食べた後に、綿アメを舐めるようである。因みに、さっき失神したばかりのおしんが、あっという間に歳を重ねて産婦人科の先生をやっている。田中裕子さんのことである。別におしんが艱難辛苦の末にお医者さんになったのではない(一瞬、錯覚するが)。ドラマの話のついで。昼間にやってる「やすらぎ……」では、いよいよ戦局が厳しくなり、寺の鐘が供出された。弾丸かなにかになるのだろう。逆に、「大草原……」では、ジョーンズおじさんが町中の鍋釜を溶かして教会の鐘を作った。溶かされる鐘があれば新たに生まれる鐘もある。世の中いろいろ。そういえば、その鐘作りの話で、当初、どうやって鐘を作るかで町が二分され、昨日まで仲良しだった人々が互いにいがみあっていた。どこかの国とどこかの国のようだった。

「骨を断たせて肉を切る」(ゆるーく古楽を歌おう!)

2019-08-18 12:16:19 | 音楽

月曜日にマーラーを吹き、金曜日はドヴォルザーク。そして昨日のシュッツを歌う会で歌ったのはシュッツ、ラインベルガー、そしてデュファイ。ラインベルガーは新しいが、シュッツはぐんと時代を遡って17世紀前半の人。さらにデュファイとなると15世紀前半まで時代を遡る。シュッツとの開きは200年。マーラーととなると450年以上である。そのデュファイ、歌ったのはミサ「ス・ラ・ファセ」。デュファイ自身の同名のシャンソン(シャンソンと言っても「あーなたーのもえる手で~」のシャンソンではなく、ルネンサンス期の世俗曲のこと)のメロディーを定旋律に使ったいわゆるパロディ・ミサである。テナーで歌われるその定旋律は、当初はうーんと長く引き延ばされているが、曲が進行していくにつれだんだん短くなっていき、例えばクレドの「Confiteor」ともなるとシャンソンの原曲そのままである(写真の楽譜のT2)。ここを歌うテナーは相当に気持ちがよさそう。その気持ちよさげなテナーの中に今回初参加のKさんがいらした。歌ってらっしゃるのを聴いてて分かる。Kさんはこの時代の音楽を本当にお好きとみた。はたしてその通りであった。普段、別のところでバッハとかブラームスでご一緒しているのだが、実は古楽に造形が深くていらっしゃる。マショーのノートルダムミサを歌いたいとおっしゃるんだからこれはもう筋金入りである。手前味噌であるが、この会は貴重だ。そりゃー、古楽を歌う合唱団は他にもある。そういうところは、大体、オタクの集まりで、秘密結社みたいで、下ネタなど言おうものなら冷たい視線攻撃にさらされる(偏見?)。それに比べて、この会はなにしろ主催が私である。指揮者もいない。だからゆるゆるである。私主催の通唱会を思い描いていただくといい。あんな感じだ。明るく、楽しく、ゆるーく古楽を歌う!これはおおいに意義のあることだ。今後ソプラノで初参加予定の方もいらっしゃる。私のブログの関連記事を読んで下さって興味を持っていただいたらしい。このブログも馬鹿にしたものではないんだな。これからも発信していこう。因みにそのソプラノの方は、千人の打ち上げのときに「次回のシュッツの予定を教えてね。今夜酔っ払って忘れちゃうかもしれないけど絶対教えてね」とおっしゃった。「酔っ払って忘れる」。世間の人の私に対する評価はそういうものらしい。極めて正確な評価である。でも、今回は忘れずに予定をお送りした。ということで、今回も飲みましたよ、終わった後。暑いから練習を30分切り上げて。で、例によって自分の身の上話(昔話)をする。この話は受けるのだ。受けるならなんでもしゃべるのかって?その通り(芸人か?)。いや、その時の私の意識は「肉を切らせて骨を断つ」。つまり、自分のネタをおとりに遣ってお相手の人に言えない話を引き出すという戦法である。事実、あまたの「人に言えない話」を引き出した。またこれが、どんなに酔っ払っていてもその手の話は決して忘れないのである。瞬時に海馬(脳)の深いところに記憶がすりこまれるらしい。だが、もうやめよう。「肉を切らせて骨を断つ」を狙っているのに結果は「骨を断たせて肉を切る」だ。毎回しゃべりすぎたと反省する(昔話とはいえ)。これから私は貝になろう(努力目標。違反しても罰則はない)。因みに、ルネサンス期のシャンソンの歌詞の内容は、まさに私が歌の会のアフターでしゃべる内容の類いである。

いやー、通唱会っていいものですねー

2019-08-17 14:09:41 | 音楽
もう方々に書かれていることであるが、「千人通唱会」のきっかけは私のブログ(をリンクさせたフェイスブック)へのK野さんのコメントである。そのブログ記事は、私がサントリーホールでルチア・ポップ等々が出演した千人を聴いて鳥肌がたった話だった(って書くと、私の真横でオルガンと合唱が鳴った話だとか、ポップのソロが突き抜けた話だとか、第1部と第2部の間でポップが亭主のザイフェルトと目配せをしてた話だとか、そういった話をまたしたくなるが、書くと本題にたどりつけないので割愛)。その記事にK野さんが「次の通唱会は千人!」と書き込んでくれて、乗りのかるーい私はその話にまばたきをする間もなく(augenblicklich)飛びついた。で、まず、ピアノのK子さん(別にイニシャルにしなくていいのだが、みんなイニシャルなので)に打診。快諾を得る。で、本来はピアニストなのだが私が主催する通唱会ではクラリネットをご一緒することになっている(決まっている!?)Y先生(通唱会生みの親の二組のご夫婦の中のお一人)にクラのパート譜を送りつけて勧誘。K子さんとY先生の日程の合う日を探ったら8月12日が浮上したのでその日に決定。これで会の骨子が決まる。ここまで早かったですねー。まったく両先生のおかげです。その後だ。指揮者探し、拡大路線と縮小路線の選択、会場とり等々で多少とも使わない頭を使ったのは。まあしかし、ホントにやってよかった。今回、通唱会初めてって人が結構いらして、「パート間の移動自由、ソロも歌い放題」という通唱会の妙味を堪能したという感想を複数いただいた。そっかー、「マーラー」と「通唱会」って、普通は結びつかないよなー。後から考えたらなんと無謀だったことか。うん、「無謀」=「考え無し」!まさに考え無しだった。それが良かったわけだ。普通に考えたらやらないよな。それが定例化しそうな勢いである。いやー、通唱会っていいものですねー……で水野晴郎さんを思い浮かべる人はまだいると思うが、「また来週お会いしましょうね、さよなら、さよなら、さよなら」はどうだろう。

「千人」の中のマイスタージンガー

2019-08-16 09:44:30 | 音楽

竜三(おしんの亭主)が寝たばこをしていた。危ない。火事の元である。私はときどき寝ワインをする。危ない。シミの元である。ということで、相変わらず「千人」の話。第1部の途中でオケだけになるところにヴァーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のライトモティーフが現れる(写真の楽譜)。付点のリズムになっているが、移動ドで読めば「ドー、ソーソソー、ミファソラシドレミー」で明らかにマイスタージンガーである。これは確信犯である。マイスタージンガーをウィーンで初演したのはマーラーだし、他の曲にも同じ引用があるようだ(逆に、マーラーは「巨人」の葬送のメロディーをRシュトラウスに「バラの騎士」の中でパロられている)。今回の通唱会、私はクラリネットを吹くにあたって一番神経を使ったのはこの部分だった(このモティーフは吹かないが)。変拍子だし、拍子がころころ変わるし、最初にバーンスタインの音源に合わせて吹いたときは皆目分からなかった(バーンスタインは練習用には向かない)。だが本番では、指揮者の指示が素晴らしく明解だったし、ピアノがきっちりおさえてくれてたし、クラが入る前に出るオーボエが完璧だったこともあって最高にうまくいった(で、他の簡単な箇所で間違えた)。さて、いい加減なんかで上書きをしないと仕事もなにも手に着かない「千人」である。次回、「千人通唱会」の企画立案あたりの話をして「締め」としよう(中締めだったりして)。

そこのけそこのけクラ様のお通りだい!(主催者が楽しんだ通唱会)

2019-08-15 09:33:18 | 音楽

そういうわけで(承前)、いっとき歌に回ろうと思った私であるが、別に全体のバランスのために自分が犠牲になろうとかそんな殊勝なことを考えたわけではない。私自身今でこそ楽器に回帰してるがここ数十年歌の人だったわけで、で、「千人」と言えば冒頭二小節目でいきなり出る「ヴェーニ」!そして静かになってからの流れるようなソプラノのソロ。第2部に入ってからも素敵な歌のオンパレード、最後の合唱は超感動的である。とまあ頭ん中はこうした歌ばかり。だからこその歌に回る決心であった。しかも、クラリネットは10小節目になってようやく登場(写真1枚目)。みんな盛り上がってるのにおいてけぼりじゃん。だが、昨日も書いたとおりY先生の鶴の一声でクラ残留が決まり、クラの練習をすすめていくうちに見方が変わってきた。冒頭9小節休んで出るところも、「満を持して」の「檜舞台」のように思えてきた。しかも、クラリネット3本(どころじゃなくて、フルート、オーボエも含めた木管)のトゥッティである。そこのけそこのけクラ様(木管様)のお通りだい!と言ってるようでもある。かっこいいったらありゃしない(因みに、楽譜に書いてあるドイツ語は英語でいうところの「ベルアップ」である。管を持ち上げて吹けって指示である。やはりかっこいいのである)。そうかと思えば、ソロで吹くこのメロディー。

このおいしいメロディーが調を変えて何度も出てくる。練習しているうちに私は夢中になった。いっとき歌に回るとか言ったくせに、最後にはこのパートは絶対誰にも渡さないぞと思うようになった。で、本番。いやー、ほんとにこのメンバーでクラでよかった。トゥッティでシドシドシドシドシドシドシドシドとトリルを吹くところなんざ(楽譜の写真があるんだからシドシドシなんて書くことはなかった。でも書きたかった)三人の暴走族のよう。クラリネットのトゥッティの音を聴くと高校時代の吹奏楽の音を思い出して懐かしさもあるのですよ。そして例の「おいしい」メロディー。こっちはハーモニーを存分に楽しみました。ということで、主催者が最高に楽しんだ通唱会。普通は、通唱会の主催者は「みなさんに楽しんでもらえてうれしかった」ですが、私の場合は「みなさんに楽しませてもらってありがとう」のけしからん主催者でありました(まあ、ここは私のブログなんで、こうした暴言もお許し下さいませ)。本当にみなさん、ありがとうございました。因みに、私、今、なんとかルーペではなくクラリネットがだーいすきである。昔ばりばり吹いてたときよりも今の方が好きである。

心変わり(千人通唱会裏話)

2019-08-13 16:43:03 | 音楽
千人通唱会が終わった。各方面へのお礼等、主催者として言うべきことはイベントサイトに書いたから、こっちにはもっぱら個人的感想を。今回のオケは、通唱会始まって以来の大編成(通唱会の生みの親の一人のY先生がそう書いてるからそうなのだろう)。もともと通唱会の伴奏は鍵盤が主体で、それに弦や木管がちょこちょこっと加わる程度。今年の1月に私が主催してやったミサ・ソレムニスの通唱会は、ピアノとオルガンのほかヴァイオリンが二丁、フルート、オーボエ、クラリネットが二本ずつで通唱会としてはかなり大規模であった。私が今回、千人通唱会で当初想定していた図もそういったものだった。会場も個人のお宅が候補に挙がったくらいである。だが募集を開始したら楽器の人の申込みがすごい。楽器が多くなると合唱もたくさん必要だしホールもでかいところを借りなければならない。早々に私は方針の決定を迫られた。拡大路線か縮小路線かの選択である。拡大路線は危険を伴う。電機メーカーのシャープがいっとき経営不振に陥ったのはでっかい工場を建てたせいだ(同社はこないだ経営再建完了を宣言した)。しかし私が選んだのは拡大路線。オケががんがん弾いても大丈夫な立派なホールが空いてたこともあるし(Kさんに教えられて、その翌日会場に行って場所を確保した)、私自身がクラリネットを吹くこともある。この選択は大成功だった。フルート1本、オーボエ4本、クラリネット3本、トランペット2本、ホルン2本、トロンボーン3本そしてチューバの厚い響きはまさに「マーラーのオケの響き」であった。この厚いオケに合唱が対抗できるかが最大の心配事だったわけで、実は、私、クラリネットのファーストを担当することになっていて、最終的にはその通りだったのだが、いっとき、歌に回ろうと決心した瞬間がある。楽器に比べて歌の集まり具合がはかばしくなったからだ。私は、声量はけっこうあるし、女声でも男声でも足りないところをすぐ歌えるんだから(とそのときは思った。いやいやとんでもありませんでした。超難かしー)、理性的に考えれば歌に回るのがベストと考えたのだ。で、クラリネットでご一緒するY先生にそのことを打ち明けた。すると「いーえ。クラリネットを吹きなさい」とのお達し。あんなに堅かったはずの私の決心はY先生の鶴の一声でころっと転換。私の決心っていったいなんなのだ、と思いました(私はそういう人間です。だから、私にくどかれても本気にしてはいけません)。その「心変わり」も大正解だった。今回の合唱陣のがんばりはすごかった。ソプラノは20人近くいたし、人数の少ない男声もみなが手分けをしてパートの移動をした結果、十分にオケに対抗できる存在感であった。私も他のお二方とクラリネットのアンサンブルを楽しんだし、おいしいメロディーも吹けたし。だが、音は(特にファーストは)超高かった。気が変になるほど高い音の連続であった。しかも、第二部の冒頭、ひっそりとした場面で高ーーーいソ(実音はファ)を長く伸ばすところがある。告白すると、当日が近くなるにつけ、私の頭ん中を占めた心配事は、主催者としてのそれではなく、クラリネットのこの長く伸ばす高いソをきれいに出せるかどうかであった(フォルテで瞬間的にピッと出すのとは違うのだ)。練習ではなかなか思うようにいかない。マウスピースもリガチャーもリードも新調して、できることは全部やって当日に備えた(やらないでいて後悔するのがいやだったから)。不思議に本番ではうまくいくという気持ちがあった(歳をとってずうずうしくなった。あるいは子供に戻ったとも言える)。そしてその瞬間。おーっ、完璧!わが生涯でこんなにうまくソが出たことはない。本番に強い私!ところが、その直前をしっかりミスってやんの。私のやることにはとにかくオチがつく(因みに、クラでご一緒したE先生(Y先生のクラの先生)から打ち上げで「すごくきれいだったよ」と言われて、おー♥ クラの先生に褒めてもらったと一瞬喜んだら、そっちじゃなくて、合間に歌ったアルトの声のことであった。微妙にうれしかった)。で、打ち上げも楽しんで、二次会にも行って、皆さんの予想どおり朝帰り。すっかり気抜け状態。だが、はたらかざる者遊ぶべからず。仕事をしようと思って机に座って、だが、なかなかやる気にならずこうしてブログを書いている。もし私にパートナーがいたら、こういうときなんと言われるのだろう。「がんばったんだから今日一日くらいぼーっとしてなよ」(そんなことを言われたら啼いちゃうじゃなくて泣いちゃう(まったく私はセミか))、あるいは「昨日一日遊び呆けたんだから今日からしゃきっとしなさいっ」とか。どっちみち妄想である。妄想する暇があったら仕事しろ(もう一人の私)。はいはい。これ書いたら仕事するから。

♪きょうは千人、めでたいな!

2019-08-12 06:37:52 | 音楽
♪きょうは(ラーラ)せんにん(ソドドー)めでたいな!(レファミレド!) はい、「走れコータロー」の替え歌です。因みに元歌に「天下のサラブレッド4歳馬。今日はダービーめでたいな」という節がでてきますが、当時、馬齢は今より一歳多く数えてました。今では、ダービーに出走する馬は3歳馬です。今日はダービーじゃなくて千人通唱会!ダービーの飛び入りはないけれど、通唱会の飛び入りは大歓迎!楽しみましょうねー、楽しみますよー!

狼おじさんゴン

2019-08-11 06:16:44 | 音楽
朝ドラでナツたちが作っていたアニメ「百獣の王子サム」。「鉄腕アトム」のヒットの向こうをはって東洋動画が作ったのはジャングルでライオンに育てられた少年の物語。そのモデルは「狼少年ケン」だろう。鉄腕アトムに対抗して東映動画が作ったジャングルで狼に育てられた少年の物語である。だが、パロったわりにはずいぶん変えてしまったなぁ。狼がライオンになってるし、名前も「ケン」と「サム」では共通点は字数だけである。「白蛇伝」と「白蛇姫」はパロった感満載だった。別企画を考えてみよう(勝手に)。「狼」は残して、名前も「ケン」に近いものにするとなると、これはどうだ?「狼おじさんゴン」(狐か)。ところで、本家の「ケン」の主題歌の冒頭であるが、フェイントに感じられる部分がある。少年合唱で「わーおわーおわおー」と出た後、低音で「ボバンババンボン……」、そして「いつーもおいらは……」と始まるのだが、その「わーおわーおわおー」の音(実音)は♪ファードファードソファー。これを聴いて、おっ、ヘ長調かと思うと、次の「ボバンババンボン」が「ファ♭シーシ、シーファー、シーファシシララ……」なのであれ?と思う。これは変ロ長調である。そのまま変ロ長調で歌が始まる。すると、ボバンババンボンは主調の属音調だったことになる。だから、もしイントロから階名で歌おうと思ったら、「ドーソドーソレドー」だとまずくて「ソーレソーレラソー」で歌うとよい。このあたりをさらにややこしくしてるのは、少年合唱の「わーお」の音程が上ずってることである。まあいい。気を取り直してボバンババンボンを歌ってみよう。最近、この部分がCMになっていた。なお「馬場」は「ばんば」と発音する場合と「ばば」と発音する場合がある。ではいきます。「戊馬場番盆分母馬場馬場戊馬場番盆分馬盆」

一人ボエームごっこ(誰にも迷惑をかけない)

2019-08-10 09:29:50 | 音楽
声優全とっかえに文句を言ってる割には欠かさず見てるんですね、と言われた。そのとおりである。「大草原の小さな家」。いま、「おしん」とともに私の生活必需品となっている。今朝も見ましたとも。臨時に学校の先生になった「母さん」が「おばか」とあだ名されていたエイベルの面倒を見る。他の生徒よりずっと年長のエイベルが読み書きができないのはずっと学校に行ってなかったから。それがキャロライン(母さん)の努力で最後はビードゥル先生復帰で教室を去るキャロラインに送別の手紙を書くまでになる。例によって左目から汗がつつーっと流れた(なんでいつも左目かというと、私は左を横にしてテレビを見るからである)。なーんて言ってる私であるが、告白しよう。今日の回を見始めた当初、私がああこういう筋だったよなと思った内容は、キャロラインに個人レッスンを受けてみるみる成績の上がったエイベルがあるときキャロラインの手を握る(エイベルはちょうど思春期である)。キャロラインは「だめよ」と言ってその場を立ち去る。エイベルは学校に来なくなる。キャロラインはエイベルを傷つけてしまったと悲しむ……だ。ところがそういうシーンは微塵もなかった。おかしいな、私の記憶はどうなっているのだろう。それとも、最近の「手を握った事件」(私がボエームのアリアのイントロを歌ったら某君が某嬢の手を握った事件)が影響したのだろうか。昨日は昨日で、練習のアフターで私はみんなに「一人ボエームごっこ」を披露した。これはなかなか楽しい遊びである。左手がミミの手で、右手がロドルフォの手。♪タリラタンターン……と歌いながら右手と左手が近づいていって最後に右手が左手を握る。握られた方は「はっ」と言う。そこで「ポーン」とオケが鳴って、ケジェリダマニーナ……と歌が始まる。という寸劇だ。触るのも触られるのも「はっ」と言うのも「ポーン」というのも「ケジェリダマニーナ……」と歌うのも全部私である。これなら誰にも迷惑はかけない。いや、こんなことばかりやってるから、感動的な今日の大草原の回についてもとんでもない妄想がはたらいたのかもしれませぬ。