●誰でも知っている魂という概念
魂という言葉はほぼ誰でも知っている。
英語ではソウルとかスピリットとか呼んでいるそれだ。
魂は、人が生まれ変わる、その根本の部分だとか、永遠不変の命の部分だとか、
そういうイメージだと思われるが、一般的にはそこで止まっているかも知れない。
あるいは魂など、宗教の上の話だとか、あり得るが架空のものだとか、そんなイメージ上のものでしかないと思っている訳知り顔の人も多いだろう。
しかしながら、それは率先して探究すべきものを、集団で怠っていると言わねばならない。
●転生は、魂・本質に気付くトレーニング
あの人も、この人も魂の少しでも知らないような、そんな集団だから、
まあそれで良いと、つい思ってしまいがちであり、
そういう場合、人生において目先の状況対応以外は全く気にせずに、
他人の動きばかりに合わせて人生を素通りし、そして時間切れで行ってしまいがちである。
そうではないか?
そしてまた再び、自己とは何か?のテーマを持って、
多くはこの世界のどこかの時空点で生まれ変わることになるものだ。
そう、「わたしはだれ?ここはどこ?」から始まるのである。
別にそれもまた貴重な経験なのだが、余計なお世話かもしれないが、
いま、多くの人がそういう訳で、この世界に生まれてきているのかもしれない。
繰り返しの螺旋の輪のような進化は、生まれ変わりと言われているが、
それは親神様が願った魂の成長プロセス、自己の本質に気付くトレーニングなのである。
しかしながら、これから先は今までとは同じことは出来ない相談である。
なぜならば、
これから、ここでは、目覚め始めた者だけが、生まれてくる世界になりつつある。
揺りかごから墓場までならぬ、揺りかごから一人歩きの出来る、魂の体験場になっている。
いわゆるスピリチュアリズムの興隆も単なる偶然ではない。
・・・
今、世界で様々な生物種が死滅し、また現役の生物達の突然の大量死が起きているのは、
人類の多くが、自我欲のままに文明を創り上げる過程で、地球という生命体系がほとんど尊重されず、汚染されるにまかせたという理由だけではなく、
この地球という次元での魂の修行の進展と合わせて、
人類に奉仕するべくやってきていた様々な進化途上の命たちも、
その役目を終えつつ、種族及び魂のグループ単位で、高次元に帰還しているからである。
動物たちの多くが人間の食物とされているように、そういう無条件に奉仕するタイプの生物達が、今はもう去りつつあるということに気付かねばならない。
進化や成長を無視した者、いつまでも物質繁栄のみを追いかける者は、
別に悪いわけではないけれども、そろそろどこか別の時空間での経験をするようになる
その前触れだと考えてもおかしくはない。
何万何千年という、切なる時間の提供の中で、
いつまで幼稚園で遊んでいるのか?
そんな大きな声が天空から聞こえてきそうではないか。
そう、
生命には目的が何もないのだろうか?
人生も何も、偶然だと思うだろうか?
目先が刺激的で、うすら楽しければ良いのだろうか?
あなたは今・・存在している・・ことに気付いている・・が、
自分で自分に気付いていることが、どんなに驚異的なことか!
わたしは・・在る・・ことが、どんなに奇跡的なことなのか、
気付いているのか?
それとも、あらゆる全てが、偶然だろうか?
どう感じるだろうか?
・・・
●魂は現象を生み出す多次元エネルギー
魂、スピリットは、肉眼で客観視出来ないために、
そんなもの存在しないと思っている、いわゆる科学的な解釈人も多いかもしれない。
でもどこにもその責任者はいない(笑)。それともアメリカにでもいると思うのか。
プラグマティズム、功利主義、現実主義、唯物主義、はては、新自由主義?、
嗚呼、なんと愚かで激しい想いだろうか・・・、
目に見えないもの、触れないものは、存在していない・・。
えー、それは、本当か?
例えばその科学によって、様々な運動や現象は、
エネルギーによって生じるとされているのだが、
その「エネルギー自体」は科学的な数値で換算できても、目には見えないのである。
ビリビリと流れる電気で、それがあることがわかり、
運動する事物を見て、それがあることがわかる。
でも、<エネルギー自体>は見ることも触ることも出来ないのである。
あらゆる存在の背後には、原因としてのエネルギーがあるのは、逆にいわゆる科学的な常識。
原因無くして結果無し・・これも全うな常識であろう。
・・・
●魂の存在証拠?
人間として今・・生きている自分も、
その因としての”エネルギー的なもの”があるのは、
それも全く当たり前の見解と言えるのだ。
魂のあることの・・物的証拠?、
・・それはまず、あなたの身体である。
さらに、物的ではないが、あなたの思考や感情もその証拠である。
それらが起きている背後には、見えないエネルギーがある。
生命エネルギーとも言われる<それ自体>は目には見えない。
が、
存在している・・という事実こそが、それを生起せしめているところの、
魂、あるいは生命エネルギーの明確な証拠なのである。
人間の場合は、魂と言って良いそれの存在する証拠が、
今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事なのである。
「あら・・、そうなんだ?」・・という程度に、
身近すぎて、簡単すぎて、逆に目くらましとなっているわけだ。
そんなの刺激も何も無いではないか・・、
値段は?、重さは?、大きさは?・・という物量観念ばかりであれば、
なかなか、本質の反映形も見えるわけもない。
しかし魂は、「観る」ことが出来る、つまり観察である。
今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事をよく観ることなのである。
人生を味わう・・とは、様々な快楽や刺激を味わう・・ということではなく、
自分自身の在り様、行為、思考、感情を観て・・味わうということだ。
●在ることを観る
人間として・・今在る・・ことを観ること・・で、
その背後の原因としての「エネルギー的なもの」を確認するのだ。
あるいは内面の意識的なもの、意識エネルギーと言って良いそれを観察する、
気づくことでその背後にあるものを確認してゆくことなのだ。
これは実際、科学的なやり方であって、
わけのわからない思考を鵜呑みにする下手な宗教等ではない。
●肉眼ではなく、意識で観る
ことは意識の領域とは言え、これも科学的な観察行為なのだ。
エネルギー自体は観ることが出来ないが、
その動き、現象は観察することが出来るわけで、
内面の意識的な動き、つまり「意識エネルギーの動き」は観ることが出来る。
それは、マインド:こころを観ると言うのと同じこと。
つまり自己観想、瞑想、こころを、想念を、観ることに他ならない!
そして、それを観ているものは・・・誰なのか?
それに気づいてゆくのだ。
●高次のものは、低次を観ることが出来る
低次の物質身体を見ており、
さらには、より高次の思考やイメージをも観ている者は、
その視座にいるものは・・一体誰か?・・・?
月光仮面は誰でしょう(^^♪ ♪・ ではないけれど(笑)、
身体つまり、物質波動域を観察する者、
さらに高次(高波動域)の思考を観察する者・・
それが物質もマインドも超えている・・「魂」と言える。
●人は肉体にあらず
人は皆、魂・こころ・肉体の複合体なのである。
こころに気付き、さらには魂まで気付くということだ。
そうすれば当たり前だが、
死んだら終わりの肉体人間経験は、もう卒業となろう。
アセンションとはそれ。
●魂は普遍的観察者とも言える
魂、確かにそれは、「見えるもの」ではない、つまり客体ではない。
そうではなくて、客体ではなく、言わば・・主体というわけだ、
見る者・・観る者・・なのである。
魂とは、観照するもの・・・観照それ自体・・気付き自体・・
それが・・本質側の・・<わたし>・・だ。
そして、
あらゆる全てを観ている、あらゆる全てに気づいているものが・・< 神 >。
わたしは・・神に含まれ、またそのもの一体でもある所以だ。
どれだけ気付いているか・・その違いだけなのだ。
いまはあなたもわたし達も、程遠いかもしれないが、
はるか彼方ではあっても、神とは・・しっかり見える遠くの山脈のようなものである。
魂の進化のプロセスは、まるで山登りのようなものであり、
登るまではその山の頂を見上げつつも、その山の頂に登れば、
そこからは全てを眼下に一望できることになる。
魂は見えるものではなく、すべてを観る者だ。
また、あなたの世界には「あなた」しかいない、
意識する主体としての魂というか、あなたの見はるかす世界の中で、
意識の中心は・・誰でもなく、あなた以外にないということである。
これもまた、最も身近極まりない、見過ごし続けてきたかもしれない
驚天動地の真実なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
魂という言葉はほぼ誰でも知っている。
英語ではソウルとかスピリットとか呼んでいるそれだ。
魂は、人が生まれ変わる、その根本の部分だとか、永遠不変の命の部分だとか、
そういうイメージだと思われるが、一般的にはそこで止まっているかも知れない。
あるいは魂など、宗教の上の話だとか、あり得るが架空のものだとか、そんなイメージ上のものでしかないと思っている訳知り顔の人も多いだろう。
しかしながら、それは率先して探究すべきものを、集団で怠っていると言わねばならない。
●転生は、魂・本質に気付くトレーニング
あの人も、この人も魂の少しでも知らないような、そんな集団だから、
まあそれで良いと、つい思ってしまいがちであり、
そういう場合、人生において目先の状況対応以外は全く気にせずに、
他人の動きばかりに合わせて人生を素通りし、そして時間切れで行ってしまいがちである。
そうではないか?
そしてまた再び、自己とは何か?のテーマを持って、
多くはこの世界のどこかの時空点で生まれ変わることになるものだ。
そう、「わたしはだれ?ここはどこ?」から始まるのである。
別にそれもまた貴重な経験なのだが、余計なお世話かもしれないが、
いま、多くの人がそういう訳で、この世界に生まれてきているのかもしれない。
繰り返しの螺旋の輪のような進化は、生まれ変わりと言われているが、
それは親神様が願った魂の成長プロセス、自己の本質に気付くトレーニングなのである。
しかしながら、これから先は今までとは同じことは出来ない相談である。
なぜならば、
これから、ここでは、目覚め始めた者だけが、生まれてくる世界になりつつある。
揺りかごから墓場までならぬ、揺りかごから一人歩きの出来る、魂の体験場になっている。
いわゆるスピリチュアリズムの興隆も単なる偶然ではない。
・・・
今、世界で様々な生物種が死滅し、また現役の生物達の突然の大量死が起きているのは、
人類の多くが、自我欲のままに文明を創り上げる過程で、地球という生命体系がほとんど尊重されず、汚染されるにまかせたという理由だけではなく、
この地球という次元での魂の修行の進展と合わせて、
人類に奉仕するべくやってきていた様々な進化途上の命たちも、
その役目を終えつつ、種族及び魂のグループ単位で、高次元に帰還しているからである。
動物たちの多くが人間の食物とされているように、そういう無条件に奉仕するタイプの生物達が、今はもう去りつつあるということに気付かねばならない。
進化や成長を無視した者、いつまでも物質繁栄のみを追いかける者は、
別に悪いわけではないけれども、そろそろどこか別の時空間での経験をするようになる
その前触れだと考えてもおかしくはない。
何万何千年という、切なる時間の提供の中で、
いつまで幼稚園で遊んでいるのか?
そんな大きな声が天空から聞こえてきそうではないか。
そう、
生命には目的が何もないのだろうか?
人生も何も、偶然だと思うだろうか?
目先が刺激的で、うすら楽しければ良いのだろうか?
あなたは今・・存在している・・ことに気付いている・・が、
自分で自分に気付いていることが、どんなに驚異的なことか!
わたしは・・在る・・ことが、どんなに奇跡的なことなのか、
気付いているのか?
それとも、あらゆる全てが、偶然だろうか?
どう感じるだろうか?
・・・
●魂は現象を生み出す多次元エネルギー
魂、スピリットは、肉眼で客観視出来ないために、
そんなもの存在しないと思っている、いわゆる科学的な解釈人も多いかもしれない。
でもどこにもその責任者はいない(笑)。それともアメリカにでもいると思うのか。
プラグマティズム、功利主義、現実主義、唯物主義、はては、新自由主義?、
嗚呼、なんと愚かで激しい想いだろうか・・・、
目に見えないもの、触れないものは、存在していない・・。
えー、それは、本当か?
例えばその科学によって、様々な運動や現象は、
エネルギーによって生じるとされているのだが、
その「エネルギー自体」は科学的な数値で換算できても、目には見えないのである。
ビリビリと流れる電気で、それがあることがわかり、
運動する事物を見て、それがあることがわかる。
でも、<エネルギー自体>は見ることも触ることも出来ないのである。
あらゆる存在の背後には、原因としてのエネルギーがあるのは、逆にいわゆる科学的な常識。
原因無くして結果無し・・これも全うな常識であろう。
・・・
●魂の存在証拠?
人間として今・・生きている自分も、
その因としての”エネルギー的なもの”があるのは、
それも全く当たり前の見解と言えるのだ。
魂のあることの・・物的証拠?、
・・それはまず、あなたの身体である。
さらに、物的ではないが、あなたの思考や感情もその証拠である。
それらが起きている背後には、見えないエネルギーがある。
生命エネルギーとも言われる<それ自体>は目には見えない。
が、
存在している・・という事実こそが、それを生起せしめているところの、
魂、あるいは生命エネルギーの明確な証拠なのである。
人間の場合は、魂と言って良いそれの存在する証拠が、
今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事なのである。
「あら・・、そうなんだ?」・・という程度に、
身近すぎて、簡単すぎて、逆に目くらましとなっているわけだ。
そんなの刺激も何も無いではないか・・、
値段は?、重さは?、大きさは?・・という物量観念ばかりであれば、
なかなか、本質の反映形も見えるわけもない。
しかし魂は、「観る」ことが出来る、つまり観察である。
今あなたが・・生きて・・今・・在る・・事をよく観ることなのである。
人生を味わう・・とは、様々な快楽や刺激を味わう・・ということではなく、
自分自身の在り様、行為、思考、感情を観て・・味わうということだ。
●在ることを観る
人間として・・今在る・・ことを観ること・・で、
その背後の原因としての「エネルギー的なもの」を確認するのだ。
あるいは内面の意識的なもの、意識エネルギーと言って良いそれを観察する、
気づくことでその背後にあるものを確認してゆくことなのだ。
これは実際、科学的なやり方であって、
わけのわからない思考を鵜呑みにする下手な宗教等ではない。
●肉眼ではなく、意識で観る
ことは意識の領域とは言え、これも科学的な観察行為なのだ。
エネルギー自体は観ることが出来ないが、
その動き、現象は観察することが出来るわけで、
内面の意識的な動き、つまり「意識エネルギーの動き」は観ることが出来る。
それは、マインド:こころを観ると言うのと同じこと。
つまり自己観想、瞑想、こころを、想念を、観ることに他ならない!
そして、それを観ているものは・・・誰なのか?
それに気づいてゆくのだ。
●高次のものは、低次を観ることが出来る
低次の物質身体を見ており、
さらには、より高次の思考やイメージをも観ている者は、
その視座にいるものは・・一体誰か?・・・?
月光仮面は誰でしょう(^^♪ ♪・ ではないけれど(笑)、
身体つまり、物質波動域を観察する者、
さらに高次(高波動域)の思考を観察する者・・
それが物質もマインドも超えている・・「魂」と言える。
●人は肉体にあらず
人は皆、魂・こころ・肉体の複合体なのである。
こころに気付き、さらには魂まで気付くということだ。
そうすれば当たり前だが、
死んだら終わりの肉体人間経験は、もう卒業となろう。
アセンションとはそれ。
●魂は普遍的観察者とも言える
魂、確かにそれは、「見えるもの」ではない、つまり客体ではない。
そうではなくて、客体ではなく、言わば・・主体というわけだ、
見る者・・観る者・・なのである。
魂とは、観照するもの・・・観照それ自体・・気付き自体・・
それが・・本質側の・・<わたし>・・だ。
そして、
あらゆる全てを観ている、あらゆる全てに気づいているものが・・< 神 >。
わたしは・・神に含まれ、またそのもの一体でもある所以だ。
どれだけ気付いているか・・その違いだけなのだ。
いまはあなたもわたし達も、程遠いかもしれないが、
はるか彼方ではあっても、神とは・・しっかり見える遠くの山脈のようなものである。
魂の進化のプロセスは、まるで山登りのようなものであり、
登るまではその山の頂を見上げつつも、その山の頂に登れば、
そこからは全てを眼下に一望できることになる。
魂は見えるものではなく、すべてを観る者だ。
また、あなたの世界には「あなた」しかいない、
意識する主体としての魂というか、あなたの見はるかす世界の中で、
意識の中心は・・誰でもなく、あなた以外にないということである。
これもまた、最も身近極まりない、見過ごし続けてきたかもしれない
驚天動地の真実なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。