拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

夢の中でも進歩がある

2020-01-31 09:22:30 | 日記
中学のときに学校で受けた性格診断の結果は「あとさき考えずになんでも始めるが後から後悔するタイプ」だった。大当たり!今でも、あとさき考えないで書いたブログをアップして後から後悔している。三つ子の魂百まで。それでも最近はしらふで書いてるからさほどのダメージはない。いつぞや酔っ払って「音楽なんてやめてやるー」と書いたら瞬時に「イイネ」がダダダー、「どうした?」と聞かれたので「痴情のもつれ」と書いたらさらに「イイネ」がドドドー。なんだい、私が痴情のもつれで音楽をやめるのがそんなに面白いのかい。さすがにこの記事は削除した。イイネをおしてくれた方々には申し訳ないが、音楽をやめる気はないし、「痴情のもつれ」は妄想だし。それでも「あとさき考えない」ことが功を奏することもある。私の主宰の通唱会はすべてあとさきを考えないで始めたものである。で、やってよかったと思うもんね。さて、おとといの引越の夢の話に戻ろう。実は2番目の夢にとんだ闖入者が現れた。荷物の整理をしているとブザーがなったので玄関に出てみると「妙齢の未婚の女性」が立っている。このアパートの住人だという。ただ押してみたかったのでブザーを押したという。「よろしくね」と言って部屋に戻った。なんだ、清純路線で行くとか言って相変わらずの煩悩ぶりかって?違う、今回は。彼女が夢に出てきたのは、最近ヒトラーの愛人だったゲリ・ラウバルやエヴァ・ブラウンのことを読んだり見たりしたその影響である。いずれもヒトラーとの歳の差は20歳くらいであった。因みに、彼女らのことを読んだのは水木しげるの伝記漫画である。水木しげるは妖怪もののほか、伝記物も面白い。以前、ベートーヴェンの伝記漫画も読んで面白かったので今回ポチった。読んだら感想をアップしよう。今回は煩悩とは無関係だったが、もちろん煩悩丸出しの夢も見る。朝の某番組に出てくる某女性タレントさんと同衾した夢はまさに煩悩が見させた夢である(私はこの方のファンである)。ところが、やり方を忘れてしまったせいか、同衾したはいいがちっとも進展がない。もじもじしているうちに朝になって目が覚めてしまった。それでも、同じような夢を(間を置きながら)繰り返し見るうちに、次第に到達点が伸びていった。夢とは言え場数をふむと進歩があるようだ。ということで、今日の結論、「あとさき考えないのもよいことがある」「夢の中でも進歩がある」。

三度目の募集は範囲を拡大

2020-01-30 09:35:25 | 日記
八王子の奥地で一緒に暮らすひとーっと言ってかけた募集に応じた人は皆様のご期待通りゼロ。私だって99.99%いないとは思っていたが、0.01%(=万が一)の確率でそういう人助けの気概に満ちた人が現れたらなんてお返事をしようと今から思うとまったく無益な心配をしたのが口惜しい。いや、実は、このことはまだ私的には終わっていない。昨夜三つの夢を見たが、テーマはいずれも引越であった。明らかに八王子騒動がきっかけである。その内容はこう。(黒澤明風に)「こういう夢を見た」(その1)。引越先は狭いワンルームマンション。既に荷物であふれている。引越屋の兄ちゃんが「こんなに荷物が多いんだったら次はもうこの値段ではできません」と言っている(後から考えたら、あの部屋は私が離婚後にころがりこんだ部屋である)。「こういう夢をみた」(その2)。引越先は安普請のアパート。荷物の運び込みが終わって引越屋に私が領収証を書いているのだが、何度書いても引越屋の兄ちゃんの名前を間違ってしまって前に進まない(後から考えたら、領収書を書くべきなのは私ではなく引越屋の方だった)。「こういう夢をみた」(その3)。これだけは引越先ではなく引越元の話。友達がたくさん来て荷造りを手伝ってくれている。ところがそのうちの一人が荷造りの終わった荷物を勝手に自分の倉庫に運び入れている。私は窃盗だ、と怒った……が、どうせいらない物ばかり、逆に整理できてよかったと思い、手伝ってくれたみんなに「ありがとう、フレンチを食べにいこ」と呼びかけたところで目が覚めた。最後にフレンチが出てきたところは今度みんなとフレンチに行く予定が早速夢に入り込んだものである。こうして振り返ってみると、八王子はすでに捨象され、テーマは荷物になっている。物の多さが私の深層心理に重くのしかかっていることが分かる。とりあえず引越をすればそれがきっかけになって荷物が片付くのではないかと常日頃思っていることが夢に結実したのかもしれない。いったん話が変わるが、今朝の「おしん」で、いきなりおしんの物わかりのよくなっているのが甚だ不自然であったが、それより、当時の若者は「スキーをするために働いて」いたという話にへーっと思った。私はスキーは学生のとき合唱団の合宿でしただけ。だが、結構すぐに滑れてとても楽しかった。そうだ!募集第三弾は「一緒にスキーに行く人」にしよう……いや、応募ゼロは目に見えている。募集条件の変更より募集範囲を広げた方がよいかもしれない。「亭主から逃げたい人妻」とか。それだったら、八王子の奥地は絶好である……なんだか公序良俗に反するようなことを書いた。勢いで書いたが2,3時間後に抹消するかもしれない(誰もイイネを押さなかった場合のことである。イイネを押してくれた文章の抹消は押してくれた方に失礼である)。実は、そのように感じて初稿を差し替えることはよくある。「幻の初稿」は結構刺激的だ。因みに公序良俗に反する法律行為は無効であるが(民法90条)、公序良俗に反するブログは無効にならない。つうか、ブログのような事実行為の無効は意味をなさない。いやまて、ブログの無効は無意味だが、募集は法律行為だからその無効には意味がある。ということは、さっきの募集のうち、人妻に対する部分は無効である。だったら抹消する必要もないか。いや、そういう問題ではなく、厚顔無恥な自分をさらけ出すことについての羞恥心の問題である。

クラリネットに葉っぱが生えたら私は救われる!?

2020-01-29 12:37:09 | 音楽
先週、「スカーレット」を見て予想した今週の展開は、キミコの亭主と弟子のミツがキスをする(不倫)。それが原因でキミコと亭主は別れる。実際、予告編で息子はどっちが預かるみたいな話があったから。と、ところが、未遂はないだろうと思っていたキスはまさかの未遂(唇が触れる直前で亭主が目を覚ました)。ミツは、愛を遂げることができないことを悟り、居続ければ辛いだけだから二人のもとを去る。口では違う強がりとかを言って。純愛、泣けますのー。不倫を期待していた我が身が恥ずかしい。私も、ヴェーヌスベルク(説明は後で)の乱痴気路線は変更、以後、清純路線を走ります(と言っても、妄想の中の話ですけど)。これに対して再放送している「おしん」はどうだ。かつて姑にいびられて日本中から同情されたおしんが立場逆転、田中美佐子演じる嫁に対する当たりの強いこと強いこと(「嫁いびり」とは言いませんけど)。小姑(スーちゃん演じる初子)に今まで通り家事をやってもらってあたしは店を、という嫁に対して「初ちゃんはお手伝いじゃないんだよ」って言ってたが、嫁さんだってお手伝いじゃないんだろうに。それに、店の大事なときに嫁に来たんだから働くのが当然と言っているが、そもそも結婚には反対で、それとは別に店を大きくしようと思ったんでしょ。嫁が来なくても人手をまかなえると思ってたんでしょ。話が違う。なんだか胸くそ悪い。因みに、田中美佐子というと、大昔、大学教授だかなんだかの愛人を演じた映画があって、知人にそっくりな立場の女性がいて、○○ちゃんと同じだねー、と共通の友人と噂したことがあった(後注:田中美佐子の(役の上での)相手は大学教授ではなく予備校講師だった。大学教授は○○ちゃんの先生(彼氏)だった)。さて、ヴェーヌスベルクの補足。ヴァーグナーのタンホイザーに出てくるヴェーヌスベルク(山)の地下では、毎晩美の神ヴェーヌスが主宰する通唱会ではなくて酒池肉林の宴が繰り広げられる。騎士タンホイザーは清純な婚約者(エリーザベト)がいながらヴェーヌスの虜となり夜ごと愛欲に耽っていたが、物足りなくなってエリーザベトの元に帰る。ところが、清純路線にも飽き足りなくなって歌合戦の場でヴェーヌスベルク万歳みたいなことを叫んで皆から糾弾される。その後反省してローマに巡礼するが、教皇から、お前の持ってる杖から葉っぱが生えない限り許しは得られないと突き放されヴェーヌスベルクに戻る途中でエリーザベトが死んで、杖から葉っぱが生え、タンホイザーの魂も救われるというお話。あれま、じゃあ、私も清純路線に路線変更して、じきに乱痴気路線に戻って、やっぱ反省して、クラリネットから葉っぱが生えて救われるってこと?(って、所詮妄想の中だけの話ですから)。因みに、グリム童話を読んだときも、杖から葉っぱが生えて神様から許されるって話がありました。それから当初「タンホイザー」は「ヴェーヌスベルク」という題名のはずだったが、「Venusberg」は医学用語で恥ずかしい丘という意味があるのでタイトルが変更されたそうな。

喜劇は終わった

2020-01-29 08:30:11 | 音楽
待てよ、北千住まで戻ったんだったら、午前1時過ぎに北千住始発の各駅の下りがあるから(しょちゅう乗る)、それに乗れたんじゃないけ?うん、北千住に着いたのは12時台だ。楽勝で乗れた。だったらタクシーに乗るこたなかった。タクシー代と駐輪場の割増料金だけ損をした。私とすれば、松戸より先の上りの各駅がなくなっても快速が上野まで行くことがもう奇跡であって、件の北千住発の下り電車のことまで頭が回らなかった(この電車は、大体新宿方面で飲んで帰るときに使う手段であったし)。今回よーく学習した。「松戸より先の上りの各駅がなくなっても快速が上野まで行くこと」「北千住でいつものあの始発電車に乗ればよいこと」。次は大丈夫だ……次?次はもうない。「募集」もしない。La commedia è finita!

大酒の原因は音楽(と……)

2020-01-28 11:52:41 | 音楽
「松戸からタクシーに乗った」と書いたが、どうやら乗ったのは北千住らしい。あの時間、上りで松戸より先がないのは各停で、快速は上野まで行くそうだ。そうすると、そうでなければよいな、絶対そうでないよなと心中必死に否定していたある事実が現実味を帯びてくる。死んだふりをしよう。とにかく記憶をなくすのがいけない。大酒を飲まなければよい。しかし、私が音楽をやるかぎり大酒を飲まないわけにはいかない。風が吹けば桶屋が儲かる式の数奇な因果の流れではあるが、音楽をやらなければ大酒を飲まないという式が成り立つから、最高裁判所が採用している因果関係に関する条件説に立てば、私の大酒の原因は間違いなく音楽である。いや、もう一つあった。私がチョンガーであることだ。この二つがあいまって私に大酒を飲ましている。よし、相手を募集しよう。ちょうど、八王子から八高線で30分くらいの所の一戸建てを格安で買わないかと言ってくれる人がいる。そこを新居にすることを条件として募集をかけよう。応募期間は明朝私が目覚めるまで。メールかメッセンジャーでのお申込み、(ジャパネット風に声をそろえて)お待ちしてます!そう言えば、ついこないだも同様の募集をかけた。あのときは、ザンクト・ペーターに一緒に旅する人がいたらその人に身も心も捧げるというものだった。冗談のようだが実は翌日わくわくしながらメッセンジャーを覗いたものである(で、申込みがゼロだったのでがっかりした)。あのときはザンクト・ペーター、今回は八王子(から30分)だからハードルは下がったはず。なんだか、繰り返すたびに値段の安くなるバーゲン品のようだ。いや待て、万が一申込みがあったとして、場所が場所だから車が必須アイテム。でも私は40年間運転歴のないペーパードライバーだから運転は新婦がすることになる。で、朝、新婦が車で家を出て帰ってこなかったらどうしよう。帰ってきても1週間に一度だったらどうしよう。1か月に一度だったらどうしよう。1年に一度だったらどうしよう。陸の孤島に取り残された私は着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編みつつ大酒を飲む……なんだ、結局大酒を飲むんだったら元も子もないじゃんけ。KMCにも行けなくなるし。やめとこか。でも、一応募集はかけちゃったから待ってはみますけどね。

うぶな私

2020-01-27 11:33:51 | 音楽


木管奏者のお二人である(私が主催する通唱会では欠かせぬオーボエ奏者とクラリネットのパートナーである……って、Y先生のご本職はピアノであるが)。KMCのアフター会でのひとこま。いや、昨日はとっとと帰ろうと思っていたのだが、あまり皆が電車の中で飲み会のことを楽しそうに話すものだから思わずついていってしまった。ワインが美味しい店だというし(私は赤ワインに目がない。私の体を流れる血は赤ワインである)。実際、美味しかったし楽しかった。だから当然の帰結としてたらふく飲んだ。皆が、私のブログを読んで下さってるからだろう、私がちゃんと家に帰れるかどうか心配していたが、朝、ちゃんと布団の中にいたから帰ったらしい。タクシーの領収書があったから、松戸からタクシーに乗ったんだと思う(記憶はまったくないが)。だが、布団の中でズボンを脱いでいた。それでもおパンツをはいていたし、自宅だし、他に誰もいなかったから、おいたはしていないはずである。いや、するはずがない。私はウブである。昨日の練習でも、素晴らしいソプラノ・ソロ(ドイツ・レクイエム)を聴かせて下さったHさんが、アルトラプソディーの合唱の練習のとき、ハモろうとばかりいきなり私の真横に来られたものだから、私はあがってしまって音を間違えた。「うぶ」と言えば、かつて「セカンド・ヴァージン」という言葉が流行ったが、「virgin」という言葉は男性に使ってもよい。ドイツ語では「keusch」である。「パルシファル」(ヴァーグナー)で、クリングゾルがクンドリーに「あんた、keuschだろっ」て罵られて激高する。悪魔も「童貞」と言ってからかわれると怒るらしい。「ワイン」と言えば、私は20代の頃、ワイン屋だった。正確に言うと、某酒類メーカーのワインの輸入部署にいた。昨日、そのメーカーの社長がテレビに出てた。あれま、同期のあいつだ。へーえ、あいつがねー。そうだ、あいつはK大出身だった。私は知らないでこの会社に入ったのだが、この会社はK大閥だった。入社時は私を含めてW大出身者が7名いて最大勢力だったが、5年経って私が辞めるとき、W大出身者は既に半数以上が辞めていた。学閥云々よりも、W大出身者はサラリーマンに向かない輩が多いのかも知れない。何しろ、入学式で名誉教授だかなんだかが「君たちは焼き鳥屋のおやじになる」とたたきこむ校風である。そうそう、最近、こうもり通唱会に備えてクラリネットの練習を始めていて、こうもりのおいしいメロディーがここかしこに登場してとっても楽しい……って、話を写真のお二人に話そう話そうと思っていて忘れてしまった。それとも、話したことを忘れたのだろうか。

人生八起き九転び

2020-01-26 10:14:49 | 日記
昨日の私の妄想によると、もし私が高校で陸上部に入ってたら子供ができて結婚して、高校を中退して板前見習になって、三つ星レストランの有名シェフになるのであった。そして、「高校中退してなかったら今の自分はない」などとブログに書くのであろう。しかし、人生はまだ続く。妄想も続けよう。有名シェフはもてる。その結果、私は泥沼不倫地獄に落ちて、妻に高額の慰謝料を払った末捨てられる。ありうる。私はきわめて腰の軽い人間である(フットワークが軽いともいう。だから、○○通唱会をしようと思ったらすぐやる)。リアル世界で結婚してた間に不倫をしなかったのは誰も言いよってこなかったからである(見る目がない)。いや、功成り名を遂げた人物が晩節を汚すのは世の常。最近では事務次官まで登りつめた人が殺人罪の被告人となった。某薬害事件で糾弾された医学博士は糾弾当時80歳前後。えらーい自分がなんで糾弾されにゃあいかんのだとばかりに記者を恫喝する様は記憶に新しい。盛者必衰。人生七転び八起きと言うが、八起きしたんなら九転びだってするだろう。おしんは一生苦労の連続である(おしんもおしんだ。かつて姑とうまくいかず、来週からは嫁との戦争が始まるらしいが、最初からけんか腰でかかったらうまくいくものもうまくいかない)。そうだ、朝ドラと不倫と言えば、昨日の「スカーレット」で、なんと弟子の若い女がキミコの亭主とキスをしようとしていた(顔が近づいたところでシーンが切り替わったが、慣性の法則に従えばあのままキスをするのが自然である)。その間、なんのナレーションもなく、ただヴァイオリンの不協和音が響いただけ。おろー、来週は不倫で離婚け?にわかに沸き立つわが心!いや、これまでの朝ドラでも何回か不倫があった。「カーネーション」の糸子は妻子ある周防さんと、「青春家族」のヒロインの父は遙クララ演じる芸者と関係を持ったし、「ふたりっこ」のお父ちゃんはオーロラ輝子と出奔した。因みに、私の用語例では、「不倫をする」は配偶者のある者が他人と関係することであり、独身者が配偶者のある者と関係することを「不倫をさせる」と言って区別する。これは、どっちがよくてどっちが悪いということではなく、「会社分割をする」のは自社の事業を他社に譲渡する会社であり、譲渡を受ける会社は「会社分割によって事業を承継する」と表現する会社法と共通の発想である。当初の妄想に戻ろう。私が高校で陸上部に入っていた場合、また別のストーリーがあった。酒浸りでちゃぶ台返しで肝臓をやられて若死にするのである。しかし、これだと転んだままで再起ができない。命あっての物種である。さて、今回のタイトル(八起き九転び)では、「○起き」と「○転び」が「七転び八起き」の逆になったが、全体の字数は同じだから語呂はさほど悪くなってない。古墳の「前方後円墳」も、実はどっちが前でどっちが後ろだかはっきりしてないのだそうだ。だから「前円後方墳」でも間違いではなさそうである。

因果は巡る

2020-01-25 10:01:52 | 音楽
私の音楽活動は多くのお友達に支えられて成り立っているが、なかでもK子先生には私が主催する歌う会のすべてでピアノをお願いしているからK子先生なしに私の活動は考えられない。そのK子先生とお知り合いになったのはA合唱団。A合唱団に入ったきっかけはSさん。Sさんと知り合ったのは大学時代の室内合唱団。室内合唱団に入ったのは、入学してすぐ入った大学オケ(ヴァイオリンで入った)が超ブルジョアで水が合わず2週間でやめたから。その大学に入ったのは別の大学を落ちたから。こう考えると、人生でつまづきと思えたどの瞬間も今かくあるための必然であり、それがなければ、スターウォーズの舞台が「別の銀河系」であるように、まったく別の「今の自分」があったことを思い知る。刑法の因果関係は「あれがなければこれがない」という関係である。まさしく、人生のどの瞬間がなくても今がないわけだから、われわれはそうした因果関係の中で生きているわけだ。さて、もちっと因果を遡ってみよう。志望大学を落ちたのは高校のとき勉強をしなかったから(勉強してても落ちたかもしれないが、まあ、そういうことにしておこう)。吹奏楽部の練習は毎日あったし、私はオケの曲を吹奏楽用に編曲していて、そのため高校のときの私独自の時間割は1時間目から6時間目まで音楽。一番後ろの席でひたすら楽譜を書いていた(今と違って当時は手書きだった)。あるとき、はっと気がつくと、化学のタカナシ先生が私の横に立っている。私は体が凍り付いたが、タカナシ先生は見て見ぬ振りをして通り過ぎていった(石橋山の戦いに敗れて洞窟に隠れていた源頼朝を見逃した梶原景時のごとし)。この生徒は「こういう生徒」と見限っていたのだろう。しかし、吹奏楽部への入団は必然ではなかった。高校入学時、放課後の過ごし方については三つの選択肢があった。一つ目は知ってる先輩のいた吹奏楽部。二つ目は弦楽合奏団。三つ目は陸上部。だが、弦楽合奏団は部活動ではなく同好会だったので物足りない。陸上部は、中学のときこそそこそこ活躍できたが体が大きくならなかったから高校ではダメだろうと思ってパス。ということで吹奏楽部に入ったのだが、入ってそうそうそれまで毎日走ってたのをやめたため体がなまってしょうがない、やっぱ陸上部に入ろう、吹奏楽部は退部しようと思ったまさにその日、可愛い女子が入って来た。退部はどこ吹く風。そして今に至る、である(その女子はじきに退部した)。もしあの子が入ってこなかったら、私は別の銀河系にいた。今頃通唱会でY先生とクラリネットでご一緒することもなかった。それどころか、陸上部に入って、案の定、成績がふるわず途中でやめて、失意の中ぐれて、彼女を作って、子供を産ませて、結婚するはめになって高校を中退したかもしれない(妄想タイムに入ってます)。それからどうなったろう。不本意な結婚をしたもんだから、毎日酒浸りでちゃぶ台返しで若くして肝臓をやられて今頃鬼籍に入っていたかもしれないし、いやいや女房子供を食わせるために板前見習いになってそこで目が出て今をときめく三つ星レストランの有名シェフになっていたかもしれない。パーン(妄想が膨らみすぎて爆発した音)。忘れてはならないのは、今、まだ人生途中ということである。この後、どんな出会いと別れがあるかもしれない。そうして、新たな因果の旅が始まると思うと、楽しくもあり恐ろしくもある。

「安いんだから客に文句を言わせぬイタメシ屋」

2020-01-24 10:39:45 | グルメ


自家製ソーセージピザは、普通は写真1枚目である。ソーセージを輪切りにする。これだと、ソーセージを3本も使えばいっぱいになる。ソーセージをけちれる。しかし、1kg480円で買ったソーセージ(もどき。材料は鶏肉)をこの使い方で使っていくとなかなか減らない。賞味期限を気にしない私でもいい加減心配になる。そこで、どばっと使いたいときは縦に切ればよい(写真2枚目)。いっぺんに6本使ってようやく一袋使い切った。いや、私は料理は好きだが、でも一日家で仕事をしていると、夜は外の風にあたりたくなる。で、いきおい外食が多くなるのだが(と言っても、たいがい5文字の店でのサイゼ飲みである)、こないだほうれん草を買ったもんだから、これも使い切らねばと思い、何日か続けて「安いのが取り柄のイタメシ屋」(ウチ)でのご飯となった。ほうれん草をピザにトッピングするときは、先に炒めてからチーズの下に置くのが最近ゆきついた私流である(写真1枚目。こうすれば焦げない)。形は相変わらず良くない。ホームベーカリーがこねてくれた生地を手と棒で伸ばすのだが、まず丸くならない。だが形はどうでもいい。店を出したら「変な形のピザ」名でメニューに載せるつもりである。だが、チーズの味がいかん。こればかりはお店屋に負ける。スーパーで売ってるピザ用チーズではだめなようだ。研究しよう。そう、私は「安いのが取り柄のイタメシ屋」又は「安いんだから客に文句を言わせぬイタメシ屋」を出すのが夢である。本気度は普通預金の利息程度だが、夢を見るのはただである。そしたら誰か女将さんに来てもらわねば。私が作るんだったら客の接待。女将さんが作るんだったら私がボーイ(?)をする。で、そのうちにいい仲になって晴れて「再婚」という算段である。だが、待てよ。女将さんが客といい仲になっちゃったらどうしよう。そんなことを考えたら心配で心配で商売どころではない。最後に血を見て「La commedia è finita!」(喜劇は終わった)では目もあてられない。やっぱりやめとこか。因みに、「La commedia è finita!」で幕となるのは、歌劇「道化師」である。オペラの見過ぎで幸せな将来の夢想すらできない私であった。



同じ変ホ長調でも(英雄と皇帝。こうもり通唱会の話もちらっと)

2020-01-23 11:24:20 | 音楽
ベートーヴェンの「皇帝」は英語圏(とその影響を受けた日本等)のみの呼称だが、ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」は、本家ドイツ語圏でも「Kaiser Quartett」である。この曲の第2楽章は、かつてはオーストリアの国歌、今ではドイツ国歌である。私は、まずハイドンの曲があって、それがオーストリアの国歌になったのだと思っていたが、Wikiによると、始めからハイドンがオーストリアの国歌を作ることを提唱して作った曲で、それを変奏曲にしてこのカルテットの第二楽章にしたのだそうだ。私、生涯で二つ目に買ったスコアがこの曲のもの(中学1年のときだったか。因みに最初に買ったのは第九)。なんで買ったのかは今となっては不明。曲を知ってたわけではない(レコードもなかったから、曲の情報はこのスコアのみである。もっぱらスコアを読んで曲をイメージしていた)。当時ヴァイオリンを弾いていたから、弾いてやろうと思ったのかしらん。さてさて、もう一つ、本家ドイツ語圏でも「Kaiser」と呼ばれているのはヨハン・シュトラウスの「皇帝円舞曲」(Kaiser-Waltzer)。当初別の名前が付いていたのだが、出版のときに「皇帝」になったらしい。ヨハン・シュトラウスとくれば、「こうもり」!「こうもり」とくればこうもり通唱会!7月12日にやりますよー。詳細はそのうちスレにしますからね!乞うご期待!宣伝タイム終了、本文に戻る。「皇帝」ときくと「英雄」を連想するのは、これは故あることである。ベートーヴェンはナポレオンに第三交響曲を捧げようと思った。ところがナポレオンが皇帝になったのを聞き激怒して「ナポレオン」の名前を楽譜から抹消して「エロイカ」(英雄)に改題した、という有名なお話。だが、連想の所以はそれだけではない。ベートーヴェンの「英雄」と「皇帝」はともに変ホ長調。出だしがこの調の主和音で直球真っ向勝負のところが共通である(それに対して、交響曲の第一とか第九はフェイントで始まる)。ただし、「英雄」は「ジャン」、「皇帝」は「ジャーーン(ピロピロピロ……)」であるから、イントロ宛てクイズでも0.5秒待てば間違えることはないだろう(0.1秒だとお手つきになるかもしれない)。変ホ長調はいいですなぁ。リヒァルト・シュトラウスの「英雄の生涯」も変ホ長調。モーツァルトの交響曲第39番も変ホ長調。ヴァーグナーの大作、「ニーベルングの指輪」の冒頭(ライン河の底)も変ホで始まる。

37歳からだーいすき(皇帝)

2020-01-22 09:45:13 | 音楽
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が好きだったのなら、第5番(皇帝)はどうだったかというと、派手で格好いいなとは思ったがさほど好きな曲ではなかった。第3番の方がまだ好きだった。この曲を知ったのは中学のとき。入学式だとか卒業式をしきってた先生がベートーヴェン好きで、式でえらく派手な曲をBGMで流すなと思って、もしや「皇帝」?と思って楽譜で確認したら当たっていた。それが好きになったのは忘れもしない、新聞のコラムに「ベートーヴェンは「皇帝」を37歳のとき書いた。そのときベートーヴェンは恋をしていた」とあったのを読んだ時。ちょうど私は37歳だった。前の年に離婚をして、これから再婚相手を探すぞーと息巻いていたときだった。だからだろうか、その記事が妙に心の琴線に触れて、すると、前から好きだった第2楽章はいっそう好きになったし、派手なだけと思っていた第3楽章に山ほどの色気を感じるようになった。あっという間にマイ・フェイヴァリットになって今に至る、である。しかし、ここに三つの疑義がある。その1。今、ウィキペディアを見ると、ベートーヴェンが「皇帝」のスケッチを描き始めたのは1808年の末だという。すると38歳だ(ベートーヴェンは1770年生まれ。だから歳の計算は簡単である。今年は生誕250年だ)。えーっ?「37歳で作曲」は私にとって肝の部分である。なのに違っていた?そう言えば、あの新聞は独断的な記事をよく書く。だが、考えてみれば、1808年でも誕生日が来てなければ37歳である。ベートーヴェンの誕生日は12月16日。スケッチの開始が12月末。うーん、微妙である。まあしかし新聞が「37歳」と書いてくれたおかげで私はこの曲の良さに気づいた。疑惑は残るが良しとしよう。疑惑その2。日本人はこのコンチェルトを「皇帝」と呼ぶが、ではドイツ人は「カイザー」と呼ぶのだろうか。聞いたことがない。そのはず、この曲を「エンペラー」として広めたのは英語圏だそうだ。ということであっさり疑惑は解消。因みに、同じ第5番でも交響曲の「運命」については、「この曲を『運命』と呼ぶのは日本くらいのもの」と言う人がいるが、「Schicksal Symphonie」でググるとドイツ語のサイトがいくつかヒットするからドイツ人も言わないこともないらしい。「運命」と言えばもう一つ。スターウォーズのダースベイダーが我が子のルークに、「仲間になれ。It is your destiny」というシーンが印象的だった(第2作、エピソードⅤだったよな)。疑惑その3。37歳で再婚の意欲に燃えていた私がなぜ今でも一人ものか。これは話せば長くなる。特別な関係になったら教えてあげる……とか言って、2時間前に会った人にも飲み会でぺらぺらしゃべっている私である。受けるためには自らのプライバシーでさえ切り売りする私は芸人魂の塊である(?)。

オーボエとクラリネット(その2)

2020-01-21 12:37:19 | 音楽
こないだEテレでベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番をやっていた。シフの弾き振りだった。シフと言えば、まだ若い頃(私もシフも)会場で生演奏をしていたとき、客席で誰かがおっきな音で「へーくしょん」とやったら、すかさずシフが「へーくしょん」と真似して会場は笑いに包まれたが、シフは憤懣やるかたなくてしたんだと思った。この第4番は大好きである。ベートーヴェンのピアノ協奏曲で最初に買ったレコードは第5番(皇帝)ではなく第4番(と第2番)であった。ほんとに幸せ感溢れたロマンチックな曲。ベートーヴェンが恋をしていたときの曲で(つうか、ベートーヴェンは生涯中ほとんど恋をしていた。それが上手くいきそうだった時期というのが相当)、ああ、人は恋をすると、こんなに(でれでれに)なるんだー、という見本のような曲である。で、今回Eテレを見ながら、そうだ、この曲はフルートが1本がなんだよなー、と思い出した。ベートーヴェンの曲のすべてで木管楽器が2管編成であるわけではない。それでも、よくオーボエとクラリネットを両方入れてくれた。モーツァルトとなると、例えば交響曲第40番などは、当初オーボエは入っているがクラリネットは入っていなかった(改訂版で初めて付け加えられた)。後から入れてくれただけまだいい。あの壮麗な第41番(ジュピター)にはクラリネットはない。クラリネットが大活躍する第39番は例外である。クラリネットは当時新興楽器であった。因みに、第39番にはクラリネットが入る代わりにオーボエが入らない。待てよ。新興楽器であるクラリネットだが、モーツァルトの先輩のハイドンの「四季」「天地創造」ではオーボエとクラリネットが揃うぞ(ミサソレ通唱会の二日前の天地創造通唱会で、オーボエのIさんの隣でクラリネットを吹いたばかりである。因みに、このときはフルートのSさんもいて、この三人の組合せは以前白井でドイツレクイエム通唱会をやったときと同じである)。いや、ハイドンはモーツァルトの先輩と言っても長生きだったから、「四季」「天地創造」を書いたのはモーツァルトの死後であり、クラリネットもだいぶ存在感を増した時期であった。因みに、私がクラリネットのカール・ライスターのファンになったのはカラヤン指揮のベルリンフィルをサントリーホールで聴いたとき、曲はまさにモーツァルトの第39番(とブラームスの第1番)だった。口からクラリネットが下に斜め45度の角度で伸びているのが奇っ怪であったが、まるで普通に息をしてるような感じで楽々と吹く様はまさに名人そのものだった。このときのオーボエはシェレンベルガー(この人も名人だったなー)。シェレンベルガーあたりから現在に通じるベルリンフィル・イケメン路線が始まったのだろうか。フルートのパユとか、クラリネットのオッテンザマーとか(かつてのクラリネット=ライスター、オーボエ=コッホの時代はその路線とは一線を画す野武士集団だった)。イケメンは嫌いだ(やっかみ)。悔しいから、ホルンのサラ・ウィリス(見目麗し系)の名前を出してやる。いや、サラ・ウィリスの名前を出すんだったら、クラリネット吹きとしてはベルリンフィルにクラリネットで入りかけたザビーネ・マイヤーの名前を出すのが先かもしれないが、私、いまいち趣味じゃないんで(何が?)。しかし、カラヤンは違った。ザビーネ嬢にご執心でゴリおし入団させようとして、で、ベルリンフィルともめて疎遠になり、ウィーンフィルとの結び付きを深めていくのだった。

オーボエとクラリネット

2020-01-20 11:39:14 | 音楽

昨日のKMCの休憩時間に……その前に、お前、歌やめるって言ったくせになんでKMCに行ってるんだよって?そりゃあなた、相対性理論でさぁ。あるところでは辞めてもあるところでは辞めない。文句があるならアインシュタインに言ってみな。ということで、あらためて、昨日のKMCの休憩時間の話。MさんがIさんに「ミサソレ通唱会のオーボエ、素晴らしかった」と感激の体。私もまったく同感。で、特にどこが?と思ったら「アンコールのフィデリオ」。なーるほど、そりゃそうだ、私がアンコールに選んだ箇所はオーボエの世にもおいしいメロディーから始まる。これをIさんはまことに美しく吹かれた。だが、私の個人的には、ミサソレのオーボエと言えばこれ、グローリアの終盤。歌が「アーメン、アーーーメン」と歌っている背後でオーボエがタリラタリラ、タリラタリラと吹くところ、つまり写真の部分なのだが(写真を載せるんならタリラタリラなんて書くことはなかった。が、書きたいのである)。ここが大好きで、ここもIさんは完璧に吹いて下さって私は大感激だったのである。私が最初にミサソレのレコードを買ったのは中学んときでトスカニーニ指揮のもの。そのマニアックな選択にレコード店主が「すごい」と言っていたが、すごくもなんともない、その店にはそれしかなかったのだ(自分でそれしか売らないでおいて「すごい」と言う方がおかしい)。で、この演奏は超絶的にテンポが速く、しかも録音が古くて件のオーボエは認識できなかった。ここを認識したのは高校になってから買ったベームの新録音である。因みに、Iさんは、「ミサソレのクラリネットって吹きっぱなしなんですね」との感想をおっしゃっていた。そう言えばそうだ。B♭管とA管の持ち替え時間以外はずっと吹いている。ベートーヴェンはクラリネットが好きだったのだろうか(それともいじめたかったのだろうか。)。第九の第三楽章の中間部でのホルンとのからみもクラリネット吹きだったら一度は吹いてみたいと思うもの(家で吹く分には勝手である)。そう言えば、この部分についてオーボエのプロの方とお話したことがあった。もちろん、あのクラのメロディーはおいしい、オーボエ吹きとしては悔しい……が、あそこはクラリネットだから意味がある。もしオーボエだったら、オーボエの音色はクラより明るく華やかだから、それで音楽が完結してしまう。しかし、ベートーヴェンはそこで完結させたくなかった、後につなげたかった、だからクラを選んだのだと。なるほどー、と思った。この話をいつか書いてみたかったが、いい感じで今日書くことができた(悦、悦。私の免疫機能はこれでだいぶ改善したことだろう)。

やりてじじー

2020-01-19 10:53:50 | 音楽
恋バナは楽しい。さらに、誰と誰をくっつけたらどうか、という話は野次馬を通り越してより能動的である。私はたまにそれを実践する(働きかけを行う)。こういうのを「やりてばばー」と言うんだそうだ。いや、私は男だから「やりてじじー」か。「じじー」と言われるのは心外だが(言われてない。自分で言ってる)、年寄りの意味ではないから許してやろう(誰を?)。学生時代の室内合唱団で同期のU譲を学生時代から「Uばー」と仇名したのと同じである。この仇名に「さん」を付けたら「Uばーさん」で、尊称を付けたつもりが逆効果。「さま」も同様である。ひとは「じーさん」「ばーさん」とは言われなくないもの。ある女優は、お孫さんに自分のことを「おばあちゃん」とは言わせないそうだ。じゃなんと言わせるかというと「グランマ」だって。カタカナならいいのか?因みにドイツ語では「Oma」である。さて、昨日のシュッツを歌う会のアフターでは、その「やりてじじー」的な話で盛り上がった。会に参加した某嬢のお相手に誰がいいか、って話で(余計なお世話)、誰それは山登りの趣味が共通だからよいとか、その人は古楽の趣味が共通だからよいとか、いやいや誰それは公務員で地位が安定していて生活に困らなそうだからいいとか、そう言えば、誰それも独身だったねとか。このとき気がつかなかったが、今朝目がさめて思った。私だって独身である。私がまったく俎上に登らなかったのはなぜか。不当である。「じじー」であるせいか。失敬なっ。君たちは「還暦」の意味を知っているか(私もこないだまで知らなかった)。ぐるっと回って元に戻る、だから「還暦」である。ってことは子供に戻ったから若いのだ。それに私だって山に登る。筑波山は私の庭である……なーんてウソばっかりつくからだめなのかしらん。いや、「庭」はウソだが、たまに筑波山に登るのはホントだ。かように、私の話(ブログも)は、事実(Tatsache)は真実(wahr)だが、ニュアンスをちょっといじっているので印象がまったく逆になったりする。その(どの?)シュッツを歌う会だが、私はヴァイオリンで声部をなぞっていたのだが、後半、声部が増えたのでアルトに転じた……ところ、よくない。ヴァイオリンで弾いていた方が全体の響きがよかった。やっぱり歌やめようかしらん。

魔法の笛・卒歌宣言

2020-01-18 11:26:48 | 音楽
一昨日の飲み会で料理を切り分けてたら女子力が高いと言われた。褒め言葉である。某女史は、これも切れと言わんばかりに別の皿を「ほれ」と言って手渡してくれた。自らの存在価値を確認して萌えた私である(それと引き換え、A合唱団で練習後に会場のモップがけをしていたら、某おばさまが私がやりますと言って私からモップを奪おうとした。私の人格を損ないかねないお申出である。手放してなるものかと私はモップを死守した)。さて。月曜日のミサソレ通唱会では全体での練習時間を1時間ほどとったのだが、私のクラリネットはこの練習のときはほぼ完璧だった。しかし、私もリードもここで精根尽きて本番はぼろぼろ。「ペース配分」も実力のうち。まだまだである。オペラ歌手も本番直前のリハではオクターブ下げたりして本気では歌わない。ただ、まれに熱血漢がいて、ゲネプロで本気でばりばり歌って本番をキャンセルしたヘルデンテナーがいた。すると私も熱血漢か。女子力の高い熱血漢の酔っ払いである(おまけに腕力も強い)。まあ、私の出来はそんなもんだったが、ミサソレ通唱会の木管全体は素晴らしかった。そう言えば、初めて生のホールでベートーヴェンの交響曲を聴いたときは、それまでレコードで聴いていたのと違って木管の分厚い和音にびっくりしたものだが、会場に通うにつれだんだんそっちが普通になってきて(レコードは録音技師の調整が入る)、例えば、第九をサントリーホールの舞台真横で聴いたときなどは、第三楽章の例のヴァイオリンの細かいパッセージが遠くの彼方で聞こえる反面、木管がすぐそこで分厚いハーモニーを作り出している。それを聴いていて、揺りかごにに揺られているような幸福感につつまれたものだ。私は10代でばりばり吹いていたときより今の方がクラリネットが好きである。(他の管楽器もそうだが)口から出た息が黒い管を通ってあの綺麗な楽音となって出てくる様は、まさに「魔法の笛」である。ヴァイオリンも、去年再開したときはあまりの腕のにぶりように愕然としたが、練習曲を弾いてるうちにかなり戻って来た。てなわけで、強烈に楽器に回帰している私である。その反面、歌は自信を喪失する一方。だからここに宣言する。私、これからは楽器をやる。歌は趣味程度に止める……まてよ。これまでも、歌は趣味だ(楽器も)。だったら、別に何も変わることはなかった(しゃん、しゃん)。