空(くう)は空っぽではなく、無限の可能性そのものである。
われわれは、まさにその真っただ中にいると同時に、それを観ているものである。
無限の可能性の真っただ中にいるにも拘らず、それに気づかないということは、
良く例えて言われるように、海の中の魚が水を渇望しているようなものだ。
その真っただ中にいるにも関わらず、どこか遠くにはきっと何かがある、未来にこそ希望がある・・、
山のあなたの空遠く・・にこそ理想があるとしつつ、今の瞬間を「我慢している」ようなものだ。
明日の生活、金銭の過小、他者との折り合い、世間への迎合と軋轢、・・・
そんなものばかりを<意識の中心>に据えて毎日を送ることの可笑しさに、
もう気付いても良いほどの経験は、すでに十分に過ぎたのではなかろうか。
それはそれ、あれはあれとしてこなしつつ、
本質的な意味で・・・自己を大切に思う時ではないだろうか。
同じ瞬間は二度となく、なじんだ古い世界も、嗚呼もう過ぎ去る運命にある。
古い時は、もう僅かもないのである。
・・・
我慢や忍耐はもういい加減に通過しようか、
人が変わるのを、世界が変わるのを待つのはやめにしようか。
そう、・・・自らが、理想的な方向への自らを意識し・再創造すべき時なのである。
その為に、世界に<ただひとつ>の「わたし」という意識があるのだ。
あなたのことは、あなただけが変えることができる。
そうだろう?
それとも、未だ愛をくれるはずの、どこか外の世界の人々を追いまわすのか?
まだ、経済がさらに成長すれば幸福になると信じているのか?
どこかの政治家が貴方の問題を解決してくれるのか?
ワハハのTVのバラエティーの中に、何か真実があると思っているのか?
皆と同じ姿で街を歩けば安心が得られると感じているのか?
十分な安心が得られるものと、何十億円もの資産を望んでいるのか?
人々の重大問題は、実は、
そういう何かありそうで何もない、観念の束縛からの「解脱」なのである。
誰にもある・・・「わたし」・・・という自己意識、
それは単に頭の創るイメージに過ぎないと思っているならば、
それこそ無知蒙昧というものだ。
死してなお生まれ変わるものは、「わたし」という意識である。
無数にある<わたし>の経験を今思い出せているかどうかは別として、
意識あるいは個性化の経験をしている「魂」は「時間空間」を越えている。
あなたはまさに魂・意識である。
いまこの瞬間でも、そう・・『わたしは在る・・』という常在する意識があるだろう?
それは小さいながら、神の・・・光あり、我ありという原理そのものなのだ。
空(くう)という無限の意識の母体に揺らぎを生じさせるのは、
自己へ気付きとその時の「想い」であり、
その神なる無限の意識と、そこに生じる無数の色合い・想いによって多次元的な宇宙が生じている。
同じようにして、あなたやわたし達も・・・この宇宙、地球、世界の中に居る。
そして、その世界の中に居るように見えるところの、
あなたやわたし達という意識存在は、
また存在原理としての「神」そのものなのである。
謙遜する必要もなく、卑下も全くふさわしくない。
全ては意識の顕現であり、神の顕現であり、
またその「自己に気付いて」いる・・「自意識をもつ存在」は、
実際は既に<神なる自己に>・・・目覚めているのである。
すでに、もう・・われあり・・・ではないか?
最も身近で、最も当たり前である自己存在原理に気付けるだろうか。
その自己への気付きの程度によって、あらゆる段階、階層ともいえる、様々な自己の存在形態を選択しているのである。
それぞれの魂は、それすなわち、経験をする神のことであり、また神の子などというにふさわしい。
簡単に言えば、
自己が自己である・・・とする意識に・・すでに神が顕現しているのであるが、
なんでも選択可能な神であるからこその、その「想念」選択において、
わざわざ低く狭い想念を、ことさら選択していたということである。
言わばそういう低次元に固定する役目をする者が、悪とか闇とか言われる働きなのだ。
それにほとんど気づけない段階の世界が・1つは・・今までのこの地球世界である。
狭く、暗く、重いこの世界を、宇宙では幽閉世界や牢獄惑星等と言われる所以である。
全ての可能性は空(くう)にあって、
それを顕現せしめるものは「意図」や「想い」であることに気付く時である。
その人の・・・世界の中心は「意図された意識」なのであって、外の誰でもないのである。
「われ・・・在り」
より良いとされ、より安心とされ、より幸せとされる世界に在るためには、
それぞれが他のそれぞれから、何か愛を得ることではなく、
それぞれが他のそれぞれへ、何か愛を与えることである。
その何かとは、自己の発する想いであり、言葉であり、行為である。
他者がどうだろうと、世間がどうだろうと、世界がどうだろうと、実際は関係がないのだ。
愛のない世界の、実に面白みの無さには、もう気づいているはずであろう。
そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想いきり・・変えてしまおうか!
『想い』はそのためのツールなのだが、この言わば『極秘事項』に本当に気づけるだろうか。
・・・・
われわれはどういう世界にいるかといえば、真実はこういう世界なのだ。
空(くう)は言わば、無限の波動であり、様々な周波数の渾然一体のことである。
光のスペクトルのように、
赤、黄、緑、青、紫等の七色の色を合わせると<白>となるように、
空(くう)は無限の波動の混在する海のようなものである。
電磁波や重力、2つの核力など、発見されているもの以外の波動、エネルギーも空(くう)に在る。
我々は、まさに「空(くう」であるところの「意識」の顕現であり、また、「意識」そのものなのだ。
そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想い切り・・変えてしまおう!
・・・・
空(くう)なる無限に・・・気づける者は、
空(くう)で在りながら、
空(くう)をも超えている。
それをなんと言って良いかわからない、それ・・・である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
われわれは、まさにその真っただ中にいると同時に、それを観ているものである。
無限の可能性の真っただ中にいるにも拘らず、それに気づかないということは、
良く例えて言われるように、海の中の魚が水を渇望しているようなものだ。
その真っただ中にいるにも関わらず、どこか遠くにはきっと何かがある、未来にこそ希望がある・・、
山のあなたの空遠く・・にこそ理想があるとしつつ、今の瞬間を「我慢している」ようなものだ。
明日の生活、金銭の過小、他者との折り合い、世間への迎合と軋轢、・・・
そんなものばかりを<意識の中心>に据えて毎日を送ることの可笑しさに、
もう気付いても良いほどの経験は、すでに十分に過ぎたのではなかろうか。
それはそれ、あれはあれとしてこなしつつ、
本質的な意味で・・・自己を大切に思う時ではないだろうか。
同じ瞬間は二度となく、なじんだ古い世界も、嗚呼もう過ぎ去る運命にある。
古い時は、もう僅かもないのである。
・・・
我慢や忍耐はもういい加減に通過しようか、
人が変わるのを、世界が変わるのを待つのはやめにしようか。
そう、・・・自らが、理想的な方向への自らを意識し・再創造すべき時なのである。
その為に、世界に<ただひとつ>の「わたし」という意識があるのだ。
あなたのことは、あなただけが変えることができる。
そうだろう?
それとも、未だ愛をくれるはずの、どこか外の世界の人々を追いまわすのか?
まだ、経済がさらに成長すれば幸福になると信じているのか?
どこかの政治家が貴方の問題を解決してくれるのか?
ワハハのTVのバラエティーの中に、何か真実があると思っているのか?
皆と同じ姿で街を歩けば安心が得られると感じているのか?
十分な安心が得られるものと、何十億円もの資産を望んでいるのか?
人々の重大問題は、実は、
そういう何かありそうで何もない、観念の束縛からの「解脱」なのである。
誰にもある・・・「わたし」・・・という自己意識、
それは単に頭の創るイメージに過ぎないと思っているならば、
それこそ無知蒙昧というものだ。
死してなお生まれ変わるものは、「わたし」という意識である。
無数にある<わたし>の経験を今思い出せているかどうかは別として、
意識あるいは個性化の経験をしている「魂」は「時間空間」を越えている。
あなたはまさに魂・意識である。
いまこの瞬間でも、そう・・『わたしは在る・・』という常在する意識があるだろう?
それは小さいながら、神の・・・光あり、我ありという原理そのものなのだ。
空(くう)という無限の意識の母体に揺らぎを生じさせるのは、
自己へ気付きとその時の「想い」であり、
その神なる無限の意識と、そこに生じる無数の色合い・想いによって多次元的な宇宙が生じている。
同じようにして、あなたやわたし達も・・・この宇宙、地球、世界の中に居る。
そして、その世界の中に居るように見えるところの、
あなたやわたし達という意識存在は、
また存在原理としての「神」そのものなのである。
謙遜する必要もなく、卑下も全くふさわしくない。
全ては意識の顕現であり、神の顕現であり、
またその「自己に気付いて」いる・・「自意識をもつ存在」は、
実際は既に<神なる自己に>・・・目覚めているのである。
すでに、もう・・われあり・・・ではないか?
最も身近で、最も当たり前である自己存在原理に気付けるだろうか。
その自己への気付きの程度によって、あらゆる段階、階層ともいえる、様々な自己の存在形態を選択しているのである。
それぞれの魂は、それすなわち、経験をする神のことであり、また神の子などというにふさわしい。
簡単に言えば、
自己が自己である・・・とする意識に・・すでに神が顕現しているのであるが、
なんでも選択可能な神であるからこその、その「想念」選択において、
わざわざ低く狭い想念を、ことさら選択していたということである。
言わばそういう低次元に固定する役目をする者が、悪とか闇とか言われる働きなのだ。
それにほとんど気づけない段階の世界が・1つは・・今までのこの地球世界である。
狭く、暗く、重いこの世界を、宇宙では幽閉世界や牢獄惑星等と言われる所以である。
全ての可能性は空(くう)にあって、
それを顕現せしめるものは「意図」や「想い」であることに気付く時である。
その人の・・・世界の中心は「意図された意識」なのであって、外の誰でもないのである。
「われ・・・在り」
より良いとされ、より安心とされ、より幸せとされる世界に在るためには、
それぞれが他のそれぞれから、何か愛を得ることではなく、
それぞれが他のそれぞれへ、何か愛を与えることである。
その何かとは、自己の発する想いであり、言葉であり、行為である。
他者がどうだろうと、世間がどうだろうと、世界がどうだろうと、実際は関係がないのだ。
愛のない世界の、実に面白みの無さには、もう気づいているはずであろう。
そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想いきり・・変えてしまおうか!
『想い』はそのためのツールなのだが、この言わば『極秘事項』に本当に気づけるだろうか。
・・・・
われわれはどういう世界にいるかといえば、真実はこういう世界なのだ。
空(くう)は言わば、無限の波動であり、様々な周波数の渾然一体のことである。
光のスペクトルのように、
赤、黄、緑、青、紫等の七色の色を合わせると<白>となるように、
空(くう)は無限の波動の混在する海のようなものである。
電磁波や重力、2つの核力など、発見されているもの以外の波動、エネルギーも空(くう)に在る。
我々は、まさに「空(くう」であるところの「意識」の顕現であり、また、「意識」そのものなのだ。
そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想い切り・・変えてしまおう!
・・・・
空(くう)なる無限に・・・気づける者は、
空(くう)で在りながら、
空(くう)をも超えている。
それをなんと言って良いかわからない、それ・・・である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。