拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

三谷幸喜はオッフェンバック

2022-08-30 07:00:10 | グルメ

ベランダのバジルが豊作の予感。

ただし、左側のプランターの左列の葉っぱが小さい。日光の加減だろうか。位置を変えた。それより、葉っぱが密すぎる。間引きをし、間引きしたやつを食べれば一挙両得。ということで、早速ピザに乗せた。乗せる時間帯が問題である。焼く前から乗せると焦げてしまう。焼き上がる30秒前に乗せたら絶妙であった。

なお、ピザソースが切れてるので代わりにケチャップを使用。最近ピザソースを使い切ったばかり。ここでまた購入すると、再びディナーが連日赤くなる。それゆえの代用。ケチャップだって、広い意味のトマトソースである。

話は変わるが、昨夜変な夢を見た。亡き母がレストランを始めると言っている。そのための料理人を20人スカウトして来た。20人もの給料をどこから出すんだ?と私が言っても聞く耳を持たない。こんな夢を見た原因ははっきりしている。名作(迷作)の誉れ高い「ちむどんどん」である。暢子が沖縄料理屋を開くにあたって、人(やはぎ)を雇った。人を雇うお金がどこにあるんだ?とブラウン管(ではなく液晶)に向かって文句を言ってたらそれが夢に結実した。しかも、1人が20人に増幅して、である。大体、あのドラマはお金が天から降ってくるような話が多い。

「ちむどんどん」だけなら受信料を返せ、と言いたいところだが(NHKは公共放送と言ってもタダではない)、「鎌倉殿の13人」で元をとってるので文句は言わないでおこう。録画しておいた前回放送を見た。順番から言うと、頼家が殺される番。一説では、頼家は入浴中に斬られたというから(因みに、祖父(父頼朝の父)義朝も、平治の乱の敗走のおり、入浴中に寝返った味方に斬られたという)、頼家の入浴シーンを今か今かと待っていたら、風呂には入らず、ちゃんと服を着て立ち回りのうえ、壮絶な最期を遂げた。しかも、これまでこのドラマで何人もをその刃にかけてきた刺客のゼンジを返り討ちにしたと思ったら、背後からトウ(少女時代からゼンジに育てられた)に斬られての最期である。さらに、瀕死のゼンジにとどめを刺したのはトウ。実は、ゼンジはトウの父母の仇であった。え?トウの父母って誰?と思ったら、9回前の放送で、ゼンジが範頼を斬ったとき、ついでに斬られた村人夫婦がいたが、それがトウの父母であったのだ。見事な伏線回収である。脚本の三谷幸喜は、喜劇を多く書いてるが、いざシリアスなものを書いたらこんなものを書くんだねぇ。まるでオッフェンバックである(オッフェンバックはオペレッタばかり書いていたが、たまには真面目なものを書こうと思って書いたのが「ホフマン物語」である)。さらに、育ての親を殺すといったら、まるでジークフリートである。かように、私は「鎌倉殿」を喜んで見ているのだが、アンチはどこにでもいるもので、この作品に対してもクレームはあるようだ。その中に、日曜日の夜8時にこんなおぞましい物語を放送するのはけしからん、と言うのがあった。いろんな意見があるもの。それが民主主義である。


○カちゃんにクラリネットを習いたい

2022-08-29 10:11:36 | 音楽

一昨日のカーサ・クラシカでの発表会の後、今月はもう一つ「大物」が残っていた。昨日のシュッツの会の月例会である。2時間アカペラでシュッツ(のほかにカルドーゾとモンテヴェルディも)を歌い、おまけの「楽器と一緒に歌おう」コーナーではバッハのカンタータ第64番。毎月、U会でピアノ伴奏で歌ったのと同じ曲をここでは有志による楽器の伴奏で歌う。私もその「有志」の中の一人で、このところ、ヴァイオリンとチェロとクラリネットを演奏することが多い(いつもの写真とちょっと違うのは、右手で持っている横長のケース。中身はクラリネットのA管。いつものB♭管ならバッグに入れたところである)。かように、私は、いろんな楽器をいじる「八百万の民」であり、それが当該コーナーで役に立っている(つうか、チェロなんかは、「チェロがあったらいいなぁ」というメンバーのつぶやきに触発されて始めたものである)。だが、他方では、一つに集中していたらどんなだったろう、と思うことがある。例えば、高校の吹奏楽部の先輩(歳と学年から言うと後輩なのだが、あらゆる面で尊敬しているので、私は「先輩」と呼んでいる)などは、子供の頃からフルート一途なもんだから、今では名人である。私も、なにか一つに絞ってたら迷人ぐらいにはなったろうか。まだ遅くはない。人生100年だとすると、あと40年。大学んときから今日までの期間と同じである。これから何かに絞って迷人になろう(当初「めいじん」で変換してくれなかったパソコンがこの字を覚えた)。じゃ、何にする?やはりカウンターテナーがいい。もとより歌好きの私である。だが、クラリネットのB♭管の買換えがいつも頭にある。今の楽器は50年選手。三浦カズは50を超えてもがんばっているが、うちのベー子はかなりくたびれているので。そんなことを言ったら、ヴァイオリンだって、酔っ払って銀座の街を歩いていていきなり楽器店に入って相談したくらい実は買い換えたいと思っている。さらにさらに。ヴァイオリンも弓を代えたら音が変わったからチェロも弓を代えたい(オーボエとフルートは名のあるメーカー品に買い換えたばかりである)。それより先生につく気はないのか。実は、前から探してる先生がいる。フライブルクのドイツ語学校には、同地の音楽大学に留学中の日本人がたくさん来ていて、その中にクラリネットの○カちゃんがいて、一度演奏を聴かせてもらったら超絶技巧。人柄も良かったから、もし、近くに住んでいて、発見できたら是非クラリネットを習いたいと思っている。だが、「○カちゃん クラリネット」でググってもまったくヒットしない。つうか、この瞬間「一つに絞る」話は完全にどっかに言っちゃってる。やはり、私は八百万の民で生涯を終わりそうである。ま、とにかく、ちょっと一段落。BWV64の楽譜をしまい、また次回に備えるわけだが、一両日くらいはゆっくりしよう。


発表会当日

2022-08-28 07:11:47 | 音楽

「金澤亜希子とno music no lifeな仲間達」と題された発表会に参加させてもらった。写真にすべて包含したつもりだったが、プログラムのタイトルが写ってないのは失点であった。私はブラームスのクラリネット・ソナタの2番の第1楽章を演奏した。オペラの人が多かったが、そのレベルの高いこと。例年参加している人も、今年は一層レベルが高かったと言っていた。金澤さん、主宰者さま、みなさん、素敵な時間をありがとうございました。

ところで、こういう超上手な人達に囲まれたときの対応には2種類。

①裸足で逃げ出す(やめる)
②臥薪嘗胆(続ける)

例えば、黒柳徹子さんは声楽を勉強された方だが、レナータ・テバルディの生声を聴いて、「オペラは(歌うものではなく)聴くもの」と思ったそうだし、バスのカール・リッダーブッシュが東京のどこかの音大の声楽科に来て歌って窓ガラスをビリビリ言わせたとき居合わせた学生の半数はやめよう(①)と思ったそうだ。だが、残りの半数が、自分もがんばって続けよう(②)と思ったことは瞠目に値する。さらに、②をとるとして、その理由もいくつかある。

②-1 励みになった。自分もいつか上手い人に追いつくようにがんばる
②-2 人と比べてもしょうがない、自分との戦いだと思ってがんばる

私は②-2の道を行こうと思う。だって、ここでやめちゃったら、廃業したというのに他にやることない。何もしなくなったらボケるかグレるかである。因みに「道」とは音楽の道であり、あっちの道(ってどっちの道?)ではない。本気度の感じられない(口だけの)婚活はきっぱりやめた。だが、みなさんは、音楽の道も、あっちの道もきっちり両方歩いてらっしゃる。打上げで、そのあたりのことをたくさん聞かせていただいた。人生の先輩の経験談ほどありがたいものはない(歳が下でも経験豊富な方々は先輩である)。なお、私は、こういう話を聞き出す能力だけは持ち合わせている。お陰様で、カタログに書くネタがまた増えた。私とレポレロのカタログは、自分のことではなく、人様のことを書く点で共通である(レポレロは特定人について、私は不特定人について書く点が違う)。

この日一番の主役は、もちろん30曲近い伴奏を弾いた金澤さん。その金澤さんが一曲ソロを弾いた。「こがらし」の出だしの単音を聴いた瞬間、どこかからその後の下降音型が聞こえてきた。なに?どこ?と思ったら、私の頭ん中だった。頭が先走って、脳内の曲の記憶を引っ張り出したらしい。

そうそう、書き忘れるところだった。私はカーサ・クラシカでは必ず赤ワインのボトルを注文する。お酒を飲む量だったら、間違いなく一等賞である。今回もボトルを頼んだことは頼んだのだが、やはりいつもとは違うので、控えて、出番が終わるまでは一口だけ飲んだ(なんだ、飲んだのけ?(「け」は「かえ」の短縮形と思われる))


職能人の歌合はまるでマイスタージンガー/クラリネットのキム・ヨナ

2022-08-27 08:05:30 | 音楽

トマトソース瓶を使い切ったので、久々に赤くないディナー。一度なくして戻ってきたパスタ(リングイネ)の生麺もこれが最後である。明けない夜はない。空かない冷蔵庫はない。いっときぱんぱんだった冷蔵庫も秋風が吹くようになった。ところで、パスタを茹でるとき、二つの疑問が頭の中をかすめる。次のとおりである。

その1。以前、「ガッテン」かなんかで、パスタを茹でるとき、一度沸騰したら後は弱火でよい、と言っていた。「麺を信じろ」とかなんとか言っていた。ホントだろうか?以後、実行してるが、なんとなく茹でが足りない気がする。

その2。弱火と言えば。ガスの火は、鍋の横からはみ出させてはいけない、はみ出た分は余分、鍋の底面に当たってる分で十分、という話を聞いた。ホントだろうか?実行してるが、なかなかお湯が沸かないとき、はみ出させるとすぐ湧くので湧いた疑問である。

パスタからは離れるが、疑問ついで。今朝の朝の番組で、沖縄料理を紹介するレポーターが「こんにちは」の代わりに「ハイタイ」と言っていた。「ハイサイ」とどう違うんだろう。「th」は、欧米ではタ行になったりサ行になったりするが、それとはまるっきり関係ないんだろうな……

疑問は以上。別の話。ちょっと前に「百姓」のことを書いたら、「日本の歴史をよみなおす」って本を教えてもらい、早速、キンドルに入れて読んでいて、すべてが面白いが、特にへーっと思ったのは、日本の中世において、いろんな職能の人が集まって歌合をしたという話。おおっ、まるで、ヴァーグナーの「マイスタージンガー」である。因みに、この本、紙の古本なら送料込みで500円位。キンドルに入れるとその倍くらいかかるが、節約大好きの私でも断然キンドルを選ぶ。断捨離をしてる最中にこれ以上モノを増やしたくないし、キンドルに入れておけば、いつ、どこにいても、読みたくなったら読めるから。

マイスタージンガーでちょっと音楽っぽくなったので、今度はクラリネットの話。ネットでブラームスのソナタの演奏を探してたら、韓国人女性の演奏にぶちあたった。「Kim Yoonah」とある。え?キム・ヨナ?って言ったら近々ご結婚されるらしいフィギュアの金メダリストと同姓同名じゃん。まあ、キムさんはたくさんいらっしゃるだろうから、キム・ヨナさんもたくさんいらっしゃるのかもしれない。金メダリストのキム・ヨナさんの滑りは素晴らしかったが、クラリネットのキム・ヨナさんの演奏も、それはそれは素晴らしいものである。

 


練習好きになったかも

2022-08-26 14:52:09 | 音楽

池袋のスタジオで発表会の直前の合わせ練習があった。早くつきそうだったので、大塚から歩いた。都電荒川線が走っていた。

「都電」「市電」って、道路を走るもんだと思っていたが、普通に軌道を走っている。普通の電車とどこが違うんだろう。30年来の疑問である。

その練習である。録音を聴くと、繰り返す毎に良い感じになっていっている。私(クラリネット)がピアノとのからみをよく分かっていなかった箇所も判明した。いやー、練習っていいものですねー(と言っていた映画評論家と、「さよなら」を三回言う評論家は別人である)。心を入れ替えて練習好きになった(かもしれない)ワタクシであった。

日付が変わって今朝、例によって、安物の朝メロドラマを見る。例によって、人々がヤハギを「悪い人間ではない」と言っていた。窃盗をしたうえに無銭飲食までする輩が悪い人間でなければこの世に悪い人間がいるのか?と疑問に思うが、一点、ヤハギは料理人をやめてた間も包丁を研ぐことをやめなかった。ワタクシは、今春、廃業したとき、法律関係の執筆は続けようと目論んだが、ブログばかり書いていて、当初の目論見は泡と消えた。この点、私はヤハギ以下である。だが、ドラマ自体は相変わらず突っ込みどころ満載(おかげでブログのネタが尽きない)。「絶対謝らない」と言っていたヤハギは数分後には土下座した。この点をとらえて「安物……」と上記したのである。すると反論が返ってきた。「フィガロの結婚」だって、終幕で、それまで強がっていた伯爵が一点「ペルドーノ」(ごめんなさい)と言う。フィガロはよくて朝ドラはダメなのか?という反論である。うーん、そう言えばそうだ。考えてしまった。だが、答が見つかった。10代の頃、まだ、「フィガロ」の良さがよく分かっていなかった頃は、伯爵の急変振りを見てやはり変だと思った。その後、いい演奏を聴いて、このオペラが大傑作であることに気づいてから、変だと思わなくなった。だから、朝ドラも、ドラマの出来がよければヤハギの急変振りを変だと思わなかったに違いないのである。以上、主張、反論、再反論のいずれも私の一人芝居である。

昨日の話に戻る。練習が終わったあとはイタリアン。

イタリアンなのにピノ・ノワール?大丈夫!(何が?)この前にちゃんとキャンティを飲んでいる。前祝い?景気づけ?まあ、なんと呼ぼうが音楽をやった後に飲むのは私にとって鉄の掟である。泣いては飲み、笑っては飲むのである。


清教徒/三本の矢/トマト祭りは千秋楽

2022-08-25 10:22:04 | 音楽

今日は本番。曲目はベッリーニの歌劇「清教徒」全曲。私は、超絶高音のあるアルトゥーロをカウンターテナーで歌うのだが、まるで練習をしてない。だからなんにも覚えてない。土壇場で演奏会形式ってことにしてくれないかな。つーか、楽譜も見当たらない。焦りまくる私。と、ここで、徐々に真実が思い出されてきた。発表会は目前ではあるが今日ではない。私は歌ではなくクラリネットを演奏する。なかなか思い通りにいかないが、練習はしてるし楽譜もある。そうだ!これはいつもの夢のパターンだ。前にも書いたが、私の場合、ざばっと目が覚めて「あー、夢だったんだ」ではない。ゆっくりゆっくり覚めていく。全容が解明されてもまだ目が覚めたとは限らない。そこから別の夢に移行することもある。因みに、件のアルトゥーロ役は、ルビーニって人のために書かれた役で、この人がとんでもない高音が出たもんだから、ベッリーニはそれに合わせた。おかげで今日の通常のテノール歌手でこの役をまともに歌える人はほとんどいない(が、皆無というわけでもない。セルソ・アルバロはちゃんと出していた。ぶったまげた)。だが、ルビーニは、カストラートではなかったようだ。

現朝ドラは脚本家を含めた三人の合作だそうだ。「三人寄れば文殊の知恵」と言う。だが、「船頭多くして船山に上る」とも言う。だが、その三人は、「三本の矢」となって、あらゆる批判をも打ち抜くのだろう。

トマトソース瓶の余りを連続してカビさせたから、今回こそは全量使い切るぞとの決死の覚悟で連日のトマトソース祭り。いよいよ昨夜が千秋楽であった。スーパーで8尾99円で売っていたイワシを梅トマトソースで煮て、それをトマト味のピザに乗せて焼いた。上から下までトマト、トマト。

トマトソース瓶はどうなったか?瓶にちょびっと残ったヤツも白ワインを注いで振って鍋に投入。きれいに全量使い切った。

やり遂げた感満載である。因みに、上記の通り、近所のスーパーは肉や魚は安いのだが、野菜が地価に見合うほど安いかについて疑問が湧いてきた。我孫子の農産物直売所はホントに安かったし、蒲田の餃子特集でちらっと映った野菜の値段は滅法安かった。今の住所にしがみついている最大の理由=物価が安い、がゆらいできている昨今である。


カウボーイ

2022-08-24 08:31:28 | 言葉

高校野球を見ててふと思った。ピッチャーがわざとボールをはずすことを「ウェストする」というが、これは「ウェイスト」(waste=棄てる)のことだろうか?当たりのようである(カンレキを過ぎて初めて知った真実(そういうのがいくらでもある))。

自転車でよく通る道すがら、壁に「ファミーユ○○」と書いてあるアパートを見るたびに思う。なぜフランス語で「ファミーユ」なんだろう?同じ意味なら「ファミリー」「ファミーリエ」「ファミーリア」等々たくさんあるのに。思うに、大事なのは語感であって、なまじ意味が分かっては所帯じみてだめなのだろう。だから「ファミリー○○」はだめだし、「家族○○」「○○家族」はもってのほかである。

「家族」と言えば、暢子夫婦は家族計画を立てなかったとみえる。だから、自分の店を出すという人生を賭けた大一番の直前に妊娠が発覚した(ま、しかし、こういうことはよくあることかもしれない)。

その暢子の夫和彦の母が、にーにーのことを「牛飼い」と呼んでいた。そもそも牛でなくて豚なのだから、はなっから間違っているのだが、にーにーをそう呼ぶことについて、和彦母は侮蔑の意味を込めたのだろうか。仕事に上下はない。ましてや肉好きにとって牛飼いは神様である。だが、和彦母の言い方は侮蔑的であった。なーんてことを言うと、和彦母は「あーら、じゃ、何て呼べばよろしいの?」と聞きそう。「カウボーイ」とおっしゃいな!それなら西部劇っぽくって格好いいんじゃない?ところが、「トップガン」を見てたら、相手を侮蔑するとき「カウボーイ」と言っていた(気がした)。そうか、アメリカでは「カウボーイ」と呼ぶことは「牛飼い」と呼ぶことと同じだから、発する方が悪意を込めれば悪口になるのだな。結局、言った方が込めた意味、言われた方の気持ち、その他状況によって何でもない言葉が悪口になるのである。

そう言えば、いっとき「百姓」は放送禁止用語だった。左門豊作(「巨人の星」に出てくる星飛雄馬のライバルの一人)は百姓の倅、と言った具合に普通に使われていたのに、ある日、テレビで農村のことを放送した際、レポーターが「今、VTRで、農家の方が『ひゃ、なんとか』と仰ったけれど、あれはご自分で仰ってるんで」としどろもどろで言い訳を始めたんで、あれ?「百姓」ってダメなの?とびっくりした。その後、「お百姓」ならよくなり始め、更に時代劇では普通に「百姓」と言うようになった(なし崩し的解禁)。今のご時世、この言葉からネガティヴなイメージを持つ人などいるのだろうか。言うまでもなく、人間にとって、もっとも貴重なお仕事である。こないだ、テレビのコメンテーターが、できるものなら農業をやりたい、と言っていた。この「できるものなら」が肝心である。私だってできるものならやりたいが、その大変さを思うと、そう簡単に口には出せないと思う(そこを言うのがコメンテーターである)。だが、脱サラして農業を始めた方がたくさんいらっしゃるのも事実である。

もし、和彦母が「牛飼い」でなく「羊飼い」と言ったんなら、なんだか急に牧歌的。なにせ、牛と羊じゃ大きさが違うからねー。視聴者(特に西洋の宗教曲を歌ってる人(私を含む))のウケは随分違ったかもしれない。因みに、私は「猫飼い」である。

 


熱い男/朝ドラと表現の自由

2022-08-23 09:08:30 | 日記

とうとう深紅の優勝旗が白川の関を超えた。東北出身の知人が「冬はグランドが雪に覆われるから無理」と言っていたが、そうしたハンディを乗り越えての快挙である。以下、決勝戦を見て思ったことを三つ挙げよう。
その1。優勝校インタビューで泣いた監督のことを選手が「相変わらず熱い男」と言っていた。私は、選手にとって監督は雲の上に鎮座ましますおじいさんで、その監督を選手が「評価」するなんてことは畏れ多くてできないものだと思っていた。だが、最近の高校生は自分とこの監督を「熱い男」と公言できるほど気持ちが自由なんだねぇ。
その2。勝った学校の校歌は感染予防の観点から録音が流れるだけ。いつのどこだっけ、選手が自分とこの校歌を思いっきりのけぞって(ときどき起き上がり小法師のように戻って)音程不問で歌ってたのは。自分のブログを検索してみる。おおっ、2018年の金足農業高校(金農)だ。コロナの直前だ!だからのけぞって歌えたんだねぇ。
その3。決勝戦に続く閉会式でブラスバンドが演奏する様子がまぶしかった。私が高校んとき入ってた吹奏楽部はオケの曲を吹奏楽用に編曲したものばかりやっていたが、吹奏楽(ブラスバンド)っていろんな可能性がある。私は、マーチングバンドはやってみたいとは思わないが(憧れる人がいるのはよく分かる)、競馬のファンファーレは是非とも吹いてみたい。そのためには金管に鞍替えしてもいいと思っている。やるならトロンボーンである(成功体験がある。なお、こないだの札幌記念の生ファンファーレには木管も混ざっていた)。

後半は、感動とは真逆の話。迷走がもはや社会問題化している朝ドラの話である。とうとう政治家までもが「NHKに猛省を促す」とか言い出した。これには、政治家に言われたくない、という反発があり、それに対して件の政治家は「政治家にも表現の自由がある」と再反論していたが、政治家の発言には私のブログなどと違って「萎縮的効果」があり、政治家が放送局に苦言を呈すれば、言われた放送局が萎縮して自由な放送をためらう危険がある。そっちの方がよほど表現の自由に対する脅威である。だから、政治家は、自分にも表現の自由があるなどと居直るのではなく、もっと心して発言してほしい。それはそうなのだが、当該朝ドラのマイナス評価の絶対値が極限であることには私も同意であるところ、いよいよ脚本家が開き直りともとれる発言をした。この作品は、彼一人ではなく3人の合作であり(他の二人って誰?NHKの人だろうなぁ。プロデューサーとか)、3人とも料理のことはなんにも知らない、と言うのだ。失礼な話だ。私は、本作開始前、レシピをたくさんゲットできることを期待していたが、期待が外れたのは当然のことであった。なぜ、イタリアンの修行をしてきたのに沖縄料理?と思ったが、そもそもイタリアンへの愛など製作者になかったのだ。だが、それこそ表現の自由なんだから、この朝ドラを史上最高傑作と評するのもまったく自由である。私は、世間が江川や北の湖を仇役に仕立てていたときも、彼らのフアンだった。よし、あえて、朝ドラ擁護に回ろうか。……と思ったが、何も出てこない。少なくても、江川の球は滅法速かったし、北の湖は憎らしいほど強かった。だが、今の朝ドラにいいとこなど一つもな……一つ思いついた(ひねり出した)。誰かが、「暢子が東京に出てきて長いのに未だに沖縄弁をしゃべるのがおかしい」と言っていたが、これについては、私は断然暢子を支持する。言葉は文化である。固有の文化は大事にしてほしい(憲法も「人は個人として尊重される」と言っている)。実際、室内合唱団で4年間一緒だった岡山出身のO田くんは、4年間岡山弁で押し通し、最後まで語尾に「じゃ」を付けていた。見事であった。


ワインを注ぐ

2022-08-22 10:20:26 | グルメ

ゴーヤーの消費も着々と進行中。昨夜は肉詰め。ゴーヤーのワタをとって空いた穴に挽肉を詰め、輪切りにして焼いてみた(写真は左上から始まって時計回りに進む)。輪切りにしない方がよかったなぁ。今度は縦に切ってみよう。余った挽肉はハンバーグ用。サラダとパスタも併せて結構な量である。山ほどの料理を無理矢理食べさせることを「食ハラ」と言うらしいが、私に食ハラをしてるのは私自身である。

今年の高校野球(今日、決勝戦だそう)で、どっかの高校のブラスバンドが応援で演奏した曲が珍しくクラシックだった、「新世界」だった、というニュースがあった。さては第4楽章だな。当たり。勇壮で応援にもってこいである。

子供達の夏休みもそろそろ終わり(私の場合は、夏休みが終わると即、秋休みに突入である)。私が寝てる間に見る夢にはいくつか決まったタイプ(定型)があり、その一つが、夏休みの宿題の絵を書いてなくて落第の危機に陥る、というものである。

今、映画「トップガン」の続編が公開されている。お友達が見に行かれたので私も興味を持っているのだが、そもそも第1作を見てないのでアマゾン・プライムで見た。面白かった。その感想文を私の夏休みの宿題とし、ここに披露しよう。
その1。トム・クルーズが教官の女性と恋に陥るのだが、その恋がすぐに成就するのが腹立たしかった。
その2。その教官が、トム・クルーズのことを「complicated」と評したとき、字幕では「複雑ね」とかなんとかだったが、こういう場合「面倒くさい人ね」もアリ。このような感想文を書く、心がささくれだった私はまさに「complicated」である。
その3。エンディングの空中戦で、トム・クルーズのチームがミグ戦闘機を4機撃墜するのだが、弾が命中してすぐ爆破では相手方パイロットが脱出する暇がない。相手だって同じ人間である。せめてパラシュートで脱出してほしかった。アメリカのこういうところが、今回、ウクライナ侵攻をしたロシアの包囲網がなかなか狭まらない理由である。
その4。トム・クルーズが初めて件の教官の家に呼ばれたとき、アレ?と思ったことがある。一般に、ワインを注ぐのは男の仕事とされている。私がドイツのドイツ語学校に通った際、クラス全体が先生(女性)のウチにお呼ばれしたときのこと、食卓で先生がみんなにワインを注ごうとするとブラジル人女性のクラスメイトが血相を変えて私に「マサシ、あなたは無礼だ。女性の先生に注がせるとはなにごとかっ」と怒った。私は、ホストの仕事をとっては逆に失礼かな?と思っていたのだが、あまりに件のクラスメイトが激しいので、「悪かった」と言って先生からボトルを受け取って給仕した。すると先生がニコニコしたから、なるほど、「誰がホストか」ということより「男が注ぐ」の方が優先すると合点がいったのである。ところが、トム・クルーズのグラスが空になると、クルーズがグラスを教官に差し出して「注いで」と言うではないか。ドイツでガッテンしたのはなんだったんだろう?と思った次第である。なお、私自身の流儀は、ワインは私が人に注ぐ、である。その理由は、自分のグラスが空いたらすぐに注ぎたい、そのためにボトルは自分の支配下に置きたい、だからである。


半地下

2022-08-21 09:38:39 | グルメ

冷蔵庫にあるモノを使う。だからゴーヤーピザである。お陰様で、1週間スーパーに行ってない。卵のセールに食いつかなくなったせいもある。写ってる器具(ピザメーカー)は400度まで出るというので購入したもの。このほど、電気代を考えて、予熱時間を5分、焼く時間を2分短縮したがまったく問題ない。うどんにペットボトルの飲み残しを使う作戦も継続中である。ただし、「微糖」だとちょっと味が変。お茶もだめだろうから、今後、ペットボトルを買うときは必ず「水」にする。これだけ水を大事にする自分はフレーメンになった気分である(フレーメン=「砂の惑星」の原住民。仲間が死ぬとその遺体から水を抜き取ってためるほど水を大事にする)。

次も映画の話。ソウル市が半地下住宅をなくす指針を打ち出したのを聞いて、まだ見てなかった韓国映画「パラサイト 半地下の家族」をアマゾン・プライムで見た。さすが、カンヌでもアカデミーでも一等賞になった映画である。面白かった。韓国語における漢字の読みが日本での読みと似てるからときどき分かる。おそらく、日本語に一番似てる言語は韓国語なのではないか。ドイツ語学校のクラスで、オランダ人の母国語がドイツ語とそっくりで、学習上、相当なアドバンテージだなと羨んだことを思い出した。この映画は「臭い」がキーワード。臭いで思い出すのは「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャーシチャヤとスメルジャコフの母子。どっちも仇名であるが、「スメル」の意味が英語の「smell」と共通なのが興味深い。ドイツ語訳では「スメルジャーシチャヤ」を自国語の「die Stinkende」に変えている。日本語訳で同様の手法をとるなら「臭い女」とするところであるが原語の「スメルジャーシチャヤ」のままである。この「臭い」ってやつは微妙であり、取扱いに注意が必要。映画でもこれが一因となって殺人事件が起きたし、以前、チェ・ジウが日本に来たとき、日本人スタッフ全員がマスクをしてるのを見て(コロナ前の話)、チェ・ジウは勘違いをして随分気分を害したそうだ。

もう一つ、「映画」「臭い」で思い出すのは、「半地下」同様カンヌで優勝した今村昌平監督の「楢山節考」。劇中のエピソードに、夢枕に死んだ亭主が現れて、村の若者を慰めてやるように言われて、毎夜毎夜村中の独身男のもとに通うようになった若い後家さんが、ただ1人だけ臭いがイヤでスルーする。スルーされた男は荒れて大暴れ。困った家族が鼻が悪くて臭いが分からないおかね婆さんに男の相手をしてやってくれと頼む。で、事が済んだ後、おかねさんが「使えば使えるもんだなー」と言って館内が大爆笑に包まれたことを覚えている。この映画について、最近知った事実が二つある。一つは、この映画のテーマは「姥捨」なのだが、元になった伝説は山梨県の話だという。しかも、私の父の実家と方角が同じ。すると、私のご先祖様も姥捨てをした(された)のだろうか。もう一つ。この映画は、「生き物の営み」もテーマになっていて、動物がたくさん出てくるのだが、例えば、黒く塗ってカラスに仕立てた鳩が一斉にはばたくシーンを撮り終えてカットがかかると漁師が全羽撃ち殺したなどという信じられないような逸話がWikiに書いてあった。動物が登場する映画には大抵「撮影に際して動物は一匹として害されなかった」というテロップが入る現代ならありえない話である。件の大監督に対する見方が変わりそうである。


海水浴場で変態するとお巡りさんか虫取り網を持った人に捕まります

2022-08-20 12:41:47 | グルメ

口をつけて飲んだペットボトルの飲み残しは翌日になるとばい菌が大繁殖すると聞いて泣く泣く捨てていたが、朝うどん(最近は朝ラーメンをやめてうどんにしている)に使えば熱湯消毒されるからばい菌は死ぬはずである。水道代の節約になるから実践した。手賀沼で買ったナスもカビさせることなく無事全量消費完了(食卓の風景はデジャブの感があるが、パスタ麺は紛失した後戻ってきた生麺である)。あと、カビるのが心配なのはトマトソース。久々にピザを焼いて消費に努めたいのだが、400度で焼けるピザ・メーカーは電気を食う(さすがにピザをフライパンで焼くわけにはいかない)。これまでの「予熱15分、焼き時間7分」だとカリカリになりすぎたから、それぞれ10分、5分に短縮するか。だが、生焼けの小麦粉はお腹を壊すから兼ね合いが大事である。因みに、ピザ作りに欠かせない強力粉であるが、政府が秋の小麦粉の卸売価格を据え置いたから、安いうちに買いだめに走る必要はなくなった。

昔は高校野球を見ていた。横浜高校の準決勝の大逆転と決勝の松坂大輔のノーヒットノーランは30代(私が、である。以下同じ)のときだったし、桑田&清原のPL学園は、まだ会社員だった頃、重役の「今日はもうしょうがない」の言葉に従い就業時間中にみんなでテレビを見た。そして10代。江川卓もこの頃だが、こないだテレビで「懐かしの甲子園」を特集していて「三沢高校」で瞬時に思い出した。太田幸司投手である。太田投手はプロに進むとすぐにコマーシャルに登場。「(太田)幸司です」「カラーです」「ナショナルです」の三言を発していた(順番がどうだったかは定かでない)。オープン戦で対戦した王選手が「球筋がきれいだから(打者から見やすいから)苦労するでしょう」と言ってたのを思い出す。それでも、中堅ピッチャーとして活躍された。

「浴場」が「風呂」であるならば、「海水浴場」は「海水風呂」である。だが、風呂と海水風呂の違いは、前者は裸で入るものだが、後者は裸で入ると公然わいせつ罪で逮捕される点である。多くの犯罪は、刑事罰を喰らうほかに民事で被害者からの損害賠償請求が待っているが、公衆の前で裸になって公然わいせつ罪でとっつかまったとしても、損害賠償請求を喰らうことはないだろうか……いや、そうとも断言はできない。「変な裸を見せられて、精神上の苦痛を受けた」と主張する人がいないとも限らない。

最近、見たいテレビがめっきり減った。そんななかで、「香川照之の昆虫すごいZ」にはまる予感である。カマキリの格好をした香川照之の昆虫愛がすごいし、なかなか蘊蓄のあることを言う。例えば、「変態」とは(異常な性行動をする人間ではなく)昆虫が幼虫から成虫に変わることを言う、将棋の加藤一二三さんが棋士からヴァラエティの人気者になったのは「変態」である、誰でもある日突然変態して人生が変わるかもしれないからがんばろう的なことを仰ったことにいたく感動したワタクシであった。因みに、ギンヤンマは、流れのない池や沼にいると言っていて、なるほど、こないだの手賀沼の旅でギンヤンマを見たのはミニ手賀沼(手賀沼の北のへりにある、「手賀沼」を名乗ったら手賀沼が怒りそうな貧相な水たまり)だったから、大いに合点がいった。


他人の手

2022-08-19 12:34:46 | 音楽

昨夜のカーサ・クラシカのセッションは「バースデー・セッション」と銘打たれていて(実際の金澤さんのお誕生日はもちっと前だった)、店長の奥様(ソプラノ歌手)の手作りのケーキが配られ、辛党の私も「あれま!ケーキって赤ワインと合うんだ!」と独りごちながら美味しくいただいた。写真の右手に写っているワインのボトルを持った手は、もし私の手であれば、念願の「金澤さんとのツーショット」になったところだが、残念ながら「冷たい手」ならぬ「他人の手」である(「冷たい手」は言わずとしれた「ボエーム」の名アリア。それに対し、「他人の手」と題するアリアを私は知らない。作ってみよう!♪ケ、タニンノマニーナー……)。で、昨夜私が演奏した曲であるが、初っぱなにブラームスのクラリネット・ソナタを持ってきて、二巡目以降は、カウンターテナーで歌。ブラームスは、月末に同じ場所で開催される発表会の予行演習。思えば、目標を定めて一つの曲をずーっと練習する、ってぇのは私がしてこなかった作業である。若い頃は、歌でも楽器でも初見が滅法利いたから、大概の曲は練習しなくてもとりあえずできたし、逆に、初見でできなかった曲は「ふんっ」とか思って見向きもしなかった。朝ドラのヒロイン一家に限らず、バカはいるものである。今は、初見が昔ほど利かなくなったので、なにごとにおいても練習するようになった。そのおかげで、最終的には昔よりも上手くなったかもしれない……なってほしい(希望的観測)。予行演習でしでかしたミスを洗い直すことが肝心である……と、ブログに書いただけで反省した気になるところが怖いところだ。


人類皆兄弟

2022-08-18 09:07:10 | 言葉

先週末から火曜日までお盆だったんだね。30年以上前、今のところに引っ越した頃は、お盆ともなるとのきなみお店が休業するもんだから、食べるものにも困ったものだ(ウチの近所の大型スーパーはなく、小規模なスーパー(大型スーパーに淘汰された)が点在していたが、どこもかしこも休んでた)。因みに、ドイツでは、法律でもって週末や休日はお店は開けてはいかんと定めているので、備蓄のないお宅は一層死活問題である。そこへいくと、わが家は、こないだ手賀沼で仕入れた食材がたくさんあるのでスーパーには閉まってもらっていてもいっこうに構わない。実際、この三日間、スーパーには行ってない。だが、スーパーは、地元のお客様のために絶賛営業中である。

ドイツと言えば。カエサル(シーザー)の時代、ローマ人から見てゲルマン人はライン川のあちら側の人達。ブロンドで碧眼でビールが大好きで大酒を飲んで議論して挙げ句の果てに大げんか、そういう人達だった(そのようにローマ人の目に映っていた)。現代においても、20年前までドイツのニュース番組(Heute)のMCはそうした「This isアーリア人」って感じの人達だった。だが、時代は急速に変わった。今、私が一推しのキャスターは、ヤーナ・パライギスさん(写真はWikiのもの)。

末尾が「ガー」等ではない名字が表すように、お父さんはジンバブエの人だそうだ。ジンバブエってどこ?と調べてしまった。アフリカ南部の国である。ニュースの冒頭のMC紹介で「Heute、mit(with)ヤーナ・パライギス」を聞くと、わが心はときめくのである(この「Heute」が番組名を言ってるのか、「Today」の意味で言ってるのか、両者をかけているのかは不明である)。

男性だって負けてない。日替わりで登場する男性キャスターは、ミトリ・ジーリーンさん(写真はWikiのもの)。

こちらも名字が移民系であることを表している。オリジンはトルコとシリアだそうだ。因みに日本語で「シリン」と表記されているのを見たが、綴り(Sirin)からそう表記したのだろう。発音されているとおりに表記してほしいものである。この方は、滑舌が極めて明瞭で、この方の日は、ときめきはしないが、安心して視聴できる。なお、このニュース番組には、1人だけ、バーバラ・ハルヴィクさんと仰る「昔ながらの」金髪・碧眼のMCがいらっしゃるが、こうなってくるとなんだか「孤軍奮闘」の様相である。

こうした流れはテレビの世界だけではない。いっとき、ベトナム系の人がドイツのどこかの政党の党首になった。もはや、「ブロンド、碧眼」はドイツ人の代名詞ではない。ドイツ語が母国語であれば、その人はドイツ人である。

事情は日本でも同じ。30年前は、深夜に最寄り駅からバスに乗ると、ここは日本?と惑うほど外国人ばかりが乗っていた。このあたりは家賃が安いと聞いて外国人が集まってきたのである。その様子を見て、この人たちが日本人と恋に落ちるんだろうなぁ、と思ったらまさにその通り。恋に落ちた彼らの子と思しき若者が大活躍をしている。そもそも「日本人」と言ったって、それは遥か昔に北方から、又は南方から入って来た諸民族の混血である。つうか、人類は、結局、アフリカの1人の女性がルーツだという。まさに「人類皆兄弟」である。

だが、言葉は文化である。兄弟だから同じ言葉を話そう、ではなく、言葉の多様性は文化として残ってほしい、そう願うワタクシである。

 


栴檀は双葉より芳し

2022-08-17 09:13:43 | 日記

ベランダのプランターは早くも今年3回目の芽吹き。

バジルである(あれ?大葉じゃなかったの?という読者はいないだろう。当ブログは、読者の心になにも残さない、シャボン玉の泡のようなはかなさがウリである)。因みに、「なんとかは双葉より芳し」の「より」は、比較の「より」(英語のthan、ドイツ語のals)ではなく、時の起点を表す「より」(from,seit)だそうだ。優秀さは子供の頃から現れる、という意味だそうだ。

こないだ30円で買った後、半日リュックに入れておいて、芯がどろどろに溶けたレタスだが、溶けた芯をくりぬいて残った葉を氷水につけたら見違えるほどシャキッとなった。だが、芯に近い部分はさすがに生食する勇気がない。こういうヤツは火を通すといい。チャーハンに入れてみたらなかなかであった。

NHKでときどき移住の話をしていて、武蔵野の「家賃千円」にびっくりしたら、それどころではない。愛知県のどっかの村では、八部屋ついて家賃が「ただ」!村おこしの事業であるチョウザメ育成に従事することの見返りらしい。だが、それに挑戦している青年の収入は3年目にしてゼロ。チョウザメは生育に時間がかかり、10年経たないと卵(キャビア)がとれないそうだ。因みに生育に時間がかかる生物は寿命が長いらしく、チョウザメは100年生きるという。だからと言ってチョウザメに生まれたらよかったかというと、そうでもない。考えてみたまえ。10才で腹を裂かれてしまうのだ。もともとの寿命が100年である意味がない。やはり、生まれ変わるんならシャチである。なお、家賃がただということだと、それは賃貸借ではなく使用貸借である。賃貸借ならそこに住んでしまえば(引渡しが完了していれば)、所有者が変わっても出て行けと言われることはないが、使用貸借だと新所有者が出ていけと言ったらこれに対抗できない。ただより高いモノはなし、である。

どっかの花火大会の見物客が駅に押し寄せて大層危険な感じになったとき、1人のヴォランティアが群衆を誘導し、事故を未然に防いだのだが、ヴォランティア氏の「止まれっ」等の命令口調が少なからぬ人々の反感を呼び、「命令調で言うな」「(混乱は)お前のせいだ」と言った怒号も飛んでいた。かつて、同様の状況で多数の死傷者が出た事故があったから、けが人が出なかったのはヴォランティア氏のおかげ、と言えるのだろう。逆に、そうした危ない状況になることを予測できず適切な準備を怠りその男性に頼らざるを得なかった本来の担当部署は責められるべきである。それにしてもそのヴォランティア氏、現場の録画を見ると「そこのじいさん」とか言っている。「じいさん」はないだろう。言われた人は傷ついたに違いない。もし言われたのが私なら、藁人形を作って呪ってたと思う(阿野全成が頼家を呪ったごとく)。

読んでいただいてお分かりのように、本日は4話からなる短編集であり、「栴檀は双葉より芳し」は第1話に関するタイトルである。当初、第3話の「ただより高いモノはなし」と第4話の「「じいさん」はないだろう」がゴール前でしのぎをけずっていたが、ダークホースの「双葉」が外から二頭を出し抜いて本日のタイトルを射止めたものである。2014年の天皇賞秋がそういうレースだった。ゴール前でジェンティルドンナがイスラボニータを振り落としたと思ったら、外からスピルバーグに差されて2着に甘んじたのだった。


ハモらなかった「手紙の二重唱」

2022-08-16 09:04:06 | 音楽

「布団台地」の丘上にワサビが、谷下にケメ子がいる。私はその手前、台地を枕にしてごろんとしている。これが、最近の定位置である。

おめでたいことその1。こないだ、松戸のお店で飲んで赤坂まで行っちゃった日、実はなくし物をしていた。パスタの生麺と折りたたみ傘がこれらを入れていた手提げ袋ごと蒸発していた。韓国映画「パラサイト」の父親は蒸発したと見せかけて豪邸の地下に隠れていたが、私のなくし物は、てっきり地下鉄でなくして誰かの胃の中に収まっているものと思っていたら、お店にあった。

取りに行くついでに、長いこと預かってくださったお店へのお詫びと感謝の意を多少とも示そうと、わずかではあるがお金を落とさせていただいた。

「落とす」と言っても「紛失」ではない。とか言って、これで酔っ払って、また何か落としては大変である(私は、こうした事柄の前科者である)。帰り際は細心の注意を払った。翌朝(=今朝)、点検。異常なし。前科は増えずに済んだ。めでたいのはそのことである。

おめでたいことその2。暢子が結婚した(朝ドラ)。本心ではめでたくもなんともないのだが、当ブログの構成上そういうことにしておこう。因みに、朝ドラで「初夜」(の前後を含む)を描いた作品は、私の記憶の限りでは、「青春家族」と「はっさい先生」。前者では、翌朝、新婦(清水美沙)が「なんだかほてっちゃって」と言って兄嫁が「きゃー」と奇声をあげたし、後者では、もじもじしていた渡辺徹の新郎が意を決して若村麻由美の新婦を布団ごと引き寄せた。

初夜と言えば、「フィガロの結婚」(理由は割愛)。継続中のMD移行作戦では、おおっ、と言うような録音の目白押しなのだが、その中に、キャスリーン・バトルがスザンナを、ルチア・ポップが伯爵夫人を歌った録音が出てきた。ポップはスザンナで聴きたい派だが、バトルとの「手紙の二重唱」は絶品である。この二重唱にはイヤな思い出もある。ウィーン国立歌劇場の1986年の引越公演の演目には前回に引き続き「フィガロの結婚」が入っていた。前回公演のときは、ベーム指揮、ポップのスザンナ、プライのフィガロ、バツツァのケルビーノ等々きら星のごとき布陣であったが(しかも「ナクソス島のアリアドネ」ではグルベローヴァがツェルビネッタを歌った)、今回は小粒。しかも、私が行った日は、ダブルキャストの裏の方。スザンナはジョアンナ・ボロウスカで、伯爵夫人はなんとかモルトヴェアヌだった。この2人の「手紙の二重唱」で事件が起きた。なんと、3度でハモるところがユニゾンになったのだ。そうでなくても飛車角落ちでいまいちなところに持ってきてこの体たらく。犯人はモルトヴェアヌに違いない。私が体験した最悪のフィガロであった。ところが、つい最近になって、私が犯人を取り違えていたことが判明した。「手紙の二重唱」の楽譜を見ると、ハモるところは全部スザンナが上。だが、どっちも下を歌っちゃったんで「ユニゾン事件」が起きた。ってことは犯人はスザンナのボロウスカだったのだ。そこまでのモルトヴェアヌの歌に不満だったもんだからモルトヴェアヌのせいだと思い込んでしまったのだ。モルトヴェアヌさま、ごめんなさい、40年間、あなたを逆恨みしておりました。真相を知った今、ここに伏して謝ります。

因みに、「砂の惑星」では、公爵が部下の裏切りにあって暗殺されるのだが、他の部下たちは、ずっと裏切り者を公爵の愛妾のジェシカだと信じて疑わなかった。その部下たちが真相を知って恥じ入るのは何年も経ってからである。ダメな部下達だな、こいつらがしっかりしてたら公爵は死なずに済んだのに、と思っている私であるが、「ユニゾン事件」に関しては、私の目の節穴度は彼ら並みであった。