拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

奥多摩の山座同定(未だ、道半ば)

2024-07-12 10:02:06 | 地理

青梅の真東あたりから奥多摩の山々を見た絵である。日夜、写真、地図、ガイドブック等々を見比べて山座同定に励んでいる(なんと、最近は、このあたりを通っても富士山を目でおわなくなった)。その結果、かなり確信を持つにまで至ったが、どうしても分からない山がある。そこで、ワタクシの学習の成果を披露するとともに、未達な部分について広く教えを願おうと思ってこの記事を書くものである。

まず、山ってやつは、近くにあればあるほど緑が濃く、遠くに行けばいくほど青みがかる。だから、同じ色をした連なりは同じ尾根でつながっている山塊・丘陵である。写真で見ると、一番前列の緑は名もない森林、二列目で左半分に見える若干青みがかったのは青梅丘陵、三列目で右半分に見えるのが高水三山、四列目で中央より若干右よりが本仁田山、最後列が鷹巣山と雲取山である。以上は、間違いのないところである。

問題は、二列目の青梅丘陵である。左端(南東の端)の三方山は合ってると思う。分からないのが、その対極(北西)にあって同丘陵中最高峰の雷電山である。方角からするとその一つ後列の高水三山の中の惣岳山の真ん前にあるはず。だが、写真に写る真ん前の山はなだらかな感じだが、ガイドブックのイラストでは尖って描かれている。だから「雷電山」に「?」を付けたのである。ところで、真後ろの惣岳山の左側に、ぴょこたんと尖った部分がある。写真に「?」を付けた出っ張りである。これはいったいなんだ?もしかして、これこそが雷電山か?だが、色で見ると、この出っ張りは高水山、岩苔石山そして惣岳山の「高水三山」と同じ色をしているのに対し、三方山を含む青梅丘陵とは色が異なる(より青みがかっている)。地形図で見ると、高水三山の山塊には、その三山のほかにもいくつか出っ張りがあるから、その一部であって、雷電山は、やはり惣岳山の真ん前のまあるい山体だ、というのが現在の私の見立てである。

いっそのこと現地にいったらどうか。だが、青梅丘陵に入ってしまったら逆にその外観は分からない。青梅丘陵の全体像を眺められるいいスポットがないかを探している今日この頃である。

因みに、私がこのあたりの山々で、遠くから見て一番魅入られるのは本仁田山である。ミニ富士山とも言うべききれいなカタチをしている。一般にはほとんど無名のようだ。高さは1224メートルある。神奈川県の大山が1252メートルだからそれとほぼ同じである。


崖を愛す(山手線から見る凸凹)

2024-07-04 11:26:27 | 地理

奥地に行くときは都心を通る。地方間を走るトラックが途中に首都高を経由するのと同様である。ただし、私は電車を乗り継ぐから首都高には乗らず、これまでは地下鉄を乗り継いでいた。一番安いからである。だが、先週のように、1週間に三度も通ったりすると、時間が一分でも短い方がいい。ということで、山手線を使ってみたらあなたこれが面白い。西日暮里から高田馬場間なのだが、凸凹、すなわち、台地と谷間の連続である。例えば、山手線の内側の家々の建ってる地盤を見ると、西日暮里から田端までは断崖絶壁の上。

上野台地である。これが、田端を過ぎると、下り坂でだんだん低くなっていって、

駒込の商店街は完全に谷間。

ところが、そのすぐ後、駒込駅が近づいてくると今度は上り坂になり、

再び、台地の上に乗っかった格好になる。本郷台地である。ところが、巣鴨を過ぎてしばらくすると、台地がいきなり崖で断ち切られる(下の写真の中央あたりで緑に被われた台地が崖で終わり、谷間に白い建物が建っている)。

そして大塚駅に着く。この凸凹は見て決して飽きるものではない。

ところで、台地の始まりや終わりの多くは坂道。だが、本郷台地の終わり(一つ上の写真)はいきなりの崖。これは萌える♥ 現場に行って、近くこの目で見たいというのが人情である(賛同する人がほとんどいなさそうな人情である)。よし、行こう(スーパージェッターは、愛機「流星号」が到着すると、「来たな!よし、行こう」と言ったものである)。

というわけで、大塚駅で下車し、線路沿いを巣鴨方面に戻る(今回の徒歩旅のルートの概略は冒頭の図に記した)。ま、さすがに、全部が崖だと、台地と谷間の間の移動ができないから、ところどころに坂道がある。下の写真は件の崖から数十メートル南に行ったところの坂道である。

なかなか急で、先は台地の上であることを感じさせる。だが、本日の私の目的は台地の上に上ることではない。本郷台地と白山台地(本郷台地の分岐したもの)の縁=崖下をぐるっと回ることこそ私が自らに課したテーマである。ということで、崖に沿って南方面(山手線の中の中心方面)に向けて歩く。途中、小石川植物園の塀沿いを歩く。

ここは、以前、このあたりの台地を(今回とは異なり)東西につっきったときも出くわした場所である。さあ、そろそろ地図では白山台地の先端だが、おお!うれしいことに、ここも崖になっている。

崖こそが端っこにふさわしい。縁の在りかが明瞭になる。二つもの崖(先ほどの電車の車窓から見た崖とこの崖)が見られてこの日は大収穫。人生の喜びをかみしめた。この後、きびすを返し、北向きに進路をとり、巣鴨駅にたどり着いてそこから山手線に乗り帰宅。東西の移動距離は大塚駅と巣鴨駅間のわずか2キロ程度であるが、歩いた距離はその何倍もある。気温の暑い日で、お上が「不要の外出は控えましょう」と呼びかけてるなか、この日の外出は、私にとっては、「必要」な外出であった。

 


無人駅

2024-06-30 10:09:22 | 地理

単線だと、駅と駅の間で上り下りの電車がすれ違うことはできないから、自然と駅には同時に上り下りの両線が入線することになる。そんな単線の某駅に向かって下り電車は高台から下りてくるし、

上り電車は谷間から上がってくる。

その某駅は、駅員さんがいる時間が限られている。時間が有限なのは駅員だけではない。券売機の稼働時間も有限である。

駅員さんもおらず、券売機も動いてなければ切符の精算はどうやればいいかというと、SUICAやPASMOを持ってれば簡易式のタッチパネルがあるからそれにタッチすればよい。持ってない場合は、乗車駅証明書発行機っていうのがあって、

そこから証明書をとって降車駅で精算する、というシステムである。

だが、時間に限りがあっても駅員さんがいるだけましである。世の中には無人駅がいくつもある。券売機がない駅もある。SUICA等のタッチパネルすらない駅がある。つまり、何にもない駅がある。降車駅がそういう駅だと分かってれば乗車駅で切符を買うが、分かってなくてSUICA等で入った場合、降車駅で出場記録を残せない。実際、以前、某線に乗ってからそのことに気付いてどうしようと思ったことがあるが、よくしたものでちゃんと車掌さんが回ってくるから車内で精算することになる。

因みに、タッチパネル等の設備の有無と駅舎の有無は別物である。駅舎があっても無人で設備が皆無の駅もあれば、駅舎はないが(あるのはプラットフォームだけ。だから、道路とプラットフォームが直通である)、タッチパネルはある駅もある。私の父の実家の最寄り駅(中央本線の某駅)がそうだ。この駅は戦後作られたそうで、私がうーんと小さい頃、その駅には、各駅停車の列車ですらほとんど停まらなかった。でも駅員はいたと思う。その後、1970年に無人化したそうである。その頃、SUICAなどありようはずもないから精算は車掌さんがやっていたのだろう。今では、各駅停車は全部停まるようだ。その駅も出世したものである。しかも、駅前に大きなスーパーができていた。「私の奥地」とどっこいである。因みに、だいぶ前に父の墓参りに行ったときは、へー、こんなところに!と思う場所にイタリアンの店があり、次行ったときは寄ろうと思っていたが、次に行ったときは、「へー、こんなところに」というロケーションが災いしたらしく、消えてなくなっていた。


地下鉄銀座線渋谷駅が地上にある件/外濠(まとめ)

2024-06-20 09:23:52 | 地理

昨年、ギャラクシー賞を受賞したタモリさんが受賞式で「渋谷の坂」について一言求められて仰ったのが地下鉄銀座線渋谷駅が「空中」にある件。学生で東京に出てきたとき「地下鉄銀座線に乗ろうと思ったら地下に地下鉄の乗り場がない。ふと見たら空中を地下鉄が走ってる。青山通りの地下を走ってたのが渋谷という谷にさしかかると空中になる。そんな起伏に富んだ東京が素晴らしいと思って坂道に興味を持った」とのこと。こういう場でいきなりふられても、ひょいと含蓄が飛び出すあたりはさすがである。因みに、地下鉄丸の内線が御茶ノ水の聖橋の下でいきなり顔を出すのも、本郷台地の下を走っていたのが神田川の谷に出ていきなり「天井」がなくなるからである。

今、渋谷は大改造中。いろいろ激変してるそうだが(まだ全く見てない)、銀座線の駅は相変わらず地上にあるそうだ(位置はちょっとずれたそうだが)。

タモリさんが東京の坂に興味をもたれたのは学生として東京に出てこられたときだったとしても、それ以前から地理・地学に興味をお持ちだったのだと思う。なぜなら、ブラタモリで仰ってたのだが、郷里にいらしたとき群馬の沼田の河岸段丘のことを知って、東京に出てきたとき真っ先に沼田に行かれたというからである。沼田は、私も尾瀬に行ったとき通ったが、河岸段丘はたしかにすさまじかった。

その受賞式で、仕事の上で最も記憶に残っていることを聞かれて、「いいとも」で作家の有吉佐和子さんの番組ジャック(最後までゲスト席に居座ってしゃべり続けた)を挙げていた。ただし、そこでちょっと気になる一言があった。その後、黒柳徹子さんも同じ事をした、と言うのである。はて(これは「さて」ではなく「はて」でよい)、私の記憶とは異なる。私の記憶では、最初に番組ジャックをしたのは黒柳さんである。有吉佐和子さんが、自らの番組ジャック中に、過去の黒柳さんの件を持ち出していて、「あ、意識してるんだなぁ」と思った記憶が傍証である(ただし、私の記憶の証拠能力は極めて低い)。だが、更に思い出してみると、黒柳さんはもう一度いいともに出て、一回目ほどでないにしろ、やはりかなり長時間ゲスト席におられた(それが期待されてもいた)。タモリさんがそっちを言ってるのなら、たしかに「その後」である。

さて(今度は「はて」でなく「さて」でよい)、ブラタモリ(と漱石)の影響で、随分東京を歩いた。まだまだ歩く場所は山ほどあるが、外濠についてはだいぶ勉強したので、ここいらで、お勉強の成果を図にして表してみた(先生から言われたわけでもないのに、こんなことをするのは大した物好きである。いや、言われないから喜んでやるのである)。

つまり、日本橋川の雉子橋から時計回りに、外濠川、汐留川、溜池、西側の外濠、神田川と「のの字」に描いたものが外濠である。このうちまだ歩いてないのは、御茶ノ水から浅草橋と、雉子橋から新橋のルートである。当然、歩くつもりである。


15年前のブラタモリ(本郷台地)

2024-06-19 12:01:58 | 地理

話を神田橋に戻す。そこから銭湯に行き、銭湯から大手町に戻るのは芸がないから御茶ノ水方面を目指して歩いてたら、目の前で中央線と総武線が交叉。

聖橋から遠くに見えた緑の鉄道橋が目の前。そこを総武線が走り、少し手前の低い鉄道橋を中央線が走る。御茶ノ水駅を出た辺り(この写真のちょっと左手)で両線は分岐し、総武線は秋葉原を、中央線は神田を目指すのである。因みに、鉄道橋の下は昌平橋。大谷翔平の「しょうへい」と字が違う。ファンの方にはお気の毒である。

はて、ではなく、さて、ちょっと目を左に転じるとかなりの勾配の坂がある。

この坂の上が本郷台地の突端である。私は今、突端の際(きわ)の下にいるのである。江戸幕府は、開幕後すぐに日比谷の入江(現在の日比谷公園)の埋立にかかった。その埋立に使ったのがこの台地から切り出した土砂である。

そう言えば、放送開始直後のブラタモリで本郷台地を扱った回があったと聞く。録画があるか?パソコンのリストを検索。あった!15年前の第8回である。早速視聴。番組に入る前にちらっと映っていたニュース映像に表示されたドル円相場が87円台!アシスタントが久保田アナウンサー。ナレーションが草彅剛でなく戸田恵子。エンディングの歌は井上陽水だけど曲が違う等々、すべてにおいて「今は昔」である。当時、タモリさんのお歳は現在の私とだいたい同じ。「にもかかわらず」と言うべきか、「だから」と言うべきか、とってもお若い。

その本郷の回で、本郷台地の南端を深く削っている神田川の流れが自然の流れではなく、人工的に掘削されてできた流れだと言っていた。そうなのだ。元の川は南下して江戸城の近くを流れていたのを、江戸幕府が治水事業の一環として台地を掘削して向きを東向きに変えたのだった。で、元の川筋が(昨日ネタにした)現在の日本橋川になったのだった。「川の向きを東に変える」と言えば利根川もそう。あちらは東京湾に注いでいたものを銚子沖の太平洋に注ぐように付け替えたのだった。

びっくりしたのは、「弥生土器」のネーミング。が最初に発掘されたのが本郷台地上の文京区弥生という地であったからだという。縄文時代の次が弥生時代と呼ばれているのも、基をたどれば文京区弥生にたどり着くわけだ。なんでも、台地の際(きわ)は当時の一等地で人がたくさん(と言っても現在とは桁が違うが)住んでいたのだという。

「際」と言えば、タモリさんが、「(台地の)際を歩くのいい。なんでも際がいい。人間も服と肌の際がいい」と言ったのに対して久保田アナの「脱いじゃうとダメ?」などという切り返しはまったくNHKのアナウンサー離れしている。タモリさんはその後何人かのアナウンサーとコンビを組んだが、今見ると久保田アナとの掛け合いはなかなかのものである。そんな久保田アナはご幼少のみぎり、鈴木雅明指揮BCJの演奏会で、マタイ受難曲の子どもの合唱を歌った経験があるそうだ。横野君に言わせると、これはすごいことなのだそうだ。


日本橋の上空に青空が戻る日

2024-06-18 17:46:14 | 地理

ということで、再び聖橋でカメラ小僧になった話である(「小僧」は本来は男の子を指すが○○小僧と言った場合は、老若男女を問わない)。相変わらず、カメラ小僧がたくさんいる。私と同様に、中央線と総武線と丸の内線が同じ位置で交叉する様子を撮りたいのだろう。私が現地に着いたときが絶好のチャンスだったがカメラが間に合わなかった。その後、30分間くらいねばって一番惜しかったのがコレ。

総武線と丸の内線は上下で交叉している。だが、中央線は写ってはいるが、御茶ノ水駅に停車中で他の二線と交叉してない。もう少し早く出発してくれてれば目的を達成できたのに……残念である。

時計の針を少し戻そう。皇居を一周した後、大手町の近くの銭湯に向かう途中で神田橋とやらにぶちあたった。

その下を流れるのは日本橋川。私は、この「日本橋川」については、外堀のことを勉強してる途中でちらちらとその名が出てきたのにもかかわらず全く調査を怠ってきた。だが、こうやってその上を渡ることになったのも何かの縁。調べてみた。すると、この川の一部も外堀の役割を果たしていて、ご多分に漏れず、この神田橋にも門(見附)が設けられていた。いったいどこから流れてくるのかと思ったら、小石川橋のあたりで神田川から分岐してこっちに来てるのだという。そう言えば、前々回外堀沿いを半周した際、水道橋と飯田橋の間に小石川橋があった。そのとき撮った写真を見てみよう。

おお!ホントだ!分岐して線路の下をくぐってる。これが日本橋川だったのだ!この流れは、その名の通り、日本橋の下を流れて(神田川と同じく)隅田川に注ぐ。だが、ほとんど、その上に首都高が通っていて、空を眺めることができるのはわずか隅田川に注ぐ直前の500メートルに過ぎないそうだ。日本橋の上空も例外ではない。これが極めて景観を害するから、なんとか首都高をどかすことはできないのか?って話は昔からあったが、夢物語であった。都知事候補が「どかす」と言っても誰も本気にしなかった。ところが、なんとその夢物語が実現する運びになった。どっちみち首都高が老朽化したので作り直さなければならない、なら地下化しちゃおう、ということになったそうだ。地下化されるのは神田橋から江戸橋の間。その間に日本橋がある。地下が開通してから上部の撤去を始めて、完了するのが2040年とのこと。よし、それまで生きるぞ。がんばって、この目で見届けるぞ。


外堀

2024-06-03 09:37:41 | 地理

私は、歳がぐるっと一還りするまで勘違いしていたことがたくさんある。その一つが「京」。例えば平安京の碁盤の目のように整備された地域(洛中)には天皇や貴族の住まいと官公署だけが存在し、庶民の家はその外側(洛外)にあったというイメージを持っていた。だが、違った。洛中にも庶民が住むエリアがあった。すなわち、平城京や平安京は、都市計画に基づく都市(人の住む都市)であったわけである。因みに、平安京の碁盤の目の西側(右京)は低地であるため水はけが悪く人が住まなくなったって話はブラタモリで習ったことである。

似たような誤解は江戸城の外堀についてもしていた。私は、外堀の内側には将軍と武士だけがいて、いざ戦(いくさ)となったらそこに立て籠もるというイメージを持っていた。だが、違った。外堀の内側にも狭いながら町人が居住するエリアがあった。考えてみれば、外堀の内側は現在のほぼ千代田区に相当するという。そんな広いエリアであれば町人が住んでいても不思議は無い。

それに対し、西洋や中国の城壁都市については、早くからその内側に王様も兵士も町人も住んでいたという認識を持っていた。そうした城壁にはところどころ門があり、門には番兵がいて目を光らせていた(私が最初にクリスマスプレゼントに買ってもらった「紅はこべの冒険」がパリを囲む城壁と城門を描いていた。謎の人・紅はこべは、フランス革命当時、フランスの貴族をギロチンから救うために荷車の荷台に隠して城門をすり抜けたのである)。江戸の場合、その城壁に相当するのが外堀である。外堀にはところどころ橋がかかっており、橋を渡ったところには見附があった。見附とは、番兵が常駐する見張所であり、西洋の城門に相当する。赤坂見附という地名はそこからきたものである。虎ノ門にも見附があった(写真はウィキペディアから拝借した)。

中央右よりの門構えが虎ノ門(虎ノ門見附)である。水流は汐留川であり、写真に写ってる堰の上で水流は左に折れ、その先(写真が切れたあたり)で右に折れるとそこにも堰(水落し)があった。歌川広重作「名所江戸百景」の「葵坂」にその水落しが描かれている。水が激しく落ちる様から「どんどん」と呼ばれていたそうである。

「どんどん」の左側の坂が葵坂。名所だったがその後削られてしまった。現在、葵坂の位置には商船三井の本社ビルがあり、葵坂の左にちらっと描かれている建物の位置に道路が通っていて、その道路のわずかな傾斜がかろうじて当時の地形を思い起こさせる。

「どんどん」の向こうには溜池(赤坂溜池)が現在の赤坂見附の辺りまで細長く広がっており、これも、外堀の一部を成していた(前記の汐留川も、そして江戸城の北を流れる神田川も外堀の一部を成していた)。上掲の写真や絵には石垣が見てとれるが、「名所江戸百景」の「赤坂桐畑」で見る赤坂溜池にはもはや石垣などはなく、

防衛ラインにしては随分鄙びている。まあ、壁などなくてもこれだけ水があれば要害として十分だろう。用水としての役割もあったそうである。この「人造湖」は明治時代に跡形も無く埋め立てられ、現在は外堀通りが通っている。溜池の名残りは交差点や駅の名称としてわずかにあるに過ぎない。

ブラタモリの影響で、以前、浜離宮から汐留川と赤坂溜池の跡を辿って赤坂見附まで歩いたことがあるから(当ブログに書いた)、次の「外堀跡でブラマサコ」では、赤坂見附から四ッ谷を経て御茶ノ水に回ろうと思う。やはり「外堀」というくらいだから水があってほしい。このルートなら四ッ谷の先辺りから水が現れるはずである。

なお、初めてのクリスマスプレゼントのことをちらっと書いたが、私の親は、私が物心がつく頃から「サンタクロースなどいやしない。プレゼントは親が買ってくるものである」と、まるで子どもに夢を持たせるのが悪であるかのごとく力説していたものである。


恋バナ/江戸はヴェネチアだった件

2024-06-02 11:52:03 | 地理

ただ集まって黙ってじっとしてるのは猫の夜会。人が集まるのは話をするためである。ただし、する話の内容は集団によって異なる。政治論、芸術論、人生論等いろいろあるが、私が好むネタはもちろん恋愛論、くだけて言うところの恋バナである。政治論、芸術論、人生論が始まってしまった日には私は夜会の猫になる(黙る)。

はて、ではなく、さて。夏目漱石の実家は馬場下辺りにあった。「馬場下」とは高田馬場の下という意味であり、早稲田の辺りである。なるほど、早稲田から高田馬場方面に向かう早稲田通りは上り坂である。すなわち、高田馬場は台地の上に乗っていて、早稲田はその「下」にあるのである(早稲田大学も台地の縁に位置していて、正門から入ったキャンパスは登りの傾斜になっている)。その馬場下から浅草に芝居見物に行く場合、まだ市電が走ってない明治の初め頃どうやって行ったかというと、そのルートが漱石の随筆に書いてあるのだが、まず徒歩で現在の飯田橋辺りに行き(今でも早稲田~神楽坂~飯田橋は一本道である)、そこで屋根船(屋形船)に乗る。飯田橋には神田川が流れている。船は、そこから神田川を下り、柳橋で大川(隅田川)に出ると(緑の橋が柳橋)、

川を遡上して吾妻橋を通り抜けて目的地にたどり着いたのである。東京には隅田川のような大きな河だけではなく、神田川やそれよりもっと小さい川もたくさん流れていて、これらが交通網を形成していた。例えば、東武伊勢崎線はスカイツリー辺りから隅田川にぶつかるまで北十間川に沿って走っているのだが、

そこにも屋形船が浮かんでいた。そう言えば、浅草橋から見た神田川にも屋形船がたくさん浮かんでいたっけ。

まっこと、江戸(東京)は水上都市であった。ヴェネチアも真っ青である。

漱石は、他にも気になる船ルートを書いている。綾瀬(今の足立区)方面に船で行った、というのである。さて、ではなく、はて、綾瀬に船で行く、と言うのはにわかにはピンと来ないが……そう言えば、小菅の拘置所前に遊歩道が設けられた水路がある。この水路には、実は古隅田川と言う由緒のありそうな名前がついていて、今では中川と綾瀬川を結ぶ短流でしかもそのほとんど暗渠だが、その昔は隅田川ともつながっていたのかもしれない。これは根拠のない私の推測にすぎないが、関東地方の川は付け替え等々で大変化を遂げているからあり得ない話ではないと思う。


浅草やきそば~浅草橋

2024-06-01 08:24:13 | 地理

そんな上から目線の漱石だが、幼少時には苦労をしている。養子に出された先の養父母が養父の浮気のせいで離婚し、それもあって漱石は夏目家に戻されたのである。その後も実家と養家との間に金銭的なトラブルがあったり、成人した漱石に養父が金の無心に来たりしたことが漱石の自伝的小説である「道草」を読むと分かる。

漱石と言えば、小石川を始めとする山の手の人のイメージだが、子どもの頃は浅草に住んでいた。養父母の元にいた時期である。このたび「漱石と歩く、明治の東京」という古本をゲットしたら、漱石少年が住んでいた辺りを示す地図が載っている。ちょうど両国に用事があったところであるから、ちょうどいい、浅草から漱石の跡をたどりつつ両国まで歩くことにした。

浅草までは東武伊勢崎線を使った。東武スカイツリーラインという愛唱ではなくて愛妾ではもっとなくて愛称が付いている路線だ。途中の業平橋駅も、今では「とうきょうスカイツリー駅」に改称している。まさにスカイツリーの直下に位置し、駅から見えるのはスカイツリーの脚である。

次駅が終点の浅草駅。じきに隅田川が現れた。

荒川に比べると小ぶりの印象があった隅田川だが、やはり昔に「大川」と呼ばれただけのスケール感がある。初代ゴジラは東京に上陸した初日、この川に入って海に戻ったのである。そして、ゴジラではなく東武線は隅田川の上で、左に急カーブして、

松屋の建物内にある浅草駅に突入する。この急カーブはカーブが多いことで有名なこの路線のラストを飾るに相応しいものである。因みに、ジョージア料理のシュクメルリを出す「松屋」はこの松屋だと思っていたら牛丼の松屋であった。ここまでの写真を撮るために、私は先頭車両の運転席の後ろに張り付いていたのだが、途中から乗車してきた少年もその場所を狙っていて、それは分かっていたのだが、まあ大丈夫だろう、この少年も敬老の精神くらいは持ち合わせているだろうと思って隅田川を撮るためにその場を離れたら、その一瞬の隙をつかれて特等席は少年に占領されてしまった。だから、急カーブの写真は、少年の背後から、線路のカーブと同じくらい体をねじ曲げて撮ったものである。

さて。浅草に着いたら漱石の前に見ておきたいものがある。浅草地下街、特に映画「Perfect days」に登場した「浅草焼きそば」である。地下街に入ったらすぐそこにあった。

看板の「浅草やきそば」の文字も含めてまったく映画の通りである(店の名が「福ちゃん」であることは知らなかったが)。店先に出てるテーブルも映画と同じで、役所広司はここに座って一日の疲れを癒やしたのであった。

他にも昭和を感じさせる店がたくさんあった(「レコード買い取ります」って店もあった)。そんな地下街から地上に上がって、漱石少年が住んだ家跡3箇所を巡ったが、いずれも当時を思わせるモノは皆無。写真を撮ったが載せるまでもないだろう。

この後、隅田川にかかる橋をいくつか渡り、台東区と墨田区を行ったり来たりしてるうちに、台東区側で神田川にぶち当たった。そこにかかる橋が浅草橋であった。

下流側には屋形船がひしめいていて、その先には隣の柳橋(緑色)が見える。神田川が隅田川に合流するのはそのすぐ先である。

合流ポイントを隅田川にかかる両国橋から見た絵がこれ。

実は「浅草橋」が神田川にかかる橋であることを初めて知った。今「浅草」と聞くと浅草駅や雷門のあたりを思い浮かべるからそこから随分南にあるこの橋が「浅草橋」と称するのが疑問であったが、昔は、「浅草区」という広いエリアがあり、現在の浅草橋(橋名及び町名)はその区内に含まれていたと知って少し納得した。

てなわけで両国橋を渡って両国での用事にかかる。

両国での用事とはフグを食べることであった。なお、この小旅を敢行したのは某A団の直近の活動日とは別の日である。フグを食べるために活動を休んだという誤解を生まないために申し添える次第である。休んだ理由は体調不良である。などと書くと、そうか、ひれ酒の飲み過ぎによる二日酔いだと思われそうだ。弁解が更なる誤解を生む。我が身の不徳の致すところである。


文京区をブラマサコ(根津~小石川植物園~傳通院)

2024-05-27 06:53:28 | 地理

一昨日は、この演奏会に行ってきた。

力みとは無縁の透明な響きで心に沁みた。ヴィラールト(ルネサンス期の作曲家)の音楽は常に微温的だった。ゲストのリコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバもとっても良かった。ステージ上の知り合いの数を数えたら4人だった。

会場はいつもと変わらずトッパン・ホール。最寄り駅は飯田橋駅か江戸川橋駅。いつもは飯田橋駅から歩くんだけど(南から攻めるんだけど)、地図を見ると、小石川植物園から傳通院を抜けて、北の台地から下りてくルートがある。一ノ谷の戦いでの義経の別働隊も、平氏の陣地の北の丘陵から攻め下ったんだった。よし!お天気もいいし、暇だから今回はそのルートを歩こう。血圧もさぞや下がることだろう。ということで、以下、文京区の台地と谷と坂を歩いた話。時系列的には、演奏会開始前に戻ります。

【台地を上る(一回目)】スタートは地下鉄の根津駅。駅から出たところに交差点がある。ここら辺は低地で根津谷と言うらしい。ここから帝国大学方面に坂を上る(え?帝国大学ってどこかって?帝国大学って言ったら帝国大学だよ。漱石の時代(の大半)は帝国大学って言ったら一個しかなかったし)。文京区は、台地がいくつもある(その間を谷がえぐっていて、両者を結ぶ坂もたくさんある。そのあたりが足立区と全く異なる)。その中の本郷台地をまずは上るわけ。坂の途中から道路横が帝国大学の敷地になる。その敷地は広大。やはり官営は違う(これに比べると、早稲田大学など箱庭のよう)。木々は鬱蒼としてて草の匂いがする。その木々の中で、枝がかなり広い歩道すら乗り越えて車道に大きくはみ出してるものがあった。

奥地の家の垣根の葉っぱも少し道路にはみ出てるが、帝国大学のはみ出しようはその比ではない。奥地のわずかにはみ出てる葉っぱでさえも刈らなきゃいけないかなー、と思ってるワタクシであるから、この帝国大学の葉っぱにはドキッとしたが、そこはそれ帝国大学である。そんな浮世の些末事に気を取られるようでは最高学府に相応しい学問はできないに決まってる。だから、帝国大学の葉っぱはこれで良いのである。

【台地を下る(二回目)】その帝国大学をぐるっと回ってしばらく行き、おしゃれなイタ飯屋さんの反対側の角を曲がると今度は下り坂が現れた。

浄心寺坂と言うそうだ。坂を下りきるとそこは谷(指ヶ谷)。白山通りが通っている。その通りの先、南の彼方に後楽園遊園地の観覧車が見えた(赤矢印)。

【台地を上る(二回目)】でも、遊園地には行かずに(ゴールはトッパンホールだから)、谷(白山通り)を渡って直進するとまた上り坂が現れた。

蓮花寺坂と言うそうだ。上るのはこの日二つ目の台地=白山台地である。

【台地を下る(二回目)】ここを上りきってしばらく行くと道路の右側が小石川植物園の塀になるあたりから下り坂になる。

御殿坂と言うそうだ。だいぶ下りたところに小石川植物園の正門があった。

小石川植物園が乗ってるのが小石川台地ではなく白山台地であるところがフェイントである。さらに行くと「白山浴場」に出くわし、一風呂浴びたい気分にもなったが我慢して先を行くとまた谷(小石川谷)に出た。千川通りが通っている。

【台地を上る(三回目)】谷(千川通り)を渡って直進し、おしゃれなイタ飯屋さん(坂も多いがおしゃれなイタ飯屋さんも多い)の角を曲がるとまた上り坂が現れた。上るのはこの日三つ目の台地=小石川台地である。

その途中に、時代がかった建造物が現れた。

近くにあった案内板を読むと、ここら辺は井上哲次郎って偉い哲学者の邸宅の跡地で、屋敷は空襲で焼けたが土蔵だけ残った、その残った土蔵がコレだそうだ(哲次郎が哲学者なのは偶然の一致?しかし、川上哲治は哲学者ではない)。ところで、地図によると、このあたりに傳通院があるはずだが、一向にそれらしき建物が出てこない。どうやら裏手から迫ったのがいけなかったようだ(地図からは表や裏が分からない)。ぐるぐる回って表に出たら、ようやく傳通院が現れた。

ここからは、傳通院の正面の大通りを進む。すると、大昔、桂小金治が司会をしてた頃のアフタヌーンショーで「しあつのこころー、ははごころー」と念じておられた浪越徳次郎さんの銅像が現れた。

浪越徳治郎さんが設立した指圧学校だった!そして、そのお墓が傳通院にあることを今知った。アニマル浜口さんの豪快笑いの元祖はこの人だったのかな、思ったのも今である。大通りをさらに行くと春日通りにぶつかった。春日通りの先、南の彼方には再び後楽園遊園地の観覧車が見えた(赤矢印)。

今度は、さっき見たときより大きい。直線距離が縮まったようだ。

【台地を下る(3回目)】だが、遊園地に行く暇がないのはさっきと同様である。時間がおしつまってきた、小石川台地を下ろう。今度の下り坂は道幅が広い。安藤坂と言うらしい。

カーブを経て下りきると神田川に出た。

トッパンホールはすぐそこ。遭難することなくたどりついて無事に演奏会にありつけた。

もし、ブラタモリがなかりせば、このような台地と谷と坂まみれのブラブラ歩き(ブラマサコ)をしなかったのは確実である。あと、漱石を読んでなければこの辺をブラつく対象に選ぶこともなかったろう。漱石の跡をたどるブラ歩きは結構人がやるそうで本も出てる。私などはまだ端緒に着いたばかりである。