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吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年11月12日〈津屋崎学〉013:「舟つなぎ石」

2006-11-12 01:13:34 | 郷土史
●写真①:県道528号線の西側に立っている「舟つなぎ石」
      =福津市勝浦で、2006年11月5日午後1時10分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第13回:2006.11.12
  「舟つなぎ石」――昔、海だった津屋崎や、歌枕の「桂潟」が陸地となった証(あかし)


清 「福津市勝浦をドライブしとったら、西東(にしひがし)公民館近くの県道528号線の西側に〈舟つなぎ石〉=写真①=があったよ。叔父さん、知っとうね」
琢二 「ああ、昔は港で船をつなぐ石があった所だな。〈舟つなぎ石〉のそばに説明盤=写真②=があったろうもん」
清 「あった、あった。写真に撮ってきたよ。説明文は、次のように書いてあった。

 〈この地区の平野部は、明治の末ごろまで約23haに及ぶ塩田となっていました。江戸時代の寛文6年(1666年)に塩田が造成されるまでは、桂潟からあらじ潟まで続く深い入り海で、勝浦浜から梅津の森山にのびる砂丘「海の中道」によって外海と仕切られていました。
 この舟つなぎ石は、そのころ入り海を出入りしていた舟を結びつけていた石です。今では、往時の港の所在を示す唯一のあかしとなっています。

(夫木集二十四)
秋の夜の 潮干の月の かつら潟
山までつづく 海の中道
  後九条内大臣〉」


写真②:〈舟つなぎ石〉の説明盤
     =福津市勝浦で、06年11月5日午後1時10分撮影

福津市・「舟つなぎ石」位置図
    福津市勝浦の〈舟つなぎ石〉位置図
       (ピンが立っている所)

琢二 「この説明盤にある当時の地図のように、塩田が造成される前の江戸時代までは、〈舟つなぎ石〉のある辺りが入り海の奥部で、勝浦地区の〈桂潟〉から南側の在自地区の〈あらじ潟〉まで入り海だった。〈あらじ潟〉は、今の福津市津屋崎庁舎の北西側近くまで続いていて、玄界灘に通じていた。ちょうど県道528号線(勝浦宗像線)から今の津屋崎干潟東側の市下水道処理施設〈津屋崎浄化センター〉前に通じる同502号線(玄海田島福間線)の西側が砂丘〈海の中道〉だったと考えたらいい」
清 「ということは、今の津屋崎の街のほとんどが、昔は海やったとばい=写真③=」
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第二集』の中に、勝浦の〈西東〉地区の〈農家の副業〉と題した120㌻に、〈塩作り〉として、〈町の入口に船つなぎ石が三個あったこと(現在二個)で分かるように、この西東まで海水が来ていた。年毛の浜に大釜を持っていき昼も夜も塩をたいた〉と書かれとる」


写真③:〈舟つなぎ石〉(右)付近から津屋崎方面を望む。水田も昔は入り海だった
     =福津市勝浦の県道528号線で、06年11月5日午後1時12分撮影

清 「それから、〈舟つなぎ石〉の説明盤にある後九条内大臣の和歌の意味は?」
琢二 「この後九条内大臣の和歌を石に刻んだ歌碑=写真④=が、近くの市〈あんずの里運動公園〉展望台にあるぞ。歌碑の裏には、福岡藩士の儒学者・貝原益軒が江戸時代に編纂した『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』から引用した〈海の中道〉についての解説文も刻んである。

 それによると、〈勝浦村と梅津の間の海中をいうなり。其長き事十町許(ばかり)あり。むかしは勝浦と津屋崎の間は、皆入海なりし故、此所は両方に海ありて、海中にある道なれば、海の中道とはいへるなるべし〉と書かれている。この後、宗祇法師が、海の中道、桂潟、宗像にあり、(中略)山までつづくとよめるは、勝浦岳につづけるにあらず、梅津の薬師山につづけり――と歌中の〈海の中道〉は糟屋郡那多浜(現福岡市東区奈多)の海の中道ではなく、山までつづくという歌には合わず、宗像郡勝浦の海の中道だとする宗祇の説を是とすべきだとしている。

 つまり、秋の月夜に潮が干き、かつら潟から遠くの山の辺りまで海の中道が長くつづいていることだなァ、と詠嘆した叙景歌と解釈できるな」
清 「それで、後九条内大臣(ごくじょうないだいじん)って、どんな人やろか」
琢二 「いい質問だ。実は、この後九条内大臣が詠んだという点には、議論があった。貝原益軒も、『筑前国続風土記』の中で、〈此歌、名寄には後京極の歌とす。良経の家集に無之〉と書いているように、この歌が平安時代末期の公卿、九条良経(よしつね)、または後京極良経とも呼ばれた著名な歌人の歌集に収録されていない。また、九条良経は内大臣職を歴任しているが、〝後九条内大臣〟と〝後〟を頭に付けた呼び名はないから、詠み人知らずの歌となる、などの異論が出ていたのだ」
清 「ヘー、ややこしい問題やね」
琢二 「結論を先に言うと、後九条内大臣と呼ばれた人は藤原基家(ふじわらのもといえ)だ。内大臣とは、律令制度の規定がなく新設された官職・〈令外官(りょうげのかん)〉の大臣の一つで、左大臣、右大臣に次ぐ官職だな。藤原基家は、内大臣から左大臣を歴任後、土御門天皇の摂政、さらに太政大臣となった後京極良経の三男だ。〈海の中道〉を詠った和歌は、鎌倉時代後期の延慶3年(1310年)ごろ成立とされる藤原長清撰の私撰集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に収められている。
 〈春の夜の 塩干(しほひ)の月の かつらがた 山までつづく うみの中道〉として載っており、歌の題は〈かつらがた〉となっているが、その下に〈未定〉と注が入っていて、この〈かつらがた〉がどこなのかは分からないということになっている」
清 「エッ、ちょっと待って。歌の初句・〈秋の夜の〉が、〈春の夜の〉と違っているよね」
琢二 「その通りだ。鋭いな、清。この歌が、筑前の〈桂潟〉を詠んだとされるのは、鎌倉末・南北朝期成立の澄月撰『歌枕名寄(なよせ)』からだったんだ。ただし、〈桂潟 後京極摂政〉と作者を誤ったうえ、〈秋の夜の 塩干の月の かつらがた 山までつづく うみの中道〉として収録してしまった。新古今時代の代表歌人の一人である後京極摂政良経と、その三男で後九条内大臣とも呼ばれた藤原基家とを混同したのだ。しかも、この和歌に詠みこむ名所・旧跡を集めた『歌枕名寄』で有名になったらしいこの歌は、〈秋の夜の〉で詠い出す〝秋の歌〟となってしまったようだ。これ以後、〈桂潟〉は筑前の歌枕、として定着していく」


写真④:後九条内大臣の「かつら潟」を詠んだ歌碑。〈秋の夜の〉と刻まれている和歌の初句は、〈春の夜の〉だった原文を誤記されたまま一般に定着、後世に伝わった。
     =福津市勝浦の市〈あんずの里運動公園〉展望台で、04年4月11日午後4時33分撮影

〈あんずの里運動公園〉展望台位置図
福津市勝浦の市〈あんずの里運動公園〉展望台位置図
   (ピンが立っている所に歌碑がある)

清 「でも、この初句の誤解で、歌ごころが全く違ってくるよね。〈春の夜の 塩干の月の かつらがた〉では、春のおぼろの月夜に見渡す桂潟でゆったりとした春の風情なのに、〈秋の夜の 塩干の月の かつらがた〉だと、中秋の名月の寂寥感も漂う清澄な雰囲気に変わってしまう」
琢二 「そうだな。俳句では〈月〉と言えば秋の季語だから、〈秋の夜の 塩干の月の〉と詠むと〝季重なり〟のようでくどくなる。やはり、歌ごころは原文の通り〈春の夜の 塩干の月の〉にあったんだろうな。ちなみに、〈あんずの里運動公園〉にある歌碑の解説盤に書かれている宗祇法師というのは、室町時代を代表する連歌師宗祇のことで、大宰府詣での旅をして、中世紀行文学の最高傑作とされる『筑紫道記』を著わしている。貝原益軒より約200年前に、勝浦の〈桂潟〉を筑前の歌枕と記述してくれていたことになるな」
清 「フーン、きょうは、いろいろ勉強になったばい」
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2006年11月09日〈津屋崎学〉012:筑紫の秋祭り「放生会」の習俗

2006-11-09 09:20:24 | 郷土史

●写真①:金刀比羅神社秋季大祭で御仮屋を出る御神幸の大名行列
      =福津市天神町の同神社御仮屋で、2003年9月9日午後8時撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第12回:2006.11.09
  筑紫の秋祭り「放生会」の習俗


清 「11月7日の立冬で、暦の上では冬になったけど、ここで福津市津屋崎の秋祭り〝放生会(ほうじょうや)〟をいろいろ見てきたので、その風習というか風俗について、叔父さんに講釈してもらいたいね」
琢二 「つまり、〝放生会〟の習俗ということだな。筑紫の〝放生会〟のトップを切る福津市在自の金刀比羅神社の秋季大祭、別名〝津屋崎放生会〟は、重陽の節句の9月9日に行われ、筑紫路に秋の訪れを告げる風物詩で有名だ。御神幸の大名行列が、午後に在自山山麓にある同神社を出て、約2㌔離れた天神町の津屋崎海岸に近くにある御仮屋、つまり御旅所まで下り、氏子らが波打ち際で禊をする。このあと、夕方から御仮屋で約2時間休憩し、神社へ上る大名行列が午後8時ごろ御仮屋を出発する=写真①=のが習わしだった」
清 「今年は、お下りの大名行列が午後2時に神社を出て、同3時に御仮屋に着いた。1時間休憩して、午後4時にお上りの大名行列が御仮屋を出発したから、慌しかったね」
琢二 「今年は、例年午後11時ごろになる祭り終了時間を繰り上げようと、お下りの時刻が午後2時に神社を出たからな。昔はお下りの行列が御仮屋に着いて、獅子舞が披露されて日が暮れ、カーバイドをたいてアセチレンガスの灯りに照らされた夜店で子供たちが風船や綿菓子を親に買ってもらったりして、家族客で賑わったばい。今年は、御仮屋前の往還に露店もなく、風情もなくなったな」
清 「氏子さんの勤めの関係や、稚児の子供の幼稚園や学校の授業に影響せんようにと、祭りの時間が繰り上がったっちゃろうばってん、金魚すくいをしたり、おもちゃを祖父母に買ってもらったり、子供たちに夜店で楽しむ場面もないと、〝津屋崎放生会〟はつまらんね。それはそうと、なして筑紫の秋祭りは〝放生会〟と言うっちゃろうか」
琢二 「そう、そう。9月12日から18日まで行われる福岡市東区の筥崎宮(はこざきぐう)の〝筥崎放生会〟に今年行ったら、〈放生会のいわれと放生神事〉と題した謂われの説明板=写真②=が境内に掲示されとったぞ。
それによると、〈放生会は本宮の秋の大祭で、一年中で一番盛大なお祭りであります。「放生会」のおこりは「合戦の間多く殺生す、宜しく放生会を修すべし」との御神託(神様のお告げ)によって始められたものと伝えられております。延喜19年(西暦919年)筥崎宮の放生会を始めたという古い記録があって、千年以上の昔から行われ、江戸時代に一時中断していましたが、その後再興され現代に至っています。
一年一度の大祭に、御祭神の御神徳を仰ぎ、生きとし生けるものの生命をいつくしみ、実りの秋を迎えて海の幸、山の幸に感謝するお祭りを行い、併せて家庭の平和、日本の平和、更に世界の平和をお祈りしています。また、放生会最終日の18日午後2時より、稚児行列に続き、放生池にて鯉を、引き続き社前にて鳩を放つ、放生神事が執り行われます〉と書いていたな」


写真②:筥崎宮境内に掲示された〝放生会〟の謂われの説明板
     =06年9月17日午前11時23分撮影

清 「なるほど。分かりやすい説明やね」
琢二 「津屋崎放生会の目玉は、黒田藩主の大名行列を真似た御神幸の〈お下り〉だな。氏子らが扮した紋付羽織の供侍(ともざむらい)から槍持ちの奴衆(やっこしゅう)、獅子楽、神輿に稚児の列まで総勢約100人の〈お下り〉行列が金刀比羅神社を出発、笛や太鼓の囃子に乗って御仮屋まで華やかに練り歩く」
     
写真③:金刀比羅神社を出発した供侍や奴衆、獅子楽ら秋季大祭の御神幸〈お下り〉行列
     =福津市在自の金刀比羅神社下の農道で、06年9月9日午後2時19分撮影

清 「金刀比羅神社の放生会は、やっぱり大名行列が圧巻やね。黄金の稲穂が揺れる田んぼ道を御神幸行列が練り歩き、五穀豊穣に感謝する秋祭りにふさわしい季節感がある」
琢二 「大名行列は、9月21日から23日まで行われる福津市宮司の宮地嶽神社秋季大祭、〝宮地放生会〟でも登場する」
清 「そういえば、福津市古小路にある波折神社で10月8日にあった秋季大祭の〝おくんち〟でも、神輿を牽いた氏子の御神幸行列に毛槍を持った奴衆が加わっていたよ」


写真④:獅子頭を持った氏子や槍持ちの奴衆が練り歩く波折神社・〝おくんち〟の御神幸
     =福津市出口で、06年10月8日午後2時12分撮影

琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』の中に、昔の〝おくんち〟の様子が書いてある。この本の〈北の二〉地区の〈七 年中行事〉と題した172㌻に、〈(一五)オクンチ〉として、〈十月九、十日をオクンチという。甘酒、栗御飯、寿司などをつくる。イエから出た人が里帰りしてくる。当番制で津屋崎の町中を行列があった。お下りという。お下りの主役は古小路の人達で、連日連夜太鼓をたたく稽古があり、一生懸命だった。今も受け継がれている。九日の夜は宮相撲があった。夜店が出て、金魚すくいをしたり、冷たいラムネを買ってもらった〉と触れている」
清 「お嫁に行った娘さんらが、里帰りする機会の祭りだったんやね」
琢二 「同じ本の〈天神町〉の〈七 年中行事〉にある〈(一二)九月の行事〉と題した372㌻には、〈金刀比羅様(旧暦八月九日、十日)〉として、〈九日夕方、在自の金刀比羅神社から御神幸があった。くぎや、のしや、鐘川などの大店では紋付袴で出迎えていた。その大店の前で行列舞があった。天神町のお旅所に着いて在自の氏子による獅子舞と太鼓打ちの披露があった。出店が天神町中に出た〉とある。このほか、天神町にはお旅所があるので、親類を招いて、各家では寿司、煮しめ、オバイケ、ボタ餅、甘酒をつくったことや、お旅所に着いた翌朝、お上り行列が新町、波折神社、出口を通り、田んぼ道を抜けて金刀比羅神社へ戻る――などと書かれている」
清 「ヘー、昔はお下りの翌朝がお上りという日程だったのか。時代によって変わるっちゃね」
琢二 「〈大正時代は、お旅所からわずかで浜だったので、広い浜辺で獅子舞と太鼓打ちがあった。現在は家が多くなり浜が遠くなったので、御旅所の前で獅子舞があっている〉とも書いてあるよ」
清 「今は、浜には〝海岸通り〟の海岸道路が走っているもんね」
琢二 「〈天神町〉の〈金刀比羅様〉の次には、373㌻に〈オクンチ〉の行事について書いてある。〈波折神社のお祭りである。祭礼は夕方から始まった。御神幸は幟、お神輿、お賽銭箱、稚児などが波折神社を出て、天神町のお旅所まで行列した。氏子は甘酒をカメに入れて神社に献上した。子供相撲が奉納された。オクンチから単衣から袷の着物に替わり、柿や栗が出始める〉といった内容で、オクンチが衣替えの季節行事になっていたことが分かるな」


写真⑤:06年の宮地嶽神社秋季大祭で、〝祭王〟を務めた十二単姿の演歌歌手・神野美伽(しんの・みか)さん
     =福津市宮司浜で、9月23日午後0時10分撮影

清 「季節を彩る祭り行事であり、また秋の味覚など季節を感じる行事なんやね」
琢二 「『津屋崎の民俗 第一集』に収録された〈在自〉地区の〈六 信仰〉の〈金刀比羅神社「年間諸祭」〉と題した149㌻には、九月九日(旧暦)の旧藩時代祭礼について〈修験僧数十名が参加して、津屋崎まで行列していた。現在の行列は明治ごろからで、獅子舞は同じころ、勝浦豊山神社から伝授された〉と書かれており、昔は宗像、糟屋両郡内の修験道のメッカだったことなどがうかがえ、興味深いな。福津市勝浦にある豊山(ぶざん)神社の祭神は、食物神の保食神(うけもちのかみ)と火の神の加具槌神(かぐつちのかみ)で、江戸時代に豊前の英彦山から勧請されたとされる。毎年9月14日以降直近の日曜日にある秋祭り・〝勝浦放生会〟では、福岡県嘉穂郡大分村(現飯塚市)から同市練原の人たちに伝授された獅子舞が奉納されとる。京都の岩清水八幡宮から大分村に伝えられたと言われる獅子舞で、雌雄2頭の獅子を二人一組の青年が樂曲に合わせて激しく舞う」
清 「時代とともに、祭りの趣向も変わるもんやね。金刀比羅神社の獅子舞は、豊山神社からの〝移入芸能〟たい」

琢二 「同じ『津屋崎の民俗 第一集』に収録された〈宮司〉地区の〈六 信仰〉の〈宮地嶽神社秋季大祭御神幸順位及び役割表〉と題したくだりには、〈大名行列のようにヤリの受け渡しをする。(中略)神職は人力車に乗る。それ以前は歩いていた。現在は馬に乗る〉と書かれている。かつて、馬に乗っていた宮司さんが落馬して亡くなったこともあるし、乗りこなすのが難しい馬に乗るのはやめて、以前のように人力車に乗るようにしてもいいのじゃないか。御神幸行列を率いる〝祭王〟=写真⑤=なんかも昔はなかったんだし、時代によってある程度、祭りの趣向を変えてもいいだろう」
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2006年11月02日〈津屋崎学〉011:日本最初の裁縫の神様・「縫殿神社」の謎

2006-11-02 05:49:49 | 郷土史

●写真①:縫殿神社秋季大祭で拝殿を出る御神幸の神輿
      =福津市奴山の同神社で、2006年9月13日午後3時44分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第11回:2006.11.02
  日本最初の裁縫の神様・「縫殿神社」の謎

福津市奴山・縫殿神社
    福津市奴山の「縫殿神社」位置図
       (ピンが立っている所)

清 「福津市津屋崎の主な神社の由緒は、叔父さんに聞いてから、大体分かったよ。その中で、奴山(ぬやま)にある〈縫殿(ぬいどの)神社=写真①=〉の由来はどうも気になる。もっと詳しく教えてもらえんやろか。奴山という妙な地名や、縫殿神社という変わった社名は謎を秘めているような気がしてならんちゃけど」
琢二 「ほう、なかなか着眼点がいいぞ。いろいろ中身のある神社だからな。福津市奴山の縫殿神社境内に市が設置した由緒解説盤=写真②=では、次のように説明している。

応神(おうじん)天皇の頃に、呉の国(今の中国)から、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4名の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
 祭神は、この4名の媛と応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神でこの神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。
 この神社には、永享(えいきょう)12年(1440年)につくられた梵鐘(ぼんしょう、県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、南北朝時代の大般若経(だいはんにゃきょう)600巻や江戸時代中期ごろの三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります〉

 以上の通りだ。糸や布を作り、着物を縫う縫女として兄媛たち4人が来日し、着物の縫い方を伝えた。今も、着物や織物に関係する人たちの参拝がある神社たい」


写真②:縫殿神社境内にある神社の由緒解説盤
     =06年9月13日午後2時40分撮影

清 「日本のデザイン、ファッションの発祥の地か。おしゃれな神社だね。大歳神というのは、何の神様?」
琢二 「大年神(おおとしのかみ)とも書き、『日本書紀』では素戔嗚尊、『古事記』では須佐之男命と表記する〈すさのおのみこと〉と、〝大いなる山の神〟である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の〈神大市比売(おおいちひめ)〉との間に生まれた穀物の神様だ」
清 「へー、そうか。県指定有形文化財の梵鐘やら、三十六歌仙絵馬=写真③=やら、いろいろなお宝もある神社のごたるね」
琢二 「室町時代の永享12年の梵鐘は、宗像大宮司氏俊(むなかただいぐうじうじとし)が筑前国奴山の安穏や五穀豊穣を祈願しようと寄進したものだ。高さ約81㌢、口径約47㌢、厚さ約5㌢の大きさで、福岡県指定有形文化財の工芸品として、今は宗像大社の神宝館に委託保存されている。大乗仏教の基礎的教義が書かれた様々な般若教典を集大成した膨大な経典・大般若経600巻は、足利尊氏が武運を祈るため奉納したと言われる。拝殿に掛かっている三十六歌仙絵馬は、天保年間に奉納されたものだ」


写真③:縫殿神社本殿に掲げられた絵馬
     =9月13日午後3時07分撮影

清 「9月13日の縫殿神社秋季大祭を見に行った吉村青春さんのブログでは、わらじ履きで神輿を担いだ氏子さんたちが禊をするため、神社近くの奴山川に入る写真と、伝説によると工女兄媛ら祭神が女性神なので、以前は神輿の担ぎ手には未婚の男子が選ばれていたが、この日は年配の男性たちが担いでいたという記事が面白かった」
琢二 「ハハハ。縫殿神社は奴山地区の氏神様だが、平日の9月13日の秋祭りに参加できる若者もそうはいないご時世だからな」
清 「応神天皇の頃に、呉の国から兄媛ら4人の媛が織物、縫物を伝えに日本に招かれ、兄媛は宗像神の求めでこの地に残ったという神社の由緒も、興味をそそられたばい」
琢二 「そのくだりは、『日本書紀 巻第十』の応神天皇三十七年(306年)に、〈三十七年春二月一日、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女(ぬいひめ)を求めさせた。(中略)呉の王は縫女(ぬいめ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた〉と書かれている。
 また、応神天皇四十一年には、〈四十一年春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。(中略)この月、阿知使主らが呉から筑紫についた。そのときに宗像大神(むなかたのおおかみ)が工女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。これがいま筑紫の国にある御使君(みつかいのきみ)の先祖である。あとの三人の女をつれて津国(つのくに)に至り、武庫についたとき天皇が崩御された。ついに間に合わなかったので、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)に奉った。この女たちの子孫がいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である〉と書かれている。大鷦鷯尊というのは、応神天皇の皇子で次の皇位に就いた仁徳天皇のことだ」


写真④:縫殿神社の参道階段を下る神幸の神輿
     =06年9月13日午後3時46分撮影

清 「津屋崎の縫殿神社に関わる歴史が『日本書紀』に出ているなんて、すごいね」
琢二 「阿知使主とは、後漢霊帝の曾孫と伝えられ、十七県(あがた)の民を率いて渡来し、大和高市郡に住んでいたという。応神天皇は、阿知使主と都加使主の父子を使節として呉の国に派遣し、縫工女を求められたわけだ」
清 「阿知使主は、中国からの渡来人だったんやね」
琢二 「縫殿神社縁起は、日本書紀の記述に沿う由緒となっているが、一説には宗像大神は兄媛をいただかれたので、神服を織らし、御衣を縫わしめられ、これによって縫殿を建てたとも書かれている。だから、この時の縫殿は今の福津市新原の国道495号線東側にある縫殿神社の古宮の〈縫殿宮(ぬいどのぐう)〉だろう。コンクリートの大きな建物・宗像農協カントリーエレベーター(米・麦の乾燥施設)とは、国道を挟んで反対の山側にある国指定史跡・津屋崎古墳群22号墳の上に、かつての社殿が建てられていた。今も古墳の前には鳥居が立っている。古墳は大きな円墳のように見えるが、巨大な後円部を持つ全長約80㍍の前方後円墳と考えられる。墳丘から出土した埴輪や須恵器から、その一帯で発見された59基の〈新原(しんばる)・奴山古墳群〉の中でも古い5世紀前半に造られたと思われとる。恐らく、この丘にあった居館の跡地に祠を建て、縫殿宮として崇め祀ったのじゃないか。縫殿宮は、広大な宮造りだったようだ。周辺には、縫田(ぬいだ)という兄媛の料田と思われる字地もある。後世、郷名を二字の喜名にせよとの詔勅で、縫殿の殿を省いて縫と改め縫山(ぬやま)となったのが、のちに奴山と表記されるようになったと見られる」  
清 「フーン、そうなんだ。こうなったら、縫殿宮も訪ねてみたくなったよ」


写真⑤:氏子たちが禊をする縫殿神社近くの奴山川へ下る御神幸行列の神輿
     =福津市奴山の農道で、9月13日午後3時56分撮影

福津市奴山の「縫殿宮」位置図
福津市奴山・縫殿神社の古宮「縫殿宮」位置図
(ピンが立っている所。前方後円墳「22号」墳の前に鳥居がある)

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2006年10月27日〈津屋崎学〉010:『万葉集』に詠われた津屋崎と2基の万葉歌碑

2006-10-27 12:41:47 | 郷土史
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第10回:2006.10.27
  『万葉集』に詠われた津屋崎と2基の万葉歌碑


写真①:大伴坂上郎女の〈名児山万葉歌碑〉の説明文(左)と歌を刻んだ石碑
=福津市勝浦の〈あんずの里運動公園〉で、2003年9月6日午後2時5分撮影

清 「叔父さんに聞いて、津屋崎の歴史がだいぶ分かってきたばい。きょうは、あの『万葉集』にも津屋崎が詠われとるというのを詳しゅう教えて」
琢二 「ほう、知っとったか。感心やな。さすが大学生だけのことはある。『万葉集』は、日本最古の現存歌集だ。名前の意味は、〈万世に伝わるべき集〉とか、〈万の言の葉の集〉とか言われている。7世紀後半から8世紀後半ごろにかけて編まれ、天皇、貴族から名もない防人、遊女ら様々な身分の人が詠んだ4,5百年の間の歌約4,500首を集めている。成立した年は、収録作品の年が最も新しい759年(天平宝字3年)以降と見られ、勅撰説や、橘諸兄(たちばなのもろえ)説、大伴家持(おおとものやかもち)説などがあるが、家持が二十巻にまとめたとの説が有力だ。その家持の父・旅人(たびと)の異母妹である大物女性歌人の歌が津屋崎とゆかりがあり、万葉歌碑も建てられてとる」
清 「へー、知らんやった。で、その〝謎の大物女性歌人〟ちゃ、誰ね?」
琢二 「ハハハ、〝謎の女性〟でも何でもない。大宰帥(だざいのそち)、つまり大宰府の長官に任ぜられた大伴旅人の異母妹の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)だ。坂の少し上の所に家があったから、坂の上の家に住む娘で、坂上郎女と名付けられた。旅人が九州に下って最愛の妻を病気で亡くしたため、郎女は旅人の片腕として大宰府の長官の家をきりもりし、見識と貫禄を備えた魅力的な女性だった。その郎女が、大宰府から通じる古代の官道を通り、福津市津屋崎勝浦にある〈名児山(なちごやま、『万葉集』では〝なごやま〟と読ませている)〉を越えて宗像市方面へ向かう途中で詠んだ歌が『万葉集』巻六に載っている。天平2年11月、西暦だと730年、帥の家を発って奈良の都に帰る時に、勝浦から津屋崎の奴山(ぬやま)を経て宗像大社のある宗像市田島に行く途中の大阪越で詠んだ歌だ。名児山は標高約150㍍で、津屋崎の勝浦と宗像市との境にある」

清 「どんな歌やろうか」
琢二 「〈大汝(おおなむち)/少彦名(すくなひこな)の/神こそは/名づけ始(そ)めけめ/名のみを/名児山(なごやま)と/負ひて/わが恋の/千重の一重も/慰めなくに〉という長歌だ」
清 「どういう意味か、ちんぷんかんぷんやね」
琢二 「〈大国主の神と少彦名の神が名付けたに違いない名児山は、〝心が和む山〟という意味をもちながら、私の悩む恋心の千分の一さえ慰めてはくれない〉と歌っている。坂上郎女は、大らかな美人だったようだな。十代のときに穂積親王に見初められ、親王が亡くなった後には、藤原不比等の第四子の藤原麻呂(ふじわらのまろ)と結婚したが、別れた。その後、異母兄の宿奈麻呂(すくなまろ)と結婚し、坂上大嬢(おおいらつめ)という長じて大伴家持の正妻になる娘を産んだ。女流としては最も多く万葉集に歌を残しており、相聞歌、つまり恋の歌に優れ、女性の哀感を歌にした人だった。大納言になった大伴旅人の帰京より一足先に旅立った坂上郎女は、大阪峠付近を越えて、海北道中(うみきたのみちなか)の守護神、道主貴(みちぬしのむち)が鎮座する宗像大社に道中の安全を祈願しに寄ったのだろう」
清 「フーン、そういう意味か。宗像3女神が、古代海路の守護神として朝廷に篤く信仰されたのは、前回の〈神郡宗像〉と津屋崎についての話で聞いていたから、宗像大社で都までの長旅の安全を祈る気持ちはよーく分かるよ」
琢二 「この郎女の〈名児山万葉歌碑〉の説明文と歌を刻んだ石碑=写真①=が、勝浦にある福津市の農産物直売所〈あんずの里ふれあいの館〉の上の〈あんずの里運動公園〉道路脇に建てられてとるぞ」
清 「へー、見に行ってみよう」


写真②:大伴坂上郎女の歌を刻んだ〈名児山万葉歌碑〉
=福津市勝浦の〈あんずの里運動公園〉で、03年9月6日午後2時6分撮影

福津市勝浦の〈あんずの里運動公園〉
〈あんずの里運動公園〉に建つ〈名児山万葉歌碑〉の位置図
        (ピンが立っている所)

琢二 「もう一基、福津市津屋崎星ケ丘団地にも万葉歌碑がある=写真③=。碑文には、〈在千潟(ありちがた)あり慰めて/行かめども/家なる妹い/いふかしみせむ〉という歌が刻まれている。これで津屋崎には計2基の万葉歌碑があることになるな」
清 「〈在千潟〉の歌は、どんな意味やろか」
琢二 「『万葉集』巻十二に載っている作者不詳の歌で、意味は〈在千潟のようにあなたと一緒にあり続け、気持ちを慰めて行きたいが、家にいる女房が不審に思うだろう〉。一夜妻と別れる男の言い訳の歌だな。『在千潟』は所在未詳で、〈あり〉の枕詞だ。歌碑の前に建てられた案内説明看板には、〈『在千潟』参考地〉と表示して次のように書かれている。

旧筑前の碩学貝原益軒翁の『筑前国続風土記』荒自村の項に右の和歌を引用して、この『在千潟』は当地付近にあったと記している。歌碑は、それにちなんで昭和五十年三月、星ケ丘団地の造成記念として建立された。
万葉集巻十二に収録されている原文では、『在千方 在名草目而 行目友 家有妹伊将爵悒』とあって、その読解や解釈には諸説があり、所在に関しても確定されていない。疑問なしとしないが、星ケ丘団地に万葉のロマンを結ぶのも一興であろう。〉

以上の通りだ」
清 「星ケ丘団地の一角が、昔は『在千潟』という干潟だったんやろうか」
琢二 「歌碑が建てられた場所は在自山(あらじやま=標高249㍍)の西の麓にあたり、大字は在自。古代の地名は荒自郷だった。昔は、在自の海岸寄りは干潟で、江戸時代に埋め立てて田んぼになったといわれているから、まァ、このあたりに『在千潟』があったとしてもおかしくはない」


写真③:福津市星ケ丘団地に建つ万葉歌碑
=2003年9月7日午後7時50分撮影

福津市星ケ丘団地の万葉歌碑
〈福津市星ケ丘団地に建つ万葉歌碑〉の位置図
       (ピンが立っている所)
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2006年10月23日〈津屋崎学〉009:〈神郡宗像〉と津屋崎

2006-10-23 06:59:02 | 郷土史

●写真①:400年以上も前の安土・桃山時代の天正6年(1578年)に
大宮司宗像氏貞によって再建された宗像大社辺津宮本殿(国指定重要文化財)
=宗像市田島の同大社で、2003年10月4日午前10時55分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第9回:2006.10.23
  〈神郡宗像〉と津屋崎

清 「10月1日に宗像大社=写真①=の〈みあれ祭(さい)〉を初めて見に行ったっちゃけど、なかなか迫力があったよ。叔父さんに、いっぺん見とけと言われた通り、行って良かったばい」
琢二 「宗像市田島にある宗像大社の秋季大祭は〈田島放生会〉とも呼ばれ、国家の平穏、五穀豊穣と大漁に感謝する祭りだが、〈みあれ祭〉、つまり大船団を引き連れての海上神幸(しんこう)は、圧巻だな。神幸とは、遷宮や祭礼に際し、御神体が神輿(みこし)などに乗って新殿や御旅所・祭場に渡ることを言う。毎年、秋季大祭初日の10月1日、御神体の神輿を載せた御座船=写真②=2隻と、お供の宗像7浦の漁船約400隻が、玄界灘から宗像市の神湊(こうのみなと)漁港に次々と入って来る姿は実に勇壮だ。見物客も多い」


写真②:神湊漁港に入る御座船
=2006年10月1日午前10時51分撮影

清 「漁港の岸壁は、大人から子供まで大勢の見物人でいっぱいやったね」
琢二 「〈国家鎮護〉の大文字と赤い日の丸入りの幟を立てた御座船の1隻には、神湊漁港から11㌔沖の宗像市・大島にある中津宮(なかつみや)の御神体を、もう1隻には神湊漁港から60㌔沖の同市・沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)の御神体を載せてある。大漁旗をなびかせた大漁船団を従えて大島港から出発、玄界灘を巡行して神湊漁港入りし、上陸して同市田島の宗像大社辺津宮(へつみや)まで参道をパレードするのが祭りのハイライトだな。この3宮を総称して宗像大社と呼ばれている」

清 「ところで、〈みあれ祭〉って、どういう意味かいな」
琢二 「〈みあれ〉とは、〈御生(みあ)れ〉で、新しく霊力を戴くという意味。〈来年まで1年間の活力を授かる〉ということたい。宗像大社は、3姉妹の女神を、それぞれ玄界灘に浮かぶ沖ノ島、大島と本土・田島の3つの社に祀っている。秋季大祭はまず、沖津宮と中津宮の神迎え神事をして辺津宮に3女神が集まる様子を再現し、海の安全と豊漁に感謝する。宗像大社では、氏子である旧宗像郡民あげて祝う祭りと言い、宗像市と周辺の福津市・津屋崎漁港も含めた7漁港の漁船が御座船のお供で参加し、海上パレード=写真③=するのが習わしだ」


写真③:玄界灘をパレードして神湊漁港に近づく大漁船団
=10月1日午前10時43分撮影

清 「福津市の宮地嶽神社の祭神は、女神の神功皇后やったけど、宗像大社も3女神なんやね。宗像地方の大きな神社は、女の神様ばっかりたい」
琢二 「そうだな。辺津宮、中津宮、沖津宮の3宮からなる宗像大社の3女神は、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫(たごりひめ)がそれぞれ配されている。たごり姫、たぎつ姫は、湯が沸騰する〈たぎる〉に通じ、外海の逆巻く波が岩に当たる様を表す言葉の〈たごり〉や〈たぎつ〉を名前に入れて海の神の荒ぶる性格にふさわしい。市杵嶋姫は、いつく嶋の姫の意味。いつくとは、心身の穢れを清めて神に仕えること、つまり神を祀る島で海の神に仕えていた巫女が神として祀られるようになったのだろう。沖ノ島は玄界灘の中央にある絶海の孤島だが、4世紀後半から10世紀初めにかけて営まれた古代国家祭祀跡があり、出土した奉献品の〝御宝物〟約12万点のほとんどが国宝、重要文化財に指定され〝海の正倉院〟と呼ばれるほどだ。沖津宮の御祭神を辺津宮に神迎えする神事が、中世に行われていたことからも、沖ノ島の神が海神である宗像の神の根源であり、宗像神は沖ノ島に最初に祀られたと見ていいだろうな」

清 「宗像大社3女神の謂われも、あると?」
琢二 「『日本書紀』巻一によると、日神である天照大神の吹き出す息から3女神が生まれたとし、筑紫の胸肩(宗像)君らが祀る神、と書いている。3女神は、高天原で生まれた神で格式が高い。海神を守護神とする古代宗像地方の豪族・宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が、天武天皇の后となり、後に太政大臣になった高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。したがって、宗像3女神は、ヤマト政権と緊密な関係にあった。また、天皇家の祖先神である天照大神は3女神に高天原から〈海北道中(うみきたのみちなか)〉に降り、天孫を助け、また天孫によって祀られよ、と命じた。つまり、歴代の天皇を守り、歴代の天皇からも篤いお祀りを受けよと指示したことになるな。これが天照大神のみ教え、〈神勅〉というわけだ。〈海北道中〉とは、〈海の北の道の中〉の意味。古代に往来した朝鮮半島の百済や新羅へ通じる海路の安全を3女神に守るよう命令したと言える。3女神は海北道中の守護神として、道主貴(みちぬしのむち)という尊称が与えられている。宗像大社が交通安全の神様と言われる理由も、古代より道の神様として篤い信仰を集めていたからだ」
清 「なるほど。宗像3女神は、ヤマト政権と特別な関係にある神様たいね」
琢二 「そういうこと。だから、宗像大社は、社格から言っても大きな神社だ。戦前の近代社格制度では、神社の格を祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける官社と、それ以外の各地方が運営する府県社・郷社・村社・無格社の諸社とに、大きく二分した。このうち官社を天皇・皇族や朝廷にゆかりの深い神を神祇官が祀る〈官幣社〉と、各国の一宮など国造りに貢献した神を地方官が祀る〈国弊社〉に分け、それぞれに大・中・小の格を定めた。宗像大社は、明治神宮や香椎宮などと同じ官幣大社で、社殿の装飾に菊の紋章の使用が許された。3女神、すなわち宗像大神を祀る神社は全国で6千余社を数え、宗像大社はその総本宮だ。ちなみに、太宰府天満宮は官幣中社、宮地嶽神社は県から奉幣を受ける県社で、宗像大社の祭神に関係の深い神を祭る〈摂社〉とされていた」


写真④:旧官幣大社で社殿の装飾に菊の紋章使用を許された宗像大
社拝殿=03年10月4日午前10時55分撮影

清 「やっぱり、宗像大社は大した神社なんやね。津屋崎も〈神郡(しんぐん)宗像〉の町の1つ、と言われるのも関係あるっちゃろうか」
琢二 「いいところに気が付いたな。前回、国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義について話したように、古墳時代の津屋崎が、宗像地方の支配者でヤマト政権と緊密な関係にあった宗像君(むなかたのきみ)一族の下で繁栄していたことは、宗像君徳善(とくぜん)の墓と思われる〈宮地嶽古墳〉から出土し、国宝に指定された数々の副葬品の素晴らしさからも分かる。

 それで、〈神郡宗像〉というのは、古墳時代末期の7世紀中ごろ宗像地方に〈神郡〉を設けたことを指す。〈神郡〉とは、国郡(こくぐん)制成立に伴い神社の神域、つまり神様の領土として誕生した他郡とは違う特別な郡のことだ。645年の大化の改新で、国郡の制が布かれると、全国7大社に〈神郡〉が設置され、宗像郡は九州で唯一の〈神郡〉として宗像大社の神領と定められた。神主・宗像氏は宗像大社に奉仕するとともに、郡の長官である〈大領(たいりょう)〉も兼務して行政を司ったのだ。神主は、伊勢神宮、出雲大社に並ぶ特別の待遇を受けた」

清 「宗像地方というと、宗像市と昔あった宗像郡のこと?」
琢二 「そうだ。平成の行政大合併で、宗像郡の旧津屋崎町、福間町は合併して福津市に、また旧玄海町、大島村は宗像市に合併し、宗像郡の町村はすべて消滅したがな」
清 「それで、宗像地方が〈神郡〉になったということは、どういうことやろか」
琢二 「〈神郡〉として宗像大社を中心とした行政が行われたということだ。宗像大社の所領は、宗像郡だけでなく、隣接の遠賀郡や鞍手郡などにも荘園を持っていた。平安時代に宗像氏は、荘園を守るため京都の八条院と領主・本家の関係になり、社領は皇室領となった。979年(天元2年)に太政官の命により大宮司職が設けられたあと、鳥羽上皇の皇女の八条院が宗像氏実を宗像大社の大宮司職に任命する。所領荘園はしだいに増え、鎌倉時代には筑前、肥前、壱岐、豊前にわたって60数か所を領有していたが、鎌倉末期には北条氏の所領になったこともある。宗像大社の大宮司家・宗像氏は、平安時代末期から武士化し、戦国大名としても活躍したが、戦国時代に領主・宗像氏貞が病死したあと、大宮司家は断絶した。いずれにしても、宗像地方は宗像大社、宗像氏の存在が大きかったから、津屋崎も古代から〈神郡宗像〉の領域として歴史を刻み、宗像氏の宗教的、政治的な影響を受けてきたわけだな」


写真⑤:宗像大社楼門=03年10月4日午前10時55分撮影

宗像大社辺津宮
    〈宗像大社辺津宮〉の位置図
     (ピンが立っている所)
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2006年10月13日〈津屋崎学〉008:国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義は

2006-10-13 00:52:54 | 郷土史
写真①:福津市の〈新原・奴山古墳群〉
=福津市奴山で、2008年2月1日午後2時46分撮影


・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第7回:2006.10.13
  国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義は
――大和政権や大陸と交流した「宗像君一族」の権勢と繁栄示す全国第一級の歴史遺産

清 「福津市宮司の宮地嶽神社奥の院にある〈宮地嶽古墳〉の素晴らしさは、この前、叔父さんに教えてもらって、よう分かったばい。このごろ〈津屋崎古墳群〉のことを耳にするばってん、また別の古墳があるとかいな」
琢二 「〈宮地嶽古墳〉は、2005年3月に国史跡に指定された〈津屋崎古墳群〉40基に含まれ、古墳群の南端付近にある。古墳時代終末期の7世紀前半に築造された直径約34㍍の円墳で、〈大塚古墳〉とも呼ばれ、墳丘内部にある横穴式石室=写真②=は長さ23㍍と全国で2番目に長いということは前にも話したな。1番は、奈良県橿原(かしはら)市見瀬町にある〈見瀬丸山(みせまるやま)古墳〉の石室で、長さ28.4㍍たい。全国で6番目に大きい前方後円墳で、6世紀後半に築造され、欽明天皇とその妃の堅塩媛(きたしひめ)の合葬陵とも推定されている」


写真②:巨石で構築された〈宮地嶽古墳〉の石室内部
     =07年1月28日午後2時09分撮影

清 「宮地嶽古墳の石室が、天皇陵に次ぐ全国2番目の大規模石室とは、すごいなァ。津屋崎を支配した古代の宗像の豪族・宗像君(むなかたのきみ)は、大した権勢やったんやね」
琢二 「そうたい。宮地嶽古墳の石室は、7世紀の初めに大和朝廷で権勢を振るった大豪族、蘇我馬子の墓とされる、奈良県明日香村にある国指定特別史跡〈石舞台古墳〉の長さ約16㍍の横穴式石室より長大で、大岩屋といえる。宮地嶽古墳の副葬品の国宝で、束頭が塊状で復元した刀身の長さが2.6㍍もあるという祭祀用の金銅装頭椎大刀(こんどうそうかぶつちのたち)も全国で一番長い。宮地嶽古墳は、副葬品の豪華さから〝地下の正倉院〟とも呼ばれ、被葬者は、娘を天武天皇の后とした『宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)』と考えられている。大和の大貴族にも並ぶほどの富と権威を象徴する全国第一級の大石室古墳と、天皇陵関係の重宝に劣らない宝物が多数出土した宮地嶽古墳は、宗像君一族の絶大な権勢と繁栄ぶりを物語っている

清 「それで、〈津屋崎古墳群〉って、いくつの古墳があると?」
琢二 「地表に墳丘を持つ墓である古墳が造られた時代、つまり〈古墳時代〉とは、3世紀後半から7世紀末までの450年間を言うんだな。で、福津市には500基の古墳があるとされている。このうち5世紀前半から7世紀前半にかけて、玄界灘に面した市北部にある台地の南北7㌔・㍍、東西2㌔・㍍に集中して築かれた古墳を総称して〈津屋崎古墳群〉と呼んでいる。56基が現存しており、うち最も多い円墳が39基、次いで前方後円墳が16基、方墳が1基だ。奴山(ぬやま)の国道495号線東側には、津屋崎古墳群の中で古墳が最も密集した〈新原(しんばる)・奴山古墳群〉の説明板=写真③:06年10月2日午後0時30分撮影=が建てられとる。米・麦の乾燥施設である〈宗像農協カントリーエレベーター〉の建物周辺の台地東西約800㍍に、発見された円墳53基、前方後円墳5基、方墳1基の計59基のうち今も41基が残っているから、いっぺん見学してこい」


写真③:福津市奴山の国道495号線東側に建つ〈新原・奴山古墳群〉の説明板

清 「あの説明板なら、車の中からチラッと見たことがある。今度、見学に行ってみるよ」
琢二 「津屋崎古墳群は約200年にわたる地方豪族の首長墓群で、国際性豊かな副葬品から見ても貴重な史跡だな。〈新原・奴山古墳群〉のうち『22号墳』は、全長80㍍の前方後円墳で、海岸沿いにある宗像君一族の古墳の中で古い5世紀前半のものだ。宗像君は、津屋崎を含む宗像地方に勢力を持ち、当時の海上交通を担うとともに、〝海の正倉院〟と言われる宗像市・沖ノ島の祭事に深く係わった氏族だな。徳善の娘は尼子娘(あまこのいらつめ)といい、天武天皇の第一皇子・高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。高市皇子は、のちに太政大臣になった。宮地嶽古墳から出土した骨臓器の銅壺は、奈良で火葬した尼子娘の遺骨を実家の墓に納められたと見られる。古墳時代は、妃の遺体は実家に返されるから、奈良から運ぶのに火葬したのではないか」



    写真④:福津市奴山の台地に造られた古墳群
         =06年10月2日午後0時40分撮影

清 「それにしても、なんで津屋崎の台地に多くの古墳を築いたんやろか」
琢二 「古墳時代前期末の4世紀後半に宗像最古の前方後円墳の〈東郷高塚古墳〉が宗像市の内陸部に造られているから、この時代に権力を持つようになったと考えられる宗像君一族がこの地を墓所に選んだのは、玄界灘に面し、当時は広い入り江にも臨んでいたからだろう。宗像市沖60㌔の玄界灘に浮かぶ海上交通の拠点・沖ノ島で4-7世紀まで行われた祭祀との関わりでも知られる一族は、優れた航海術で大和王権の大陸交渉でも一翼を担っていたからな。やがて、一族は墓所を繁栄の源泉といえる海が見える津屋崎へ移し、津屋崎の古墳をこの台地の北側から造り始め、しだいに南に場所を移し連続して築造した=写真⑤:古墳群の分布地図(福津市作成のパンフレット『国指定史跡 津屋崎古墳群』から、06年10月11日スキャン)=。中でも巨大な石室を内蔵した宮地嶽古墳は、当事希少だった瑠璃板(るりいた=鉛ガラス板)や、金銅透彫冠(こんどうすかしぼりかん)など国宝の豪華な副葬品が出土し、一族の繁栄を物語っている」

清 「津屋崎古墳群の出土品から、古代の人の暮らしも分かるやろか」
琢二 「5世紀ごろ、朝鮮半島北部の高句麗が南部の百済や新羅と何度も戦い、多くの人が朝鮮半島から日本に渡って来た。在自や生家の古墳時代の集落跡から朝鮮半島製の土器が多く出土したことからも、半島の人が渡来したことがうかがえる。また、在自の山すそにある〈在自剣塚古墳(あらじつるぎづかこふん)〉は、神功皇后が剣を埋めたという伝説があり、宗像地域で最大規模の全長101.7㍍の前方後円墳で、6世紀後半に造られた。一族が栄華を極めた次代の宮地嶽古墳の築造に繋がる大規模古墳といえ、須恵器の大甕(おおがめ)や高坏形器台(たかつきがたきだい)が出土している。10月11日に古墳を調べに行ったら、草むらから赤マムシがいきなり飛び出して逃げたので、肝を冷やしたぞ」
清 「えー、本当? 噛まれんで良かったね。古墳はマムシが守っとうという話を聞いたことがあるよ。それはそうと、津屋崎古墳群のことは、福津市の人でもあまり知らんちゃないと。このままやったら、宝の持ち腐れになるばい」
琢二 「そう。津屋崎古墳群は、大和政権と大陸との交流を示す素晴らしい歴史遺産だ。福津市古墳公園建設準備室では、津屋崎古墳群を『古墳公園』として展示室を整備する計画もあるようだが、国の宝にふさわしい立派な史跡公園にしてほしいな」


写真⑤:広大な台地に多くの古墳が位置する「津屋崎古墳群」の分布地図

◆交通アクセス:〈新原・奴山古墳群〉=福津市奴山。西鉄宮地岳線「津屋崎駅」下車、西鉄バスに乗って「津屋崎駅前」から8分の「奴山口」で下車し、徒歩10分。古墳は国道495号線沿いに点在しており、国道から見ることもできます。

新原・奴山古墳群
〈新原・奴山古墳群〉の説明板が建っている
福津市奴山の国道495号線付近
(ピンが立っている所)
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2006年10月07日〈津屋崎学〉007:「宮地嶽神社」はどんな社なのか

2006-10-07 10:16:31 | 郷土史

●写真①:「正月三が日」の参拝客が約100万人と、九州では太宰府天満宮に次いで多い宮地嶽神社=福津市宮司の同神社本殿前で、2006年1月1日午後4時57分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第7回:2006.10.07
  「宮地嶽神社」はどんな社(やしろ)なのか

清 「福津市宮司の宮地嶽神社秋季大祭、宮地放生会は、9月23日で3日間の秋祭りが終わったばってん、今年はいつもと感じが違っとったね。例年、祭りの呼び物で女性人気歌手が務める〝祭王〟や神輿が練り歩く御神幸行列は、21日の祭り初日に宮地浜のお旅所まで「お下り」しとったのを、今年は23日にお旅所から神社に戻る「お上り」の御神幸行列=写真②:9月23日午後1時07分撮影=にと趣向が変わった。21日夜は、初の試みという〈ねがいかなえ開運花火大会〉が宮地浜で催されたもんね」
琢二 「多くの人出が期待できる休日に焦点を当てた模様替えのようだが、伝統や慣習は時代によって少しずつ変わっていくとはいえ、あんまり感心せんな」
清 「津屋崎の氏神様の波折神社の祭神は、このあいだ叔父さんから聞いたばってん、だいたい宮地嶽神社ちゃ、どんなお社やろか。商売繁盛の神様で、日本一の大注連縄、大鈴、大太鼓の三つがあるとは、よう知っとうけど……」
琢二 「主祭神の神功(じんぐう)皇后と、勝村大神(かつむらおおかみ)、勝頼大神(かつよりおおかみ)の三柱を祀ってある。神社では、口碑社伝等によると1600年前、皇后が新羅遠征で渡韓の折、宮地嶽の山上に天神地祇を遥拝する祠(ほこら)を建て、勝運と航海の安全を祈願し、帰還後に神社を創建されたという。つまり皇后と、この祠の祀りを命じられた従神・勝村大神、勝頼大神と合わせ〝宮地嶽三柱大神〟と崇め祀っているということたい。勝村大神は藤之高麿、勝頼大神は藤之助麿という名だ。宮地嶽神社は、商売繁盛、家内安全、交通安全の守り神として西日本一円の信仰を集め、年間200万人の参拝者がある。本殿に架けられた大注連縄は長さ13.5㍍、直径2.5㍍、重さ5㌧。これに、直径2.2㍍、重さ450㌔・㌘の大鈴と、直径2.2㍍、重さ1㌧の牛の一枚皮で作られた大太鼓を加えて日本一のトリオと神社の自慢だ」


写真②:宮地浜のお旅所から神社に戻る「お上り」の御神幸行列

清 「神功皇后は、福津市在自の金刀比羅神社にも祀ってあったね」
琢二 「宮地嶽神社本殿裏の神社境内には、直径約34㍍の円墳『宮地嶽古墳』=写真③:05年8月12日午後4時撮影=がある。7世紀前半に造られたと見られ、『大塚古墳』とも呼ばれている。墳丘内部に高さ、幅各約5㍍の巨石を積み重ねて造られた全長23㍍、最大幅2.8㍍、天井までの高さ最大3.1㍍という全国で2番目に長い大規模な横穴式石室を持つ。この横穴式石室古墳は、土中に封じ込めた石造りの家のような墓だな。7世紀の初めに大和朝廷を牛耳った豪族、蘇我馬子の墓とされる、奈良県明日香村の〈石舞台古墳〉の石壁よりはるかに長大で、大岩屋といえる。〈石舞台古墳〉は、横穴式石室古墳の上の盛り土が流失して石室だけがむき出しになったものだ。

 それから、宮地嶽古墳の素晴らしさは、石室の大きさだけでなく、出土品も逸品ぞろいということだ。天子のシンボルとされる竜文を透かし彫りした金銅製の王冠をはじめ、唐草文のある鞍金具やあぶみなどの馬具、束頭が塊状で刀身の長さが2.6㍍もあるという国内最大級の祭祀用の金銅装頭椎大刀(こんどうそうかぶつちのたち)、深緑に澄み渡った瑠璃玉、古代様式の骨臓器の銅壺など副葬品約300点が発見され、うち大刀など約20点は国宝に指定されており、副葬品の豪華さから"地下の正倉院〟とも呼ばれている。被葬者は、古代の宗像の豪族で、娘を天武天皇の后とした『胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)』と考えられている。巨石古墳発掘を機に、古墳内部に不動明王を祀る『奥の宮不動神社』を鎮座し、今は石室内部へ立ち入りできず、入り口で礼拝する信者も多い」


写真③:「宮地嶽古墳」の日本最大級の横穴式石室入り口

清 「胸形君というのは、聞いたことがある。金銅装頭椎大刀というのは、えらい大きな刀やね」
琢二 「胸形君は、津屋崎を含む宗像地方に勢力を持ち、当時の海上交通を担うとともに、〝海の正倉院〟と言われる宗像市・沖ノ島の祭事に深く係わった氏族だな。徳善の娘は尼子娘(あまこのいらつめ)といい、天武天皇の第一皇子・高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。高市皇子は、672年に起きた壬申の乱での英雄とされ、のちに太政大臣になり、持統10年に亡くなった。『万葉集 巻ニ』には、柿本人麻呂が前線で指揮する皇子の英姿を讃えて詠んだ挽歌が載っているよ。宮地嶽古墳から出土した骨臓器の銅壺は、奈良で火葬した尼子娘の遺骨を実家の墓に納めたものと見られる。宮地嶽古墳は、2005年に国史跡に指定された『津屋崎古墳群』40基のうち、南端付近にある。国宝・金銅装頭椎大刀の復元品=写真④:03年8月22日午前9時30分撮影=は、福津市津屋崎庁舎と宮地嶽神社にある。津屋崎には、こんなすごい大刀を持つ一族が住んでいたのかと感動するぞ。いっぺん見といたがいい」


写真④:国宝「金銅装頭椎大刀」の復元品(福津市津屋崎庁舎1階で=2012年11月14日現在ではJR福間駅2階の市行政・観光情報ステーションに貸出中です)

清 「はい、分かりました。それにしても、宮地嶽古墳は、宮地嶽自然歩道の入り口の小高い所にあるけど、あんな大きな石がよう持ち運べたよね」
琢二 「いいところに気づいたな。あんな大きな原石は宮地嶽神社近くにはない。5㌔も離れた津屋崎・恋の浦海岸にあるのを船で運んだと考えられているが、宮地嶽古墳の高台まで運び上げるのは大変な労力と技術が要っただろう。巨石を構築しての古墳築造に加えて、数多い国宝を含む豪華な副葬品からみて、相当権威のある豪族が津屋崎を支配していたことを示している。こうした偉大な先祖がいて、古代から栄えていたことは津屋崎の誇りだ」

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2006年9月29日〈津屋崎学〉006:津屋崎は〈港町〉か

2006-09-29 08:24:49 | 郷土史
●写真①:津屋崎漁港から玄界灘を望む=福津市浜の町で、2006年9月29日午前7時16分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第6回:2006.09.29
  津屋崎は〈港町〉か

清 「この前、親友の安倍義彦に、叔父さんから聞いた津屋崎の謂われを話してやったら、今度は『一言で言ったらどんな町や』って聞かれて、また困ったとばい。教えちゃらんね」
琢二 「安倍晋三・新総理と同じ安倍と書く、あの岩手県平泉町出身の男か。平泉町民憲章では『奥州藤原文化発祥の地、平泉の町民であることに誇りをもち』とあるから、さしずめ平泉は〈奥州藤原文化発祥の町〉と言うのだろう。まァ、道に面して町家が建ち並んでいれば〈町〉で、自然の空き地に囲まれて門や塀の内側に建つ農家が集まっているなら〈村〉だが、さて、津屋崎のキャッチコピーは〈何々の町〉かな。少しは、自分で考えてみい」
清 「津屋崎漁港のある西部の福津市浜の町や古小路(こしょうじ)なんかは〈港町〉のようだし、津屋崎千軒通は商店があるから〈商家町〉にも見えるね。宮地嶽神社参道のある津屋崎東部の宮司は〈門前町〉やろうし、北東部山麓にある在自や須多田なんかは〈農村〉だもんね。漁師、商人、農民が一緒に住む町だから、一言で言いにくいたいね」


写真②:白壁の家が残る津屋崎千軒通りの町並み=05年8月12日午後4時撮影


写真③:宮地嶽神社秋季大祭最終日に参道の門前町を通る参拝客=福津市宮司で、06年9月23日午後3時8分撮影

琢二 「旧津屋崎町の沿革を言うと、港を基盤とした廻船業や漁業によって発展してきた津屋崎村と西隣の渡村が、市町村制施行の明治22年に合併して津屋崎村が発足。次いで、里山沿いの宮地、在自、須多田、大石、奴山の5村が合併して宮地村が、さらに北部に勝浦村ができた。明治30年には町制を敷いた津屋崎村が津屋崎町と改称、同42年に宮地村を合併するなどして、昭和30年に勝浦村と合併して津屋崎町となった。この歴史の流れと、古小路にある津屋崎の氏神様の波折神社が、海上の安全と大漁を祈願する神様を祭神に祀っていることから見れば、津屋崎は港によって栄えてきた〈港町〉と言うべきだろうな」
清 「そう言えば、津屋崎の天神町生まれで吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』を東京の新風舎から出版した青春さんは、カラオケで歌う18番は森進一の〈港町ブルース〉やったね。〈♪ 背伸びしてみる海峡を/きょうも汽笛が遠ざかる……〉って歌詞のヒット曲たい」


写真④:吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)=06年8月10日撮影

琢二 「ハハハ、青春さんは、津屋崎が港町というのをよく分かっているからやろう。彼は美空ひばりの〈港町13番地〉も、よく歌うばい。美空ひばりと言えば横浜の生まれで、横浜は港町たい。〈♪長い旅路の航海終えて/船が港へ泊まる夜/海の苦労をグラスの酒で/みんな忘れるマドロス酒場/あーあー/港町13番地〉という歌詞の〈港町13番地〉は昔、流行った歌だったな」

清 「2005年1月24日、旧宗像郡津屋崎町が隣の同郡福間町と合併し、福岡県福津市が誕生して、僕たちは町民から市民に〝昇格〟したようなもんやから、安倍にも僕は〈市民〉やが、君はまだ〈町民〉なんやな、って冗談を言ってやったよ。そしたら、安倍が怒って『俺のところは、由緒正しい町民なんじゃ』って息巻いたんで、びっくりした」
琢二 「町から市に名前が変わって喜ぶなんて、単細胞だな。福津市と言っても、市名からすぐに津屋崎の由緒が分かることがなくなったやないか。宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』の中に、能面のように顔の表情がないキャラで〝カオナシ〟というのが出ていたな。自己や自分の言葉というものを持たず、他人を呑み込んでその声を借りてしか他者とコミュニケーションできない謎の男だ。津屋崎町の名が合併で消えたということは、旧町民は〝カオナシ〝、つまり〝顔なし〟になったと同じことだぞ。ヒロインの千尋のように、〈不思議の町〉の湯屋で働くことになり、名前を奪われ、囚人のように〈千〉と番号で呼ばれて自我を消失させられ、個人の人生を奪われると言い換えてもいい。地名の消滅は、魂のアイデンティテイーを失うことに等しい重大な意味を持つ、と言っても過言ではない。青春さんが詩集『鵲声―津屋崎センゲン』を急いで出版したのも、津屋崎町の名が消えたのがきっかけやったとばい」
清 「そうか。詩集の〈序〉にも〈思い出の中にある〝セピア色の津屋崎〟。そのイメージを永遠に本の中にとどめたいと念じ、50編で編んだ〉と書いとんしゃったね」
琢二 「だいたい、日本の歴史的町並みで知られる町のうち、大多数は城下町か宿場町だと言っていい。城下町では、武家屋敷や町家がお城を取り囲み、宿場町では入り口に一里塚、中央部に本陣を配置した曲がりくねった街道が続く町並みになっている。これに対して、漁村では天然の良港の後背地に住家が細い街路に沿って建ち並ぶし、農村では水路と農地を利用しやすい所に住宅が建てられるとるな」
清 「なるほど。津屋崎の古小路なんかは、まさに〈港町〉らしい小字名たいね」
琢二 「津屋崎は、名探偵〈浅見光彦〉が活躍する人気シリーズで有名な旅情ミステリー作家・内田康夫さんの新聞連載小説『化生の海』の舞台になった。ストーリーは、江戸時代から伝わる粘土を素焼きして筆で彩色する素朴な〈津屋崎人形〉をキーワードにして、殺人事件の謎解きが展開するのだが、浅見に〈あの人形は、昭和の初め頃に福岡県の津屋崎という、玄界灘に面した古い港町で作られたものでした。津屋崎は北前船の寄港地で、北前船のお客が多く、〉と語らせているよ」


写真⑤:筑前津屋崎人形巧房=福津市津屋崎天神町で、05年8月
12日午後4時撮影


写真⑥:原田半蔵さん作の津屋崎人形=福津市津屋崎の市津屋崎庁
舎で、06年9月28日午前9時40分撮影

清 「そのミステリーは、僕も読んだが、津屋崎を核に物語がテンポよく展開して面白かったな。内田さんが、新聞連載終了後の2004年に津屋崎を2年ぶりに再訪した時に、〈とても大好きな町の一つ。小さな路地がたくさんあって素敵だ。古さを大事にしてほしい〉と話していたと聞いて、嬉しかったよ。全国的な視野で、よその人から津屋崎の良さを再認識させられ、はっとした。そうや! 安倍にも新潮社から出版された『化生の海』を読ませよう」


写真⑦:内田康夫さんの探偵小説『化生の海』(新潮社刊)=06年9月29日午前5時撮影

琢二 「津屋崎千軒の港町を訪ねた観光客は、静かな町並みに癒されたと言う人が多い。青春さんの『鵲声―津屋崎センゲン』に収録された詩篇〈津屋崎千軒〉にも〈小さな路地に潮の香がして/訪ねた人の気持ちを和ませ/温もりを持ち帰らせる/懐かしい町並み/それが津屋崎千軒でございます〉と詠ってある。津屋崎の誇れる宝である古い町並みを守り、自然豊かな美しい古里を後世に残していくのも清ら若い者(もん)の務めたい」
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2006年9月21日〈津屋崎学〉005:「金刀比羅神社」が在自山にある訳は

2006-09-21 09:36:55 | 郷土史
●写真上:金刀比羅神社拝殿=福津市在自で、06年9月7日午前6時20分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第5回:2006.09.21
  「金刀比羅神社」が在自山にある訳は

清 「筑紫路に秋を告げる神社の秋季大祭「放生会(ほうじょうや)」で、毎年9月9日幕開けしてトップを飾る金刀比羅(こんぴら)神社は、なんで福津市の在自山(あらじやま)にあると。教えちゃらんね、叔父さん」
琢二 「在自山は津屋崎で一番高い山で、国土地理院2万5千分の1地図による標高は249㍍だ。古名は天蓋山(てんがいざん)といい、古宮(ふるみや)社殿は山頂にある。麓から見上げたら山頂下近くに見える展望所の赤い鳥居=写真下=06年5月16日午後4時20分撮影=のところから登ってすぐ上だ。


現在の拝殿=〈津屋崎学〉005の見出し上の写真=は山ろく近くにあり、星ケ丘団地北端の北隣だ。主祭神は、大物主(おおものぬし)と応神天皇、仁徳天皇、神功(じんぐう)皇后。もともと室町時代の文安2年(1445年)、山伏の定海法印が古宮の天蓋山山頂に農耕と財宝、水、雨乞いの神とされる金山彦神を祀ったのが神社の始まりだ。さらに江戸時代の宝永年間(1704-1711年)に修験僧の一楽院元海法印が讃岐国象頭山(ぞうずさん)に詣で、金刀比羅大権現を勧請合祀して山頂の古宮に社殿を創建した。金刀比羅大権現の分霊を請い迎える、つまり祭神を勧請して一社に合わせ祀ったわけだ。その後、神社は現在地に移された。境内には、山頂に鎮座する金山彦神と金毘羅神を遥かに拝む〈天蓋山古宮遥拝所〉の石碑=写真下:06年9月7日午前6時20分撮影=が建てられている。金刀比羅大権現は、今は金刀比羅宮(ことひらぐう)と言い、金毘羅宮とか琴平宮とも書かれ、一般には〝こんぴらさん〟と呼ばれて親しまれているよ」


清 「讃岐の〝こんぴらさん〟と言うたら、今の香川県琴平町の金刀比羅宮か。〈♪こんぴら船々追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ/まわれば四国は讃州那珂の郡(こおり)象頭山金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)〉という歌があるよね」
琢二 「江戸時代の里謡だ。よく知ってたな。金刀比羅宮は標高521㍍の象頭山の中腹に鎮座し、祭神は大物主神、つまり大国主神(おおくにぬしのかみ)で、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めている。つづめて言うと、国造りを行い、海上の守護神だな」

清 「〝在自のこんぴらさん〟も祭神にはいろいろあるけど、代表するのは大国主神やね」
琢二 「そう。とりわけ、農耕神と水乞いの神様だろうな。江戸時代に発刊された『筑前国続風土記付録』によると、晴れを祈り、雨を乞い、牛馬の災難を免れ、無事を祈願すれば、その応えがあると言われているよ」
清 「ほう、霊験あらたかなんや」
琢二 「金刀比羅さんに参ると、お金が授かるとも言われている。財宝の神とされる金山彦神を祀ったのが神社の始まりだからかな」
清 「それから、神社の勧請の初めが山伏というのは、なんで?」
琢二 「昔は奈良時代の呪術者・役小角(えんのおづぬ)が起こした修験道の山伏が全国にいて、九州では天蓋山頂、福岡県太宰府市の宝満山、同県添田町の英彦山、大分県・国東などに多かった。修験道は仏教の一派で山岳に寝起きして修行し、修行する人を修験者とか修験僧、山伏と呼んだ。このうち真言修験の三宝院の流れをくむ〈当山派〉に属する〈一楽院〉の修験僧により天蓋山頂に創建された金刀比羅神社は、福岡県・宗像、粕谷両郡内の修験のメッカだったといえる」
清 「へー、在自山が修験道の山だったなんて、知らなかったな。今度、登って古宮を拝んでこよう」
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2006年9月19日〈津屋崎学〉004:産土神は「波折神社」か

2006-09-19 08:39:51 | 郷土史

●写真①:「波折神社」拝殿=福津市津屋崎古小路で、08年2月18日午後1時33分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第4回:2006.09.19
  産土神は「波折神社」か

清 「おはよう、叔父さん。おととい17日に九州を襲った台風13号は、ひどかったね」
琢二 「おう、強い風やったな」
清 「昔の人も、台風や地震などの自然災害や天変地異があるたんびに、神様・仏様に祈ったっちゃろうね。それで質問ばってん、津屋崎の鎮守の神様っていうか、産土神(うぶすながみ)っていうたら、どこね。普通に考えたら福津市古小路(こしょうじ)にある波折(なみおり)神社=写真①=やろうか。ばってん、〝神郡・宗像(しんぐん・むなかた)〟とかいうて旧宗像郡内の産土神は宗像市にある宗像大社のごとある気もするし、福津市宮司元町の宮地嶽神社も年間200万人以上が参拝して九州では太宰府天満宮に次いで参拝客の多い大きな神社のうえ、身近に感じるけんね」
琢二 「産土神とは、産土(うぶすな)、つまり人の生まれた土地を守護する神のことだ。鎮守の神とか、氏神とも言うな。子供が生まれて百日目に初めて産土神に参拝するのを宮参りとか、産土参り、産土詣でなどと言う。今の宮地嶽神社では初宮参りと言って、男の子は生後30日目、女の子は31目に参るのが一般的だと案内しているが、まァ、赤ちゃんの体調のいい日に参り、健やかな成長を祈願すればいいんだよ。清の初宮参りは、氏神様の波折神社に行ったはずだ」
清 「やっぱり、波折神社が氏神様なんやね」
琢二 「前回の〈津屋崎学〉003:地名「天神町」の由来――でも話した通り、旧津屋崎町が平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』(北の一、北の二、新町・天神町・東町)という本があるが、この中に天神町は〈明治初年まで現在の岡の二、岡の三、末広などとともに津屋崎村に属し〉とあり、〈六信仰 (一)ムラで祀る神〉のくだりには、〈村落神 波折神社を氏神という〉とある。〈波折神社〉については、〈祭神、住吉大神・志賀大神・貴船大神〉と書かれている」
清 「〈村落神 波折神社〉か。町の調査報告書でも、村の鎮守の神様は波折神社なんだ。〈♪村の鎮守の神様の/今日(きょう)はめでたい御祭日(おまつりび)/どんどんひゃらら、どんひゃらら/どんどんひゃらら、どんひゃらら/朝から聞こえる笛太鼓〉と歌う葛原しげる作詞、南熊衛作曲の童謡で〈村祭〉っていうのがあったよね」
琢二 「よく知ってるな。もっとも、波折神社の氏子で、宗像神社の氏子にもなっている人もいるがな」
清 「宗像大社は〝交通安全の神様〟、宮地嶽神社は〝商売繁盛の神様〟、太宰府天満宮は〝学問の神様〟といわれとうけん、氏神様以外でも専門別にお参りして氏子になってもよかたいね」
琢二 「はっ、はっ、は。日本は、西洋みたいに一神教じゃない八百万の神の国だからな」

清 「それでは、波折神社は何の神様って言うたらよかっちゃろうか」
琢二 「波折神社境内に掲示されている〈波折神社縁起〉=写真②=によると、〈祭神=瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神の三座〉と表記。以下、次のように説明している。


写真②:境内に掲示されている〈波折神社縁起〉
     =波折神社で、08年2月18日午後1時36分撮影

〈縁起によれば神功皇后の新羅を遠征せられ凱旋し給いし時に、この三神当浦渡村鼓島に現われ給いしにより皇后この浦の岡分河原崎の宮之本という地字に神垣を造りて斎祀せらる。昔この浦の漁夫三人沖に出て釣せしが大風荒波に遭い雷鳴さえも加わり海大いに振動す故に漁夫諸共にこの三神に救いを祈りし処、忽ち御姿を現し給い隆起する波穂の上に立ち給いて雲の如き波頭を御袖をあげて打ち払い給うと見えしが、逆巻く荒波は見る間に治まりて遥かの沖に過ぎ、暫時、海上静かとなりし故、荒波を折って辛うじて舟は鼓島に漂着。風待ちすること三日、飢え迫りし折柄再び先の三神現われ給い飲食を与え給う。これを食すと覚えしが、忽ち人ここちつき力の限り波涛を淩ぎてこの浦に漕ぎ着けたり。初め三神の舟上に現われ給いし跡に三箇の石あり、捧持して帰り御神体として祭れり。これより波折大神と称し奉る。かくていにしえ彼の河原崎の宮之本に祭られしより時移り八十四代順徳天皇の承久三年此処に移し奉る〉

清 「だいたい分かった。で、祭神・瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神の三神とはどんな神様?」
琢二 「先に話した通り、『津屋崎の民俗 第四集』では、波折神社の祭神は〈住吉大神・志賀大神・貴船大神〉と書かれており、〈貴船大神〉が〈波折神社縁起〉に出てくる〈瀬織津姫大神〉と食い違っているな。まず、住吉大神は海上と航海の安全、大漁満足を守護する。つまり、海上の安全と大漁を祈願する御神徳がある神様だ。志賀大神は、天照大神の降臨に先立ち大宇宙を浄化されたとされる神。貴船大神は水の神。瀬織津姫(セオリツヒメ)大神も同じく水の神で、世の禍事罪穢れを祓ってくれる神様だ」
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