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人為世界には決して自然発生する事象はなく、全てがそれ、人為のなせる業であることを知るべきであろう。
例えば集合無意識によって、生起すると見える出来事であっても、それは偶然ではなく想いと行為による必然の結果であることを理解している必要があるのだ。
あなたやわたしの世界でも同じことであり、その人の周囲の出来事もその人を中心とした想いと行為に依存しているのである。
だから、人生を他人が勝手に操作しているというふうに見えていたとしても、
深く大きい存在の層から見れば、結局は自分で創っているということに気付くべきである。
例えば、誰かに何かをされた、言われたとしても、それをどういう風にとるか、どういう反応をするかはすべて「あなた」次第である。
「それに従うより仕方が無い・・・」ということであれば、結果はそれであるし、
「それは違う・・」とするならば、結果はそれと違うのである。
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あなたである、本質的な「意識」およびその中に生じる「意図」、それは全く本質的、本源的なものであることを知るべきである。
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本来、誰にも、何にも、時空にさえも依存していない、おのれ自身で目覚めたる意識、
それがあなたである。
人間が動物と異なるところは、”意識が自らに目覚めている”というところにあり、言葉を変えれば、自分が自分であるという意識がある・・ということである。
これは意識的存在である人間にとって、最も重要な事柄であるのだが、
さも当たり前のことのように毎日毎瞬を素通りし続け、
そんなことよりも、
目先の生活や競争や生存の方策ばかりに目を奪われているという、
笑えない空回りのような忙しさに気付けるだろうか。
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全ての世界はそれぞれの「わたし」があってこそ、
認識対象としてそこに世界が出現しているのである。
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世界の中に偶然にあなたやわたしという意識主体が、
ひょこっと刹那の時間に出てくるわけではないのだ。
それは神なる根源意識があるからこそ、世界が創造されていることと同じことである。
いや、そんなことはない、
誰かが死んでも世界は相変わらずそこにあるじゃないか・・と言うかもしれないが、
それは「あなた」の意識が、この世界にまだ在るからであって、
「あなた」という意識主体がこの世界から外れたとしたら、
いったいどうしてそれを知ることが出来ようか。
いや、今度は霊としてこの世界に降りてきて、世界がある事を見ることが出来る等と言うとしても、
その霊としてのあなたから見たこの世界は、
全く異なった世界と見えることにも気付けるだろうか。
例え、どこにあっても、全ての中心はそれぞれの「わたし」なのであり、
すなわち「意識」から全てが生じるという事なのである。
そこには、意識⇒想念⇒エネルギー⇒現象世界という展開があり、
あるいは、デカルトがいみじくも、あの西洋にあってさえ気付いたごとく、
「<われ>想う・・故に<われ>あり」という気付きであり、
また「天上天下、唯我独尊(存)」という釈尊の言葉なのである。
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釈尊や霊的教師の真実の言葉よりも、
何処かの企業の長の言葉や、言葉でウソを着飾った政治家の話やら、
何処かの大統領の話の方を信じるような人々が多くいるのも、
マスメディアの部分的な情報プロパガンダを信じる人々が多くいるのも、
とうとう、なかなかに極まった世界になったという証拠であろう。
今は本当に、こころすべき時に来ているのである。
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例えば、社会というものが規制だらけ、強制だらけであるような、極めて不自由な時代であったとしても、それをどうとらえ、どう対処するかは、全て個々の意識と意図によるものである。
全くの他人任せ、全くの無意識を採用しているならば、それはまさにその通りとなる。
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海が荒れて思うように進まないと見えようと、航海士の腕1つによっているとも言えるだろうし、結局は自分のことは自分で決めているとも言えるだろう。
人の「意識と意思」こそは、それが当初は小さく感じていても、まさに無限の可能性につながった井戸、湧き出し点のようなものであることを肝に銘じておくべきである。
そうでなければ、自分の魂の発露を制限する、不自由で重い意識レベルに甘んじることになってしまい、何事も悪いのは外の世界、他人や世間、社会や世界のせいにしてしまうことになるのだ。
そうなると、外の世界が変わらなければ自分も変われないという想いに捉われ、
常に環境や支配に苦痛をもって甘んじることになるのは火を見るより明らかである。
そこに他者との整合性の歪、つまりカルマが生じるのである。
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それぞれの、あなたの世界の中心は、まごうことなく「あなた」以外にない。
それは利己主義という自己だけの尊さを主張するような腐った信念でなく、
全てのあらゆるものがそうだという意味なのである。
例え多くの存在達がそれに気づいていなかったとしても、
世界の全てが無知に沈んでいたとしても、
それぞれの「わたし」はそれに気づいており、
決して倒れない不動の巌のごとき存在であるべきである。
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外から色々な干渉や、想い込みや、しきたりや義務などが覆いかぶさっているとしても、それがどうしたというのだ?
それは全て人間の通念や観念でしかなく、それらにどうしようもない重さを感じることは全く必要な事ではない・・と気づくべきである。
しかしながら、それらの観念やら通念をすべてを拒否して暴れる、反逆するということではなく、それらが単に「観念」であるという事実をまず見極めるということである。
観念や通念は、それ、つねにコロコロと時代を追って変化するものであり、
その変化する浮草のような思考に、その都度真っ赤な顔で真剣になり、
あげくは自分を苦しめたり、丁半博打のごとく人生を掛けて勝負することの愚かさを、
いつかどこかで「悟る」必要があるということである。
他人の単なる思いつきの利己主義的な言葉が、あなたをどうするというのか?
どうするわけもなかろうし、それを一々気にしていても仕方がないことだろう。
あなたの人生を、他人が成り替わって終生面倒を見てくれるのか?
自分でさえも持て余す自分を観ればこそ、それこそあり得ないだろう。
政治屋が不思議な力でもって、国民皆を何もせずに富み栄えさせるのか?
あり得るわけもなかろう。
集団で固まっていれば、皆が一緒に生まれ、一緒に死んでくれるのか?
またそれで何が嬉しいのか?
双子や三つ子であっても常にそれぞれの人生である。
どうして、そうまでして外の影絵の世界に依存しようとするのだろうか?
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どんどん突き詰めてゆけば分るはずなのだが、それは、
自己が、朽ち果てるべき単なる偶発的な「肉体」存在であるという「観念」が故である。
今までそういう観念が蔓延していただけの話なのである。
大勢のか弱き肉体存在が、集団の中でなんとか生きてゆくには、
何処か「確実に」良心に恥ずべきことでも、
致し方ないという風に流されることにもなるだろう。
まさにそういう世界に生きてきたはずだ。
そうだろう。
誰にも覚えがあるはずである。
そして、魂が気付いている、その潜在的な苦痛を排除すべく、
それさえも忘れてしまえば良いという事にするであろう。
だから、
常に「我を忘れた状態」で生まれ変わることを繰り返すのである。
従って、
あなたも私たちも、今、このような世界にいるという事になる。
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嗚呼、友よ、実はそういうことなのだ。
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それは、魂がこの世界の意識波動の粗さに驚き、怖れ、
自らの主体たる意識、われと言う在り方の真の意味を再び探究しなかった、
取りあえずの、目先の有り様だけにこころ取られ、
大勢の吐き出す想念の渦に巻き込まれっぱなしの人生を、
取りあえず・・良しとしてきたからではないか。
しかしながら、それもまた魂としての貴重な経験として記憶されるものではあるが、
過ぎたるは、すでに及ばざるがごとし・・となった。
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どこかこころに苦痛や倦怠があるとするならば、それは、
自己とは何か、
本質の自己の探究、その先にある
・・無限の道を今まで・・見ようとしなかったからなのではないか。
しかしながら、繰り返す、繰り返しの有限の「時」は既に・・過ぎて、
在るのは・・・ただ、ただ、
今の<わたし>のその瞬間、瞬間であることに、気づいたはずなのである。
そう、過去は単なる記憶でしかなく、
また未来は変化する想いの先にしかない、
在るのは、ただ今だけ・・・、
そして、それに気づいているところの
<われ>なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。