goo blog サービス終了のお知らせ 

吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年2月14日〈津屋崎学〉023:東郷公園

2007-02-14 12:11:54 | 郷土史
●写真①:戦艦三笠のブリッジや砲台を模した日本海海戦記念碑がある「東郷公園」展望園地
      =福津市渡で、2007年2月14日午後5時05分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第23回:2007.2.14
  東郷公園


清 「2月11日に宮地嶽神社に参ったら、〝開運桜〟が満開になっとって、綺麗やったよ。おいしゃん(叔父さん)も、桜見に行ってきたらよかとに」
琢二 「早咲きのカンヒザクラの一種だな。本殿横の1本だけが毎年、早く咲くけん、神様のご利益を受けているというて、〝開運桜〟の名が付いたったい。宮地嶽神社は、福津市津屋崎のソメイヨシノの名所でもある」
清 「宮地嶽神社が津屋崎の東にある桜の名所なら、福津市渡の東郷公園=写真①=は津屋崎の西にある桜名所やね。ソメイヨシノが、500本もあるげなよ。晴れた日には、北西に玄界灘の孤島・沖ノ島や、壱岐・対馬まで遠望できて、眺めもいいよ。眼下の東方に広がる津屋崎海岸の美景は、吉村青春さんの第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の表紙カラー写真にも使われとったね。それはそうと、東郷公園の謂われをよう知らんけん、教えちゃらんね」
琢二 「津屋崎小学校の遠足で、子供のころから行っとって、よう知らんとか。日本海海戦で世界最強とされていたロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争を勝利に導いた旧日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥にちなんで、東郷公園の名前が付けられたったい。渡半島の突端にある標高114㍍の大峰山から、日本海海戦のときには日露両軍の船影が遠望でき、両軍艦隊が放つ砲声は津屋崎町まで響いたと伝えられとる」
清 「へー、そうなんだ」

琢二 「東郷公園の広さは、約千平方㍍。大峰山山頂に建てられた〈日本海海戦記念碑〉=写真②=は、連合艦隊の旗艦・三笠の艦橋をかたどってあり、記念碑の8文字〈日本海海戦祈念碑〉は〈記念〉を〈祈念〉と書かれ、東郷元帥の揮毫たい。記念碑は、勝利の日の明治38年(1905年)5月27日の〈海軍記念日(現〝海の記念日〟)〉にちなみ、高さ38尺(11.4㍍)、幅5尺(1.5㍍)、マスト27尺(8㍍)になっとる」


写真②:東郷元帥が揮毫した8文字が彫られた〈日本海海戦記念碑〉
     =福津市渡の東郷公園で、2006年5月14日午前11時55分撮影

清 「東郷公園から玄界灘を遠望しても、明治の時代に日本の運命を決する日本海海戦があったとは、信じられん気がする。記念碑の下部側面には、東郷元帥肖像のブロンズ製レリーフ=写真③=や、〈海戦説明盤〉もあったよ」
琢二 「日本の海戦史を記念する場所の一つとして、若い人にも見てもらいたいな」


写真③:日本海海戦記念碑の側面に飾られた東郷元帥肖像のブロンズ製レリーフ
     =福津市渡の東郷公園で、07年2月14日午後5時03分撮影

清 「東郷公園ができたのは、いつごろ?」
琢二 「地元の獣医だった安部正弘さんが、私財を投げ打ち、全国的にも寄付を募って、地元有志で組織した〈日本海々戦偉績保存会〉が昭和9年(1934年)6月27日に東郷元帥を顕彰しようと〈日本海海戦記念碑〉を建て、公園や資料館も造った」
清 「東郷公園は、これからハイキングに行くのに良い景勝地だね」
琢二 「東郷公園を含む一帯の130㌶は、福岡県が昭和57年から5年がかりで〈大峰山自然公園〉として整備し、キャンプ場や遊歩道もある。次回は、東郷公園近くの大峰山中腹に建てられた東郷元帥を祀る〈東郷神社〉=写真④=のことば話しちゃろう」


写真④:東郷公園への階段登り口南側にある東郷神社の鳥居
     =福津市渡で、07年2月14日午後5時09分撮影

東郷公園(福岡県福津市渡):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩40分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎橋」で下車し、徒歩30分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約30分。駐車場(60台収容)あり。

東郷公園
    福津市渡の「東郷公園」位置図
       (ピンが立っている所)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007年2月1日〈津屋崎学〉022:津屋崎人形

2007-02-01 09:38:57 | 郷土史
●写真①:宮地嶽神社奥之宮八社・稲荷神社社務所で売られている〈津屋崎人形〉の大黒様と恵比寿様
      =福津市宮司で、2007年1月28日午前10時41分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第22回:2007.2.1
  津屋崎人形


清 「おいしゃん(叔父さん)、1月28日に宮地嶽神社境内にある奥之宮八社の三番参拝社・不動神社の初不動祭に参ったったい。そしたらくさ、二番参拝社の稲荷神社社務所で〈津屋崎人形〉の大黒様と恵比寿様=写真①=を売っとったばい。宮地嶽神社の縁起物で〈津屋崎人形〉が参拝客の人たちに買(こ)うてもらえると、うれしかね」
琢二 「そうだな。郷土の特産品が、よそから来た参拝客の人たちに喜ばれることは、よかことたい。〈津屋崎人形〉は、津屋崎の誇れる文化の一つと言っていい」
清 「吉村青春さんの第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)の詩篇〈ころころやま〉に詠われとる〈モマ笛〉=写真②=も、〈津屋崎人形〉やったね」
琢二 「青春さんの詩集に〈モマ笛〉の解説も、詩篇の〈注〉で次のように書いてある。

〈江戸中期の安永6年(1777年)が起源で、粘土を素焼きにして筆で彩色する素朴な「津屋崎人形」(福岡県指定特産民芸品)の梟(ふくろう)を模った笛。褐色の丸い頭と白い顔にどんぐり目や嘴がかわいい。尾の穴を吹くと「ホー、ホー」と物悲しく鳴くような音色が出る。鳴き声を言葉でたとえた「聞き倣(な)し」では、梟(体長50㌢)は「ゴロスケ、ホッ、ホッ」で、夏鳥の青葉梟(あおばずく)(体長29㌢)は「ホッホッ、ホッホッ」。色や形は梟だが、音色は青葉梟に近い。津屋崎には梟、青葉梟とも生息し、ともに方言でモマと呼ばれてきたと思われる〉

〈モマ笛〉は、子供のおもちゃとして喜ばれる。おみやげにも手ごろだな。『鵲声―津屋崎センゲン』」にも、口絵の3㌻に、カラー写真が載せてあるぞ」


写真②:福岡県指定特産民芸品・〈津屋崎人形〉の〈モマ笛〉
     =福津市津屋崎天神町の「筑前津屋崎人形巧房」で、05年6月2日撮影


清 「〈津屋崎人形〉の特徴というたら、何やろうか」
琢二 「〈古博多人形の俤(おもかげ=面影)を伝える唯一の人形〉ということだろう。これは、〈津屋崎人形原田半蔵店〉=写真③=に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文にある。説明文の前段には、次のように書かれている。

〈津屋崎土人形は明和五年(約200年前)初代原田半兵衛に依り創作され、現作者半蔵氏は五代目に当たる。
 最初はロクロを用いてあんこ火鉢、甕等の日用品を製造したが、のち次第に庶民生活に結び付いたひなびた三・五月節供用の土人形や貯金玉、ふくろ笛など多種多様な土俗人形を作り、福岡県内のほか中国・四国地方にも販路を拡げ、今日に至っている。其の素朴な作品は古博多人形の俤を伝える唯一の郷土人形として今も多くの愛好家に親しまれている〉

半蔵さんが作った〈太鼓乗りにわとり〉は1993年の年賀切手の図案に採用され、津屋崎人形は全国的に有名になった。今は半蔵さんの子の彪(たけし)さん(69)が当主。元小学校長で、日展会友の彫刻家でもある」


写真③:〈津屋崎人形原田半蔵店〉
     =福津市津屋崎天神町で、06年10月28日午前11時53分撮影


写真④:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に掲げられている『筑前津屋崎人形展』と題した説明文
     =06年12月24日午前11時12分撮影

清 「なるほど。今は、津屋崎人形の店は何軒あるとかね」
琢二 「〈津屋崎人形原田半蔵店〉と、親戚の原田誠さん(54)が7代目窯元の〈筑前津屋崎人形巧房〉=写真⑤=の2軒たい。同巧房のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉には、〈津屋崎人形の起源は、今をへだたる二百年前の安永年間(西暦1777年)の頃、当時津屋崎町の在自(あらじ)という所に産する陶土が、土器に最適のものであることがわかり、ろくろを使って生活に必要な壺やかめなどを造っていましたが、安永六年に始祖卯七がその子半兵衛と共に、素朴な人形や動物を作ったのがはじまりとなりました〉と書かれとる。つまり、両人形店の当主はともに半兵衛さんの子孫たい。ただ、〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフでは初代を卯七とし、二代を半兵衛にしているのが食い違っとる」
清 「ま、どっちも同じ原田さんの人形師さんたいね」


写真⑤:津屋崎千軒通りに面した〈筑前津屋崎人形巧房〉
     =福岡市津屋崎天神町で、05年8月12日午後4時撮影

琢二 「〈筑前津屋崎人形巧房〉のパンフレット〈津屋崎人形の由来〉は、さらに次のように説明が続く。

 〈津屋崎人形は、二代半兵衛・三代半四郎・四代長助・五代徳十と、現在に到るまで技法と古型がうけつがれて参りました。その間には、歴史やおとぎ話に活躍する人物をはじめ、芝居人情風俗などを題材にした人形を作るなど、代々にわたる研究と努力がたゆみなく続けられました。
 五代徳十は、それまでそれぞれの呼び方で呼ばれていた人形を、すべて「津屋崎人形」と呼ぶことに定めて現在に至りました。
 津屋崎人形窯元として、初代卯七以来の伝統と作風を正しく伝えて参りました津屋崎人形は、類のない独特の描彩(いろどり)と姿を持ち、他の人形には見出すことのできない素朴さと可憐さを持っています。
 いつ見ても、いつまで見ても見あきない津屋崎人形は、その純朴な姿や表情とともに、皆様の心の故里になつかしく生きつづけることでございましょう〉

と、まあ津屋崎人形の魅力を言いえて妙、というか、胸にぐっと来る表現ばい。ついでに言うと、窯元の六代がもう亡くなった活男さん、その子誠さんが今の七代たい。活男さんと半蔵さんの時代には、親戚の原田三右ヱ門さんを含め3人の津屋崎人形師が、おらっしゃった。津屋崎人形が昭和56年(1981年)3月、福岡県特産民芸品に指定されたのを表紙で紹介した同年4月1日発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号には、自慢の津屋崎人形を前にしたこの3人の写真が載っとう=写真⑥=」


写真⑥:昭和56年発行の旧津屋崎町報〈広報つやざき〉4月号に載った3人の津屋崎人形師(左から原田三右ヱ門、半蔵、活男さん)
     =07年2月1日午前6時58分複写

清 「それで、津屋崎人形って、どうやって造るとかね」
琢二 「06年10月28日、〈津屋崎千軒考え隊〉のワークショップで〈筑前津屋崎人形巧房〉を見学した際、原田誠さんに説明してもらったら、粘土を素焼きして筆で彩色するそうだ。人形造りの型が千個も伝わっていて、時代の風俗を伝える収蔵作品も見せてもらったが、一人で伝統の人形造りを継承していく熱意に感心させられたばい」


写真⑦:〈津屋崎人形原田半蔵店〉に陳列された作品
     =福津市津屋崎天神町で、06年12月24日午前11時11分撮影


〈筑前津屋崎人形巧房〉(福岡県福津市津屋崎天神町。℡0940―52―0419)と〈津屋崎人形原田半蔵店〉(同所、℡0940-52-0432):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩5分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎駅前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約25分。

津屋崎人形巧房
〈筑前津屋崎人形巧房〉と〈津屋崎人形原田半蔵店〉の位置図
            (ピンの立っている所)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007年1月23日〈津屋崎学〉021:六百俵の碑

2007-01-23 12:31:14 | 郷土史
●写真①:宮地嶽神社境内に建てられている「六百俵の碑」
      =福津市宮司で、2007年1月18日午前10時17分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第21回:2007.1.23
  六百俵の碑


清 「おいしゃん(叔父さん)、元旦に福津市宮司の宮地嶽神社へ初詣でしてきたばってん、今年は初詣で客が多かったばい」
琢二 「警察発表では、正月三が日の宮地嶽神社への参拝客は105万人やった。九州では、太宰府市の太宰府天満宮の201万人に次いで2番目に多かったそうだ。どっちも福岡県の神社たい。ところで、宮地嶽神社参道の最初の石段を上がった境内南側に、〈六百俵の碑〉=写真①=があるとを知っとうや?」
清 「ヘー、知らんやった。何の記念碑かいな」
琢二 「表側に〈六百俵之碑〉と大きく刻まれ、裏側には宮司の区民一同で建てたいきさつが彫られとる。碑のそばに福津市が建てた説明盤=写真②=には、次のように解説してある。

〈徳川時代の半ばごろまで、ここ宮司村は、砂混じりの痩(や)せた農地が多く、常に水不足に悩まされるなど、農家は苦しい生活をせまられていました。
 しかし、村民は互いに助け合い、農業のほか、わら細工製造等に励むかたわら、11歳以上の村民総出で溜池(林口池)を造って水不足の解消に努め、年貢米はいつも一番に納めたということです。
 また、天明5年(1785年)の大飢饉(だいききん)の時も、宮司村だけは年貢米の返上を願い出ず完納しました。
 このようなことから、時の藩主は宮司村を他村の模範として表彰し、寛政2年(1790年)褒美(ほうび)として米六百俵を贈りました。
 村民は、この栄誉を後世に永く伝承するとともに、村の繁栄を願って、褒美の一部をもって村内の出生児に産着を贈ることとし、現在もこの習わしが続けられています。
 大正8年(1919年)、これらの先人の偉業を讃えるため、記念碑が建てられました〉


写真②:六百俵の碑について解説している説明盤
     =福津市の宮地嶽神社で、07年1月18日午前10時16分撮影

清 「なるほど。よう分かった。当時は、宮司村やったとやね」
琢二 「宮司村は明治42年(1909年)、津屋崎町と合併して新しい津屋崎町になった」
清 「藩主が、村民に米六百俵を贈るなんて、めったにない栄誉やったんやろうね」
琢二 「旧津屋崎町が編纂した『津屋崎町史 通史編』によると、黒田藩の家老久野下記から賞せられ、宮司村の一年間の年貢の石数873俵に近い600俵もの米を与えられたそうだ。

 表彰状に当たる褒状の文章を要約して紹介すると、〈庄屋忠右衛門は、村行政も正しく行い、村中が助け合って精を出したため、凶作があっても年貢軽減を願い出なかった。さらに、宮司村は、風紀が正しい村であり、かつ困窮者を助ける仕組みもあったので、離散する者もなかった〉と評価。さらに〈溜池新築には、村中で取り組み、11歳以上の延べ2,600人が働き、旱ばつもなくなった。倹約を守り、常日ごろから行いも正しく、農業に励む宮司村の風紀は、類まれなものである。格別に賞として宮司村110軒に対し、米600俵を与える〉とべた褒めだな。

 当時の村民は465人。現代風に言えば、〝お上〟の官に頼らず、村の民の力を結集した村落共同体の成功例といえるたい。当時は、徳川第11代将軍家斉の時代だ。その前の第10代将軍家治が治めた明和、安永時代はそれ以前の元禄時代の華美遊惰の風潮を受け継いで風紀が乱れた世相だったようだ。その後、1783年から88年まで天明の大飢饉が諸国を襲った時代だけに、黒田藩は風紀を正し、農業に精を出した村民を民の模範と表彰したわけだ」
清 「今も治山治水が大事と言われるけど、昔の宮司村の人たちは旱ばつ対策だけでなく、倹約や風紀など暮らしぶりまで本当に偉かったとやね」

宮地嶽神社(福岡県福津市宮司):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線宮地岳駅下車、徒歩10分。JR鹿児島線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きか、神湊波止場行きで10分の「宮地岳宮前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約20分。駐車台数1200台。問い合わせは、宮地嶽神社(0940-52-0016)へ。

六百俵の碑
  宮地嶽神社境内〈六百俵之碑〉の位置図
        (ピンの立っている所)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007年1月12日〈津屋崎学〉020:津屋崎の正月

2007-01-12 06:05:39 | 郷土史
●写真①:正月の玄関に掲げる注連飾り
      =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時39分撮影

琢二と清の郷土史談義
津屋崎学

第20回:2007.1.12
  津屋崎の正月


清 「新年明けましておめでとうございます。おいしゃん(叔父さん)、今年もよろしくお願いします」
琢二 「おめでとう。ま、お屠蘇を飲まんか。きょうは、津屋崎の正月の話をするかな」
清 「松飾りとか、注連飾り=写真①=など正月の飾りもんの謂われから、教えちゃらんね」
琢二 「松飾りは、一夜飾りを忌んで、遅くとも暮れの29日ごろまでに立てるのが習わしだ。松は神の依代(よりしろ)、つまり神霊のよりつくもので、正月に家に迎え祭る神・〈歳神(としがみ)〉様を迎えるためのもの。門に=写真②=を立てるのも、正月の神様・歳の神が降りてくる依代たい。歳の神とは、米作りの神様で、正月に家に来て今年の稲作の豊作を保証してくださる神様であり、幸福を授けてくれる祖先の霊だとか考えられてきたとばい。正月を迎えるために神棚や建物の入り口に張る注連縄は、その中が清浄な場である〈しるし〉だから、注連飾りは玄関に掲げる。

 年末に家の煤払い、大掃除をするのは、家の中の穢れを清め去って、歳の神を迎えるのにふさわしい祭場にする風習たい。単なる屋内の大掃除ではなく、年に一度の神聖な行事やったとばってん、今は煤払いをしない家も多うなってしもうたばい。親子や親戚の間で贈答する〝お年玉〟も、民俗学では新たに来る年の霊魂を授受する呪術的信仰の儀礼化だと言われとる」


写真②:玄関に立てられたミニ門松
     =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時41分撮影


清 「やっぱ、お雑煮は古里・津屋崎の雑煮=写真③=が一番旨かね」
琢二 「雑煮の出汁(だし)が昆布と焼きアゴ(飛び魚)で取ってあり、福岡県特産野菜の青菜・鰹菜(カツオナ)で餅をくるんで頬ばれば、喉に詰まらんで美味しく食べられるから、雑煮のおかわりが欲しくなるたい。津屋崎の雑煮の具には、出世魚でめでたい(ブリ)の切り身を入れる。博多雑煮とだいたい似ているが、博多雑煮では鰤を入れる家と、鰤ではなく鯛(タイ)やアラを入れる家がある」
清 「そらまた、なして?」
琢二 「青魚の鰤を入れると、出汁の味が濁ると言って、鰤を嫌う家は白身魚の鯛かアラを入れる。ばってん、雑煮には大ブリな年をとるということで、正月の魚とされる鰤を入れるとこだわる家もあると。そう言えば、昔は年末の贈答で、嫁を迎えた家は〝嫁振りがよい〟という意味で嫁の実家に鰤を贈ったもんたい」


写真③:鰤の切り身や福岡県特産の鰹菜が入った「津屋崎の雑煮」
     =福津市津屋崎で、2007年1月4日午後0時03分撮影

清 「鰤の雑煮があんまり旨かったもんやき、餅を6個も食べたばい」
琢二 「そうか。餅を美味しく食べてこそ、日本人たい。昔は一軒で一俵の餅を搗(つ)いとった。今では、家で餅を搗くところはほとんどなくなったな。精霊の宿る稲穂が凝縮された餅には霊力があると信じられとるけん、餅を食べることは神の霊力を体内に取り込むことを意味しとるとたい。津屋崎の餅は、円満を象徴する丸餅だな。餅は焼かずに昆布の上に置いて煮て、鍋の底に餅が付かんようにする。煮えた餅は、雑煮の椀の底に入れたダイコンの上に置く。雑煮の具には、鰤の切り身と鰹菜のほか、シイタケやダイコン、ニンジン、サトイモ、焼き豆腐、かまぼこ、スルメ、昆布を餅の上に並べて入れる。

 雑煮の膳には、二親(にしん)から多くの子が出るのを良き事として数の子や、〝まめ〟が丈夫を意味する黒豆=写真④=、〝喜ぶ〟の言葉にかけた昆布巻などの〈おせち料理〉を添える。昔は、縁起物の栗の箸で雑煮を食べたもんたい。丈夫な栗の木にあやかって、新しい一年を健康にすごせるようにと祈願し、栗の木の枝を削って作った箸で、栗栄(くりはい)箸とか、栗箸と呼ぶ。雑煮は室町時代に始まったとされ、もともとは歳神へのお供えや地域の産物をお下がりとして、神と共にいただく儀礼的な料理だったといわれとる。昔から日本では祝い事や特別な日に食べる〈ハレ〉の日の食べ物である餅を食べる。正月は、旧年の収穫や無事に感謝し、新年の豊作や家内安全を祈りながらいただくとたい。正月の料理をおせちというのは、節(せち=節会)の食べ物として歳の神に供え、家内親族そろって節振る舞いにあずかるからや」


写真④:雑煮の膳に添える黒豆(左上)などの〈おせち料理〉
     =福津市津屋崎で、07年1月4日午後0時03分撮影


清 「昭和生まれのおいしゃんたちは、正月の前後は、どうやって過ごしとったとね。それと、鏡餅=写真⑤=を床の間や神棚に飾るのは、何の意味があると?」
琢二 「暮れの31日の夕食で、運そばを家中で食べ、雑煮の用意が終わったら、天神町に1軒あった銭湯に入って、一年の垢を落とし、波折宮や宮地嶽神社へ年越し参りする家族もあった。銭湯は元日は休みで、2日は普段の日にはない朝湯があり、おいしゃんも親子で入りに行ったもんばい。7日は、餅を入れた〈福入り雑炊〉を食べた。

 鏡餅は、歳神や祖霊に供える中高に作った餅で、お供えしてからいただく尊い餅。正月の主要な供物とされるから床の間や神棚にお飾りする。重ねた丸い餅を鏡餅と呼ぶ理由は、丸い餅の形が神様が宿るとされた昔の銅鏡に似ていることや、餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿は1年をめでたく重ねる意味もあるからなどというな。お飾りの形は、餅を二重ねにして供え、大きく実が育つのにあやかって代々家が大きく栄えるようにと願った縁起物のダイダイや、常緑樹で生命の永続性を象徴するユズリ葉、シダの葉の裏が清めにふさわしい白色のモロムキ(ウラジロの福岡弁)、〝寿留米〟につながるスルメ、〝喜ぶ〟を意味する昆布を飾る」

清 「昭和の子供は、正月は何して遊んだと?」
琢二 「男の子は、こま回しや陣取り、タコバタ(凧揚げ)、釘打ち、パッチン、ケンケンパーなど。女の子は、羽子板での羽根つきや、縄跳び、百人一首、ケンケンパーなんかだな」


写真⑤:床の間に飾られた鏡餅
     =福津市津屋崎で、06年12月31日午後2時43分撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月28日〈津屋崎学〉019:桃中軒雲右衛門と「新泉岳寺」

2006-12-28 10:34:22 | 郷土史

●写真①:東京・高輪の「泉岳寺」の寺号と墓砂を分霊として譲り受け、建立された「新泉岳寺」

      =福津市津屋崎天神町で、2006年8月6日午前6時30分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第19回:2006.12.28
  桃中軒雲右衛門と「新泉岳寺」


清 「おいしゃん(叔父さん)、今年もあと3日を残すだけになったね。12月14日、福津市津屋崎天神町の万松山新泉岳寺=写真①=で、約300年前の赤穂浪士討ち入りの義挙をたたえる〈義士祭〉=写真②=が催されたのに初めて行ったっちゃが、約70人も参列者がいて、感動したばい。旧暦の元禄15年(1702年)に大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日のことが、津屋崎でも年に1回、新泉岳寺で話題になるっちゃね」


写真②:万松山新泉岳寺で催された赤穂浪士討ち入りの義挙をたたえる〈義士祭〉
     =福津市津屋崎天神町で、2006年12月14日午前11時30分撮影

琢二 「新泉岳寺は、津屋崎の観光開発を手がけた実業家、児玉恒次郎氏が桃中軒雲右衛門=写真③=の義士を扱った浪曲に感動し、四十七士を祭っている東京・高輪の泉岳寺の寺号と墓砂を分霊として譲り受けて建立した。そのへんの経過は、福津市が新泉岳寺の境内入り口に建てた案内標示の解説文=写真④=に次のように書かれとる。

〈渡半島に活洲場(いけすば)を開設するなど、町の観光開発に熱心だった故児玉恒次郎氏が大正2年(1913年)に建立(創設)した赤穂四十七士の墓です。
 福本日南の『義士銘々伝』を浪曲師として有名な桃中軒雲右衛門の語りで全国に広めた児玉氏の功績が認められ、東京高輪の泉岳寺から特別に許可を受け、寺号と47人の義士の墓砂を分霊として持ち帰ったものです。
 毎年、12月14日の討ち入りの日には、児玉氏の親族などにより義士祭が行われており、法要やそばの接待が行われています〉

福本日南は、今の西日本新聞の前身だった九州日報の社長兼主筆だ。ところで、この桃中軒雲右衛門が、津屋崎の天神町に住んどったのを知っとうや?」
清 「何も知らん。第一、桃中軒雲右衛門どころか、浪曲というのもよう知らんもん」


写真③:明治40年代に爆発的な人気を得た名浪曲師・桃中軒雲右衛門
     =06年12月27日、田中香苗氏著『津屋崎風土記』から複写
    
琢二 「浪曲は浪花節とも言い、明治時代初期から始まった演芸三味線の伴奏に合わせて節を付けて歌う部分と、語りの部分を一人で演じる寄席演芸たい。〈浪花節だよ、人生は〉と言われるように、義理人情の世界を題材にした演目が多い。明治時代の初期に、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、その名前から〈浪花節〉と名付けられた。以後、明治40年代に一世を風靡した桃中軒雲右衛門や二代目広沢虎造の活躍で戦前まで全盛を迎えた。私の若いころは、広沢虎蔵の浪曲、『清水次郎長伝』なんかが、NHKラジオ放送の番組で流されとったから、〈旅行けば、駿河(するが)の国に茶の香り…〉などと、語り口調を真似して唸ったもんや」


写真④:福津市が建てた案内標示に書かれた「新泉岳寺」の解説文
     =「新泉岳寺」境内入り口で、06年10月28日午前10時58分撮影


清 「へー。それで、桃中軒雲右衛門は、どげな浪曲をやっとったとね」
琢二 「桃中軒雲右衛門は群馬県出身で、父親は吉川繁吉といい、祭文語りをしていた。雲右衛門は、松の盆栽と金屏風を両側に置いた舞台で、富士山のように裾にゆくほど左右に広がるテーブル掛けの席の立ち高座で語る舞台演出を考案し、浪花節人気を高め、浪界の宗家とか、浪聖とも呼ばれた。修行中に静岡県で東中軒という駅弁当屋で空腹をしのいだため、富士山よりも上にある雲のように雲から上はないような芸人になりたいと願って、26歳だった明治25年(1892年)に祭文語りの二代目繁吉を桃中軒雲右衛門と改名した。雲右衛門の語りは、腹の底から唸り出すような祭文調の美声で〈人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らす、朝寝十年、うたた寝十年、残り五年を居眠りすれば、人生しまいにゃゼロとなる〉の語り出しが、当時の庶民に大受けしたそうたい」

清 「なかなか名調子の台詞やね。で、雲右衛門は、いつごろ福岡県に来たっちゃろうか」
琢二 「日本で孫文を支援して〈辛亥革命〉を支えた革命家となる前に、浪花節で自伝を語り歩いていた弟子で熊本県生まれの宮崎滔天(とうてん)の紹介で九州日報に売り込み、明治36年(1903年)6月、日露戦争前の軍国主義日本の武士道鼓吹を目的に、義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で旗上げ興行し、息の長い名調子で聴衆を酔わせ、大入りの好評を博した。明治40年(1907年)には東京の本郷座で総髪、紋付袴姿で『義士伝』を口演、約1か月の大入りを続け、名声は日本国中に広まった」
清 「津屋崎に住んだいきさつは?」
琢二 「海が好きで時々、津屋崎には遊びに来ていたらしい。大正4年(1915年)ごろ、喉頭病の療養のためか、天神町の鐘川商店の近所に弟子と一緒に住んどったが、大正5年に43歳で病死したそうだ」


清 「津屋崎の〈義士祭〉=写真⑤=は、どういう歴史があると?」
琢二 「以前の〈義士祭〉は、地元の郷土史家らで組織した〈四十七士をしのぶ会(古野卯平会長)〉が昭和50年(1975年)から主催し、記念塔前で、羽織に鉢巻姿の討ち入り装束の会員と市民らが参加しての法要や、仏教婦人会、吟詠グループによるご詠歌や詩吟を披露。このあと、同会から墓参者に義士が討ち入り前に食べたという〝討ち入りそば〟約千杯や、縁起ものの目刺しが振る舞われとったが、会結成10年を経た昭和60年(1985年)に、会員の高齢化や、『地域の人たちへの義士の心の理解も深まった』として会を解散。翌61年以降の法要は、児玉家にバトンタッチされている。


写真⑤:「津屋崎義士祭」の旗や幟が立つ新泉岳寺
    =天神町で、06年12月14日午前11時01分撮影

清 「今年の〈義士祭〉は、曇り空の下、午前11時から四十七士の各墓=写真⑥=に線香が立てられた境内で法要が行われた。福津市宮司にある真言宗・〈海心寺〉の吉原泰祐住職らが記念塔前で読経し、参列者が次々と焼香した。児玉家を代表して津屋崎の京塚萬次郎さんが『皆様のご協力で、義士祭を毎年続けていきたい』と挨拶しとんしゃった。このあと、『刃傷松の廊下』などの詩吟や剣舞=写真⑦=が披露され、なかなか良かったよ。正午から境内に張られたテントの席で、参列者に振る舞われた〝討ち入りそば〟=写真⑧=をいただいたばってん、おいしかったばい」


写真⑥:「新泉岳寺」境内に建てられた四十七士の墓
    =天神町で、06年12月14日午前11時02分撮影


写真⑦:四十七士の墓の前で披露された剣舞
      =「新泉岳寺」で、06年12月14日午前11時44分撮影

琢二 「おい、おい。そばを食べるのが目的やないぞ。義士たちには、武士の一分(いちぶん)が大事なことやったということを理解せんとな。今の世の中、利ばかりがもてはやされて、義がないがしろにされとる。いじめの問題も、卑怯な真似をするのは、武士の恥だという心構えがあれば、少なくなろう。日本人のバックボーンであるいい意味の武士道を子供の時から教育せんといかんばい」


写真⑧:境内に張られたテントの席で、参列者に振る舞われた〝討ち入りそば〟
     =新泉岳寺で、06年12月14日午後0時10分撮影


万松山新泉岳寺(福岡県福津市津屋崎天神町):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩5分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎駅前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約25分。

福津市・「新泉岳寺」位置図
 福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」位置図
        (ピンが立っている所)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月15日〈津屋崎学〉018:〈津屋崎千軒〉

2006-12-15 07:16:13 | 郷土史
●写真①:明治の町家形式の商家・「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」
      =福津市津屋崎新町で、2006年11月29日午前10時55分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第18回:2006.12.15
  〈津屋崎千軒〉


清 「おいしゃん(叔父さん)、今年は、福津市の呼びかけで〈津屋崎千軒通り〉の浮揚策を図る〈「津屋崎千軒」考え隊〉が発足し、〈津屋崎千軒〉について市民の関心が高くなったちゃないと?」
琢二 「そうだといいな。市民約20人が隊員に応募し、福津市津屋崎天神町生まれの吉村青春さんも隊員になっとうたい」
清 「明治34年(1901年)に建てられた染物屋の紺屋・旧上妻(こうづま)邸で、木造二階建ての町家形式の商家・〈津屋崎千軒民俗館『藍の家』〉=写真①=のことは、市民の間で割と知られとうと思うばってん、そもそも〈津屋崎千軒〉って、何のことか分からん人も多いと思うき、歴史的な話からしちゃらんね」
琢二 「福津市勝浦の市営〈あんずの里運動公園〉の展望園地にある史跡案内盤〈津屋崎千軒〉では、〈津屋崎千軒地域〉について次のように説明している=写真②=。

〈津屋崎千軒地域 江戸末期から明治にかけて「いさば船」による海上交通の要衝の地として栄え、津屋崎千軒と呼ばれるほど繁栄を極めたところであり、町並は今も昔の趣を残している〉

〈いさば船〉というのは、〈五十集船(いさばせん)=写真③=〉とも書き、約50㌧の小型廻船(かいせん)のこと。国内沿岸の物資輸送をする商船で、〈五十集〉とは〈水産物や薪炭など何でも積む〉という意味だ」


写真②:「あんずの里運動公園」展望園地にある津屋崎の史跡案内盤〈津屋崎千軒地域〉の写真と解説文
     =福津市勝浦で、2003年9月6日午後1時47分撮影


写真③:津屋崎から国内沿岸に物資を輸送した商船〈五十集船〉
     =06年12月14日、「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」パンフレットから複写

清 「展望園地にある史跡案内盤には、〈津屋崎千軒〉の説明はないと?」
琢二 「福津市が今月、津屋崎漁港岸壁の市営〈お魚センター〉駐車場に建てた津屋崎漁港周辺図案内表示=写真④=では、〈津屋崎漁港と津屋崎千軒〉について次のように案内している=写真⑤=。

津屋崎漁港は、黒田藩より海上交易を認められていた漁港で、博多港の外港として宗像・粕谷・鞍手地方の物産の集散港として江戸時代から明治、大正まで大いに栄えていました
 また、この海上交易と塩田により繁栄した津屋崎地域の賑わいの様子を、人家が千軒もあるほどに繁栄している町との表現で「芦屋千軒」「関千軒」と並び称されていました。
 残念なことに現在では江戸時代の建物がほとんど残っていませんが、藍の家周辺では今でも当時の面影を偲ぶことができ、夏の山笠は活気を呼び戻します〉」


写真④:お魚センター駐車場に建てられた〈津屋崎漁港周辺図〉表示
     =福津市津屋崎浜の町で、06年12月12日午前9時44分撮影

清 「この案内文のカットに、夏祭りの〈津屋崎祇園山笠〉が津屋崎千軒通りを走る写真が付いとうね。〈津屋崎千軒〉として、江戸末期から明治、大正まで栄えたということか」
琢二 「津屋崎は博多港の外港で、博多と下関に向かう船の経由地でもあり、江戸時代に津屋崎と勝浦の塩田で製塩が始まり、販売用の塩を積んだ〈五十集船〉が津屋崎から日本海沿岸の各地へ向かい、帰り荷に鉄や昆布などの商品を運んで、津屋崎を海商都市として発展させた」
清 「それで、〈芦屋千軒〉、〈関千軒〉っていうのは、どこかいね」
琢二 「〈芦屋千軒〉は、福岡県遠賀郡の芦屋町。平安中期から芦屋町の港・芦屋津は、遠賀川の河口港として繁栄し、江戸時代には大阪・江戸、遠くは松前(函館付近)まで商人たちが行き来し、回船問屋も栄えた。古代には〈岡の津〉と呼ばれ、大陸貿易で栄えるとともに、鎌倉期には本州赤間関(下関)と博多を結ぶ航路の中間地として重要視され、江戸期には福岡藩の蔵所として遠賀川流域の年貢や生産物が集散する港町として繁栄し、〈芦屋千軒〉とたたえられた。〈関千軒〉は、同じような賑わいをみせた山口県下関市のことたい」


写真⑤〈津屋崎漁港周辺図〉表示に掲載された「津屋崎漁港と津屋崎千軒」の案内文
     =福津市津屋崎浜の町で、06年12月7日午前9時23分撮影


清 「そうすると、〈津屋崎千軒地域〉は具体的にはどの地域なんやろか」
琢二 「今の福津市の行政区で言う津屋崎区の新町、天神町、北の一・二区などだな。福津市が津屋崎千軒通りの散策道路整備工事で、06年12月初旬までに浜の町の津屋崎漁港前から東側の新町にある〈津屋崎千軒民俗館『藍の家』〉付近まで延長約500㍍のコンクリート舗道に2色の石板を敷き詰めた。津屋崎千軒通りは、『藍の家』の東側の職人や商人の町だった天神町までと考えると、総延長は約1㌔あるだろう」

清 「江戸時代の〈津屋崎千軒〉の家は、まだ残っとうと?」
琢二 「残念ながら、津屋崎地区は江戸時代からたびたび大火があって、江戸期の建物はほとんど残っとらん。明治40年代になって、物資の輸送は海運から鉄道の時代に様変わりし、塩の製塩から販売までを政府が管理する塩の専売制が敷かれて打撃を受けた。66㌶あった塩田も廃止され、〈五十集船〉は衰退の途をたどり、港もさびれたからな」
清 「明治の建物なら、町家形式の商家の旧上妻邸・〈津屋崎千軒民俗館『藍の家』〉が残っとうよね」
琢二 「住民グループが平成5年(1993年)、津屋崎千軒の古い町並みを残そうと運動を起こし、同6年に上妻家から福津市(当時は旧津屋崎町)へ建物の寄贈を受け、〈津屋崎千軒民俗館『藍の家』〉が誕生した。現在、建物の保存・管理は市が行い、運営はNPO法人〈つやざき千軒いきいき夢の会〉が担当している」
清 「『藍の家』では、展覧会やコンサートなどのイベントが催されとるね」
琢二 「地域に根ざした文化の情報発信基地の役割を果たしているんだ。江戸時代から長崎街道筋の宿場町と有明海に臨む港町として〈浜千軒〉と呼ばれて栄えた佐賀県鹿島市の肥前浜宿(はましゅく)では、町興しグループのNPO法人〈肥前浜宿水とまちなみの会〉が〈呉竹酒造〉の酒蔵で2005年に盲目の世界的ピアニスト・梯剛之さんを招いてピアノリサイタルを開き、620人が入場し、大盛況だった。06年11月19日、〈「津屋崎千軒」考え隊〉で肥前浜宿を視察した吉村青春さんによると、呉竹酒造の経営者は『津屋崎には、うちより大きな造り酒屋の豊村酒造さんがありますね』と話していた。『藍の家』の南隣の豊村酒造は、明治時代創業で大きな酒蔵もあるし、町興しに一流のアーティストを招いての酒蔵コンサートでも開かせてもらえると面白うなる」


写真⑥:津屋崎千軒通りにある明治創業の造り酒屋〈豊村酒造〉
     =福津市津屋崎新町で、06年12月3日午後3時51分撮影

清 「市外から多くの人が来て賑わう町になるといいばってん、今の津屋崎の街頭では、よそから津屋崎千軒の町並みを訪ねた人には、分かりにくいちゃないと?」
琢二 「福津市が06年12月初旬、津屋崎漁協そばに〈散策道路 津屋崎千軒〉の表示を、また市営〈お魚センター〉駐車場に〈津屋崎漁港と津屋崎千軒〉の地図付き案内表示をそれぞれ設置したから、〈お魚センター〉前の地図を見て町並みを散策してもらうといい。06年2月には、水産庁から全国の〈未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選〉に選ばれている。もっとしゃれた案内表示や分かりやすい説明板を建て、公衆トイレや町歩きに疲れた人の無料休憩所、甘味処、喫茶店など来訪者に優しい施設を整備していきたい。何より〈津屋崎千軒〉の文化遺産の資料展示と文化・観光情報発信の基地となり、集会、催事場を備えた〝津屋崎千軒記念館〟とでも呼べるような中核施設が、千軒通りの中心部に欲しいばい」

福津市・津屋崎千軒通り
   福津市・津屋崎千軒通りの位置図
     (ピンが立っている所)

津屋崎千軒通り(福津市津屋崎):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線「津屋崎」駅から徒歩約15分。西鉄バス「津屋崎橋前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月5日〈津屋崎学〉017:福岡県指定有形文化財〈新原の百塔板碑〉

2006-12-05 11:14:37 | 郷土史
●写真①:金網のフェンスに囲われた福岡県指定有形文化財新原の百塔板碑
      =福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時32分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第17回:2006.12.5
  福岡県指定有形文化財〈新原の百塔板碑〉


清 「11月26日に終わった〈大相撲九州場所〉で優勝した朝青龍はモンゴル出身の横綱やが、元寇で日本を攻めてきたモンゴル人を祀った墓が津屋崎にあると聞いた。本当かいな、おいしゃん(叔父さん)」
琢二 「あると言えば、ある。福津市津屋崎勝浦新原(しんばる)にある〈新原の百塔板碑(ひゃくとういたび)〉=写真①=の謂われにかかわることたい」
清 「それは、どんなもんかいな」
琢二 「板碑とは、死者供養のために、墓石の後ろに立てる細長い板の石塔のことで、板形の扁平な石で造られたから板碑と言う。〈新原の百塔板碑〉は、昭和49年に福岡県有形文化財に指定されとる。金網のフェンスに囲まれた〈新原の百塔板碑〉の前に、福津市の説明盤=写真②=が建ててある。それには、次のような説明文が書かれている。

 〈5世紀前半につくられた新原・奴山21号墳の上に8基の石塔が建っています。石塔は当地から400m程離れた渡地区から切り出された玄武岩を用いています。石塔には梵字(古代インド文字)とその下の円内に観音菩薩、金剛界大日如来、文殊菩薩、薬師如来等を線彫りしたものと、梵字のみのもの、釈迦如来の図像のみのものがあります。なかでも三方向に梵字がある石塔は、正面に『願共緒衆生往生安楽国 文永十一年八月日改立 勧進僧行円』とあり文永11年(1274)に建てられたことがわかります。また国内で三例しかない珍しい重体至極梵字(いくつかの梵字を切り継いだもの)があります。これらの石塔は鎌倉幕府の五代目執権である北条時頼が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てたとも、また、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたともいわれています。いずれにしても鎌倉時代中期の津屋崎の文化レベルの高さをうかがわせる文化財です〉」


写真②:〈新原の百塔板碑〉の前に建てられた福津市の説明盤
     =福津市津屋崎勝浦新原で、2006年12月1日午前10時30分撮影

清 「〈新原の百塔板碑〉は、〈新原・奴山21号墳〉の上に建てられとるっちゃね」
琢二 「〈新原・奴山21号墳〉は、直径17㍍の円墳だ。この新原・奴山地区に宗像君一族が古墳を次々と造る前に、地元の小豪族が造った古墳と考えられとる。21号墳の北側にあるのが、今も41基が残っている〈新原・奴山古墳群〉のうち、宗像君一族の墓では最も古い5世紀前半に造られたという22号墳たい。全長約80㍍の前方後円墳で、裁縫の神様を祀る〈縫殿宮(ぬいどのぐう)〉の古宮跡だ。それで、石塔は実際には14基あり、その中の8基に梵字と観音菩薩などの仏像が細い線彫りで描かれとる。『文永十一年八月 日改立』との銘文があることから、これらの板碑は鎌倉時代中頃に建てられたと見られる」

清 「それから、〈新原の百塔板碑〉の建設理由に2説あるのは、どういうこと?」
琢二 「まず北条時頼(ほうじょうときより)が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てた説から話そう。鎌倉幕府の第5代執権時頼は、北条氏の始祖である平維将を先祖とする平家の一門だ。宗教心の厚い名君だった。30歳だった康元元年(1256年)に病に倒れて執権職を辞し、出家して死去するまでの7年間、遊僧となって諸国を巡回した。時頼が、勝浦奴山にある縫殿神社に大般若経六百巻の写経を納めたとする江戸時代の古文書もあり、勝浦新原に立ち寄ったかもしれん。だが、時頼は、〈新原の百塔板碑〉銘文に彫られた〈文永十一年〉より12年前の弘長3年(1262年)に死んでいるから、年代が合わん。時頼の遺言で建てられたと主張する説もあるが、12年後では遅すぎて説得力はない。平家の落人が、隠れ住んだ勝浦奴山村に戦死者のため〈幾許(いくばく)の塔〉を建てたという文献もあり、これが〈新原の百塔板碑〉の起こりかもしれんな」

清 「そうね。では、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたという説はどうかいな」
琢二 「国学者で江戸時代後期の福岡藩士・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)は、文永年間にこの辺の海岸で蒙古兵が多く討ち取られたので、そのときの兵卒のために建てた供養塔であると、藩命で編纂した『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』に書いている」
清 「この説は、信用できると? 中国大陸を支配していた元が日本に侵攻してきた〈元寇〉は、1274年の〈文永の役〉と、1281年の〈弘安の役〉の2度あったよね」

琢二 「よく覚えていたな。文永の役に関する奴山地区に残る古文書には、文永11年(1274年)6月21日に〈蒙古が、筑前国在自潟に渡来。その兵三千三百余人なり。当地に上陸兵は、三千二百人。宗像大宮司長氏は、宗像、水巻(遠賀)、鞍手三郡の兵士を引率〉と書かれている。6月22日には〈在自潟にて合戦。敵兵二千二百余人を討つ。敵の負傷五百七十余人。敵の我が国に帰化する者四百三十人。我が軍戦死者三千五百余人〉とある。そして、6月23日には〈六時にわかに颱風吹き出し、賊船ことごとく海没し、賊兵の船中に居る者百人ことごとく海中に死す。この日晴天となり颱風静まる。我が軍の戦死者は奴山郷に埋葬す。『今の百塔是れなり』『賊の死体は在自遠干潟、海浜の地下六尺に埋む』〉と記録されている。

 我が三郡の戦死した鎌倉武士が埋葬されたのは、この百塔だろう――とも思われたが、ここで重大な事実誤認がある。実は、〈文永の役〉は10月のことで、石塔に書かれた〈八月改立〉の時期と合わない。5月から7月にあった〈弘安の役〉なら時期が合うが、いずれにしても奴山地区に残る古文書は信用性を失う。ただ、多くの頭蓋骨が出たという百塔近くにある通称〈海浜墓地〉が蒙古兵の埋葬場所ではないかと見る余地もあるかもしれん。だから、厳密にはモンゴル人が葬られたのは〈新原の百塔板碑〉付近であるかもというべきかな。もっとも、蒙古兵の中には服属してモンゴル人に率いられた高麗人や漢人なども含まれていたようだ」

清 「昔のことは、はっきりせんね。それから、〈新原の百塔板碑〉で残っている14基のうち8基が福岡県有形文化財に指定されとるけど、今では石塔の数は〈百塔〉ないね」
琢二 「昔はもっと多くあったらしく、江戸時代に福岡藩の鷹取周成が編纂した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』には二百塔と記されとる。以前は、少なくとも〈百塔〉はあったのだろう。今は、石塔の周囲は草が生え、木立に覆われて、昔の面影はない」


写真③:木立に覆われた古墳「新原・奴山21号墳」の上にある〈新原の百塔板碑〉
     =福津市津屋崎勝浦新原で、06年12月1日午前10時34分撮影
福津市の〈新原の百塔板碑〉
   福津市の〈新原の百塔板碑〉位置図

〈新原の百塔板碑〉(福津市津屋崎勝浦新原):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線「津屋崎」駅下車、西鉄バスに乗って「津屋崎駅前」から8分の「奴山口」で下車し、徒歩10分。米・麦乾燥施設の「宗像農協カントリーエレベーター」前の国道495号線東側にある〔車で〕九州自動車道古賀インターから同国道経由で約30分。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年11月27日〈津屋崎学〉016:津屋崎小学校校舎内にある遺跡「在自唐坊跡展示館」

2006-11-27 13:55:55 | 郷土史
●写真①:12世紀の遺跡「在自唐坊跡展示館」が南校舎1階に併設されている津屋崎小学校
      =福津市津屋崎在自で、2006年11月24日午前10時38分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第16回:2006.11.27
  津屋崎小学校校舎内にある12世紀の遺跡「在自唐坊跡展示館」


清 「11月14日の郷土史談義で、郷土の名力士・沖ツ海のことを叔父さんに説明してもろうた時、同じ福岡県出身としてがんばってほしいと話に出た〝カド番大関〟魁皇は千秋楽の26日、10勝5敗で九州場所を終え、まずまずの成績だったね」
琢二 「無敗の8連勝で勝ち越した時には、久しぶりに優勝争いに食い込むかと期待されたがな。その後は、ずるずると負けがこみ、いつもの弱気の魁皇だったぞ。大関だから、最低10勝は当たり前たい」
清 「しょうがないね。それはそうと、僕の母校・福津市立津屋崎小学校=写真①=に遺跡があると聞いたが、何のこと?」
琢二 「なんや、知らんのか。日宋貿易に携わった中国人居留地と考えられる〈在自西ノ後(あらじにしのあと)遺跡〉だ。市の文化財に指定されとる」
清 「いつごろの時代かいな」
琢二 「約8百年前の12世紀、平安時代から鎌倉時代にかけて、中国から宋の貿易船が入港していた津屋崎には〈綱首(ごうしゅ)〉と呼ばれる中国人の貿易商人が住んでいた。日本に滞在しながら、貿易を行った中国人街の〈唐坊〉ができたわけたい。〈在自西ノ後遺跡〉で多量に出土した中国製陶磁器の中に、〈綱首〉の存在をうかがわせる〈綱〉と書かれた青磁があり、隣に中国人の住む区画を意味する〈唐防地〉という地名も残っている。古くは〈唐坊地〉とも書かれた。中世の文献資料でも、中世の宗像氏が宋の貿易商人と関係が深かったことが分かっている」

清 「この遺跡は、いつ発掘されたっちゃろうか」
琢二 「遺跡は1993年7月、津屋崎小学校北校舎改築工事の際に発見された。南校舎改築工事に伴う2002年7月からの第二次、第三次の発掘調査で、建物跡や井戸、荷札と見られる木簡、中国のお金などが出土したったい」
清 「へー、そうね。南校舎の中に展示館が設けられたとも聞いたばってん、どげなもんが展示されとうと?」
琢二 「〈在自唐坊跡(あらじとうぼうあと)展示館〉=写真②=という名前で、南校舎1階部分に発掘当時の様子がうかがえるように04年4月に併設された。儀式や宴会など非日常の場で用いた陶器、青磁、白磁などを廃棄したと考えられる〈土器溜(だ)まり〉跡は、表面が崩れないように加工処理しただけにとどめ、出土したままの状態で多くの土器を見られる。当時の人たちは、非日常の場で使った器を日常生活に持ち込むのを忌み嫌ったようで、使用後はまとめて廃棄したのが〈土器溜まり〉として見つかったわけだ。

 このほか、展示館では井戸も保存処理をして組み立て直し、出土した位置に戻してあり、墨書(ぼくしょ)磁器や木簡など約百点を展示、パネルで解説してある。墨書磁器とは、貿易船に商品を運ぶ際に持ち主が分かるように、一番上に積まれた磁器に持ち主の名前を目印として書いたものだ」
清 「中国の焼き物が、だいぶん出土しとるばってん、具体的に言うと、どんなもんかいね」
琢二 「中国南部で生産され、なめらかな曲線文様が特徴の〈龍泉窯(りゅうせんよう)〉や、ジグザグ文様の〈同安窯(どうあんよう)〉の青磁、白磁、陶器で、12世紀後半ごろの陶磁器だ。磁器のほとんどは碗と皿で、壺やふた付きの小容器の合子(ごうす)なども数点出土した。陶器は、壺や甕(かめ)、水差しなどだ」


写真②:津屋崎小南校舎に併設、発掘当時の様子がうかがえるようになっている〈在自唐坊跡展示館〉
     =津屋崎小南校舎で、2007年10月30日午後0時18分撮影

清 「結構、大きな展示館のごとあるね」
琢二 「南校舎は、鉄筋コンクリート2階建て延べ約3千2百平方㍍で、建設工事に約9億5千万円をかけたが、うち展示館は約5百80平方㍍で、教室なら3つ以上も入る広さがあり、工費は約1億8千万円たい。展示館では、遺跡の内容だけでなく、当時の日本とアジアの情勢や津屋崎の歴史も解説文と映像で紹介している。遺跡を校舎に併設した全国的にもユニークな展示館で、小学生たちが気軽に津屋崎の歴史を勉強できるのがいいばい」
清 「僕もいっぺん、展示館を見とうなった」
琢二 「平日は休館で、土・日曜、祝日に見学したい場合は、事前に展示館の利用を市郷育推進課(TEL0940―52-4969)に予約が必要だ。福間町と合併して福津市になる前の旧津屋崎町時代は、もっと簡単に見学できとったのに、ちと面倒くそうなったな」

福津市立津屋崎小の位置図
    福津市立津屋崎小学校の位置図


 津屋崎小学校(福津市津屋崎在自):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線「津屋崎」駅から徒歩約15分。西鉄バス「津屋崎小前」下車〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年11月17日〈津屋崎学〉015:「津屋崎塩田」の軌跡

2006-11-17 21:25:16 | 郷土史
●写真①:「あんずの里」展望台にある津屋崎の史跡案内盤「津屋崎塩田」の写真と解説文
      =福津市勝浦で、2003年9月6日午後1時47分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第15回:2006.11.17
  「津屋崎塩田」の軌跡


清 「叔父さん、きょうは福津市津屋崎にあった〈津屋崎塩田〉の話をしちゃらんね」
琢二 「津屋崎には昔、九州一の塩田があったんだ。筑前国にあった海浜で塩を焼く8か所のうち、勝浦と津屋崎で筑前全体の製塩高の約90%を占めていた。福津市勝浦の〈あんずの里〉展望台(園地)にある津屋崎の史跡案内盤には、〈津屋崎塩田〉の写真と解説文=写真①=が紹介されとるぞ。解説文には〈1741年から明治末期まで津屋崎(43ha)と勝浦(23ha)塩田が昔の入り海にあり、大変栄えた。津屋崎塩田は戦後、一時復興したが、しばらくして廃止された〉と書かれている。津屋崎では深く入り込んだ入り江が製塩に適し、古くは室町時代から製塩が行われていた。江戸時代初期の寛文8年(1668年)には、勝浦塩田が完成し、津屋崎の塩田が本格的に開発されたのは1741年だった」
清 「1741年というと、どんな年やろか」
琢二 「江戸時代中期で、徳川八代将軍吉宗が治めていた寛保元年だ。四国の讃岐国津多浦(香川県寒田郡)から商用で津屋崎を訪れた大社元七(おおこそ・もとしち)さんが、津屋崎から勝浦にわたる海岸の原野を見て、塩田開発を福岡藩に申し出た。故郷から妻子や一族郎党を呼び寄せ、苦労の末、2年後の寛保3年(1743年)には塩釜を立てて製塩が始まり、大社さんが〈塩浜庄屋〉に任命された。開墾した塩田面積は約40㌶、製塩高5万石(約9㌧)という大規模な製塩事業で、戸数100戸余の男女約400人が従事し、塩行商人100人超というほど繁栄し、〈津屋崎塩田〉の名は筑前一帯に知られていた」
清 「すごいね。大社元七さんは、偉い人ばい」
琢二 「『福岡藩御用帳』によると、江戸時代後期に近い寛政元年(1789年)の塩田の製塩量は約50万俵(約9,000立方㍍)とされている。塩の販売は、商人に依頼していたが、この50万俵のうち11万俵は博多・福岡方面へ売り渡し、同じく11万俵を福岡県内の遠賀・鞍手方面へ売り、また9万俵を宗像・糟屋で売っていた。残り19万俵は、他国に売り渡していた」


写真②:津屋崎の史跡案内盤「津屋崎塩田」に掲載の「津屋崎塩田」の製塩作業風景
     =福津市・「あんずの里」展望台で、03年9月6日午後1時47分撮影

清 「大した製塩量やったっちゃね」
琢二 「それが、明治維新後、塩田では製塩・販売のもめごとが起こり、津屋崎塩浜塩会所などの製塩・流通組織は解体され、一時は混乱した。しかし、明治15年(1882年)に津屋崎製塩同業組合が結成され、製塩販売が再開された。津屋崎の塩は、味噌・醤油・漬物などに良く合うと各地で評判を呼び、宗像一円のほか、遠くは佐賀、長崎両県にも広がっていった。津屋崎の繁栄をもたらしたのは、この塩田たい。製品の塩を津屋崎港から帆船で積み出し、帰り荷に各地の物産を運んだから海運業が発展した津屋崎が物流基地となり、港は賑わった。人家が千軒もあるほど栄えた町の意味で芦屋千軒、関千軒(下関)と並び、〝津屋崎千軒〟と呼ばれ、海上交易の港町として明治から昭和初期まで栄えた。津屋崎は、明治30年(1897年)に村から町になったのに、福岡市に近いベッドタウンの古賀市の町制施行が昭和13年(1938年)だったことからも、明治時代は津屋崎が地域の拠点だったことがうかがえる。昔は、古賀の住民が商店の多い津屋崎に買い物に来ていたほどだ」
清 「へー、評判のいい塩のおかげで、津屋崎の町まで繁盛したんやね」
琢二 「そうなんだが、日清戦争後には、台湾産などの安い塩の輸入と国内の塩田の増加で、塩は過剰生産に陥り、国の保護育成政策が望まれるようになった。それから日露戦争の戦費調達がきっかけとなり、明治38年(1905年)に塩専売法が施行され、政府が製塩から販売まで管理する塩の専売制がしかれた。この結果、製塩から販売まで行ってきた津屋崎の塩田は大きな打撃を受け、津屋崎製塩株式会社は経営難に陥った。明治43、44年(1910、1911年)に政府が行った第1次塩行整理も追い討ちとなり、とうとう津屋崎・勝浦塩田は全て廃止されてしまったんだ。

 現在、勝浦の塩田跡は田んぼに変わっているが、塩田のころの遺跡〈新規仕居(しんきしおり=新規の水門のこと)〉=写真③=が塩浜地区に残されている。外海と入り江を遮っている砂浜を掘り切り、満ち潮になると水圧で水門が開いて海水が入り江に流れ込む仕組みで、長さ約200㍍、幅約8㍍の石組みの掘り切りだ。水門の口に砂が堆積しないように、石で堤防を築く工夫がしてある。江戸時代後期の文政9年(1826年)に工事が完成した」


写真③:潮の干満を利用して海水を入り江に通す石組みの掘り切り〈新規仕居〉
     =福津市勝浦塩浜で、06年11月11日午後0時23分撮影

清 「残念やね。国策の犠牲になったとばい」
琢二 「いまや、体に良い天然塩が重宝がられる時代だ。津屋崎に塩田を復活して売り出したいところだが、海水の汚染も進んでいるし、〈津屋崎塩田〉跡地=写真④=の砂も大方、建設工事用に採取され、違う土に入れ替えられて製塩には向かない状態になっとるそうだ」


写真④:広大な原野となっている「津屋崎塩田」跡地
     =福津市末広で、06年10月30日午後1時45分撮影

福津市の津屋崎塩田跡地
   福津市・「津屋崎塩田」跡地の位置図
       (ピンが立っている所)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年11月14日〈津屋崎学〉014:名力士・関脇「沖ツ海」の墓碑

2006-11-14 15:32:22 | 郷土史
●写真①:「新泉岳寺」境内にある関脇・沖ツ海の石像入り墓碑
      =福津市津屋崎天神町で、2006年10月28日午前10時58分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第14回:2006.11.14
  名力士・関脇「沖ツ海」の墓碑


清 「11月12日から〈大相撲秋場所〉が始まったね。福岡県出身の〝かど番大関〟魁皇(かいおう)は、初日白星で快調なスタート、2日目も連勝したよ。期待できそうやね、叔父さん」
琢二 「お前が、魁皇ファンとは知らんかったな」
清 「大相撲は、国技やもん。それに、魁皇はご当所力士のうえに、相撲っぷりが九州男児らしい。不器用だけど、強い時は横綱朝青龍だって投げ飛ばすけんね。腰や足の故障が多くて、弱い時はこれまた弱いけど…」
琢二 「そうだな。ところで、福津市津屋崎に昭和初期の大相撲で幕内優勝した宗像出身の名力士・関脇〈沖ツ海〉の石像が彫られた墓碑と、入幕記念の石碑があるのを知っとうや?」
清 「知っとう。津屋崎天神町の僕の家の近くにある〈新泉岳寺〉やろ。ばってん、よう見たことはないね」
琢二 「〈万松山新泉岳寺〉は大正2年(1913年)、津屋崎の実業家、児玉恒次郎さんが東京・高輪の赤穂浪士の墓がある〈泉岳寺〉から寺号と墓砂を分霊として譲り受け、四十七士を祀ろうと建立した。関脇〈沖ツ海〉の墓碑と入幕記念碑は、境内東隅の市道寄りにある。墓碑の表面には〈東京相撲 沖ツ海墓 東ノ関脇〉と白色で3行に刻字されているが、〈東の関脇〉の字は消えかかっとるな。裏面には〈児玉建之〉などと刻字されとる」


写真②:「新泉岳寺」境内にある関脇・沖ツ海の石像入りの墓碑と「入幕記念」石碑
      =福津市津屋崎天神町で、2006年10月28日午前10時58分撮影

福津市・「新泉岳寺」位置図
     福津市・〈新泉岳寺〉の位置図
       (ピンが立っている所)

清 「どんな相撲取りやったっちゃろうか」
琢二 「本名は北城戸(きたきど)福松。明治43年(1910年)5月28日、福岡県宗像郡南郷村(現宗像市)大穂の北城戸房吉さんの二男として生まれた。大正13年(1924年)5月場所で、若藤部屋所属・沖ツ海福雄の四股名で東京相撲の初土俵を踏んだ。身長182㌢、体重116㌔。強烈なぶちかましと左四つからの下手投げに威力があり、西の小結だった昭和7年(1932年)3月場所には9勝1敗で初優勝した。翌場所、東の関脇となり、大関昇進も期待される有望力士だったが、翌昭和8年(1933年)9月30日に巡業先の山口県萩市でフグ料理の中毒で急死した。まだ23歳の若さだった」
清 「可哀想やね。九州・山口の冬場の地方巡業では、フグを食べられるのも楽しみやったろうから、ごちそうになってフグの毒に中(あた)ったっちゃろう」
琢二 「昭和11年夏場所から関脇双葉山が初優勝以来、大関、横綱昇進後も含め5場所連続優勝しているが、角界では『もしも沖ツ海が生きていれば、双葉山の69連勝を阻めたのでは』とまで惜しまれた名力士だった。宗像市コミュニティーセンター南郷(なんごう)会館には、死の直前に婚約した師匠若藤親方の娘さんらと並ぶ沖ツ海の写真や、尋常南郷小学校で撮った同窓生との記念写真=写真③=、初優勝の成績などの資料が展示してある。実家近くには沖ツ海の御影石造りの墓もあるが、新泉岳寺にも墓碑が建てられたのは、沖ツ海が15歳の時に親もとになって一切の世話を引き受け、相撲界へ入門させた児玉さんが、郷土の誇りとして語り継ぐ記念碑として残したかったからだろう」
清 「ヘー、コミュニティーセンター南郷会館の展示品も見に行ってみよう」
琢二 「魁皇が平成12年(2000年)の夏場所で優勝したのは、福岡県出身の幕内力士としては沖ツ海以来68年ぶりの快挙だった。魁皇にも、もう一花咲かせて郷土の名力士になってもらいたいものだな」


写真③:尋常南郷小学校で撮った沖ツ海同窓生との記念写真
     =宗像市コミュニティーセンター南郷会館1階で、06年11月14日午前10時47分撮影

宗像市・コミュニティーセンター南郷会館
宗像市・「コミュニティーセンター南郷会館」位置図
       (ピンが立っている所)

▽宗像市・〈コミュニティーセンター南郷会館〉=福岡県宗像市野坂2119-5(℡0940-36-3465):◆交通アクセス=〔電車で〕JR鹿児島本線東郷駅下車、タクシーで10分〔バスで〕西鉄バス光岡バス停から徒歩5分、原町バス停から徒歩3分〔車で〕国道3号線光岡交差点から約30秒。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする