人はその自覚の程度はあれども、皆「わたし」という自意識を有している。
あなたも、そして誰でもだ。
大変に身近すぎることなのだが、
「わたし」「われ」という自己意識は、世界を創り上げている中心だ。
中心というのは、それがなければ世界などないという「根源点」のことである。
あなたの世界で、「わたし」という自意識を有するのはあなた以外にない。
いやいや、人間はみなそうじゃないか、だから「世界で私だけって何よ」、というかもしれないが、
あなたの見る聞く感じるという世界の中で、あなたが・・・あなた自身だと感じている、
なんというか視点の中心というか、意識の自己中心点というか、そういう意識主体というか、
そう言う意味で、あなたの世界では「あなた」だけが存在している。
あなたの世界で、主体意識を有する存在は・・・「あなた」だけなのだ。
人は結局、皆そうじゃないかという直観はあるものの、
あなたがは他者にすぐさまなり替わることもあり得ないからには、
多分、あの人もそういう
「あの人の世界の中心である」・・ということが解るだけなのだ。
あなたの世界では、主体的な意識をもって、世界を見ている存在としては、
<あなた>しかいないという事である。
<わたし>の、歩く、走る、見る・聞く・感じる・考える・想像する世界の中心点は、
わたし・意識・・以外にないという事である。
これは当たり前のことであるとして無意識に見過ごしてきたことではないだろうか。
あなたの世界には、たったひとつの「意識点」としてのあなたしかいない。
宗教的に言うならば全ての意識を有する存在は「神のひとり子」ということである。
それを勘違いしつつ、何処かの誰かだけが「神の子」などという話に堕してきた。
象徴的に言うならば、
わたしの宇宙には「わたし」しかいない・・ということである。
この世界とは、それぞれの<わたし>が共同で創造している世界のことであり、
そうであるがゆえに、さも尤もらしく、客観そうに見えているだけのことで、
その中心は、その共同世界の「どこか」にあるのではなく、
あくまでもそれぞれの<わたし>であるということだ。
何言ってんの、中心が無数にあったらそれは中心じゃないではないか?
そういう観点は、全くの3次元的というか、物量的、計量的なものでしかない。
あなたが見る・聞く・感じる、考える、想像するところの「宇宙」、
その根源は・・・あなた・・なのである。
とは言え、
わたしが世界の根源である等と言っても、
そんなもの何も自覚せず、誰に言いつけられもせず、教育もされず、
目先の外の世界に目を奪われ、ローンを負い、子育てに奔走し、仕事で毎日疲れている、
表面上のわたし・・そのものという意味ではなく、
今まで、そういう意識レベルで頑張っていた・・その意識を生み出すところの、
わたしが<わたしである>という自意識、自己認識を生じせしめるところの、
本質のわたし・・のことである。
それを創造主だとか神だとか、根源意識だとか、宇宙意識だとか呼んできた。
本質のわたし・・あるいは魂・意識と言おうか、それは、
日常のどういう事もない、人としての「小さな自意識」を生じせしめているところの、
全ての背景に間違いなく存在している・・・大いなる意識・・・神なる「わたし」のことだ。
これはある意味で驚天動地とも言えることだが、単なる「事実」を述べているに過ぎない。
わたしや・・あなたがそこに在る・・事そのものを表現しているだけのこと。
本質では、あなたの意識する世界には誰もおらず、居るのは常に「あなた」である。
これはこの宇宙が生じている事実の相似形、フラクタル構造でもあって、
宇宙には、その部分と見えるものにも、
そのすべてが畳み込まれているという事を示しているのである。
この世界においてさえ、その小さいけれども「神なるわたし」・・に気付き、
さらに大いなる意識へと拡大する自覚が生じることを神は願っていることだろう。
それが普遍的な「親」の意識である。
そうではないか?
本日も拙い記事をご覧いただきまして、有難うございました。
あなたも、そして誰でもだ。
大変に身近すぎることなのだが、
「わたし」「われ」という自己意識は、世界を創り上げている中心だ。
中心というのは、それがなければ世界などないという「根源点」のことである。
あなたの世界で、「わたし」という自意識を有するのはあなた以外にない。
いやいや、人間はみなそうじゃないか、だから「世界で私だけって何よ」、というかもしれないが、
あなたの見る聞く感じるという世界の中で、あなたが・・・あなた自身だと感じている、
なんというか視点の中心というか、意識の自己中心点というか、そういう意識主体というか、
そう言う意味で、あなたの世界では「あなた」だけが存在している。
あなたの世界で、主体意識を有する存在は・・・「あなた」だけなのだ。
人は結局、皆そうじゃないかという直観はあるものの、
あなたがは他者にすぐさまなり替わることもあり得ないからには、
多分、あの人もそういう
「あの人の世界の中心である」・・ということが解るだけなのだ。
あなたの世界では、主体的な意識をもって、世界を見ている存在としては、
<あなた>しかいないという事である。
<わたし>の、歩く、走る、見る・聞く・感じる・考える・想像する世界の中心点は、
わたし・意識・・以外にないという事である。
これは当たり前のことであるとして無意識に見過ごしてきたことではないだろうか。
あなたの世界には、たったひとつの「意識点」としてのあなたしかいない。
宗教的に言うならば全ての意識を有する存在は「神のひとり子」ということである。
それを勘違いしつつ、何処かの誰かだけが「神の子」などという話に堕してきた。
象徴的に言うならば、
わたしの宇宙には「わたし」しかいない・・ということである。
この世界とは、それぞれの<わたし>が共同で創造している世界のことであり、
そうであるがゆえに、さも尤もらしく、客観そうに見えているだけのことで、
その中心は、その共同世界の「どこか」にあるのではなく、
あくまでもそれぞれの<わたし>であるということだ。
何言ってんの、中心が無数にあったらそれは中心じゃないではないか?
そういう観点は、全くの3次元的というか、物量的、計量的なものでしかない。
あなたが見る・聞く・感じる、考える、想像するところの「宇宙」、
その根源は・・・あなた・・なのである。
とは言え、
わたしが世界の根源である等と言っても、
そんなもの何も自覚せず、誰に言いつけられもせず、教育もされず、
目先の外の世界に目を奪われ、ローンを負い、子育てに奔走し、仕事で毎日疲れている、
表面上のわたし・・そのものという意味ではなく、
今まで、そういう意識レベルで頑張っていた・・その意識を生み出すところの、
わたしが<わたしである>という自意識、自己認識を生じせしめるところの、
本質のわたし・・のことである。
それを創造主だとか神だとか、根源意識だとか、宇宙意識だとか呼んできた。
本質のわたし・・あるいは魂・意識と言おうか、それは、
日常のどういう事もない、人としての「小さな自意識」を生じせしめているところの、
全ての背景に間違いなく存在している・・・大いなる意識・・・神なる「わたし」のことだ。
これはある意味で驚天動地とも言えることだが、単なる「事実」を述べているに過ぎない。
わたしや・・あなたがそこに在る・・事そのものを表現しているだけのこと。
本質では、あなたの意識する世界には誰もおらず、居るのは常に「あなた」である。
これはこの宇宙が生じている事実の相似形、フラクタル構造でもあって、
宇宙には、その部分と見えるものにも、
そのすべてが畳み込まれているという事を示しているのである。
この世界においてさえ、その小さいけれども「神なるわたし」・・に気付き、
さらに大いなる意識へと拡大する自覚が生じることを神は願っていることだろう。
それが普遍的な「親」の意識である。
そうではないか?
本日も拙い記事をご覧いただきまして、有難うございました。