拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

男声を歌った前科

2021-10-30 18:37:22 | 音楽
チビ太の前科は金庫破り(マゴジローの前科は男声だったこと)。チビ太は、出所後、二度と金庫破りをすまいと決心し、住み込みの店員としてはたらいていた(マゴジローは、ある合唱団を辞めた後、二度と男声を歌うものかと決心し、その後入った合唱団ではカウンターテナーでアルトを歌っていた)。そんなチビ太を陰から監視していたのがイヤミ刑事(そんなマゴジローを陰から監視していたのが男声不足に悩む合唱団のスカウトマン)。チビ太がいつか必ず再び金庫破りに手を染めると考え、そのときは捕まえてやろうとつけ狙っていた(マゴジローがいつか必ず再び男声を歌うと考え、そのときは自分とこの合唱団で男声を歌わせようとブログを読んでいた)。そして事件が起きた(同)。子供が金庫で遊んでいるうちに誤ってその中に閉じ込められてしまったのだ(その合唱団の演奏会が近いというのに、バスの人数が足りないのだ)。金庫の中の空気はどんどん減っていく(演奏会の日はどんどん近づいてくる)。「誰か助けてー」と悲痛な声がこだまする(「演奏会はどうなるのだろー」と心配げな声がする)。チビ太は自戒を破った(マゴジローは自戒を破った)。自ら金庫の扉を開け、中の子供を救出した(自ら志願し、一曲だけバスのパートを歌うことにした)。そして、チビ太は、イヤミ刑事の元に赴き、手錠をかけてと言わんばかりに手を差し出す。だが、イヤミは、「ミーはチミのことなど知らないざんす」と言う。チビ太は新天地を求めてその地を後にする……これは、「おそ松くん」で外伝的に描かれたエピソードだ。以前もブログにアップしたら、実はO・ヘンリーの「よみがえった改心」が原作であることを誰かがコメントで教えてくれた。それに対し、括弧内のマゴジローの話は、味噌煮込合唱団で起きた話に若干のアレンジを加えたものである。実は、マゴジローが自戒を破り、男声に手を染めたのはこれが二度目。最初は男声が払底したA合唱団で。だが、そのためにA合唱団でアルトに戻れなくなり望郷の念でマゴジローの心は押しつぶされそうになった。だから、二度と男声を歌えるそぶりはすまいと決めていた。それを破ってしまったのだ。だが、A合唱団のときは本籍を男声に変えたしまったのに対し、今回は、本籍をアルトに残したままの短期出向であるから、違う曲を歌うときは早速アルトに戻っている。因みに、なじんだ街を後にしたチビ太と違って、マゴジローは目指すべき新天地などないから、なんとかここにしがみついていたいと思っている。なお、今読んでいただいた記事は改訂版である。初稿では、マゴジローを付け狙う刑事役は室内合唱団のマゴジローが所属する同期会の幹事のB子であった(B子にばれると怖いので、差し替えた)。

鉄の掟/亀石/猫の島

2021-10-30 08:47:42 | 音楽


神奈川県の県央のある街に、ヴェルディのレクチャー・コンサートを聴きに行った。ヴェルディ唯一の室内楽である弦楽四重奏曲と、9曲のオペラからのアリア。クァルテットとソプラノ二人はすごかった。他の場所でも聴きたいと思った。他の楽器にはセミプロの人がいて、ああ、あの人の弟子筋だな、ということがすく分かった。われわれシロート音楽家の身の処し方として、こういう音楽ヒエラルキーに組み込んでいただきプロの薫陶を仰ぐことが王道であり上達の秘訣であることは明らか。しかし、私が主催するSの会の楽器コーナーは、シロートだけで音楽を手作りすることが鉄の掟だ。だから、Y先生美女やN先生美男は、通奏低音のピアノなど寝ながら足で弾ける方々であるが、あえて通低はお願いしない。Y先生美女には管楽器を、N先生美男にはバスの歌をお願いしている(お二人とも超プロのなのに、こういう会にお付き合い下さるのだから、感謝申し上げるとともにその懐の深さに感服申し上げる)。そんな具合だから、N田美男にも是非、Sの会の楽器コーナーにヴィオラで参戦してほしい。因みに、次回、私はチェロでデビューする予定である。うまくいかず、がっくり落ち込むことは火を見るより明らかだが、落ち込んだ気分はワインで浮揚できる。それより、私のそういう姿をみて、「あれでいいんだったら、ボクも、私も」を狙った呼び水の効果があると思い、あえて鉄面皮となってがんばるのである。もし、Sの会で、こういうやり方が受け容れられなくなったら、私は瞬時に(augenblicklich)ここを去る(Augenblick=瞬き。つまり、日独とも、短い時間のことを瞬きの時間で表現する点で共通である)。因みに、N先生美男とN田美男、それにK田美男と私は、一瞬、恋のrivaleになった(アイーダとアムネリスのように。まだ、頭の中が昨夜のヴェルディ・モード)。Sの会の反省会で、私が某某美女について彼らをたきつけているとき、誰かが「そんなことを言って、自分でくどくつもりだろ」と言った際である。だが、某某美女には私の内部の「黒い真実」を知られていることを思い出した次の瞬間、私は再び彼らの応援団に戻った(なーんていかにも何かありそうなことを書いているが、思い出してほしい。私は小説家である。私の心の中は、イァーゴが歌うように「nulla」である(これもヴェルディ・モードの名残り)。そう言えば、昔、テレビで、檀ふみさんが恋愛でいろいろあった風なことをほのめかしたらすかさず(親友(?)の)阿川佐和子さんが、「あなた、なんにもないじゃないの」とつっこんでいた)。さて。演奏会が開かれた街からちょっと足を伸ばせば江ノ島。天気もいい。新調した(中古の)デジカメを試すのにもってこい。ということで、演奏会前に江ノ島に行って散策。急坂の参道はアジア人外国人でごった返していたが、あの急坂は、中山競馬場のゴール前と一緒で、多くの人の足をくじくから、上り詰めると人はまばら。側道を歩いていると、木々の間から富士山を望める絶景ポイントを発見。



さらに歩をすすめると、岩窟に通じる岩場が現れ、張り紙に「ここから下を覗くと、亀の形をした『亀石』をみることができる」とある。真下を見たが分からない。ちょっと顔を上げてななめ前方に目を移すとあった、あった。



お分かりいただいた?アップにするとこうである。



で、岩窟に到達。入場には500円かかるが、せっかく来たんだ。生涯は一度きり(最近、よくそう思う)、メイド……じゃなくて(メイド喫茶になじみの子などいない)冥途の土産に入ってやろう。すると、かなり奥が深い。波の浸食によるものだという。亀石のあたりの大波を思うと、さもあらん、と思う。奥から外界に空いた裂け目を見たとき、トム・ソーヤーがベッキー・サッチャーと洞窟に迷い込んだ後、出口を見つけたときがこんな感じだったのかな?と思った。



日暮れ間近になると逆に人が増えてきた。夕日に映る富士山を見ようという人だ。冒頭の写真は、その時間に撮ったもの。カップルも増えてきた。カップルのことを昔は「アベック」と言ったっけ。たかが「アベック」。「with」のフランス語に過ぎない。次は「ミット」と呼んでやる。
さて、演奏会の後、事前に調べといたこの街のピッツェリアに行って、例によってマルゲリータ・ピザを注文。赤ワインはデカンタがあったが、最近はフルボトルを頼むのが常だから物足りない。生ビールを追加した。



こんな感じで連日ピッツェリアに通っていると、財布にも肝臓にも大打撃である。いったい、なぜ、そんなにむきになって通うのか。それはこういう理由である。某某美女は世界中の波止場に男がいる。私は、世界中は無理なので、首都圏の主なターミナル駅ごとに彼女を作ろう。そして、各駅ごとに落ち合った彼女とピッツェリアに行く。その下準備をしているのである。
そう言えば、江ノ島に猫がいた。人々が可愛い可愛いといって撫でている。



この日は一匹しか見かけなかったが、江ノ島は猫の島だそうだ。

砂の惑星/山高帽

2021-10-29 09:42:14 | 日記
夕方、仕事をオフにして(え?チェロって仕事だったの?)、「砂の惑星」(映画)の新作を見に行く。「ツイン・ピークス」のデイヴィッド・リンチ監督の旧作が公開されたのは1984年。当時の新聞批評に、SF作品なのに「重々しく、宇宙船は動かない」とあって、どんなだろうと見に行ったら本当に宇宙船が動かない。スターウォーズが世に出てから7年。最初にスターウォーズを見たとき、ミレニアム・ファルコン号が光速に移行するときスクリーンいっぱいに光の線が走ってぴゅーっと行っちゃったのにどぎもを抜かれたものだが、その正反対のテイスト。奇っ怪な姿の宇宙飛行士がぷかぷか宇宙に浮いていて、遠くの方にふーっと息を吐くと、そこに移動後の宇宙船が現れる、そんな感じの映像だった。私は、その世界にはまりまくって、その作品は私の「ワン・オブ・ザ・ベスト」になった。だが、後から聞いた話では、途中から相当話をはしょったそうで(私、原作を読んでなかったので分からなかった)、不評だったそうである。この作品の映画化を目論んで、絵コンテまで描いたホドロフスキーは、計画が頓挫した後にリンチが映画を完成させたと聞き、相当悔しがったが、完成品を見て、その余りのできの悪さに小躍りしたという(他人の不幸は密の味)。だが、「独特の悪趣味的世界観が全面に出ており、映画マニアの間ではカルト作として一定の評価も得ている」との評もある(Wikiより)。ってことは、私はマニアか?その後、テレビドラマとして映像化されたこともあったが、今回、待望の新作。ネタバレにならない程度に感想を記す。まず、始まってすぐスクリーンいっぱいに現れた「DUNE」の文字のすみっこに「第1部」とある。え?今日、最後まで見せてくれないの?そう。スターウォーズの第2作(エピソードⅤ)んときと同じもやもや感を引きずることになる。その第1部からしてなかなかの長尺だから、途中から、旧作にないシーンがたくさん出てきて、旧作がどんなに話をはしょっていたかがよく分かった。旧作も見た人が「全然違うよ」と言っていたけど、最初の方は結構似ていた。キャストは、旧作のカイル・マクラクラン(伝統的な美男子)の印象が強くて、今回のポールは随分小僧っ子に見えた。それから、旧作ではアリシア・ウィットが当時8歳か9歳でポールの妹を演じて圧倒的な存在感だったが(と、私は感じたが)、今回、まだ妹が生まれるところまでいってないので比較は不能。特撮(CG)は、これはもう圧倒的に今回の方がすごかった(宇宙船は例によってあまり動かないけれど)。音楽は、今回はハンス・ジマー。今をときめく大物だが、私が旧作にはまった理由の一つはその音楽でもあったから((移動ド)ラシド♯ソー、ラシド♯ソー、ラシド♯ドー……)、私が行司なら軍配は旧作に上げる。旧作のときにはなく、今回初めて持った感想が二つ。一つは、ポール母子の結びつきである。いつも音楽を一緒にやっている二組の美女母とイケメン息子のことを思い出した。もう一つは、超能力をもつ女性種族ベネ・ゲセリットが更なる超能力者を生み出すべく長年に渡って交配を続けてきた、と聞いて、競馬じゃん、と思った。ところで、上記の通り、私は原作を読んでないのだが、ネットで仕入れた情報によると、物語での宇宙飛行士達の超能力というのは、「超光速で航行する宇宙船を安全なルートで導くための予知能力」ということで(Wikiより)、それだとやはり宇宙船は高速で移動していることになる。すると、旧作の「息を吐き出した先にぽっ」のイメージとは違うようなのだが……あの「ぽっ」はリンチ監督のアイディアなのだろうか。原作を読んでみたいと思った(ニーヒョンゴデー(日本語で))。さて、映画を満喫した後はご飯である。レバニラ炒めの旅は断念したから残るはピッツェリア巡り。昨日は亀有駅近くの店を選んで入った。頼むのは決まってマルゲリータ・ピザと赤ワイン。



赤ワインのデカンタがメニューにないと、ボトルで頼まざるを得ない。すると、必ず、ピザを平らげた時点でワインが残っているから追加注文をする。そういうとき、ときたま頼むのが魚のカルパッチョ。



当初客は私だけ。と、そこに年輩の紳士(「年輩」と言ったが、下手をするとこの手の紳士が私より年下だったりする)と4,50代と思しき淑女のカップルが入って来た。常連客らしく、私には無口だった店主が急にしゃべり出す。だが、カップル同士はあまりしゃべらない。ときたま、紳士がぽつりと何か言うと、淑女が一言返すみたいな感じ。しかも声が小さい。ここでも場を支配しているのは最近の私の努力目標である「寡黙」である(特にコロナ禍ですからね。因みに、モネと先生が再会したのは来年の夏頃らしい。だから、マスクをせずにハグができたのだろう)。その紳士だが、食事中も山高帽をかぶったままなのが妙に気になった。紳士は帽子をかぶるもの?そう言えば、亡き父はいつもベレー帽をかぶっていた。なんだか帽子をかぶりたくなった。さて、まだ夜は更けてない。オフは思いっきりオフらなければ、と思い、近所の天然温泉に行く。看板に「濃塩」と書いてあった。



食べ物は減塩ばやりでも、温泉は濃塩がよいらしい。ちょっと戻る。ホドロフスキーの「砂の惑星」が未完に終わった事情を描いたドキュメンタリー映画を見たことがある。その幻の作品のキャストには、オーソン・ウェルズや画家のサルバトーレ・ダリが含まれていた。ダリは皇帝役である(台詞はあまりないのだろう)。そそる話ではある。

「嘆き」三題

2021-10-28 09:12:24 | 音楽
その1。「嘆き」と言えば「嘆きの壁」。イスラエルにあってユダヤの民が触れて嘆く壁。もとはヘロデ大王が改修した寺院の城壁だったがローマによって破壊された。その際、あまたの血も流れたろう。ユダヤの民はそれを嘆くのである。だが、ヘロデ大王自身が殺戮者。イエスの誕生を知ってベツレヘムの2歳以下の幼児の皆殺しを命じた張本人こそヘロデ大王。だが、ヘロデ大王が没したのは紀元前4年(イエスが生まれる4何前)。時間が合わない気がする……因みに、ヘロデ大王の幼児虐殺のきっかけは、イエスの様子を見に行かせた東方の三博士が大王のところに寄らずに別の道を通って帰ったことである。学生時代、普段仲良く一緒に帰っていた彼氏又は彼女がある日別の道で独りで帰ったら、それは別れの合図である。その後、成人したイエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネを処刑したのもヘロデだが、こっちのヘロデは大王の息子であり、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」でテナーによってキーキー歌われる役である。因みに、サロメの「7つのベールの踊り」はストリップ。全然脱がない歌手がいるが、本場(ストリップ劇場)だったら「金返せ」の怒号がとぶところだ。
その2。「嘆き」と言えば「嘆きの天使」。ヒロインのマレーネ・ディートリヒは、母国語のドイツ語のほか、英語(彼女は、ナチスを嫌って祖国に戻らなかったから出演作は英語作品ばかり。本作は、ディートリヒのドイツ語を聴ける数少ない作品)やフランス語も話せた。ヴァイオリニストを夢見て音楽学校に行ったこともあるなかなかの才女である。美女で才女とくれば流した浮名も相当数。お相手の中には某有名大統領も含まれた。その大統領との情事は執務室で20分の短時間で行われたという(さすが大統領!仕事が速い)。ところで、「嘆きの天使」と聞くと、谷崎潤一郎の「痴人の愛」を思い出す。どちらもうだつが上がらない中年又は初老の男が若い女にのぼせあがって身を滅ぼす物語。それからもう一つ、漫画「ナニワの金融道」にも、教頭先生がホステスに入れあげて保証人になって身を持ち崩すエピソードがあってそれも思い出す。いくら「人の保証人になってはいけません」と教わったところで、目の前で胸をはだけつつある美女に「ねえ、保証人になってくださらない?」と頼まれたら断るのは至難の業。フェロモンの基がニャジラ(牝)と分かっても飛びかからざるをえない雄猫と同じだ。その前に危ない状況になりそうな現場に近づかないことが肝要。「男女三歳にして席を同じゅうせず」はそういう意味で至言である(とか言って、私はアルトで思いっきり男女席を同じくしている。だが、保証人になったことはない)。因みに、「痴人の愛」の魔性の女の名前は「ナオミ」。私はこの名前を日本固有の名前だと思っていたから、「Naomi」という名のハリウッド女優を見るたびに親が日本贔屓なんだなと思っていたが、もともとはヘブライ語の名前なのだそうだ。名前の話ついで。「ディートリヒ」は男性のファーストネイムが多いが、件の女優さんの場合は名字。そういう例はときどきある。例えば、「ミスフィガロ」という馬がいるが、「フィガロ」は通常は男性のファーストネイムだが、「ミス」の後にくるのは名字だろうから、この「フィガロ」は名字である(仮に、「フィガロ」をファーストネイムと考えると、男性名に「ミス」を付けたことになり、はだはだ不自然である)。
その3。あらま。これが今回のメインの話だったはずなのに、ここまでかなりの分量を書いてしまった。仕方なく手短かに。「嘆き」と言えば「嘆きの歌」。と言うと、マーラーの作品を思い出す人が特にオケ関係者には多いかも知れないが、今はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番の話。そのメロディーは深く人の心の底をえぐる。そして、これに続くフーガには天上の音楽の形容が相応しい。こないだ、ベートーヴェンの晩年のフーガの傑作を当ブログに列挙した中にこの曲を入れそびれたのは大失態。このフーガは、若い頃の私のピアノのレパートリーでもあった。こないだのSの会の反省会でこの曲の話が出たので思い出した。かように、Sの会の反省会では恋バナばかりしているわけではない、ということを言いたかった次第である。

おじさんがおばさんだったら

2021-10-27 09:22:29 | 日記
朝一番で、昨夜のブログを読む。なぜ、あんなに自分の寡黙を売り込んでいるのだろう。酔っ払いの心情を推し量ることほど難解(かつ無駄)なことはない。しかも重要なポイントが抜けている。あのブログは、懇意になったおじさんが、もしおばさんだったら、私の将来に決定的な影響を及ぼす出会いになったかも知れない、これが肝のはずだった。誰かにメッセンジャーかなんかで言って、で書いた気になったのかなー。そのイメージは、「ファミリーヒストリー」で見た俳優・堤真一さんのお父様。通った食堂で将来の奥様に出会われたのである。そうか!私が急に寡黙な人に変身した理由が見えてきたぞ。堤真一さんのお父様は寡黙な方だった。それを真似たのかもしれない。あと、もう一つ、理由として考えられるのは、ブログにタミーノを登場させたこと。タミーノはパミーナと結ばれるために「沈黙の行」をした。そのタミーノが乗り移ったのかもしれない。とにかく、なんでもすぐ影響されるワタクシである。ま、しかし、昨夜は、あのおじさんで良かった。なかなか蘊蓄のあるお話であった。もしかして、言われた通り、ビールをご馳走になってたら、独身のお嬢さんだかお孫さんを紹介してくださったかもしれない。因みに、そのおじさんを「おじさん」と書いたので、バランスをとるため仮定のお相手のことを「おばさん」と書いたが、この「おばさん」は多義である。まず、三親等の傍系血族である伯母さん又は叔母さんを意味するほか、血縁でない年輩の女性のことを言う。さらに、子供は、友達のお母さんのことを「おばさん」と言う(つまり、自分の母親の年代の女性で母親以外のひとを「おばさん」と言うわけである)。最後の意味においては、現在のワタクシからすると、年輩どころの話ではない。娘さんである(♪むっすめっさん、よーくきーーけよ。イージマさんにはほーおれーえろーおよー)。娘さんと言えば、最近、10代20代の「娘さん」と話したことと言えば、サイゼリヤの客席係さんとの注文時のやりとりくらい。不思議なのは、赤ワインのデカンタを頼むと、必ず「グラスはいくつお持ちしましょうか?」と聞かれること。一つに決まってるのに。もしかして、私には見えない背後霊が彼女に見えているのだろうか。そう言えば、人に「一戸建て」とささやく背後霊が登場するCMがある。あんなのを見せられたらこっちまで一戸建てが欲しくなっちゃうじゃん、て、それがCMの狙いであった。そう言えば、最近、娘さんとホントの意味での会話をする機会があるはずだった。妹の娘、つまり私の姪である。最後に会ったのは10歳くらいのとき。今はもう20代である。今回の母のことで会えるかと思ったが、とうとう会わず仕舞い。なぜか妹は娘を私に会わせない。邪悪な性質がうつるのを恐れているのだろうか。もう会うことはないだろう。本当の意味で天涯孤独なワタクシである(昨夜のおじさんもそう言ってたなぁ。あれ?一歳上の奥様はどうされたんだろう)。ということは、ワタクシを婿にした場合、うるさい姑も、小うるさい小姑もいないということだ。これは、一戸建てに勝るとも劣らない優良物件である。ただし、猫が二匹ついてくるけれども。

♪Ich liebe dich so wie du mich(Beethoven)

2021-10-26 21:40:12 | 音楽


私は一途である。ベートーヴェンのことはもう半世紀以上大好きである。だが、そんな一途な私でも、近所の中華屋に入ってレバニラ炒めを食べるミッションは撤回せざるを得ない。だいたい、中華屋に行けば当然レバニラ炒めがあると思ったら大間違い。近所の中華屋でレバニラ炒めを出してない。紹興酒を出す店なんざ皆無である。だから、このミッションは今日で終わらざるを得ないのだが、今日、入った店は、例によってレバニラ炒めはなく、肉レバ炒めはあるというのでそれと瓶ビール(こういう店は瓶ビールである)を頼んだら、隣のおじさん(私よりお兄さん風だったから「おじさん」と言ったが、最近うかうかしてると、おじさんだと思った人がずっと年下だったりする)が話しかけてきて、なかなか興味深い話だったので相づちを打っていたら、おじさんに気に入られたようで、私のためにビールを一本おごると言い出す。だが、私は、夜はワインで終わりたい、隣のサイゼリヤでワインを飲むつもりだったから丁重にご辞退申し上げて退散した。しかし、面白い話であった。すなわち。おじさんは長崎出身である。就職のための夜行列車で東京に向かう途中、24時間かかる列車旅の間に、同じ会社に採用された3人のうち、長い列車旅の間にいろいろ考えたのだろう、大阪で一人降り、名古屋で一人降りで最終的におじさん独りになったそうだ。で、おじさんが結婚した相手は就職のために岩手から出てきた一歳年上の姐さん女房。おじさんはお尻にしかれて幸せそうである。ところで、おじさん(だったか奥様だったか)のお姉様は後発的に全盲になられた。で、盲学校で同じく全盲の方と結婚され、お子さんが4人。日光にお住まいで観光客のマッサージのお仕事の依頼が多く、なかなかご繁盛のご様子である。そして、今日、真子さま改め真子さんが結婚したことについては、「いろいろあるかも知れないががんばってほしい」と仰る。ホントにいいおじさんであった。そのように、真にお話を面白いと思った私の真意が伝わって、おじさんは私にビールをご馳走しようと思ったのだろう。さて、その後、飲む場所をサイゼイヤに移した後の中心テーマは、世界中の波止場に男がいる某某美女のこと。こないだのSの会のアフター会でも某某美女はもてもて(その場にはいなかったが)。なんと、N先生とN美男の争いに、まだ某某美女を一度も見てないK美男まで参戦した。これは不思議なことでない。実物を拝む前、肖像画でイチコロになる例は多々ある。千夜一夜物語にもあるし、なにより、音楽好きにはなじみの「魔笛」のタミーノがそうである。これって、昔で言えば、お見合い写真でコロッといくのと同じだろうか。人のことはいい。私はなんにもしゃべらないつまらない男である(ブログは書くけど。会ったらびっくりするくらいしゃべらないよ)。こんな私でいい人、募集してます。とにかく私はしゃべりません。しゃべらない男でよければ是非。私はあなたを生涯愛します♥

私のブログは世俗曲(シュッツ~ジョン・ケージ~古今亭志ん生)

2021-10-26 06:58:24 | 音楽
シュッツの「Geistliche-chormusik」(宗教的合唱曲集)を歌っていると、シュッツって謹厳だなー、故皆川達夫先生が、シュッツのレコードに針を降ろすときその謹厳な世界に触れることを思って躊躇するって分かるなー(ホントは分かってない)、と思うが、この謹厳な世界はシュッツが30年戦争を経験した後の晩年の境地である。若い頃のシュッツは、例えば、第1回のイタリア留学(バッハは一度もドイツから出なかったのに、100年前のシュッツは二度もイタリアに留学をしている)の直後には世俗曲集を書いている(これが作品番号1)。「世俗曲」というのは、宗教的色彩のない、つまり愛だの恋だのと言ってる歌(だから、私のブログは世俗曲である)。シュッツも、愛だの恋だのを言ってたんだなー。いや、宗教曲だって、若い頃に書いたダヴィデ詩編曲集などは、それはそれは派手でかっこいい(Sの会で是非やってみたいが、声部が多いので、もう少しメンバーがいる。声部が多いところは、イタリアのガブリエリの影響だろうか。この曲集をとりあげる合唱団をほとんど聞かないのは声部の多さがネックになっているのかもしれない)。ところで、昨夜、俳優の堤真一さんちのファミリーヒストリーを放送していた。堤さんのお父様は、それこそ謹厳実直な方で(宗教的合唱曲集のような)、ほとんどお話をされなかったそうだ。だったら、ご結婚はお見合いだろうと思いきや、通っていた食堂に手伝いをしに来ていた女性を見初められ、その方が堤さんのお母様になられたという。その食堂でも、端の方で無口でたたずんでいらして、一体いつ女性を口説いたのかとみんなが不思議がったところであるが、そうか、普段無口な人が、ぽつりと発する一言が重いのだな。それが女性の胸にぐっと来るのだな。私のように、美女がダメンズが好きと聞くと間髪入れずに「ボク、ダメンズ!」とアピールするような人間は一言一言が軽いからダメ。だから私は今独りなのだ。原因が判明してしごく満足である(一つブログが書けて、その点でも満足である)。ところで、謹厳実直な堤さんのお父様が女性をくどく例などをみると、宗教曲=謹厳実直、世俗曲=明るくおしゃべりという図式が必ずしも正しくないことが分かる。謹厳実直な世俗曲もある、ということである。そうそう、寡黙な歌だってありうる。寡黙どころか、ジョン・ケージの「4分33秒」は、演奏者が演奏時間の4分33秒中、舞台で何もせず、何の音も発しない曲(?)である。だったら私にもできそう!と思うのだが、この曲の演奏態度として求められるものは何なのだろう。客席に向かってあかんべーなどをしたらやはり怒られるのだろうか。うーんと疲れていたら演奏者が寝てしまいそう。落語の古今亭志ん生(大河ドラマの「いだてん」で北野武が演じていた)は、大酒のせいで高座で寝たことがあるそうだ。

良いダメンズ、悪いダメンズ(地上の中華)

2021-10-25 09:49:09 | 音楽
私は、自分自身には誇れるものはないが、お仲間の多能多芸ぶりには目を見張る。皆さん、「能ある鷹は爪を隠す」で自分では仰らないが、隠された爪を発見することこそ「わが喜び」である。昨日も、K田さん(男性)が中国語の達人であることが判明した。Sの会の反省会で入った大久保の某中華屋さんの中国人の店主がお墨付きを与えたほどである。「大久保の中華屋」と聞くと、某某美女などは、あー、あの地下の店ね、と思うだろうが違う店。駅からちょっと離れた「地上の」店だ。因みに、昨日、Sの会の前は某男声合唱団の本番で、私はフォーレのレクイエムのカウンターテナーのパート等を歌ったのだが、同曲のソプラノ・ソロを歌うためにプロのソプラノの方がいらしてて、で、アンコールは中島みゆきの「地上の星」(因んだ点はここ)。混声の楽譜だったので、ソプラノはそのプロの方が歌い、アルトは私が担当した。この2人が舞台前面に出て、まるでソリストのよう。青年だった頃の私なら、体が緊張で硬直し、斜めに傾いたところであるが、今回、後から送られた動画を見たら堂々としたものである。やはり前頭葉が退化しているのは事実であった。それにしても、中島みゆきはよいですね。この男声合唱団にいついたのは、アフターの男子会(年上のお兄様方の人生経験談を聴ける)が楽しいのと、中島みゆきの歌詞がいいな、と思ったことが理由である。話を戻す(誇れるもののない私が一つだけ自慢できることは、些細なネタをこねくり回して、一定の分量の文書に誇大できるところである。この点、単純なテーマを展開して大交響曲を生み出すベートーヴェンと同じである(同じじゃない))。その「地上の中華」は、ここはめっけもの。9年物の紹興酒のボトルが1600円!流石9年物だ。味はまろやか。何本もお替わりをした。某某美女とだったら10本はお替わりをしたろう。某某美女さん、今度、このあたりでアフター会をするときはここにしましょうね!さて、そのSの会である。すごい。初めて合わせてぴたっと合う。ポリフォニーだから、各パートがバラバラに入って進行するが、締めは一緒。その一緒になるべき箇所でちゃんと一緒になるのである。これは大変な快感である。潜在能力も含めて、この会は、シュッツを歌う団体として東京の三本の指に入るのではないか(大きく出た!)。演奏会をやりましょう!しかも、主催と進行が私だから、お気楽そのもの。そう。私の信条は「お気楽」である。さてと。毎月、月例会が終わるとカンタータの楽譜を片付ける(Sの会でも「楽器と歌おう」コーナーでバッハのカンタータを歌ってる)。ヴォーカルスコアの他に、フルスコア、パート譜、パートを作るため作った準備譜等々があふれている。これらを書庫に入れて、心機一転、次のお題にとりかかるのである。ところで、この会の某美女(この方も相当に多芸である)は、ダメンズが好みだと言うから、これを千載一遇のチャンスと捉えたワタクシは早速「ボク、ダメンズ!」と売り込みを図った。しかし、某美女に言わせると、ダメンズには「良いダメンズ」と「悪いダメンズ」があるそうだ。どうやら私は「悪いダメンズ」らしい。しおしおのぱ(「しおしおのぱ」でググっても何も出てこないから、解説をしておく。大昔、「怪獣ブースカ」という子供向け番組があった。人間と同じくらいの大きさのブースカががっかりしたときに発する言葉が「しおしおのぱ」である)。因みに、今、世間では、「悪い円安」が進行中である。

「後宮からの誘拐」と「アルジェのイタリア女」

2021-10-24 06:59:21 | 音楽
今年買い換えたものと言えば、魔法瓶(今どきなんて言うんだっけ。ポットだ)もそう。新しいやつは心棒がなくてより便利。だが、3日に一度くらいへりが茶色く汚れる。なんで、こんなところが汚れるんだろう。もしかして、Gが侵入しているのだろうか、と真剣に考えた。が、ネットで「水道水の不純物で汚れる」と言っているのを発見。そう言えば、汚れる部分というのは、余ったお湯を翌日やかんに移すときのお湯の通り道だった。そこで、やかんに移すたびにそこをちり紙(今どきなんて言うんだっけ。ティッシュだ)で拭いてみた。汚れが出なくなった。ってことは、水道水の不純物が原因だった?さて。魔法瓶とか言うと、千一夜物語を読んでる者としては、こすると魔神が出てきそう。イスラムの世界の物語である。イスラムと言えばモーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」。ところで、最近、久しぶりにロッシーニのオペラ「アルジェのイタリア女」を視聴したら、なんで今まで気づかなかったんだろう、と思うくらい両者の粗筋が似ている。ともに、イスラムの太守(地方の統制官。戦後の日本のマッカーサーみたいなもの?マッカーサーは日本で大人気だったんだって。ついこの前までは鬼畜米英って言ってたのにね)に求愛されたヒロイン(ヨーロッパ人)が本来の恋人と一緒に太守のもとから逃げる話。粗筋だけではない。今回「アルジェ」を聞いてたら、(移動ドで)♪ド、ド、ドー、シドレドシラソーってメロディーを合唱が歌ってる。これって、「後宮」のラストで合唱が歌う(移動ドで)♪ドー、ドー、ドー、レドシラソーとそっくりじゃん。ホントになんで気づかなかっただろう。多分、私が勝手に「後宮」の舞台をトルコだと思っていて、アルジェリアとは離れてるんで、同じイメージがわかなかったんだろう。だが、改めてみてみると、「後宮」の舞台は「地中海沿岸のとある国」。あらま。そしたらアルジェリアの可能性だってあるわけだ(北アフリカは、一時、イスラム勢力の支配下にあった)。ますますそっくり。すると、疑問は上記のメロディー。ロッシーニがモーツァルトをぱくったか、あるいはトルコ(トルコのことばかり言ってるが、モーツァルト達と近い時代に音楽の都ウィーンを包囲したイスラム勢力はトルコなので)の音楽に基となるものがあって、それを両者がぱくったか、ってなあたりが考えられる。因みに、「後宮」は、モーツァルトの生前、彼のオペラの中で一番ヒットした作品である。それから、「アルジェ」の第1幕の幕切れの重唱はそれはそれはそれは楽しい。だいたい、喜劇のオペラは2幕立てで、第1幕の最後にこういう聞かせどころがくる。同じロッシーニの「ランスへの旅」もしかり、モーツァルトの「コシ」もしかりである。

キス千回を年金方式で

2021-10-23 14:33:20 | 日記


クイズ。この写真に写ってる猫は何匹か?難問である。え?褒美はキス千回だろうって?そうは問屋は降ろさない。熱き接吻は愛の力を知る者のみが受ける資格を有する。君は愛の力を信じるかね?え?愛だの恋だの言ってる暇はない、そんな褒美などいらない?そんなに早く諦めるものでもない。愛と言ってもいろいろある。君だって、親への愛、または子供への愛はあるんだろう?え?ボケてわがままばっかり言う親だとか、不良で悪さばっかりする子供なんかに注ぐ愛はない?いや、よく考えてみたまえ。猫はどうだ、猫!ほうらみたまえ、猫に対する愛は否定できないのだね。よし、分かった。大変だが、特別にキス千回をくれてやろう。なに遠慮することはない。いっぺんにするのが大変だったら、年金方式もある。毎年、数回に分けてするのだ。しかも、支給年齢を後らせればおまけがついて毎回のキス数が増える。百年安心の年金プランである(このような、「おためごかし」で押し売りをする手口は、私が若い頃経験したものである。もちろん、売る方ではなく、押しつけられる側として、である)。因みに、この写真は、最近買ったカシオのコンデジで撮ったもの。山歩きの際に景色をこれで撮ろうと思って。スマホだとズームが不十分だし、これまでウチにあったコンデジだと携帯するのに大きすぎたり焦点が合いづらかったりで使い勝手が悪かった。そこで、以前使った中で一番気に入っていたカシオ(水に濡れておシャカになった)を再び、と思ったが、カシオはデジカメ事業から撤退してるんで、中古品とあいなったわけ。焦点が合うまでの速さは流石である。きょうび、写真はスマホで撮るのが当たり前。スマホに飽き足らない人は高級なデジカメを買うところ、あえて中古のコンデジを買うあたり、私が昭和の人であることの証左である(生きた期間は平成の方が長いが、生まれて育ったのは昭和である)。そうそう、もう一つすぐれものを買った。今日来たばかりだが、ヤマハの譜面台である。外で楽器を演奏するときに使うのだが、これまでのヤツはぐらぐらして不安定だったので、思い切って、最安値のものではなく、評判の良いヤマハの譜面台(の中では安い方の普及品)を買ったらこれが大当たり。安定してまったく揺れないにもかかわらず重さはこれまでのヤツの半分である。もっと早く買えばよかった。ということで(脈絡はないが)、新しい、中古のコンデジ(新しいんだか古いんだか分からない表現。画像ファイルにふられた番号が1000番台なところが中古品であることを表している)で撮った雲と月と近所の畑の写真をアップしよう。ここで紹介しないと、する機会がなさそうなんで。






片面的恋愛関係

2021-10-22 19:39:13 | 音楽
今年は、あまたの家具、家電、本を処分した。それに対して買ったものは少ない。輸出超過である。その少ないものの中で主なものを挙げると、フルート、オーボエ、チェロ、マーブル加工のミルクパン、カシオのコンデジ(コンパクト・デジカメ)の中古……こんなところである。この中で一番活躍しているのはミルクパン。楽器を押さえて堂々の一位である。なにせ、毎朝、ラーメンを茹でている。食物繊維を摂るために朝食をオートミールにした時期もあったが、今はラーメンの具にワカメ、昆布、ひじき、キクラゲをたんまり入れてるから、水溶性食物繊維は十分である(因みに、この四つの具の中に一つだけ種類の違うものがあります。当てた方にはご褒美として、コロナ禍から明けることを条件にキスを1000回差し上げます!)。因みに、上記3種の楽器とも、文字通りろくじゅーの手習いで始めたものである。いや、先生についてないから「手習い」ではないか。だが、いずれの楽器もこれまであまたの名演奏を試聴している。その記憶こそが先生である。例えば、オーボエの音は、歴代のベルリン・フィルの名手の音をずっと聴いてきた。その音のイメージが頭の中にあって、少しでもそれに近づけようという意識が働いていると思う。すると私のオーボエの先生は、コッホやシェレンベルガーということになる。チェロもそう。ヴァイオリンに比べると左手の指をうんと広げなければならない。ヴァイオリンなら薬指でひょいと押さえていたところがチェロだと小指をうーんと伸ばして押さえるのだが、そう言えば、オーケストラの演奏をテレビで見ていると、チェロの方々の左手の小指は頻繁に「にょきっ」と伸びている。そうか、あの「にょきっ」の感じだ、と思って真似をしたらちょっと上手くできた気がした。すると私のチェロの先生は、あまたのオケのチェロの方々ということになる。問題なのは、私は彼らを先生として敬っているが、先生方の方は、私を弟子にした覚えなどないことである。これを「片面的師弟関係」という。こういう師弟関係が成り立つかどうかについては議論のあるところである。「マイスタージンガー」で、ヴァルター・フォン・シュトルツィングは、勝手にヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデを自分の師匠だと言い張ったが、これを認めたのはハンス・ザックスだけ。ほかのマイスターたちは、「大昔に死んだ人など先生にはなり得ない」と言って、その師弟関係を否定した。因みに、刑法では「片面的共同正犯」は成立しないとされている。では、「片面的恋愛関係」はどうだろう。いやいやこれは危ない。いわゆる「片思い」ってやつである。片思いなのに恋愛関係が成立してると妄想している輩ほど始末におけないものはない。因みに、美女から私に対する「片面的恋愛関係」というものはあり得ない。なぜなら、いかなる美女からのお申し出にも私は即座に応える用意ができているから、それはたちどころに「両面的恋愛関係」(すなわち両思い)になるからである。

気は持ちよう。前頭葉が退化して私は幸せ!

2021-10-21 18:50:53 | 音楽
グルベローヴァだけではない。歌手の方達は生身の声帯が楽器だからメンテナンスにうんと気を遣って大変そう。フィッシャー・ディースカウはホテルのエアコンを止めたそうだ。だったら、美女の歌手といい仲になってホテルに行っても、ばい菌がつくからと言ってキスはさせてくれないだろうし、エアコンがオフだから汗まみれである。そこへ行くと楽器はいい……だろうか。楽器、特にリード楽器奏者にも悩みはある。例えば、クラリネットの場合、1ケース10本入りのリードを買って使えるのはせいぜい一本。しかも、選んだはいいが、常に「このリードで良かったんだろうか」という迷いがつきまとう。私は、高校時代、吹奏楽部でクラリネットを吹いていて、いつもそういう悩みをかかえていたが、大学で室内合唱団に入ったのでその悩みから解放された。だが、社会人になって入った合唱団で、ミサの先唱とかのちっちゃいソロをやらされることになると、今度は喉の状態にめっちゃ神経質になった。演奏会の前などは飲みに行っても回りと口を聞かないくらい(だったら行かなきゃいいのに)。そんな風に神経質になってると、決まって本番で風邪をひく。だから、歌もクラリネットもそれぞれの悩みがあってどっちもどっち。だが、しいて言うなら歌の方が大変かな。だって、リードは、しっかり選別さえすればしばらくは安心だが、風邪は注意してたってかかる。今のコロナだって、どこにも出なくて家の中に閉じこもっててもかかる人がいるという。しかし、呑気な人達もいる。例えば、オペレッタのスターだったメラニー・ホリデーは、本番がはけるといつも取り巻きと打ち上げに行って盛り上がったそうだし(彼女が舞台で全裸になったときは(後ろ姿だけど)、ウィーン中の若者がフォルクス・オーパーに押し寄せたそうだ)、オットー・エーデルマンは、ある日、非番でウィスキー、ワイン、シャンパンを浴びるほど飲んで、いい気分になったんでちょっと横になろうと思ったらメトの支配人から電話がかかってきた。その夜歌うはずだった歌手がキャンセルしたんで代わりにハンス・ザックス(!)を歌ってくれというのだ。夕方6時のことである(幕が開く直前)。彼は、濃いコーヒーを飲んで、地下鉄に飛び乗った。結果は上々だったそうである。歌手だけではない。あるクラリネット担当のチンドン屋さんのリードは端が欠けていたそうだ。そう言えば、ワタクシにも覚えがある。高校時代、あんなにリードに神経質だったくせに、大学で室内合唱団に入って余興でクラリネットを吹くようになってからは、4年間同じリードで通したものだ。でも、回りは「いい音だねー」とほめてくれた。歌だって、50を過ぎてからは、合唱の練習の前の日にがんがん飲んで翌朝声ががらがらでも、夜までにはなんとかなるさ、と思えば大概なんとかなった。「気はもちよう」とはよく言ったものだ。単にずーずーしくなっただけ、という気がしないでもないが。歳を重ねると(「歳をとると」とは言わない)、前頭葉が退化して、あれこれ気にならなくなるという。つまらない駄洒落を連発するのもそのせいだそうだ。でも、私は幸せである。

グルベローヴァが決心させた早期退職

2021-10-20 09:19:19 | 音楽
グルベローヴァの最後のオペラ公演は2019年。引退が明らかになったのは2020年、去年である。ってことは、歌手としてのキャリアは半世紀。しかも、その大部分はコロラトゥーラ・ソプラノとしてのキャリアである。以前からグルベローヴァは奇跡的な存在だったが、奇跡もここまでくると別次元。千一夜物語に魔法使いの手助けで180歳で子をなした王様が出てくるが、そういう次元の話である。しかも、こちらは実話である。だが、それだけ、長く、摂生に努めた(苦労をした)ということ。われわれファンはそうした犠牲のうえで愉しませてもらってたわけだ。ましてや彼女は完璧主義者。あるとき、日本でプログラムにツェルビネッタのアリアを入れたソロ・コンサートが組まれて、私は東京公演のチケットを全部買ってあったのだが、一晩だけキャンセルになった。サントリーホールに行くと入り口でチケットの払戻しをしている。その横で主催者が立ち話をしていて「絶対、いやだと言うんだよ」と言ってるのが聞こえてきた。私は、勝手に「グルベローヴァが風邪をひいたんだけど歌おうと思えば歌える。でも、彼女は完全主義者だから完全じゃないと歌わない。だから、絶対いやだと言うんだよ」と解釈した。グルベローヴァ自身も、本番前はいつもナーバスになって娘に迷惑をかけてきた、と言っていた(ドキュメンタリーで)。そう、グルベローヴァにはお嬢さんがいる。祖国スロバキア(当時は、チェコ=スロヴァキア)から西側に亡命するときお腹の中にいた子である。グルベローヴァの人生はその華やかなキャリアに反して波瀾万丈だった。亡命もそのうちの一つ。それにしても、引退して、これからは摂生しなくてもいい、飲んで歌って(あ、グルベローヴァは十分歌ってきたか)、恋をして……これも、引退前から随分なさってきたようだ、だったら、飲んで飲んで飲んで?私と一緒にしてはいけなかった、とにかく、気楽で楽しい人生をと思っていた(かもしれない)矢先のお迎え。これは、アリじゃなくてキリギリスになれ、という天啓だろうか。5食200円のラーメンと明星の中華三昧があったら先に中華三昧を食べろという奨めだろうか。私は、以前は中華三昧を最後まで残しておくタイプだった。サイゼリヤでハンバーグステーキを注文すると、付け合わせのジャガイモ等々をきれいに平らげ外堀を埋めてから裸になった大阪城(=ハンバーグ)に攻め込むタイプだった。だが、この1,2年のことだろうか、美味しいモノを先に食べるタイプに変わってきた(何がそうさせたんだろう?)。そしてこの度のグルベローヴァの訃報である。これで決まった。私はキリギリスになる。仕事をやめて(もうほとんどやめてるが)中華三昧を食べる。因みに、グルベローヴァの故郷はブラティスラヴァ(スロバキアの首都)だが、お父さんはグルーバーさんというドイツ人(グルーバー(グルベル)の娘だからグルベロヴァー(グルベローヴァ))で、お母さんはハンガリー系である。あっ、仕事をやめたら(だからもうやめてるって)ブラティスラヴァに行くのもいいなぁ。そう言えば、以前同地に行った人が、「街中が歌であふれていた。みんながグルベローヴァだった」と言ってたっけ。きっとグルベローヴァの声はブラティスラヴァの声なんだ、と思ったこともあったが、グルベローヴァのご両親は上記のとおりスロバキアの人ではないからDNAからは説明がつかない。環境が声を作るってこともあるのだろうか。

花の命(グルベローヴァを偲ぶ)

2021-10-19 17:07:37 | 音楽


グルベローヴァを初めて聴いたのはFM放送で、ホフマン物語のオランピアのアリアだった。コロラトゥーラとすればえらく深みのある声で始まったこと、聴かせどころの最高音(普通は出すのがやっと)をピアニッシモであてた後、ぶあーっとクレッションドしたのを聴き、なにこの人、最高音で遊んでる!と思った。完全にノックアウトを喰らったのは、その後、ショルティ指揮のレコードで聴いた「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタ。ジェットコースターのように軽々と上り降りする声の魔術に空いた口がふさがらなかった。この歌手を生で聴きたい。だが、グルベローヴァは既に1980年にウィーン国立歌劇場と来日し、ベーム指揮でツェルビネッタを歌っていた。私はその年は大学4年生で就職活動の真っ只中。オペラに行く余裕はなかった(が、ベーム指揮のウィーン・フィルの特別演奏会にはちゃっかり行き、このコンビの日本での最後の演奏を満喫した。ベートーヴェンの2番と7番だった)。次にグルベローヴァが来日したのは1987年。単身でのコンサートで、このときのチケットはしっかりゲット。だが、心配なニュースが入ってくる。グルベローヴァの調子が悪いと言うのだ。オペラファンからの信頼が厚かった評論家の故・黒田恭一さんですら、グルベローヴァが夜の女王を歌っているビデオの解説で、「花の命は短い。だが、このビデオでは絶頂期のグルベローヴァを視聴することができる」などと書いていた。いかにも、絶頂期が過ぎてしまったかのような言い方である。たしかに、コロラトゥーラの盛りの期間は短い。いっとき、エヴァ・リントという可憐なオーストリアのコロラトゥーラ歌手がフューチャーされたが、あっという間にその名前を聞かなくなった。ロシアのエレナ・ブリリョーワもそう。だから、黒田恭一さんでなくても、グルベローヴァの「絶頂期」がその後数十年続くなどと誰が予想したろうか。そんなことだったから、コンサートのチケットを手にしたはいいが、衰えてたらどうしよう、と心配が先に立った。そしていよいよコンサートの当日。普通、オペラ・アリア・コンサートは、オケだけの序曲を最初にもってくるのに、なんと1曲目から「セビリャの理髪師」のロジーナのアリアを持ってきた。♪(移動ド)ソラッシドー……とオケの前奏。そして歌が始まる。ここでも、出だしは低い音。相変わらず深い音色だ。そして、数秒後。ジェットコースターはいきなりてっぺんまで上り詰めた。なんたる衝撃!それから数秒の間で登ったり下ったりして序奏が終わったとき、「千一夜物語」の作者なら聴衆全員が失神したと書いただろう(この物語の登場人物はしょっちゅう失神する)。実際、失神はしなかったが手は汗でぐっちょぐちょ。「手に汗握る」とはこのことだ。いや、衰えてるどころではない。レコードよりすごい。こんなことがあるだろうか。あるのである。この日の歌はどれもすごかったが、椿姫も圧巻。「ああ、そはかの人か」と「花から花へ」の間のパッセージ(聴かせどころ)にまぶした笑い声も、最後にうーんと伸ばす高いEsもホール一杯に響かせた。これでもコロラトゥーラ?と思わせる声量だった。普通はオケにまかせて休む小節も楽譜通り全部歌い切った。私のお遍路ならぬグルベローヴァ詣りが始まったのはこのときからである。その後、何度もグルベローヴァは来日してくれたから、ツェルビネッタも、ルチアも、ノルマも、その他いろんな役を生で聴けたし、今はない六本木のWAVEでのサイン会で「本物」を目の前にすることもできた(私がサイン会なるものに出かけていったのは、後にも先にもグルベローヴァだけである)。いったん、日本でさよならコンサートをした後もまた来てくれて、「トゥーランドット」のリューのアリアを歌ってびっくりさせ(グルベローヴァのプッチーニは初めて)、その翌年には、な、なんと「タンホイザー」のエリーザベトのアリアを歌ってくれた(まさかグルベローヴァがヴァーグナーを歌うとは)。もしかすると、私が生の手の感触を一番味わった女性はグルベローヴァかもしれない。と言うのも、あるとき、舞台袖に残って拍手をしてたら手を伸ばして握手をしてくれたことに味をしめた私(を含めた大勢のファン)は、その後の公演でも終演後舞台袖に張り付いて、握手をしてくれるまで帰らない「ストーカー」に化したからである。そんな具合だったから、私の音楽愛好歴はずっとグルベローヴァと共にあったと言って過言ではない。そのグルベローヴァが逝った。74歳とは若すぎる(たしか、クライバーの享年と同じである。ついでに言うと、私の父の享年とも同じである)。花の命は長いようなやはり短かった。今宵、グルベローヴァを偲んでツェルビネッタを聴くこととしよう。