気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

どうやって解脱するのか (7)自らは無限性の体現である

2015-01-17 07:15:32 | 意識の拡大
人の身体は無数の細胞、分子、原子、素粒子、クオークで構成されている。

宇宙のあらゆるものが、そういう無数の段階のエネルギー波動またはエネルギー微粒子で創られている。

その数を数えることは、まるで宇宙の星の数を数えるようなもので、限りがない。

要は、・・・無限、限りが無い・・・ということだ。

はっきり言えるのは、

我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。

 ・・


「それが何か飯を喰うための役に立つのか?」という<癖になった低い観念>で誤魔化してはならない。

「それが現状の不幸に何か寄与するのか?」という<固まった思考>で打ち消してはならない。


あなたの手を見てみよ。

あなたの頭を触ってみよ。

足の感触を感じてみよ。

心臓の鼓動を手で感じて見よ。

それは偶然かつ・・当たり前のことなのか?





たとえわずかの五感感覚ではあったとしても、我々はまさに「無限」の一端を見て、感じているのだ。

ごく当たり前に、今生存していること、生きて在ること、

それは全くの奇跡の連続なのである!

かつまた、完全なる調和で生かされているのである!


それこそが本来、意識を集中すべき「事実」である。


世間を、社会を流れている、どうでもよい刹那的快楽観念、怖れをどこか増長するような観念、

ああ、体は弱いもの、病気は怖い、災害は恐怖だ、・・・・

それらを回避するために、銭・金・物を獲得して、やさしい医者に面倒みてもらい、

政治家に自分の都合のよい政策を期待し、結果いつも誰も責任者のいない社会に没落しつつ、

飯を喰うだけの為の生き方だけに・・・意識を集中していた・・・自らを返り観るべきである。


<意識を集中する>ものが自らの体験となる。

そうして、その体験を通じて、

喜怒哀楽や苦痛や快楽を体験しつつ、

そういう、あからさまな、逃げようのない感覚のおかげで、

自らの意識を調律しつつ、魂的な学習をしているのである。



70億と言われる地球表面上の人類は、そのために次元降下してここに来ている。

意識、想い、経験、結果と反省を通じて新たな境涯に移行している・・・それが人生なのだ。


それとも、一生を通じて富やお金、権力を得るのが目的なのか?

そしてそれで幸福を買えると思うことの、どこに真実がある?

死んだあともお金で何とかできると思っているのか?


セレブや富豪がどうしたのだ?

世界の支配層がどうしたのだ?

権力者が一体誰を幸福に、あるいは不幸にするというのだ?

そういう、生れること、死ぬことの本意すらも解らず知らずの姿態を攻撃し、あるいは憧れるのはなぜか?

実のところ、もっともらしい『他者批判』はすなわち『他者依存』の裏返しである。

それらをすべて投げ捨てなければ、決して本来の調和には戻れない。

何かありそうで何もない、後に出るのは懺悔と後悔、実にバカバカしいではないか。

そういうことを何世にもわたって経験学習するカリキュラムは既に飽和したものと心得るべしである。
・・・



大勢の人が我知らず、無意識レベルに沈み、世間という流れに浮き沈みしている有様を見て、

それが正しい事だなどと思い込み、自らもその中で「苦渋に満ちた安住」を求めていたにせよ、

既にそれは終わった観念体系なのだ。

今はそういう転換が、外側からも即ち地球、宇宙サイドからも行われているのである。

知らぬは仏なり・・・それに気づけるかどうか、2つに1つの分岐点である。


そう、今まで気づかず知らずに、どうでも良い世間的な情報の中にいたとしても、

あなたの身体も、その周囲のあらゆる事物も、まさに『無限』が結晶化しているということ。

それが気付くべき・・・「真実」なのである。




そうして、

身体を通じて、その無限の中の、

ほんのある一定の領域を観察しているのが我々人間という存在である。

見る・聞く・嗅ぐ・・・等の五感はその観察の一部分でしかないのであるが、

例え一部ではあっても、その無限につながっている壮大な「命の仕組み」、

あらゆる有限と見えるものが、まさに無数の・・無限の結実であることに、気付けるだろう。


ましてや、あなたという存在は、世間や世界の常識で決められるものではなく、

誰かが「こうだ」という類のものでもない。

それを言うならば、

意識的存在である人間は・・その意識及び意図によって、常に自己規定し、

その範囲の中で自己を創造、演じているのだ。



 


今までは、その他大勢の観念をその時々で採用しつつ、民主主義だとか社会調和だとかいう触れ込みを元に、

先導され、扇動されて、嫌々とし、喜々としつつ「共同で自己創造」していたのが・・・古い人類社会である。



あなたの身体は無数のエネルギーによって、極めて、極めて精巧に、かつ完全なる調和を元に創られているのである。

一体なんでこういう身体が出来上がっているのか?

自らの身体を少しゆっくり感じてみると良い。

医学や化学、科学が解明するだろうよ・・・というウソを真に受けてはならない。

細かなメカニズムを解明することで、身体のことが分るという観念は、

永遠の未来にそれが分るはずだという責任回避、現実逃避以外の何ものでもない。

・・・
今ここに在る・・事実を、

今その意識で可能な範囲で感じ取ること、

一度に全てが解らないからと言って、今耀いている事実に、

今こそ気付かなければならない。


はっきり言えるのは、

我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。

だから、あなたは無限を体現しつつ、それを観ている・・・存在、

それを昔からの概念で・・「神」というのである。

大きい小さい、重い軽いという3次元的な尺度は棄て去る必要があるのだ。

そう、全然と言っていいほど、十分に自覚せざれども、「神」なのだ。



 
 

どうやって解脱するのか(6)心眼を開く

2015-01-06 02:12:55 | 日記
古くから言われる「心眼を開く」とはどういうことだろうか。

『こころの目』を開くとはなんだろう。



文字通り、心の動きを観るという事だ。

それは想念波動レベルのアクセスにも関連するわけだが、

まず、自らの想念を観るという事から始まるのである。

・・・

自分の経験で言えば、瞼を閉じた状態で、

ある意識レベルにおいて、何かを見るということは実際あるわけで、

いわゆる霊視や透視などと同一線上にある「視覚」であるとも言えるだろう。

しかしながら、こういうどこか超常的な能力のほうばかりに興味を持つのは、

いささか早計であるし、またそのこころには威力や能力を求めるプラグマティズム的魂胆があるだろうし、

そこにも物理的効果や利益、能力を使って威力を誇示しようとする無意識の思惑があるかもしれない。

・・・

ここで言う「心眼を開く」とは、全くそういうことではない。


こころの目で見るのは、自分のこころの動きなのである。


『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。

何かの出来事や他人の言動によって自分のこころに起きる「反応」を観察するということだ。

自分に起きる想念や感情は、自分のこころの癖や行動のパターンを形つくることに気付いているはずである。

他人に何かを言われて逆上的な感情が生じたり、期待外れで落ち込んだりすることは誰でも経験している。

そういう時に、

そういう自分の想いや感情のゆれ動く様を、自分で観る・・・、

そういうスタンスをどこかで維持していることである。

自分で<自分を観察>している・・・そういうスタンスだ。


例えば、

他者に「このバカ野郎!」と言われては、動揺したり激高したりするわけだが、

それはそれとして、こころの起きるままの状態を、何処かで観ていることだ。

大切なのは、それつまり、自分のこころの反応をしっかりと観ることである。


逆に、すぐに『それ』から逃げようとする、

こころの「微妙な待避行為」が多いことに気付いているだろうか。

その場合、あの人は嫌いだ、ああ問題だ、これは嫌だ・・・という事になる。

そういうものが、気づかず知らずの間にこころの歪みとなるものである。

いわゆる「エゴ」とはそうしたこころのパターンのことであり、

自己保身に根差したこころの動きが、人間関係で大なり小なり歪んでしまった在り様を言う。

そういう意味では、物質偏重文明はエゴの仇花の園のようなものであろう。


世間には様々な意識レベルの人々がいるわけで、

もちろん嫌な相手を無理に好きになる必要もなく、・・問題は相手ではなく、

自分に起きた『こころの反応』をしっかりと観えているか?ということだ。

・・・

「あー、おれは怒っているな・・」

「うーん、わたしは怖がってるわ・・・」

どこか、そういう意識的観察行為が極めて大切なことなのだ。

・・・なぜか?


例えば、怒りの感情にある「自分」を観る<自分>があり、

例えば、悲嘆に沈む「自分」を観る<自分>があることで、

どこか苦痛を感じつつも、それを体験している・・実感というか、

全てはこころの反応や経験に過ぎないというようなスタンスがあるわけで、

言わば、そこにはすでに精神的な大きな物差しが出来ているのである。

物差しが大きければ、小さな事象はとるに足りないサイズとなるだろう。

「だから、それがどうしたの?」という事になる。

「おいおい、ずいぶん悩んだが、今思うといったい、あれは何だったのか?」

ということがあるはずだが、時間差をおかず、その場その時で済まされるわけだ。


こころが揺れ動きながらも、それを経験としてしっかりと観ている様は、

公園で遊ぶ我が子を観ている親がいるようなものである。

そう、「こころ状態」にハマり込んで、二進も三進もいかない状況に対して、

既に『援け』が顕れていることになるのだ。

そういう状態では、こころのけがや傷を負うこと、トラウマ等も激減するものである。

・・・

自分のこころを観ること、想い・感情の意識的自己観察こそは、何をおいても必要な行為である。

人間は思う事や感じることを自己で観ることなく、意識レベルを上げることが難しいのはそういうことだ。




観察とは・・・科学的に言っても、それを「対象化して観る」という事であり、

こころの次元においても同じように、自己観察、想念観察によって、

そこに自己投入、感情投入して、ハマっている自分自身を、

さらに広い意識次元に自らを引き上げるという事である!


・・・理解可能だろうか。

物理的現象や環境は必然的にそれに呼応するように現れるのだ。

自分のこころの反応や動きを観察することに馴れたならば、

自らが苦痛に顔をゆがめることの幼さが理解できることになり、

かつまた、他人のこころの反応や動きも察知できるのは当たり前で、

結果、思いやりや理解の度合いも大きくなるだろう。

そう、それを「愛」、「慈しみ」等と言っている。


また、想いが扱えるようになることで、

喜ばしい想いを意識的に選択できるならば、

昔のように、<心ならずも>いやな目にあってしまったり、

どうしてこうなんだろうと落ち込むことも無くなるだろうし、

外側から来るウソや騙しも見通せるようになるものだ。

自分のこころが見えるならば、同じく他人のこころも見えるため、
 
そういう世界では、いやも応もなく、思いやりや調和が支配的になるのである。


本質的な意味で、

すべてはそれぞれの「わたし」の「こころの反応」で生じているからだ。

・・・

「心眼を開く」とはなんだろうと言えば、

まず第1に、自分のこころの動きを観察することなのである。

地味で刺激のない感があるだろうし、決して壮大なファンファーレもならないが、

人類が避けて通れない、是が非にも必要な意識的努力なのである。


今のレベルにある人間達の喫緊のテーマは、

ありふれた日常の経験の中で、

『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。


そして、

自己自身を越えてゆく以外に、道はない。

 

 


・・・

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。