時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
記憶、記録・・人の意識的な行為だ。
世界を見ている、聞いている、考えている、
それも「意識」の働きである。
そう、時間は・・意識の中にある。
今・・のこの一瞬に・・「時間」があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?
普通、「時間」が勝手に独立で存在していると「考え」ている。
カレンダー、時計、スケジュール・・それは便宜上の作り物だ。
瞬間・瞬間の記憶が一連の記憶の流れによって「時間」の流れを生み出す。
生み出すといっても、勝手に存在するのではなく、
”あなた”がそれを一連のストリームとして知覚・記憶・再生・想起するのだ。
あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。
あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。
あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、
その今・・は「時間」量ではない。
・・・
時間があたかも実在しているかのような通念で生きてきた。
通念、常識は、とりあえず生きるための方便としての観念だが、
支配や生活に便利な対処方法のようなもので、真実とは限らない。
いや、それは常に仮の処方でしかない。
プラグマティズムなども同じだ。
自分さえ、いまさえ良ければ、とりあえず・・。
真実などどうでもよい・・、という根の思考だ。
これがこの世の、いわば悪夢の世界に固定する。
社会的通念、常識、漠然とした習慣、それを疑う必要がある。
それが探求といわれるもの。
これは本当なのか?
これは真実なのか?
嘘から、夢から覚めるために必要なことである。
これを熟考せねばならない。
いや、ここでは、稚拙だが、すでにそれを示している。
余計なお世話だが、
言葉を眺めて通り過ぎるだけでは難しかろう。
ずいぶん偉そうな文章だが、これも一興とされたい・・笑。
たくさん覚え、それを、同じように再現、書き出すのが、
今の基本の教育といえようが、
”自らの意識”で、真実はどこにあるか?と真剣に”問いかける”必要がある。
そうでなければ、
言葉や概念という無数の言葉、情報・観念の洪水のなかで埋没するだろう。
量的優位さはAIやロボットに適うわけはない。
この意味でも、人存在は・・心すべき・・時が来ている。
・・・
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、宇宙と様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
今・・のこの一瞬に・・時間があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?
いいや、
それは人間の作り出した「観念」以外の何物でもない。
それでも世界は続く、生活は続く、
今の瞬間が創造の噴出点であるからだ。
どのように・・あるか?ありたいか?
それがいわゆる創造の根源から期待されているのだ。
あなたは、今の瞬間に、
創造世界が現れているのを観察しているのだが、
様々な雑多な観念・想念がその今の周囲にたむろしているため、
どこか悪夢のような、その雑多な観念、想念を眺めるだけで、
観ていること、事の重大さに、・・
それに気づかないだけのことだ。
時間は、その根っこにある固定観念である。
魂・意識はそれによって束縛されている。
観察は・・観察者と観察対象それ自体を変質させる。
想念は、その変質によって放射する波動といえよう。
そして、
想念を観察することは、意識的存在を・・変える。
あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。
あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。
あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、
その今・・は「時間」という架空の観念ではない。
・・・
さて、世界という名の、時間・空間の
「空間」はどうだろうか?
空間は実在するのだろうか?
周囲、環境、世界、様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
記憶、記録・・人の意識的な行為だ。
世界を見ている、聞いている、考えている、
それも「意識」の働きである。
そう、時間は・・意識の中にある。
今・・のこの一瞬に・・「時間」があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?
普通、「時間」が勝手に独立で存在していると「考え」ている。
カレンダー、時計、スケジュール・・それは便宜上の作り物だ。
瞬間・瞬間の記憶が一連の記憶の流れによって「時間」の流れを生み出す。
生み出すといっても、勝手に存在するのではなく、
”あなた”がそれを一連のストリームとして知覚・記憶・再生・想起するのだ。
あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。
あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。
あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、
その今・・は「時間」量ではない。
・・・
時間があたかも実在しているかのような通念で生きてきた。
通念、常識は、とりあえず生きるための方便としての観念だが、
支配や生活に便利な対処方法のようなもので、真実とは限らない。
いや、それは常に仮の処方でしかない。
プラグマティズムなども同じだ。
自分さえ、いまさえ良ければ、とりあえず・・。
真実などどうでもよい・・、という根の思考だ。
これがこの世の、いわば悪夢の世界に固定する。
社会的通念、常識、漠然とした習慣、それを疑う必要がある。
それが探求といわれるもの。
これは本当なのか?
これは真実なのか?
嘘から、夢から覚めるために必要なことである。
これを熟考せねばならない。
いや、ここでは、稚拙だが、すでにそれを示している。
余計なお世話だが、
言葉を眺めて通り過ぎるだけでは難しかろう。
ずいぶん偉そうな文章だが、これも一興とされたい・・笑。
たくさん覚え、それを、同じように再現、書き出すのが、
今の基本の教育といえようが、
”自らの意識”で、真実はどこにあるか?と真剣に”問いかける”必要がある。
そうでなければ、
言葉や概念という無数の言葉、情報・観念の洪水のなかで埋没するだろう。
量的優位さはAIやロボットに適うわけはない。
この意味でも、人存在は・・心すべき・・時が来ている。
・・・
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、宇宙と様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
今・・のこの一瞬に・・時間があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?
いいや、
それは人間の作り出した「観念」以外の何物でもない。
それでも世界は続く、生活は続く、
今の瞬間が創造の噴出点であるからだ。
どのように・・あるか?ありたいか?
それがいわゆる創造の根源から期待されているのだ。
あなたは、今の瞬間に、
創造世界が現れているのを観察しているのだが、
様々な雑多な観念・想念がその今の周囲にたむろしているため、
どこか悪夢のような、その雑多な観念、想念を眺めるだけで、
観ていること、事の重大さに、・・
それに気づかないだけのことだ。
時間は、その根っこにある固定観念である。
魂・意識はそれによって束縛されている。
観察は・・観察者と観察対象それ自体を変質させる。
想念は、その変質によって放射する波動といえよう。
そして、
想念を観察することは、意識的存在を・・変える。
あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。
あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。
あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、
その今・・は「時間」という架空の観念ではない。
・・・
さて、世界という名の、時間・空間の
「空間」はどうだろうか?
空間は実在するのだろうか?