気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今・実感=創造!

2016-03-13 07:49:46 | 人間とは何か
I AM THAT I am.

(わたしは・・・わたしである・・ところの者である)

(わたしは・・・どんなわたしであるか、選択する存在である)


主体たる意識を有する人間は、十葉ひとからげの烏合の社会的動物ではなく、

自らが自らの在り様をイメージ、実感、創造していく存在である。

誰もそう・・、皆「わたし」という自分意識、自己認識に気付いているはず。

自己認識とは、自己の無限の可能性を認識しつつ進化拡大しているということだ。


多くが、外の世界に気をとられ続け、当たり前のように毎瞬素通りしていたわけだが、

これは実に重大なことであり、それぞれが実は、神人ともいえる存在であること、

創造者としての自分をじっくり感じることが・・今・・最重要な事なのである。



I AM THAT I am.

(わたしは・・・それがわたしである・・存在である)

これは創造の原理を言っている。

意識、意図、認識あればこそ、その存在の容姿(かたち)が現れる。



人とは形の決まった「物質的」存在ではなく、動的な「意識的」存在であること、

意識で自らの在り様を創造・選択する存在であることを示しているのだ。

それが真正の人間だ。

意識的であるということは、自らの認識を自らで創り上げているということで、

気付かず知らず、あなたもそうやって人生を経てきているのだ。


経ては来ているが、どうも、本来そうであるべきイメージ感覚の・・

つまり「幸せ」とは程遠いと思っているだろう。

違うだろうか?


日常、たまにふとした折に・・「あー幸せなんだな・・」という感情が出ているか?

どうだろうか?


何か面白いことが、楽しいことがあった・・ら、幸せ感が出ているだろうか?

そうだろうか?

いや、全くおバカな世の中に腹が立ちまくりで、そんなどころでないだろうか?

どうなんだろうか?

なるほど、厭世的に世を斬ってしまうような、そういう充実感もあるかもしれない。(笑)
・・・

しかしながら、それらはどれもこれも、

外から幸せが訪れるものだという「重大な錯覚観念」に取っ捕まっているのだ。

「あー楽しい、嬉しい、幸せだ・・」は、内なる感情の噴出にもかからわず、

外の世界から訪れる何物か、何者か・・だと、勘違いしているということ・・!。


外の世界はあらゆる事象の生起した「現象結果」なのにもかかわらず、

その「結果」の中から、幸せというお零(こぼ)れをもらおうとしているのだが、

未だかつて本質的な幸せ感など何度あっただろうか?





「アー助かった、良かった良かった・・」ではなく、

「体があー気持ちいい、爽快だ」でもなく、

「あーこれでひと安心だ・・」でもなく、


自身の内から湧き出す、無条件の「感動」のことだ。

大きい・小さい・多量だ・少量だとは次元の違う、

思考や計算、物量の過多とは縁のない、

内から湧き上がってくる・・感情のダイナミックな発動・・


人生の折々に、ふとした知験や経験がきっかけとなって、

全く無条件に「!!!」と込み上げてくるものだ。


たとえ銭・金・物に追われる日々でも、これは誰でも経験していること。

感情・・とは、活きて在る感動の・・その為にある「実感」なのだ。

金や地位や、知的集積や苦労の記録などは、なんということもない、

無為無臭の枝葉の造り物に過ぎず、

それらあらゆる人生での事象や経験から「醸し出される」ところの、

あるいは生育されるところの、

内から湧き上がってくる実感・・感動・・感情のダイナミックな発動こそが、


人生という、有限なる時空間舞台設定で収穫できるところの、

時空間をはるかに超えて在る、魂の成長進化の足跡、活きた記憶となるのだ。


・・・

感動なくして人生の意味があろうか?

あなたはどう感じる?

そんなの後回し? それとも誰も与えてくれないもの?

・・
実在する感動は、つまり「実感」とは、

内から発動せる無条件の感情であり、

人はその発動する内なる発露ルートを、自ら、普段から広げる努力をすることで、

さらに嬉しく楽しく、・・幸せだという実感が増大してくるのである。


何があってもなくても、つまり無条件に・・

「在ることの幸せ」を今でも実感できるのだ!


「あー、幸せだ・・」という内なる実感は、

そのうち、いつか・・、多分未来に・・では決してない。


今、ここで、そこで、既にあることを実感すること。

それがまた、それを呼び込む共振波動となる。

まず最初に・・・感動、幸せの波動を発信すべきなのである。

オー MY GOD!!

源とは、そこから全てが生起しているという意味だ。


あらゆる全ての事象、その中には物理的なものも、人間関係的なものもあるが、

それらの結果がどうしたこうした、これは大変だ、あれは期待できない・・とか、

そういうものは全く関係がなく・・つまり過ぎたこと!


今、無条件に・・「嬉し・楽し・素晴らしい・幸せ・・」を実感することで、

それにふさわしい、自らの存在する天地が現れているのである。

鋭敏な知力、蓄積せる知識だけではどうということもなく、

それを含めた「実感」こそが「創造」なのだ。



さて、あなたは自らが幸せであると・・「実感」できるだろうか。

なぜ、不幸だと言い張るのか? 助ける誰かを待っているのか?

世界の何かが変わるのをいつまでも待っているのか?



今ここに幸あり、・・いまここだ!

「えっ?どこに?」ではなく、

今、この瞬間、つねにそれしかない。

それが常に永遠であることに気付いているはず。

とは言え、取りあえずの現世利益等ではない、永遠の今・・ここだ。


その為には、今まで「そうではない」と、

あれが必要、物が重要、これが条件等と・・・、

繰り返し、言い続けてきた古い世間常識という嘘八百もある重い観念を外し、

自分の内面に戻って、幸せ感覚ならばそれを、

繰り返し、繰り返し、「実感」しなければならないはずである。



何があってもなくても、今在るということの幸せ、

人生は、感動という実りを収穫する為の、

富沃な大地であることを「実感」することだ。


生と死を超えて、いつも在る、常に在る・・そして今在る自分を見よ、

そう、自分とは・・、創造の根源光が自らを分けたもの、

創造の根源が実感を内に創り上げたからこそ、

あなたやわたし達というものが在り、

また、外なる表現宇宙という形で出現しているのである。


魂の根源から発する幸せの「実感」こそが・・・

悠久の時を超えてそれに沿った道を創り上げ、無数の生や死を超え、

波動共鳴によってさらに、嬉しく楽しきこと多い生命経験となる。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。