我々は常に無限性の中にいて無限を経験し続けているのだが、普段はそんなことなど何も感じないで生活をしている。
無限どころか、目先の生活・慣習のたぐいの処理に追われている状況では、とにかく忙しいのが良い事だとどこか自分に言い聞かせて、昨日(きのう)と同じことを延々としているのかもしれない。
あれをしなければ、これも急かされる、これを確保せねばなどという半強制的な感覚を受ける社会観念に流されて、小さくて有限極まりない世界の中で何とか頑張っているかも知れない。
それに、寝ても覚めても、何か心配することが、さも正当だというように一瞬一瞬を送っているのかもしれない。
「生活費どうするのよ、まだローンがあるし、子育てだってある・・あれも支払があるし、税金だって上がる一方・・・あー、」
わたしもあなたも多分そうだろうか。
いや今まではほとんどがそうだったに違いない。
しかしそれは、それとして、古い観念からおさらばしよう。、
それだけに嫌々引きずられる、お馬さんのような生き方からは卒業したほうがいいだろう。
気付いている人も多いのだが、既にこの世界のステージは変わってしまったのだ。
ところが、必死で人々を変わらせないような、相変わらずの飴と鞭のパフォーマンスをしている世界の役者が、焦りまくって演技をしている現状がわかるかもしれない。
また、そういう世界での派手で悲惨な演出劇に見入っている一般大衆からみれば、
「何言ってんの、何も変わってなんかいないじゃないか、生活や人間関係は相変わらずだし、政治も経済も愚かなことばかりじゃないか、戦争の話が大きく出てきているし。嗚呼、ローンだってあるしさ、家庭内も仕事場もハッピーばっかりじゃないし、一体どこが変わったんじゃ(怒)・・・」
そんな風に思うかもしれない。
・・・
しかしながら、ちょっと落ち着いて自己周囲を観まわしてみよう。
そして、自分自身の内面を観てみよう。
外の世界に落ちている事象、テレビやスマホ画面ばかりを観ていては、多分何も得ることはなかろう。
悪だ、善だ、悲惨だ、恐ろしい、金が足りない、もっと出せ、もっと頑張れ・・・
そんなことばかりが意図的に落とされているようなメディアの「腐った落ち葉」を拾う事、世間のチリやゴミを拾うことはもう十分すぎたのだ。
そうではないか?
人が行うべきことは、他者の騒ぎで作られ、煽られている面白・恐ろしげな外側の現象ではなくて、
そういう風に、
外の世界を見ている自分、それに関して何か感じて考えている自分、
その「自分」自身に・・・『気付いている』意識・・・になることだ。
不特定あるいは特定の『他者』にではなく、意識の中心を自己に据えるということだ。
その「自分」が在るからこそ、他人も社会も世界も在る、その事実に気付くことだ。
例えば仮に、あなた自身が死んだなら、どこにこの世界を見る者が存在するのだ?
それに・・・、この世に生れる前はそうだったろう?
毎晩眠ってから、朝次第に意識が浮かび上がり、目覚めるのは、誰か?
体は誰が動かしている?
お金や立場がどうしたという問題は、遥かに、2次3次的なことなのである!
この世界を見る聞く感じるところの、当の主体は「わたし」・・・にあるわけで、
大勢の他人が何百億ワーワー集まったとしても、この事実は変わりようがないのだ。
世界にあって、意識を通して内面から外側を観察をしている・・・中心は「わたし」以外にないのである。
「わたし」が中心といっても、私という1個人が世界の中心だという意味ではない。
そういう独裁的だとか独善的だとか、おバカ極まりない、個々別々の物を寄せ集めてなんぼというような、西欧的な枝葉思考はもうやめにしよう。
そうではなく、
世界を観ている意識・・としての「わたし」が、わたしの世界の全ての元に在るということだ。
それは創造の主体である神の自己存立原理と同質のものである。
決して大それたことでも罰当たりでもないのだ。
そういう外側の何かに尊さを求めるこころの姿勢は、これもまた時代遅れなのである。
デカルトは、「われ思う故にわれあり」と悟り、
マハラジは「わたしは・・・在る」と表現した。
それを釈迦は「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。
一人のみ尊いではなく、
<わたし>という意識・・・そのものが、
宇宙での唯一のもの、
当然ながら仏法の伝承者はそれを「尊い事」だという字をあてて伝わったということだ。
それぞれの「天上天下唯我独尊」の「わたし」が、現在この地球上だけでも70億以上存在するということだ。
道を行くすべての人が、今それに気付いていないからと言って、それに合わせることはない、その人の意識は自身でしか変えようがないからだ!
人が眠っていても、それはそれとしておくべきであろう。
どこか、今、あなたが自身の神性、それに気づくならばそれがいい。
何故なら、ある意味で、それぞれの世界には「わたし」しか・・・いないからである。
あなたの意識で生じている世界の最重要、最も尊い存在は「あなた」なのである。
「自己の本質に目覚める」とはそういうことではないのか?
多分、この世界まできて、実に長い間眠っていたからには、
それを、今、十分に、充分に自覚することが重要である。
かくあれかし。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
無限どころか、目先の生活・慣習のたぐいの処理に追われている状況では、とにかく忙しいのが良い事だとどこか自分に言い聞かせて、昨日(きのう)と同じことを延々としているのかもしれない。
あれをしなければ、これも急かされる、これを確保せねばなどという半強制的な感覚を受ける社会観念に流されて、小さくて有限極まりない世界の中で何とか頑張っているかも知れない。
それに、寝ても覚めても、何か心配することが、さも正当だというように一瞬一瞬を送っているのかもしれない。
「生活費どうするのよ、まだローンがあるし、子育てだってある・・あれも支払があるし、税金だって上がる一方・・・あー、」
わたしもあなたも多分そうだろうか。
いや今まではほとんどがそうだったに違いない。
しかしそれは、それとして、古い観念からおさらばしよう。、
それだけに嫌々引きずられる、お馬さんのような生き方からは卒業したほうがいいだろう。
気付いている人も多いのだが、既にこの世界のステージは変わってしまったのだ。
ところが、必死で人々を変わらせないような、相変わらずの飴と鞭のパフォーマンスをしている世界の役者が、焦りまくって演技をしている現状がわかるかもしれない。
また、そういう世界での派手で悲惨な演出劇に見入っている一般大衆からみれば、
「何言ってんの、何も変わってなんかいないじゃないか、生活や人間関係は相変わらずだし、政治も経済も愚かなことばかりじゃないか、戦争の話が大きく出てきているし。嗚呼、ローンだってあるしさ、家庭内も仕事場もハッピーばっかりじゃないし、一体どこが変わったんじゃ(怒)・・・」
そんな風に思うかもしれない。
・・・
しかしながら、ちょっと落ち着いて自己周囲を観まわしてみよう。
そして、自分自身の内面を観てみよう。
外の世界に落ちている事象、テレビやスマホ画面ばかりを観ていては、多分何も得ることはなかろう。
悪だ、善だ、悲惨だ、恐ろしい、金が足りない、もっと出せ、もっと頑張れ・・・
そんなことばかりが意図的に落とされているようなメディアの「腐った落ち葉」を拾う事、世間のチリやゴミを拾うことはもう十分すぎたのだ。
そうではないか?
人が行うべきことは、他者の騒ぎで作られ、煽られている面白・恐ろしげな外側の現象ではなくて、
そういう風に、
外の世界を見ている自分、それに関して何か感じて考えている自分、
その「自分」自身に・・・『気付いている』意識・・・になることだ。
不特定あるいは特定の『他者』にではなく、意識の中心を自己に据えるということだ。
その「自分」が在るからこそ、他人も社会も世界も在る、その事実に気付くことだ。
例えば仮に、あなた自身が死んだなら、どこにこの世界を見る者が存在するのだ?
それに・・・、この世に生れる前はそうだったろう?
毎晩眠ってから、朝次第に意識が浮かび上がり、目覚めるのは、誰か?
体は誰が動かしている?
お金や立場がどうしたという問題は、遥かに、2次3次的なことなのである!
この世界を見る聞く感じるところの、当の主体は「わたし」・・・にあるわけで、
大勢の他人が何百億ワーワー集まったとしても、この事実は変わりようがないのだ。
世界にあって、意識を通して内面から外側を観察をしている・・・中心は「わたし」以外にないのである。
「わたし」が中心といっても、私という1個人が世界の中心だという意味ではない。
そういう独裁的だとか独善的だとか、おバカ極まりない、個々別々の物を寄せ集めてなんぼというような、西欧的な枝葉思考はもうやめにしよう。
そうではなく、
世界を観ている意識・・としての「わたし」が、わたしの世界の全ての元に在るということだ。
それは創造の主体である神の自己存立原理と同質のものである。
決して大それたことでも罰当たりでもないのだ。
そういう外側の何かに尊さを求めるこころの姿勢は、これもまた時代遅れなのである。
デカルトは、「われ思う故にわれあり」と悟り、
マハラジは「わたしは・・・在る」と表現した。
それを釈迦は「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。
一人のみ尊いではなく、
<わたし>という意識・・・そのものが、
宇宙での唯一のもの、
当然ながら仏法の伝承者はそれを「尊い事」だという字をあてて伝わったということだ。
それぞれの「天上天下唯我独尊」の「わたし」が、現在この地球上だけでも70億以上存在するということだ。
道を行くすべての人が、今それに気付いていないからと言って、それに合わせることはない、その人の意識は自身でしか変えようがないからだ!
人が眠っていても、それはそれとしておくべきであろう。
どこか、今、あなたが自身の神性、それに気づくならばそれがいい。
何故なら、ある意味で、それぞれの世界には「わたし」しか・・・いないからである。
あなたの意識で生じている世界の最重要、最も尊い存在は「あなた」なのである。
「自己の本質に目覚める」とはそういうことではないのか?
多分、この世界まできて、実に長い間眠っていたからには、
それを、今、十分に、充分に自覚することが重要である。
かくあれかし。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。