古くから言われる「心眼を開く」とはどういうことだろうか。
『こころの目』を開くとはなんだろう。
文字通り、心の動きを観るという事だ。
それは想念波動レベルのアクセスにも関連するわけだが、
まず、自らの想念を観るという事から始まるのである。
・・・
自分の経験で言えば、瞼を閉じた状態で、
ある意識レベルにおいて、何かを見るということは実際あるわけで、
いわゆる霊視や透視などと同一線上にある「視覚」であるとも言えるだろう。
しかしながら、こういうどこか超常的な能力のほうばかりに興味を持つのは、
いささか早計であるし、またそのこころには威力や能力を求めるプラグマティズム的魂胆があるだろうし、
そこにも物理的効果や利益、能力を使って威力を誇示しようとする無意識の思惑があるかもしれない。
・・・
ここで言う「心眼を開く」とは、全くそういうことではない。
こころの目で見るのは、自分のこころの動きなのである。
『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。
何かの出来事や他人の言動によって自分のこころに起きる「反応」を観察するということだ。
自分に起きる想念や感情は、自分のこころの癖や行動のパターンを形つくることに気付いているはずである。
他人に何かを言われて逆上的な感情が生じたり、期待外れで落ち込んだりすることは誰でも経験している。
そういう時に、
そういう自分の想いや感情のゆれ動く様を、自分で観る・・・、
そういうスタンスをどこかで維持していることである。
自分で<自分を観察>している・・・そういうスタンスだ。
例えば、
他者に「このバカ野郎!」と言われては、動揺したり激高したりするわけだが、
それはそれとして、こころの起きるままの状態を、何処かで観ていることだ。
大切なのは、それつまり、自分のこころの反応をしっかりと観ることである。
逆に、すぐに『それ』から逃げようとする、
こころの「微妙な待避行為」が多いことに気付いているだろうか。
その場合、あの人は嫌いだ、ああ問題だ、これは嫌だ・・・という事になる。
そういうものが、気づかず知らずの間にこころの歪みとなるものである。
いわゆる「エゴ」とはそうしたこころのパターンのことであり、
自己保身に根差したこころの動きが、人間関係で大なり小なり歪んでしまった在り様を言う。
そういう意味では、物質偏重文明はエゴの仇花の園のようなものであろう。
世間には様々な意識レベルの人々がいるわけで、
もちろん嫌な相手を無理に好きになる必要もなく、・・問題は相手ではなく、
自分に起きた『こころの反応』をしっかりと観えているか?ということだ。
・・・
「あー、おれは怒っているな・・」
「うーん、わたしは怖がってるわ・・・」
どこか、そういう意識的観察行為が極めて大切なことなのだ。
・・・なぜか?
例えば、怒りの感情にある「自分」を観る<自分>があり、
例えば、悲嘆に沈む「自分」を観る<自分>があることで、
どこか苦痛を感じつつも、それを体験している・・実感というか、
全てはこころの反応や経験に過ぎないというようなスタンスがあるわけで、
言わば、そこにはすでに精神的な大きな物差しが出来ているのである。
物差しが大きければ、小さな事象はとるに足りないサイズとなるだろう。
「だから、それがどうしたの?」という事になる。
「おいおい、ずいぶん悩んだが、今思うといったい、あれは何だったのか?」
ということがあるはずだが、時間差をおかず、その場その時で済まされるわけだ。
こころが揺れ動きながらも、それを経験としてしっかりと観ている様は、
公園で遊ぶ我が子を観ている親がいるようなものである。
そう、「こころ状態」にハマり込んで、二進も三進もいかない状況に対して、
既に『援け』が顕れていることになるのだ。
そういう状態では、こころのけがや傷を負うこと、トラウマ等も激減するものである。
・・・
自分のこころを観ること、想い・感情の意識的自己観察こそは、何をおいても必要な行為である。
人間は思う事や感じることを自己で観ることなく、意識レベルを上げることが難しいのはそういうことだ。
観察とは・・・科学的に言っても、それを「対象化して観る」という事であり、
こころの次元においても同じように、自己観察、想念観察によって、
そこに自己投入、感情投入して、ハマっている自分自身を、
さらに広い意識次元に自らを引き上げるという事である!
・・・理解可能だろうか。
物理的現象や環境は必然的にそれに呼応するように現れるのだ。
自分のこころの反応や動きを観察することに馴れたならば、
自らが苦痛に顔をゆがめることの幼さが理解できることになり、
かつまた、他人のこころの反応や動きも察知できるのは当たり前で、
結果、思いやりや理解の度合いも大きくなるだろう。
そう、それを「愛」、「慈しみ」等と言っている。
また、想いが扱えるようになることで、
喜ばしい想いを意識的に選択できるならば、
昔のように、<心ならずも>いやな目にあってしまったり、
どうしてこうなんだろうと落ち込むことも無くなるだろうし、
外側から来るウソや騙しも見通せるようになるものだ。
自分のこころが見えるならば、同じく他人のこころも見えるため、
そういう世界では、いやも応もなく、思いやりや調和が支配的になるのである。
本質的な意味で、
すべてはそれぞれの「わたし」の「こころの反応」で生じているからだ。
・・・
「心眼を開く」とはなんだろうと言えば、
まず第1に、自分のこころの動きを観察することなのである。
地味で刺激のない感があるだろうし、決して壮大なファンファーレもならないが、
人類が避けて通れない、是が非にも必要な意識的努力なのである。
今のレベルにある人間達の喫緊のテーマは、
ありふれた日常の経験の中で、
『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。
そして、
自己自身を越えてゆく以外に、道はない。
・・・
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
『こころの目』を開くとはなんだろう。
文字通り、心の動きを観るという事だ。
それは想念波動レベルのアクセスにも関連するわけだが、
まず、自らの想念を観るという事から始まるのである。
・・・
自分の経験で言えば、瞼を閉じた状態で、
ある意識レベルにおいて、何かを見るということは実際あるわけで、
いわゆる霊視や透視などと同一線上にある「視覚」であるとも言えるだろう。
しかしながら、こういうどこか超常的な能力のほうばかりに興味を持つのは、
いささか早計であるし、またそのこころには威力や能力を求めるプラグマティズム的魂胆があるだろうし、
そこにも物理的効果や利益、能力を使って威力を誇示しようとする無意識の思惑があるかもしれない。
・・・
ここで言う「心眼を開く」とは、全くそういうことではない。
こころの目で見るのは、自分のこころの動きなのである。
『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。
何かの出来事や他人の言動によって自分のこころに起きる「反応」を観察するということだ。
自分に起きる想念や感情は、自分のこころの癖や行動のパターンを形つくることに気付いているはずである。
他人に何かを言われて逆上的な感情が生じたり、期待外れで落ち込んだりすることは誰でも経験している。
そういう時に、
そういう自分の想いや感情のゆれ動く様を、自分で観る・・・、
そういうスタンスをどこかで維持していることである。
自分で<自分を観察>している・・・そういうスタンスだ。
例えば、
他者に「このバカ野郎!」と言われては、動揺したり激高したりするわけだが、
それはそれとして、こころの起きるままの状態を、何処かで観ていることだ。
大切なのは、それつまり、自分のこころの反応をしっかりと観ることである。
逆に、すぐに『それ』から逃げようとする、
こころの「微妙な待避行為」が多いことに気付いているだろうか。
その場合、あの人は嫌いだ、ああ問題だ、これは嫌だ・・・という事になる。
そういうものが、気づかず知らずの間にこころの歪みとなるものである。
いわゆる「エゴ」とはそうしたこころのパターンのことであり、
自己保身に根差したこころの動きが、人間関係で大なり小なり歪んでしまった在り様を言う。
そういう意味では、物質偏重文明はエゴの仇花の園のようなものであろう。
世間には様々な意識レベルの人々がいるわけで、
もちろん嫌な相手を無理に好きになる必要もなく、・・問題は相手ではなく、
自分に起きた『こころの反応』をしっかりと観えているか?ということだ。
・・・
「あー、おれは怒っているな・・」
「うーん、わたしは怖がってるわ・・・」
どこか、そういう意識的観察行為が極めて大切なことなのだ。
・・・なぜか?
例えば、怒りの感情にある「自分」を観る<自分>があり、
例えば、悲嘆に沈む「自分」を観る<自分>があることで、
どこか苦痛を感じつつも、それを体験している・・実感というか、
全てはこころの反応や経験に過ぎないというようなスタンスがあるわけで、
言わば、そこにはすでに精神的な大きな物差しが出来ているのである。
物差しが大きければ、小さな事象はとるに足りないサイズとなるだろう。
「だから、それがどうしたの?」という事になる。
「おいおい、ずいぶん悩んだが、今思うといったい、あれは何だったのか?」
ということがあるはずだが、時間差をおかず、その場その時で済まされるわけだ。
こころが揺れ動きながらも、それを経験としてしっかりと観ている様は、
公園で遊ぶ我が子を観ている親がいるようなものである。
そう、「こころ状態」にハマり込んで、二進も三進もいかない状況に対して、
既に『援け』が顕れていることになるのだ。
そういう状態では、こころのけがや傷を負うこと、トラウマ等も激減するものである。
・・・
自分のこころを観ること、想い・感情の意識的自己観察こそは、何をおいても必要な行為である。
人間は思う事や感じることを自己で観ることなく、意識レベルを上げることが難しいのはそういうことだ。
観察とは・・・科学的に言っても、それを「対象化して観る」という事であり、
こころの次元においても同じように、自己観察、想念観察によって、
そこに自己投入、感情投入して、ハマっている自分自身を、
さらに広い意識次元に自らを引き上げるという事である!
・・・理解可能だろうか。
物理的現象や環境は必然的にそれに呼応するように現れるのだ。
自分のこころの反応や動きを観察することに馴れたならば、
自らが苦痛に顔をゆがめることの幼さが理解できることになり、
かつまた、他人のこころの反応や動きも察知できるのは当たり前で、
結果、思いやりや理解の度合いも大きくなるだろう。
そう、それを「愛」、「慈しみ」等と言っている。
また、想いが扱えるようになることで、
喜ばしい想いを意識的に選択できるならば、
昔のように、<心ならずも>いやな目にあってしまったり、
どうしてこうなんだろうと落ち込むことも無くなるだろうし、
外側から来るウソや騙しも見通せるようになるものだ。
自分のこころが見えるならば、同じく他人のこころも見えるため、
そういう世界では、いやも応もなく、思いやりや調和が支配的になるのである。
本質的な意味で、
すべてはそれぞれの「わたし」の「こころの反応」で生じているからだ。
・・・
「心眼を開く」とはなんだろうと言えば、
まず第1に、自分のこころの動きを観察することなのである。
地味で刺激のない感があるだろうし、決して壮大なファンファーレもならないが、
人類が避けて通れない、是が非にも必要な意識的努力なのである。
今のレベルにある人間達の喫緊のテーマは、
ありふれた日常の経験の中で、
『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。
そして、
自己自身を越えてゆく以外に、道はない。
・・・
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。