I AM THAT I am.
(わたしは・・・わたしである・・ところの者である)
(わたしは・・・どんなわたしであるか、選択する存在である)
主体たる意識を有する人間は、十葉ひとからげの烏合の社会的動物ではなく、
自らが自らの在り様をイメージ、実感、創造していく存在である。
誰もそう・・、皆「わたし」という自分意識、自己認識に気付いているはず。
自己認識とは、自己の無限の可能性を認識しつつ進化拡大しているということだ。
多くが、外の世界に気をとられ続け、当たり前のように毎瞬素通りしていたわけだが、
これは実に重大なことであり、それぞれが実は、神人ともいえる存在であること、
創造者としての自分をじっくり感じることが・・今・・最重要な事なのである。
I AM THAT I am.
(わたしは・・・それがわたしである・・存在である)
これは創造の原理を言っている。
意識、意図、認識あればこそ、その存在の容姿(かたち)が現れる。
人とは形の決まった「物質的」存在ではなく、動的な「意識的」存在であること、
意識で自らの在り様を創造・選択する存在であることを示しているのだ。
それが真正の人間だ。
意識的であるということは、自らの認識を自らで創り上げているということで、
気付かず知らず、あなたもそうやって人生を経てきているのだ。
経ては来ているが、どうも、本来そうであるべきイメージ感覚の・・
つまり「幸せ」とは程遠いと思っているだろう。
違うだろうか?
日常、たまにふとした折に・・「あー幸せなんだな・・」という感情が出ているか?
どうだろうか?
何か面白いことが、楽しいことがあった・・ら、幸せ感が出ているだろうか?
そうだろうか?
いや、全くおバカな世の中に腹が立ちまくりで、そんなどころでないだろうか?
どうなんだろうか?
なるほど、厭世的に世を斬ってしまうような、そういう充実感もあるかもしれない。(笑)
・・・
しかしながら、それらはどれもこれも、
外から幸せが訪れるものだという「重大な錯覚観念」に取っ捕まっているのだ。
「あー楽しい、嬉しい、幸せだ・・」は、内なる感情の噴出にもかからわず、
外の世界から訪れる何物か、何者か・・だと、勘違いしているということ・・!。
外の世界はあらゆる事象の生起した「現象結果」なのにもかかわらず、
その「結果」の中から、幸せというお零(こぼ)れをもらおうとしているのだが、
未だかつて本質的な幸せ感など何度あっただろうか?
「アー助かった、良かった良かった・・」ではなく、
「体があー気持ちいい、爽快だ」でもなく、
「あーこれでひと安心だ・・」でもなく、
自身の内から湧き出す、無条件の「感動」のことだ。
大きい・小さい・多量だ・少量だとは次元の違う、
思考や計算、物量の過多とは縁のない、
内から湧き上がってくる・・感情のダイナミックな発動・・
人生の折々に、ふとした知験や経験がきっかけとなって、
全く無条件に「!!!」と込み上げてくるものだ。
たとえ銭・金・物に追われる日々でも、これは誰でも経験していること。
感情・・とは、活きて在る感動の・・その為にある「実感」なのだ。
金や地位や、知的集積や苦労の記録などは、なんということもない、
無為無臭の枝葉の造り物に過ぎず、
それらあらゆる人生での事象や経験から「醸し出される」ところの、
あるいは生育されるところの、
内から湧き上がってくる実感・・感動・・感情のダイナミックな発動こそが、
人生という、有限なる時空間舞台設定で収穫できるところの、
時空間をはるかに超えて在る、魂の成長進化の足跡、活きた記憶となるのだ。
・・・
感動なくして人生の意味があろうか?
あなたはどう感じる?
そんなの後回し? それとも誰も与えてくれないもの?
・・
実在する感動は、つまり「実感」とは、
内から発動せる無条件の感情であり、
人はその発動する内なる発露ルートを、自ら、普段から広げる努力をすることで、
さらに嬉しく楽しく、・・幸せだという実感が増大してくるのである。
何があってもなくても、つまり無条件に・・
「在ることの幸せ」を今でも実感できるのだ!
「あー、幸せだ・・」という内なる実感は、
そのうち、いつか・・、多分未来に・・では決してない。
今、ここで、そこで、既にあることを実感すること。
それがまた、それを呼び込む共振波動となる。
まず最初に・・・感動、幸せの波動を発信すべきなのである。
オー MY GOD!!
源とは、そこから全てが生起しているという意味だ。
あらゆる全ての事象、その中には物理的なものも、人間関係的なものもあるが、
それらの結果がどうしたこうした、これは大変だ、あれは期待できない・・とか、
そういうものは全く関係がなく・・つまり過ぎたこと!
今、無条件に・・「嬉し・楽し・素晴らしい・幸せ・・」を実感することで、
それにふさわしい、自らの存在する天地が現れているのである。
鋭敏な知力、蓄積せる知識だけではどうということもなく、
それを含めた「実感」こそが「創造」なのだ。
さて、あなたは自らが幸せであると・・「実感」できるだろうか。
なぜ、不幸だと言い張るのか? 助ける誰かを待っているのか?
世界の何かが変わるのをいつまでも待っているのか?
今ここに幸あり、・・いまここだ!
「えっ?どこに?」ではなく、
今、この瞬間、つねにそれしかない。
それが常に永遠であることに気付いているはず。
とは言え、取りあえずの現世利益等ではない、永遠の今・・ここだ。
その為には、今まで「そうではない」と、
あれが必要、物が重要、これが条件等と・・・、
繰り返し、言い続けてきた古い世間常識という嘘八百もある重い観念を外し、
自分の内面に戻って、幸せ感覚ならばそれを、
繰り返し、繰り返し、「実感」しなければならないはずである。
何があってもなくても、今在るということの幸せ、
人生は、感動という実りを収穫する為の、
富沃な大地であることを「実感」することだ。
生と死を超えて、いつも在る、常に在る・・そして今在る自分を見よ、
そう、自分とは・・、創造の根源光が自らを分けたもの、
創造の根源が実感を内に創り上げたからこそ、
あなたやわたし達というものが在り、
また、外なる表現宇宙という形で出現しているのである。
魂の根源から発する幸せの「実感」こそが・・・
悠久の時を超えてそれに沿った道を創り上げ、無数の生や死を超え、
波動共鳴によってさらに、嬉しく楽しきこと多い生命経験となる。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
(わたしは・・・わたしである・・ところの者である)
(わたしは・・・どんなわたしであるか、選択する存在である)
主体たる意識を有する人間は、十葉ひとからげの烏合の社会的動物ではなく、
自らが自らの在り様をイメージ、実感、創造していく存在である。
誰もそう・・、皆「わたし」という自分意識、自己認識に気付いているはず。
自己認識とは、自己の無限の可能性を認識しつつ進化拡大しているということだ。
多くが、外の世界に気をとられ続け、当たり前のように毎瞬素通りしていたわけだが、
これは実に重大なことであり、それぞれが実は、神人ともいえる存在であること、
創造者としての自分をじっくり感じることが・・今・・最重要な事なのである。
I AM THAT I am.
(わたしは・・・それがわたしである・・存在である)
これは創造の原理を言っている。
意識、意図、認識あればこそ、その存在の容姿(かたち)が現れる。
人とは形の決まった「物質的」存在ではなく、動的な「意識的」存在であること、
意識で自らの在り様を創造・選択する存在であることを示しているのだ。
それが真正の人間だ。
意識的であるということは、自らの認識を自らで創り上げているということで、
気付かず知らず、あなたもそうやって人生を経てきているのだ。
経ては来ているが、どうも、本来そうであるべきイメージ感覚の・・
つまり「幸せ」とは程遠いと思っているだろう。
違うだろうか?
日常、たまにふとした折に・・「あー幸せなんだな・・」という感情が出ているか?
どうだろうか?
何か面白いことが、楽しいことがあった・・ら、幸せ感が出ているだろうか?
そうだろうか?
いや、全くおバカな世の中に腹が立ちまくりで、そんなどころでないだろうか?
どうなんだろうか?
なるほど、厭世的に世を斬ってしまうような、そういう充実感もあるかもしれない。(笑)
・・・
しかしながら、それらはどれもこれも、
外から幸せが訪れるものだという「重大な錯覚観念」に取っ捕まっているのだ。
「あー楽しい、嬉しい、幸せだ・・」は、内なる感情の噴出にもかからわず、
外の世界から訪れる何物か、何者か・・だと、勘違いしているということ・・!。
外の世界はあらゆる事象の生起した「現象結果」なのにもかかわらず、
その「結果」の中から、幸せというお零(こぼ)れをもらおうとしているのだが、
未だかつて本質的な幸せ感など何度あっただろうか?
「アー助かった、良かった良かった・・」ではなく、
「体があー気持ちいい、爽快だ」でもなく、
「あーこれでひと安心だ・・」でもなく、
自身の内から湧き出す、無条件の「感動」のことだ。
大きい・小さい・多量だ・少量だとは次元の違う、
思考や計算、物量の過多とは縁のない、
内から湧き上がってくる・・感情のダイナミックな発動・・
人生の折々に、ふとした知験や経験がきっかけとなって、
全く無条件に「!!!」と込み上げてくるものだ。
たとえ銭・金・物に追われる日々でも、これは誰でも経験していること。
感情・・とは、活きて在る感動の・・その為にある「実感」なのだ。
金や地位や、知的集積や苦労の記録などは、なんということもない、
無為無臭の枝葉の造り物に過ぎず、
それらあらゆる人生での事象や経験から「醸し出される」ところの、
あるいは生育されるところの、
内から湧き上がってくる実感・・感動・・感情のダイナミックな発動こそが、
人生という、有限なる時空間舞台設定で収穫できるところの、
時空間をはるかに超えて在る、魂の成長進化の足跡、活きた記憶となるのだ。
・・・
感動なくして人生の意味があろうか?
あなたはどう感じる?
そんなの後回し? それとも誰も与えてくれないもの?
・・
実在する感動は、つまり「実感」とは、
内から発動せる無条件の感情であり、
人はその発動する内なる発露ルートを、自ら、普段から広げる努力をすることで、
さらに嬉しく楽しく、・・幸せだという実感が増大してくるのである。
何があってもなくても、つまり無条件に・・
「在ることの幸せ」を今でも実感できるのだ!
「あー、幸せだ・・」という内なる実感は、
そのうち、いつか・・、多分未来に・・では決してない。
今、ここで、そこで、既にあることを実感すること。
それがまた、それを呼び込む共振波動となる。
まず最初に・・・感動、幸せの波動を発信すべきなのである。
オー MY GOD!!
源とは、そこから全てが生起しているという意味だ。
あらゆる全ての事象、その中には物理的なものも、人間関係的なものもあるが、
それらの結果がどうしたこうした、これは大変だ、あれは期待できない・・とか、
そういうものは全く関係がなく・・つまり過ぎたこと!
今、無条件に・・「嬉し・楽し・素晴らしい・幸せ・・」を実感することで、
それにふさわしい、自らの存在する天地が現れているのである。
鋭敏な知力、蓄積せる知識だけではどうということもなく、
それを含めた「実感」こそが「創造」なのだ。
さて、あなたは自らが幸せであると・・「実感」できるだろうか。
なぜ、不幸だと言い張るのか? 助ける誰かを待っているのか?
世界の何かが変わるのをいつまでも待っているのか?
今ここに幸あり、・・いまここだ!
「えっ?どこに?」ではなく、
今、この瞬間、つねにそれしかない。
それが常に永遠であることに気付いているはず。
とは言え、取りあえずの現世利益等ではない、永遠の今・・ここだ。
その為には、今まで「そうではない」と、
あれが必要、物が重要、これが条件等と・・・、
繰り返し、言い続けてきた古い世間常識という嘘八百もある重い観念を外し、
自分の内面に戻って、幸せ感覚ならばそれを、
繰り返し、繰り返し、「実感」しなければならないはずである。
何があってもなくても、今在るということの幸せ、
人生は、感動という実りを収穫する為の、
富沃な大地であることを「実感」することだ。
生と死を超えて、いつも在る、常に在る・・そして今在る自分を見よ、
そう、自分とは・・、創造の根源光が自らを分けたもの、
創造の根源が実感を内に創り上げたからこそ、
あなたやわたし達というものが在り、
また、外なる表現宇宙という形で出現しているのである。
魂の根源から発する幸せの「実感」こそが・・・
悠久の時を超えてそれに沿った道を創り上げ、無数の生や死を超え、
波動共鳴によってさらに、嬉しく楽しきこと多い生命経験となる。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。