気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標 (18)コメント転載版 その2

2016-08-12 07:45:10 | 人間とは何か
---再びコメント転載版です。

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ふにゃーっとした中からおりてきたことがあるので、書かせて頂きますね。

自分の思い癖・・・特に あれをしたらあかん、これをしたらあかん

ついついストレスからこんなことを、やってしまう

どうしようもないけど、あいつとつき合わないといけない

云々カンヌン

これら 魂の断片を 手放す時が来たみたいです。

今日たまたま ひがしちわ さん
 
という方のブログの

天使のメッセージの中で

http://ameblo.jp/angels-light/entry-12188324157.html

「同意を破棄する」ってのがあるのですが

まさに今自分実践していることと直結するのですが

自分が自分に特に制限を課していた部分は

それは実は、前世の自分の名残であり、

どこまでもこびりついている思い癖なのであります。


前世を知らなくても つぶさに見ればわかる

魂の一部分を知る 個我・・・と 壮大なる魂の本質との乖離と言いますか・・・

人それぞれに悩ましい部分があるはずです

本当はこれをやりたいんだけど・・・

だけど あれがこうだから なにがそうだから

と誤魔化し続けてきた魂の断片の叫びです

解放の時期です。それが「今」


それがマッチョマンさんの「魂は見えるか?」

にもまさに通底していると思います。

そしてそれは個々人がひっそりと

自分自身に許していくべき事です。


がんじがらめで崩壊寸前の社会で

認知症になってでも苦しみ続けるんだ

と頑張っている 学びの途中の方々に

同意を求める必要は全くありません

大半が魂の18歳未満です。


だから秘密裏に自分に許していくことが

とても大切になっていきます。

密教よりずっと格調の高い「秘密」です(笑)

かつての聖賢がなかなか伝えられなかった

ゴール直前の悟りじゃないかな~

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以上 転載。


(コメント)
確かに、
人の日常の体験の中から醸し出されくる、様々なニガウリのような思いも、
内面の奥にあるものと、繰り返される現実生活との「ギャップ」から来ています。

誰でも少年、青年時代には、これがに顕著に出てくるわけですが、
多くが、それが何が何だか特定できる意識環境にはなく、

若いから何も知らないのだよ・・と親や世間に一蹴され、
頭を傾げつつ、どこか反抗しつつも、

普通は現実という、なじんだ癖のほう、
皆が歩いている、大きな道のほうを良しとするわけです。
これは今までの「同意」かもしれません。

そうして誰も似たような、繰り返しのような人生が行われます。
いつの時代であっても。
・・・

そうでない場合は、その存在はマスター、聖者などと呼ばれますが、
しかし、その存在も、彼や彼女として、いつかどこかでこれを経験し、

本来の自己たる、大いなる意識とその意図の「発露」「発振」によって、
そういう小さなループのような次元経験を超えてきたわけです。

だからいつでもI am that I AM
どこでも、降りてこられる、降りていける。
どこでも、同じ目線に立つことができる。

それが一体、どういう仕組みなのか、心配する必要なんかない。
心配はエゴ、肉体自我特有のものですから。

そういう存在は、
この世界に在っても、この世界に属していないと言われるように、
世間、世界の「重い思考」に組み敷かれていない。

いわば「古い同意」が破棄された人と言えましょう。

そして、それは誰でも、今できるわけです。

先入観念、支配観念、促し観念、・・つまり、
自分に起きる「思考」そのものを、
それは単なる「思考」であると、
決して、自分自身ではない・・と本当に、見破ることです。
「あー、そうだったんだ、ふーん」

実に「思考」によって、しかも小さく重い思考で縛られているのが、
この世界の特徴でした。

自分は、数十年間ポッと時空に表れる「身体」でもなく、「思考」でもない。
こういう思い、認識に至り、それを人生として表現する人は、
十牛全図でいうところの、牛と戯れる人といって良いでしょう。
・・・
思考は神の遊ぶ大切な道具。
振り回される相手じゃない。