気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

臨死体験の真実(4)死後の「生」の証拠(前半)

2015-02-04 19:55:35 | 魂の諸相
笑える話ではないか。

良くわからないままに放置しているがゆえに、

死を怖れ、忌み嫌う事で、

逆に、生が委縮し、生に囚われ、生きにくくなるのだ。

本末転倒なので笑えるだろう。そうではないか?


真に死という現象を理解し、死後の生も明らかとなれば、

また今の生も・・・より意味あるものとなるのだ。

そうすれば、生死の区別など無くなって、ただ「今」の・・・変化のみがあることが悟れるだろう。

毎日のサイクルは小さな変化であり、人生のサイクルはより大きな変化に過ぎない。

本質の<われ>すなわち、魂の表現形の変化はあれども、真の<われ>は不変なのだ。

不安だとか、死だとか、怖れだとか、騒ぎだとか? 一体全体・・、

だから、それがどうしたというのだ?

人のそういう・・・無条件の・・「穏やかで不屈の意識」こそが、強力なガードとなり盾ともなるだろう。

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そう、今の時期は・・・まさに、それが問われているのである


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臨死体験 9つの証拠(ジェフリー・ロング,ポール・ペリー共著)
71ページより
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死後の生の証拠

1.意識不明、あるいは臨床的に死亡しているとき、非常に系統だった明瞭な体験をするというのは、医学的に説明不可能である。

 私たちNDERFの調査では、「身体状況がこのまま改善しなければ死に至る」と予想されるくらい身体機能が低下している者を「臨死」状態にあると定義している。臨死状態にある者は通常意識不明で、呼吸と心拍が停止し、臨床的に志望している場合もある。
 臨床的な死亡状態で「意識を伴った経験」をするのがどれほど驚嘆すべきことか?
心臓が止まったらたちまち脳への血流が止まるという事実を伝えれば少しは解ってもらえるだろうか。
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2.臨死体験者は、しばしば体外離脱状態に陥り、そこで見聞した内容はほぼ常に現実と矛盾しない。

 臨死体験者は多くの場合、最初の特徴として体外離脱を体験する。そして見えるはずのない出来事を描写する。見るはずがないというのは、主に彼らが意識不明状態である為だが、ときには肉体から遠く離れた出来事を説明しているためである。
 意識が抜け出たあとの肉体や、自分に施される懸命な蘇生処置を目撃するケースが多い。何百もの事例で報告されているこれらの描写は、現実と矛盾しないことが報告されている。
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3.盲目の人たちにも臨死体験は起こり、視覚的体験を伴うことが多い。

 生まれつき完全に盲目の人は、目の見える私たちが日常認識している視覚的な世界を全く認識できない。・・・だから彼らに視覚をわかってもらおうと別の四感にたとえても、うまくいかない。
 それなのに彼らの臨死体験には、多くの場合視覚的な体験が含まれている。



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4.いかなる類の意識もあるはずもない全身麻酔下で、臨死体験が起こっている。

 全身麻酔下で明晰な体験は不可能で、ましてや日常より意識レベルがあがることなどありえない。
しかし調査では、全身麻酔下での臨死体験が何ダースも寄せられた。次に挙げるデボラの例もそのひとつだ。彼女は一三歳のときに簡単な手術を受けるため入院し、麻酔が原因で心臓が停止した。医師が懸命に蘇生を試みる中、デボラは突然、自分が体外に出ているのに気づいた。

【手術中に麻酔のため心臓が止まった・・・。
気づくと天井に浮いていて、台の上に横たわっている私の体が見えた。
医師たちが焦って、私が死にそうだと話していた。怖くはなかった。とても親切な人がふたり、一緒にいてくれたから。
そのときは天使だと思った。
心配しなくていいよ。守ってあげるからと言ってくれた。

ヒュン、と音がしたと思ったら暗いトンネルに入って、光に向かって進んでいた・・・。
女の人が私に手を差し伸べてくれた。私が誰だか知っていて、しかも愛してくれているようで、そばに居ると安心できた。誰かはわからなかったけれど・・・。

手術から何年もたってから、たまたま父方の祖母の写真を見せてくれた。
父を生むときに亡くなったそのひとは、トンネルを抜けた先で私の手をにぎってくれたきれいな女性だった。
それまでは一度も写真を見たことがなかった】


(つづく)



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。