鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

現代社j会へ警告する中国演劇

2006-04-03 | Weblog
 東京眞国立劇場・小劇場で「われわれはどこへいくのか」と銘打ったシリーズの第一作となる中国人作家、過士行氏作の演劇「カエル」を観賞した。登場人物はわずか4人で、1時間20分くらいを一幕で演じ切った。中国人の脚本による演劇は初めて観たが、冷徹な現代社会への風刺ぶりは中国人の粘着力、徹底さを感じさせる。
 まず幕が開くと、舞台の中央にあばら家のような理髪店があり、主人が客とどんな髪型にしようか、と話しながら作業を進めようとしていると、女がやってきて「今日も雨だ」といいながら、シャワーから水を振り撒く。そこへ旅の若者が「顔を剃ってもらいたい」とやってきて、主人と客の談義に加わる。女は店の外の畑で稲を栽培し出すと若者が「そんなに化学肥料をやると、自然を破壊する」と警告するが、女は「化学肥料をやらないと成長しない」と頓着しない。すると、床屋の主人と客は「そういえば、カエルがいなくなった」とつぶやき、タイトルのカエルがここからきていることを思わせる。
 床屋の主人と客のヘアスタイルの論議は延々と続き、旅の若者はしびれを切らして、出ていってしまう。女は稲の栽培にせっせと取り組みながら、主人と客の会話に加わったり、雨のシャワーを撒いたりしている。そのうちに降り続く雨のせいか、地震による洪水のせいか、水位が上がってきて床屋は水浸しになる。それでも主人と床屋のヘアスタイル談義は終わらず、再び旅の若者がやってきて、客待ちしていても続く。遂には、主人と客の足に牡蠣が張りつくことになっても談義は続く。
 大団円は空から雪が降ってきて、畑の上の建造物が店の中に倒れてきて、ケリがつくことになる。登場人物の4人とも水日浸しの熱演で、本当にご苦労様、といった感じ。水をふんだんに使う舞台装置とこれでもか、これでもか、という演技はいまの日本の演劇人には忘れ去られているものがある、と感じた。演劇というものの原点ともいうものを見せつけられた感もある。それだけ出演者は大変だったろうと思う。カーテンコールが一回であっさり終わってしまったことからもそれはうかがえる。
 舞台の脇の観客席にパンダや小物などぬいぐるみが置いてあったが、結局最後までそれらの出番はなかった。単に中国の演劇だ、とアピールしたかっただけのものだったのか、気になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする