気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

カルマは、それ「手離す」ためのもの

2015-03-22 15:58:26 | 魂の諸相
今の時期は、あらゆるものが「終わり」・・・というのが相応しい時期に来ている。

いつでもそうなのだが、なるほど、『終わり』は、即ち『始まり』である。

ところが何かの『執着』がある場合には、軋轢や摩擦を生み出してしまうもので、しっかりと終わるということが出来ないということにもなる。

人間も、国家も、文明さえもそうだ。

軋轢、執着、欲望、自我の主張は・・・つまり過去の幻影にこだわるという、自他の関係から来るエゴ同士の『葛藤』を生じさせることになる。

世界のあらゆるところで、いまそれが行われているだろう?

昨年、アラブの重要地域に、世界中にわざわざ「憎悪」を振りまいて、人々の憎しみと驚きを増やそうとしている、まぼろしの国が出現しているだろう。

見え見えだが、諸国民の葛藤を煽ってどうするのだろうか。

難しげな政治戦略や、諸国民の事情やら何やら・かにやらあるというわけだし、

当然の国家や企業の生き残りをかけて戦うだとか、まことしやかな争いの傾向が増えているのは

結局は「執着」をいかに続けるかという、想いとその行為に他ならない。

第3次世界大戦も辞せずとか、そういう会話がちらちら出てきているような切羽詰まった段階を演出している状況。

この世界のあらゆるところに「葛藤」の存念があり、それが形になって噴出してきているのだ。

・・・・

ところで、『葛藤』とは、ある意味で『手離せないもの』という意味であろうか。

意識の中にある「執着観念」、葛藤、特別な思い入れ、

その良し悪しに関わらず、未だ手離したくない想い、・・・それが「執着」というものである。

そして、その『葛藤』があるならば、

それが「重り」となって、その終わりの『次』の始まりにも持ちこされることになる。

それがいわゆる「カルマ」というものだ。

あなたも私たちも、それで『ここ』に居ると言ってもおかしくない。



そう、物質で出来たマトリクスは、眠りをいざなう「揺りかご」のようなものであり、

その揺りかごで眠っていながら悪夢を観つつ、

必死になって頑張っているという、実は笑えない喜劇を演じている無意識的な自分自身に気付けるだろうか。


確かに、カルマは、例えばコンピュータのプログラムでの、

繰り返しの無限ループというような、自分の想いで書き込んでしまう、

バグやエラーのようなものでもあるが、それも経験し直視しなければわからないし、書き換え、解消することも出来ない。


カルマの生産、清算という繰り返しの中で、

いつか

「何か変だな」と気付ける瞬間が来るものだ。

それが「今の時代」だと言っても・・・わからない場合はわからないわけで、

つまり意識上に、自らの宿題テーマのイメージが遡上してこなければ、

それは持ちこしとなり、

カルマという宿題帳をもって、新たな学期を迎えるわけである。

魂の成長なるものも、学校での学習プロセスによく似ているわけである。

今の学校は知識とその繰り返しの習熟度が基本だが、

魂レベルでの学習は、この世界ならではの「テーマ」への気付きや、

こころと肉体を経由した、宇宙との調和を学ぶ為の体験学習とも言えるだろうか。


あなたもそうなのだが、

この世界に来た魂達は、目覚めるまでは、全くの無知の状態、言わば意識的な暗闇で、

右往左往するという、得難い経験をもできるという、実に不快というか、ある意味では奇跡的な体験が出来るという「幸運」に恵まれているのである。

しかし・・・、永遠に同じことは飽きが来る。そうだろう?

ベルトコンベヤーで同じ繰り返し作業では、いくらお金をくれると言っても続けることなどできっこない。

それが意識を有するまでに自らを高め、拡大させたところの「人間」である。


その繰り返しの輪を断ち切るには、

「ありゃりゃ、何か変だぞ」という・・自問自答の問いかけ、

あるいは自らに・・・自らの・・・問題意識が生じなければならない。

そう、それは、目覚めたときにだけわかることなのだ。

目覚めるというのは、肉眼の瞼の開け閉めの話ではなく、意識の眼が開くということである。

「われ・・在り」

「わたしは・・・である」

という自己定立原理に気付くということだ。


プログラムでいうところの、IF・・・、THEN・・・、それを勘違いすれば、無限に堂々巡りの道も可能であるということだ。

・・IF(もし)、(ならば)THEN・・・・どうなる?・・・

ではなくて、自分がどうあるか、どうするか・・・ということに尽きるのである。

自分で自分の成果を刈り取るということである。

カルマとは、それは魂の『学ぶべきテーマ』とも言えるのだが、

それは様々な他者の思惑、与えられた想念を『捨てること』が出来てこそ、『つかむこと』が出来るものなのだ。

捨てれば、つかめる物はなんだろうか・・?という問いかけは、

それ自体が成立していないと考えること、あるいは、意味わかんなーい・・かも知れないが、

それは頭のなせる業であって、3次元的物量加減算思考から来ている。


大切なことは、今生きている「肉体」やあらゆる物質形態を、つかんで離さないということではなく、

それを潔く手離すことが出来る「意識レベル」に在る・・・ということである。

大切なことは、身体の手でつかむのではなく、またこころの存念で執着することでもなく、


あらゆるものを手離しているという、物への執着のない「意識」のことである。

もともと誰も皆、本来無一物でこの世界に生まれてきた。

そうだろう?

意識を有する存在が、それを生み出しているところの物質で生きている、それが何をおいても大切だと想いこむこころの癖、そういう自縄自縛の観念から自由であるということだ。

執着を外す・・・?しかし、それは死んでいるということを意味しない。

物のように、死ぬことはあり得ない。

あなた・・という意識は、単なる物質ではないという自覚レベルに明確に上がるならば、

物や事象は生起していたとしても感情や恐怖を逆立てることもなく、

そうそう、それはそれだよな・・・というポジティブな意識、

あるいは全てを在るがままに観ることが出来る一段と高い視座を確保することになる。

そうはいっても現実がね・・、と、うん確かにそうだ・・という意識の間で、上がったり落ちたりする不快でやるせないようなそんな時期もあるものだが、それは意識的な成長の証拠なのだ。


比喩的な話だが、

10円玉をいつまでも必死にその手に握っていては、ほかの物がつかめない。

しかし、その手を開けば、あの空さえもその手の平に載っているのである。

しかし、空じゃ飯が食えないじゃないか・・という想いはあくまでも見当違いの観念、

手離すことで、結果、大切な何かが、嫌も応もなく得られてしまうものである。

あるいは宇宙・大自然の移り変わりと同じく、新たなる変化ともいえようが、

あるいは、手離すことで得られる「こころの軽さ」を喜ぶことが出来る体験、

それは魂の学び・・の中での・・・得難い「収穫」とも言えようか。


日本人は桜の花をこよなく愛する民族とされている。

桜の花の咲く時期や、その美しさと、散り際の良さに感じ入った日本の古代人の思い入れや気づきが、

そういう桜への愛という形に生きているのだろう。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。