鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

本当の不条理劇「マテリアル・ママ」

2006-04-23 | Weblog
 新国立劇場で岩松了作の劇「マテリアル・ママ」を観賞した。新国立劇場のシリーズ「われわれはどこへいくのか」の第二弾で、物質文明の先に見える人間関係に迫るというキャッチフレーズであったが、はっきり言って消化不足で、不条理劇そのものになってしまった。岩松了氏は自ら脚本も書き、主演クラスの出演もこなす野田秀樹がやるようなことに挑んだが、創作も演出も出演もするのはやや無理があったようで、あちこちに破綻がうかがえた。
 「マテリアル・ママ」はマドンナの歌「マテリアル・ガール」からとったもので、別に深い意味はない、という。娘の愛用していた車を大事に世話する初老の女性のところに若い車のセールスマンが毎日足繁く通ってきて、なにかとちょっかいを出す隣の男性と親しくなる。そこへセールスマンの恋人が登場し、鈴の音や、レストラン、鳥の死をめぐってお互いの関係がまずくなる。そして、隣の男性は母親の面倒をヘルパーの男性に頼み、旅に出るが、なんら解決に至らない。そうこうするうちに車の買い替えの鍵を握っているはずの娘さんがもう死んでいないことが判明し、肝心の車もどこかへ消えてしまう。何が一体幸せなのか、わからないとの女主人公の独白で劇は終わる。
 物質文明を皮肉った不条理劇のようであるが、なにか全体にもやもやしたものがあって訴えてくるものがなかった。舞台が茶の間にどでんとある車とリビングが180度回って入れ替わるのも何回もすると目障りである。主演のセールスマン役の仲村トトルはスラッとした180センチの長身で格好はいいのだが、演劇4回目のせいか、セリフまわしが気になるし、演技もイマイチの感があった。登場人物5人のなかで演技派は老女役の倉野章子1人だけといった感じで、岩松了氏もお世辞にもうまい、とはいえなかった。
休憩15分をはさんで3時間強の公演で、休憩後の第2部では妙に眠くなってしまった。隣を見ると、かみさんもこっくりこっくりやっていた。面白ければそんなことはないのに、とも思った。実際、後半はダレた感が否めなかった。
 新国立劇場で発行している機関誌「アトレ」の最近号で岩松了氏はインタビューに「いま執筆中」と答えいた。創作もしながら、配役集めも演出も、そして自ら出演もするというのはよほどの天才でない限りできない相談だろう。なぜ、自ら出演することになったのか、ひょっとしたら意中の人に断られたから、仕方なく自ら出演したのか、単に出るのが好きだから自ら買って出たのか、わからないが、ここは創作に全力投球すべきだったのではなかろうか。
 先ほどのインタビューで自ら不条理劇だ、と言っていたが、まさか本当に観た人もわからないような不条理劇になるとは思っていなかったことだろう。なにか時間がなかったとか、岩松氏の肉体的限界からか、中途半端に終わった、との感が否めない。
 大体、演劇なんて常にアドリブ的な要素があるので、こんなものなのかもしれない。新しいことに挑戦した、という岩松氏の意欲は買える、ということで次回作に期待したい。

コメント
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