気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めの道程(14)時空間は 単なる認識の1様式

2018-10-17 06:04:28 | 真我実現シリーズ

我々が漠然と「空間」と言っているものは、
物と物との間のこと・・空(くう)のことを言っている。

物、物質形は観察・観測・認識できる。
しかしながら・・
「空間自体」は、観察も観測もできない・・空(くう)である。

空(くう)自体は見ることも触ることもできない!
大きさも、重さもなく、姿形もない。
次元もなければ、距離もない。

いや、距離があるじゃないか、机とTVの距離、町と町の距離、
宇宙における星と星の距離があり、移動するには時間がかかるではないか。
新幹線でも東京~大阪間の距離で、移動に時間がかかるではないか。
現実に、空間・距離があるじゃないか・・と。
「東京・大阪間は約550km、・・距離があるじゃないか!」
あなたはどう思う?

空間、距離とは、
物質と物質、その領域と領域の関する「認識」の1つの様式なのである。



ここで、今説明している根幹にあるには、
物質それ自体は、それとして存在しているわけではなく、
それを知覚・認識しているからこそ、存在できるということである。

これを簡単に言えば
「意識」によって「物質」が存在認知される!ということだ。

現実に、あなたが見て、触り、大きさ重さを測り、においを嗅ぐなどしなければ、、
あなたにとって・・その物は存在しないと同じなのである。
同じく、人の集団であれば、多くの人がその物を知覚・認識しなければ、
その物は存在しないと同じなのである。

どのような事象、事物も・・”認識されなければ”存在し得ない。

唯物論的世界観は、時空間のみが存在するいわゆる「4次元世界」観であり、
不可思議にも人間不在の観念体系だ。
人間つまり意識的存在のことだ。
意識を除いた世界観では、機械的なものが機械的に動くだけの世界。

まともな学者も、”意識がどうして生まれるのか?”と、
意識を使って悩んでいるのだ。

最も身近であるそれが、意識それ自身が・・見えていない。
気づけば、実に滑稽な話ではないか?

常識観念世界で、多くの人は、
物がある、事実がある、事件がある、あれがある、これがある、
これらはすべて現実である、事実であると漠然と眺めているだろうが、

それらは永遠の事実でも、不動の現実でもなく、
認識の1様式に過ぎないのである。

認識とは、知る・認める・・という「意識」の働きである。

話を空間に戻すと・・・、
誰が見ても客観的とされる、空間とは
物質と物質の間であり、物差しで何cm、何m、
あるいは電波で、何km、何百km、、はては何光年という風に、
それはいわゆる”計測される”認識されるものである。

つまり、意識の働き、認識の働きがなくて、「空間」は存在しえない。
あるいは、空間とされるものも、意識なくば存在しえないのだ。

また空間としてあるのは、知覚されえない・・空(くう)であり、
それは大きさも、重さも、形もさらに次元さえ知覚されない。

そう、空(くう)自体には「距離」などないということだ。
距離も時間も、意識の・・認識上の1様式に過ぎないのである。

意識において、あれやこれやと考えること、
それをマインド、こころの働きとするならば、

「時・空間」は不動の現実などではなく、
マインドで描いている仮想現実ということになる。
仮想現実、常に変化する現実、・・だ。

そうであれば、
意識がなくば、その対象たる時空間も諸物もない。
あなたがいなければ、あなたの世界・宇宙もない。
あなたの見ている広大無辺な無限の宇宙も、あなたによっている。
そして、
その大勢のわたしたち・・が共同で投影する世界が、今現前する宇宙だ。



すでにあった宇宙の中に、肉体個人としてのあなたが偶然生まれ、
そして死んでいく、刹那的存在でしかない・・という常識思考は、
「わたしは物資・肉体である」・・という根本的な”誤認識”なのだ。

そう、それもこれも、様々な誤認識も含め、
自らが認識主体である「意識」だということの証である。

我々を取り巻く・・と見える世界、時間空間は、
気づきを根源とした意識の働き、認識の単なる一様式に過ぎない。



(つづく)