人の身体は無数の細胞、分子、原子、素粒子、クオークで構成されている。
宇宙のあらゆるものが、そういう無数の段階のエネルギー波動またはエネルギー微粒子で創られている。
その数を数えることは、まるで宇宙の星の数を数えるようなもので、限りがない。
要は、・・・無限、限りが無い・・・ということだ。
はっきり言えるのは、
我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。
・・
「それが何か飯を喰うための役に立つのか?」という<癖になった低い観念>で誤魔化してはならない。
「それが現状の不幸に何か寄与するのか?」という<固まった思考>で打ち消してはならない。
あなたの手を見てみよ。
あなたの頭を触ってみよ。
足の感触を感じてみよ。
心臓の鼓動を手で感じて見よ。
それは偶然かつ・・当たり前のことなのか?
たとえわずかの五感感覚ではあったとしても、我々はまさに「無限」の一端を見て、感じているのだ。
ごく当たり前に、今生存していること、生きて在ること、
それは全くの奇跡の連続なのである!
かつまた、完全なる調和で生かされているのである!
それこそが本来、意識を集中すべき「事実」である。
世間を、社会を流れている、どうでもよい刹那的快楽観念、怖れをどこか増長するような観念、
ああ、体は弱いもの、病気は怖い、災害は恐怖だ、・・・・
それらを回避するために、銭・金・物を獲得して、やさしい医者に面倒みてもらい、
政治家に自分の都合のよい政策を期待し、結果いつも誰も責任者のいない社会に没落しつつ、
飯を喰うだけの為の生き方だけに・・・意識を集中していた・・・自らを返り観るべきである。
<意識を集中する>ものが自らの体験となる。
そうして、その体験を通じて、
喜怒哀楽や苦痛や快楽を体験しつつ、
そういう、あからさまな、逃げようのない感覚のおかげで、
自らの意識を調律しつつ、魂的な学習をしているのである。
70億と言われる地球表面上の人類は、そのために次元降下してここに来ている。
意識、想い、経験、結果と反省を通じて新たな境涯に移行している・・・それが人生なのだ。
それとも、一生を通じて富やお金、権力を得るのが目的なのか?
そしてそれで幸福を買えると思うことの、どこに真実がある?
死んだあともお金で何とかできると思っているのか?
セレブや富豪がどうしたのだ?
世界の支配層がどうしたのだ?
権力者が一体誰を幸福に、あるいは不幸にするというのだ?
そういう、生れること、死ぬことの本意すらも解らず知らずの姿態を攻撃し、あるいは憧れるのはなぜか?
実のところ、もっともらしい『他者批判』はすなわち『他者依存』の裏返しである。
それらをすべて投げ捨てなければ、決して本来の調和には戻れない。
何かありそうで何もない、後に出るのは懺悔と後悔、実にバカバカしいではないか。
そういうことを何世にもわたって経験学習するカリキュラムは既に飽和したものと心得るべしである。
・・・
大勢の人が我知らず、無意識レベルに沈み、世間という流れに浮き沈みしている有様を見て、
それが正しい事だなどと思い込み、自らもその中で「苦渋に満ちた安住」を求めていたにせよ、
既にそれは終わった観念体系なのだ。
今はそういう転換が、外側からも即ち地球、宇宙サイドからも行われているのである。
知らぬは仏なり・・・それに気づけるかどうか、2つに1つの分岐点である。
そう、今まで気づかず知らずに、どうでも良い世間的な情報の中にいたとしても、
あなたの身体も、その周囲のあらゆる事物も、まさに『無限』が結晶化しているということ。
それが気付くべき・・・「真実」なのである。
そうして、
身体を通じて、その無限の中の、
ほんのある一定の領域を観察しているのが我々人間という存在である。
見る・聞く・嗅ぐ・・・等の五感はその観察の一部分でしかないのであるが、
例え一部ではあっても、その無限につながっている壮大な「命の仕組み」、
あらゆる有限と見えるものが、まさに無数の・・無限の結実であることに、気付けるだろう。
ましてや、あなたという存在は、世間や世界の常識で決められるものではなく、
誰かが「こうだ」という類のものでもない。
それを言うならば、
意識的存在である人間は・・その意識及び意図によって、常に自己規定し、
その範囲の中で自己を創造、演じているのだ。
今までは、その他大勢の観念をその時々で採用しつつ、民主主義だとか社会調和だとかいう触れ込みを元に、
先導され、扇動されて、嫌々とし、喜々としつつ「共同で自己創造」していたのが・・・古い人類社会である。
あなたの身体は無数のエネルギーによって、極めて、極めて精巧に、かつ完全なる調和を元に創られているのである。
一体なんでこういう身体が出来上がっているのか?
自らの身体を少しゆっくり感じてみると良い。
医学や化学、科学が解明するだろうよ・・・というウソを真に受けてはならない。
細かなメカニズムを解明することで、身体のことが分るという観念は、
永遠の未来にそれが分るはずだという責任回避、現実逃避以外の何ものでもない。
・・・
今ここに在る・・事実を、
今その意識で可能な範囲で感じ取ること、
一度に全てが解らないからと言って、今耀いている事実に、
今こそ気付かなければならない。
はっきり言えるのは、
我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。
だから、あなたは無限を体現しつつ、それを観ている・・・存在、
それを昔からの概念で・・「神」というのである。
大きい小さい、重い軽いという3次元的な尺度は棄て去る必要があるのだ。
そう、全然と言っていいほど、十分に自覚せざれども、「神」なのだ。
宇宙のあらゆるものが、そういう無数の段階のエネルギー波動またはエネルギー微粒子で創られている。
その数を数えることは、まるで宇宙の星の数を数えるようなもので、限りがない。
要は、・・・無限、限りが無い・・・ということだ。
はっきり言えるのは、
我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。
・・
「それが何か飯を喰うための役に立つのか?」という<癖になった低い観念>で誤魔化してはならない。
「それが現状の不幸に何か寄与するのか?」という<固まった思考>で打ち消してはならない。
あなたの手を見てみよ。
あなたの頭を触ってみよ。
足の感触を感じてみよ。
心臓の鼓動を手で感じて見よ。
それは偶然かつ・・当たり前のことなのか?
たとえわずかの五感感覚ではあったとしても、我々はまさに「無限」の一端を見て、感じているのだ。
ごく当たり前に、今生存していること、生きて在ること、
それは全くの奇跡の連続なのである!
かつまた、完全なる調和で生かされているのである!
それこそが本来、意識を集中すべき「事実」である。
世間を、社会を流れている、どうでもよい刹那的快楽観念、怖れをどこか増長するような観念、
ああ、体は弱いもの、病気は怖い、災害は恐怖だ、・・・・
それらを回避するために、銭・金・物を獲得して、やさしい医者に面倒みてもらい、
政治家に自分の都合のよい政策を期待し、結果いつも誰も責任者のいない社会に没落しつつ、
飯を喰うだけの為の生き方だけに・・・意識を集中していた・・・自らを返り観るべきである。
<意識を集中する>ものが自らの体験となる。
そうして、その体験を通じて、
喜怒哀楽や苦痛や快楽を体験しつつ、
そういう、あからさまな、逃げようのない感覚のおかげで、
自らの意識を調律しつつ、魂的な学習をしているのである。
70億と言われる地球表面上の人類は、そのために次元降下してここに来ている。
意識、想い、経験、結果と反省を通じて新たな境涯に移行している・・・それが人生なのだ。
それとも、一生を通じて富やお金、権力を得るのが目的なのか?
そしてそれで幸福を買えると思うことの、どこに真実がある?
死んだあともお金で何とかできると思っているのか?
セレブや富豪がどうしたのだ?
世界の支配層がどうしたのだ?
権力者が一体誰を幸福に、あるいは不幸にするというのだ?
そういう、生れること、死ぬことの本意すらも解らず知らずの姿態を攻撃し、あるいは憧れるのはなぜか?
実のところ、もっともらしい『他者批判』はすなわち『他者依存』の裏返しである。
それらをすべて投げ捨てなければ、決して本来の調和には戻れない。
何かありそうで何もない、後に出るのは懺悔と後悔、実にバカバカしいではないか。
そういうことを何世にもわたって経験学習するカリキュラムは既に飽和したものと心得るべしである。
・・・
大勢の人が我知らず、無意識レベルに沈み、世間という流れに浮き沈みしている有様を見て、
それが正しい事だなどと思い込み、自らもその中で「苦渋に満ちた安住」を求めていたにせよ、
既にそれは終わった観念体系なのだ。
今はそういう転換が、外側からも即ち地球、宇宙サイドからも行われているのである。
知らぬは仏なり・・・それに気づけるかどうか、2つに1つの分岐点である。
そう、今まで気づかず知らずに、どうでも良い世間的な情報の中にいたとしても、
あなたの身体も、その周囲のあらゆる事物も、まさに『無限』が結晶化しているということ。
それが気付くべき・・・「真実」なのである。
そうして、
身体を通じて、その無限の中の、
ほんのある一定の領域を観察しているのが我々人間という存在である。
見る・聞く・嗅ぐ・・・等の五感はその観察の一部分でしかないのであるが、
例え一部ではあっても、その無限につながっている壮大な「命の仕組み」、
あらゆる有限と見えるものが、まさに無数の・・無限の結実であることに、気付けるだろう。
ましてや、あなたという存在は、世間や世界の常識で決められるものではなく、
誰かが「こうだ」という類のものでもない。
それを言うならば、
意識的存在である人間は・・その意識及び意図によって、常に自己規定し、
その範囲の中で自己を創造、演じているのだ。
今までは、その他大勢の観念をその時々で採用しつつ、民主主義だとか社会調和だとかいう触れ込みを元に、
先導され、扇動されて、嫌々とし、喜々としつつ「共同で自己創造」していたのが・・・古い人類社会である。
あなたの身体は無数のエネルギーによって、極めて、極めて精巧に、かつ完全なる調和を元に創られているのである。
一体なんでこういう身体が出来上がっているのか?
自らの身体を少しゆっくり感じてみると良い。
医学や化学、科学が解明するだろうよ・・・というウソを真に受けてはならない。
細かなメカニズムを解明することで、身体のことが分るという観念は、
永遠の未来にそれが分るはずだという責任回避、現実逃避以外の何ものでもない。
・・・
今ここに在る・・事実を、
今その意識で可能な範囲で感じ取ること、
一度に全てが解らないからと言って、今耀いている事実に、
今こそ気付かなければならない。
はっきり言えるのは、
我々の身体そのものが有限に見えて、まさに『無限』であるということだ。
だから、あなたは無限を体現しつつ、それを観ている・・・存在、
それを昔からの概念で・・「神」というのである。
大きい小さい、重い軽いという3次元的な尺度は棄て去る必要があるのだ。
そう、全然と言っていいほど、十分に自覚せざれども、「神」なのだ。