前回のブログ記事にコメント(架空)が寄せられた。読まれて困るドイツ語の心境吐露をなぜわざわざするのか、最初から書かなければいいじゃん、という批判である。反論する。じゃあ、君は、酔っ払うとなぜ人目を気にしつつ路上で裸になるのか。おまわりさんの目が怖いならそもそも脱がなければいいじゃないか。どうだ!すると再反論がきた(架空)。私は脱がない。それを言ったらおしまいである。ほら、議論が終わってしまった。因みに、公然と裸になると公然わいせつ罪に問われる。そう、人間の裸は、法曹関係者の間ではわいせつ物扱いである。なんだか、人間そのものがバカにされている感じがしないでもない。「公然」とは「不特定多数人が認識しうる状態」である。すると、美女が、不特定多数の人に覗かれてるかもしれないと思いながら自宅で裸になると、「未必の故意」による公然わいせつ罪が成立しそうである(理論的には)。じゃ、美女じゃなくておじさんだったらどうか言うと、誰も好き好んで覗かないだろうから、最初から議論の対象外だ。さて、昨日のブログでは「elend」(エーレントゥ=惨め)がキーワードであった。歌いまくる会の次回のお題のBWV75のタイトル(冒頭の歌詞)にもこの言葉(の名詞形)が出てくる。「惨め」と言えばこの曲。♪しーらけどーり、とーんでゆーけ、みなみのそおらーへ、みじめ、みじめ……おおっ、哀愁漂う名歌である。独訳しよう。Schirake-Vogel,flieg heim nach dem Südlichen Himmel,elend,elend……おお、いいね!「みじめ、みじめ」が「elend,elend」になっているところがミソである。因みにその読みであるが、「エーレントゥ」と書くことには忸怩たる思いである。この「エ」は長母音だから「イ」に近い「エ」である。私が主催するシュッツを歌う会の資料だったら「エ(イ)」と表記するところだ。そのシュッツを歌う会は開店休業。場所はとれるようになったがパートがそろわない。歌いまくる会は多少パートが不足してもピアノで補ってもらえるが、アカペラのシュッツではそうはいかない。もともと、シュッツ(に限らぬドイツ・バロック)を、最近廃れつつある舞台ドイツ語で歌うのが設立の趣旨であった。ドイツ語の発音を正確にやれば、それだけで音楽ができる、そのことを実証するための会であった。そうした崇高な目的を持って作った会だった。今まさに思い出した。バロックへの回帰……直近の私の心情である。面白いもので、歌いまくる会のソロ・コーナーで、最近、超立派なオペラ声で歌われるオペラを聴いていたら、猛烈にカウンター・テナーでバロックを歌いたくなった。こういう世界だってあるんだぞ、という主張である。シュッツを歌う会も復活させたい。パートさえ揃えばできるんだが誰かいない?因んだ話その1。「しーらけどーり」が歌われたのは、「見頃、食べ頃、笑い頃」って番組で、キャンディーズがレギュラーで出てた。電線音頭が登場したのもこの番組である。その2。「flieg heim」は、ヴァーグナーの「指輪」の大詰めにブリュンヒルデがヴォータンの使いである二羽のカラスに投げかける言葉である。その3。「未必の故意」を「密室の恋」に置き換えると俄然淫靡である。