気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

どうやって解脱するのか (5)空(くう)とは即ち無限である

2014-12-30 07:30:32 | 日記
空(くう)は空っぽではなく、無限の可能性そのものである。

われわれは、まさにその真っただ中にいると同時に、それを観ているものである。


無限の可能性の真っただ中にいるにも拘らず、それに気づかないということは、

良く例えて言われるように、海の中の魚が水を渇望しているようなものだ。

その真っただ中にいるにも関わらず、どこか遠くにはきっと何かがある、未来にこそ希望がある・・、

山のあなたの空遠く・・にこそ理想があるとしつつ、今の瞬間を「我慢している」ようなものだ。


明日の生活、金銭の過小、他者との折り合い、世間への迎合と軋轢、・・・

そんなものばかりを<意識の中心>に据えて毎日を送ることの可笑しさに、

もう気付いても良いほどの経験は、すでに十分に過ぎたのではなかろうか。


それはそれ、あれはあれとしてこなしつつ、

本質的な意味で・・・自己を大切に思う時ではないだろうか。


同じ瞬間は二度となく、なじんだ古い世界も、嗚呼もう過ぎ去る運命にある。

古い時は、もう僅かもないのである。

・・・

我慢や忍耐はもういい加減に通過しようか、

人が変わるのを、世界が変わるのを待つのはやめにしようか。

そう、・・・自らが、理想的な方向への自らを意識し・再創造すべき時なのである。

その為に、世界に<ただひとつ>の「わたし」という意識があるのだ。

あなたのことは、あなただけが変えることができる。


そうだろう?

それとも、未だ愛をくれるはずの、どこか外の世界の人々を追いまわすのか?

まだ、経済がさらに成長すれば幸福になると信じているのか?

どこかの政治家が貴方の問題を解決してくれるのか?

ワハハのTVのバラエティーの中に、何か真実があると思っているのか?

皆と同じ姿で街を歩けば安心が得られると感じているのか?

十分な安心が得られるものと、何十億円もの資産を望んでいるのか?


人々の重大問題は、実は、

そういう何かありそうで何もない、観念の束縛からの「解脱」なのである。



誰にもある・・・「わたし」・・・という自己意識、

それは単に頭の創るイメージに過ぎないと思っているならば、

それこそ無知蒙昧というものだ。


死してなお生まれ変わるものは、「わたし」という意識である。

無数にある<わたし>の経験を今思い出せているかどうかは別として、

意識あるいは個性化の経験をしている「魂」は「時間空間」を越えている。

あなたはまさに魂・意識である。

いまこの瞬間でも、そう・・『わたしは在る・・』という常在する意識があるだろう?


それは小さいながら、神の・・・光あり、我ありという原理そのものなのだ。





空(くう)という無限の意識の母体に揺らぎを生じさせるのは、

自己へ気付きとその時の「想い」であり、

その神なる無限の意識と、そこに生じる無数の色合い・想いによって多次元的な宇宙が生じている。


同じようにして、あなたやわたし達も・・・この宇宙、地球、世界の中に居る。

そして、その世界の中に居るように見えるところの、

あなたやわたし達という意識存在は、

また存在原理としての「神」そのものなのである。

謙遜する必要もなく、卑下も全くふさわしくない。



全ては意識の顕現であり、神の顕現であり、

またその「自己に気付いて」いる・・「自意識をもつ存在」は、

実際は既に<神なる自己に>・・・目覚めているのである。


すでに、もう・・われあり・・・ではないか?

最も身近で、最も当たり前である自己存在原理に気付けるだろうか。


その自己への気付きの程度によって、あらゆる段階、階層ともいえる、様々な自己の存在形態を選択しているのである。

それぞれの魂は、それすなわち、経験をする神のことであり、また神の子などというにふさわしい。


簡単に言えば、

自己が自己である・・・とする意識に・・すでに神が顕現しているのであるが、

なんでも選択可能な神であるからこその、その「想念」選択において、

わざわざ低く狭い想念を、ことさら選択していたということである。

言わばそういう低次元に固定する役目をする者が、悪とか闇とか言われる働きなのだ。



それにほとんど気づけない段階の世界が・1つは・・今までのこの地球世界である。

狭く、暗く、重いこの世界を、宇宙では幽閉世界や牢獄惑星等と言われる所以である。





全ての可能性は空(くう)にあって、

それを顕現せしめるものは「意図」や「想い」であることに気付く時である。

その人の・・・世界の中心は「意図された意識」なのであって、外の誰でもないのである。


「われ・・・在り」


より良いとされ、より安心とされ、より幸せとされる世界に在るためには、

それぞれが他のそれぞれから、何か愛を得ることではなく、

それぞれが他のそれぞれへ、何か愛を与えることである。

その何かとは、自己の発する想いであり、言葉であり、行為である。

他者がどうだろうと、世間がどうだろうと、世界がどうだろうと、実際は関係がないのだ。


愛のない世界の、実に面白みの無さには、もう気づいているはずであろう。

そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想いきり・・変えてしまおうか!

『想い』はそのためのツールなのだが、この言わば『極秘事項』に本当に気づけるだろうか。

・・・・

われわれはどういう世界にいるかといえば、真実はこういう世界なのだ。


空(くう)は言わば、無限の波動であり、様々な周波数の渾然一体のことである。

光のスペクトルのように、

赤、黄、緑、青、紫等の七色の色を合わせると<白>となるように、

空(くう)は無限の波動の混在する海のようなものである。

電磁波や重力、2つの核力など、発見されているもの以外の波動、エネルギーも空(くう)に在る。

我々は、まさに「空(くう」であるところの「意識」の顕現であり、また、「意識」そのものなのだ。



そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想い切り・・変えてしまおう!
・・・・
 
空(くう)なる無限に・・・気づける者は、

空(くう)で在りながら、

空(くう)をも超えている。

それをなんと言って良いかわからない、それ・・・である。

 
 


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。