気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙意識(3)あなたは「想い」で出来ている

2015-03-03 07:08:03 | 日記
●全体宇宙は部分に「全て」を自己投入している

宇宙意識というのは全ての元、根源意識と言えようか。

それはまた普遍的エネルギー、創造神、サムシング・グレート、根源法則・・等とも呼ばれるものだ。

それぞれのわたし達に自分だと思っている「身体」があり、それに気付ける「意識」があるように、宇宙全体も「宇宙という身体」と「意識」があるということだ。

宇宙の中に在る私たちは、即ち、宇宙意識とその表現型である宇宙と「一体化」しているのである。

部分(個々)は全体(宇宙)がなければ存在できないし、全体(宇宙)は部分(個々)がなければ存在できない。

つまり、あなたやわたしたちという、個々の存在がなければ、どれ1つ、どこ1片欠けても、宇宙は存在できないということである。

個々であると信じているあなたも、欠くことの出来ない宇宙の構成因であること、それを自覚しているだろうか?いつも大衆や群衆という十葉ひと絡げの観念カテゴリーのなかに消えていないだろうか。

●3次元的物量観念をマトリクスという

宇宙と私たちが一体化しているのが事実であっても、私たちには普段そういう想いがない。
何故なら、宇宙という表現型の中のほんの1微小片であるという、3次元的物量観念が故である。

肉体は体重何kg、身長何mしかない、極めて小さな肉体塊に過ぎないと感じ、それに比較して、確かに宇宙は果てが見えない程巨大この上ないものであるしているだろう。

そういう大きさや計量のスケールでの比較からして、自分が1なら宇宙は無限∞であり、
1/∞≒0 ちっぽけなものだとしているはずだ。
そうではないか?

しかしながら、それはあくまでも3次元的な物的比較観念の話であり、単に採用している物差しから見たものでしかない。

こういう漠然とした観念にある意識状態は、要は、どうあっても「自分が肉体である」という前提観念、3次元的閉塞観念に留まっていることを示しているのである。

●人間はその想いで自己を規定している

自分は肉体である・・・というのは「思い込み」・・である。

「えー、なにそれ、人間は肉体じゃないの?皆そう思っているよ」という事自体も、
漠然とした想いにすぎない。

自分は単独で行動している存在、人皆それぞれ別々の肉体でしかないではないか、・・・
一般にはそういう風に思っているし、大抵の人はそう感じているだろう。

確かに、あなたの肉体は宇宙から観たら、有るような無いような微小片に過ぎない。
しかしそれは何度も言うように、肉体に物量比較の物差しを当てているだけの話なのだ。

生活の為と称して、いつに間にか、大きい・小さい、高い・安い、重い・軽い等という金銭物量比較思考でドロドロになっている自分の観念に気付けるだろうか。

●資本主義的繁栄は唯物思考の仇花

昨今では、あらゆるものを金銭に置き換え、それを比較してより大きい、より多いものを求めるという刹那的な比較価値づけ観念が大流行だ。

そこにあるのは金融資本主義的観念であり、またその底流には唯物思考が潜んでいるわけだが、そんなに悪いものでもないとしている風潮であろうか。、

銭・金・物さえあれば、そんなに生活悪くない・・程度の認識とでも言えるだろう。

こういう風に、出来るだけ主観的なものを排除しつつ、全てを物質的価値観で納めてしまうことは、自由で民主的と言われる体系にあっては、誰にも共通の価値観念として採用しやすいものなのだが、その底流にあるのは人間さえも有機的であっても「物」に過ぎないという唯物論的な重い思考から来ているのである。

●全ては意識⇒想いによって創られる

あなたは自分が肉体である・・としているのは、何ゆえか?

それは、あなたが・・そう思っている、そう意識している・・からである。

皆もそう思っているし、そう意識している・・と思っているからなのだ。

だから、本当を言えばあなたは「意識」であるするのが正しいが、

それ自体が・・物のように目に見えないから・・存在しないという風に思ってしまうのだ。

人々は漠然と、<自分は肉体でしかない・・>と、小さく「定義」している

つまり、そういう意識状態、認識レベルに在る・・と言うだけの話である。

だから、人間とは肉体存在であるとするのは近視眼的な認識であり、

実のところは「意識存在」であるとするのがより広く深い認識なのである。

●われ思う故に・・我あり

あなたに意識がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

単なる物であって等価的には「石ころ」同然の存在である。

しかしそうではなく、

「わたしは・・・である」という認識を働かせているわけで、

今まで「わたしは・・個人的肉体である」と認識・定義して来ただけの話である。

想いが全ての元にあるというのは、こういうところでもそうなのだ。

ところで、一体誰が、絶対的な権威をもって「あなたは単に死すべき肉体である」言ったのだろうか?西洋の学者か、神父様か、偉い坊さんか?

そんな普遍的定義は誰もしていないのだ。

「だって、皆年取ったりして死んでゆくよ・・」というかもしれないが、

それはその存在の・・この表現世界での「借り物」の肉体が、その使用期限を過ぎて、地球に還元されるだけのことである。

「わたし」の・・・<肉体>は、車と同じく耐用年数があるだけだ。

●宇宙は「われ・・・在り」で創造されている

物質分子が確率によって勝手に宇宙を構成しているわけなかろうよ。

そうであれば人間も無意識で偶然で意味のない人生体験をしていることになる。

人間に「意識」がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

意識は、「われ…であり」「I AM that・・・」で自己創造してゆくのである。

あなたとは、「あなたが・・・と想うところの存在」である。

想いを変えることで、表現型、周囲環境、体験フィールドが変わることになる。

想いが十分に変わらないがゆえにその表現型、体験も十分に変わらないのだ。

多くの人は、固まった観念の自己打破に時間がかかるため、そうはいっても現実が・・という話に引き戻されることが多いものである。

より自由で快活で、平安に満ちた在り方への希望を、

当たり前の信念にまで高める「意識的作業努力」を忘れてはならない。

これは意識的存在にとって、極めて重要な「観の転換」となる。

あなたもわたしも、即ち、意識の発露である「想い」で出来ているのだ。

だから、自らの想いを観てそれを自らコントロールしなければならないのである。

それをしない場合は、外からの不都合な想いでコントロールされることになる。

必要なのは、注意深くも、自分の思いを自分自身で保持しつつ、そこから出てくる体験を英知に変えてゆくことだ。

魂は、この世界でそれを喜々として、体験したいがために次元降下、下生してきたのである。

古来から悟った人、解脱した人と言われる者たちは、自己の想いを見極め自らで制御すること、いわゆる自己観想を経てきたのである。

想いの制御と創造に気付くこと、これが意識進化上の、越えるべき1つの峠である。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。