気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

古い世界の崩壊音(2)苦難の峠越え

2014-11-07 06:48:58 | 日記
武道でも茶道でも、あるいは例えばどんな専門分野であっても、その道をある程度極めた者たちならば、その道にいる初心者や途上者がどのような段階に居るのかは、極めて簡単に分るものである。
つまり見切れる・・ということだ。

相場の諺(ことわざ)に「見切り、千両」というのがあるが、まさに今はその時期にある。
また「相場のことは相場に聞け」というの言葉にも、相場の動きの中にある先の兆候を自分で見極めよということを意味している。
 

これに引き換え、利益誘導をする外からの宣伝や促がしや勧誘に、決してまっとうなものはない。
そうだろう?
毎日のように目にするニュースや報道のなかにも全く同じことが言えるのだ。
それらを信じ込んでいると、後でとんでもないところにいる自分に気付くことになるものだ。

それはなぜかと言えば、騙される大勢の子羊がいないと、放牧業者は上がったりだからである。
実際、教科書で習ったことと、真反対のことが起きているのが外の現状世界ということだ。
真反対であるからこそ、そうとは知らない人々から、逆に利益や利ザヤを得るような仕組みになっているわけだ。
実に笑うしかない仕組みではないか。

そして現在、あらゆる嘘八百がまことしやかな姿を装って、世相の中に勢いよく浮き出してきていることにも気づけるだろうし、それに感づいている成熟した精神の人達も多いだろう。

それでも、まだ「そんなはずはない・・」という風に漠然と希望を託しているのは、経験として未だ騙され足りないか、あるいは自己内面を真剣に観察したことが無いからである。
 
  
この次元世界に生きている人間であるからには、誰であっても、自己内面に実に複雑な歪や影がありながら、多くがそれをおざなりにしつつ、取りあえずの、その時々の自己を存続をすべく過去、現在、未来を集団で通過している場合が多いかもしれない。
・・・
 
転生を通じて常にまとう、本来は仮であるはずの「肉体自我」を自己と見なし、それを何とか存続したいと思っている部分があるだろうし、そして、あくまでも仮のままの自己が「そのまま仮」であるために、無意識下での焦りを隠しながら、何とか時間稼ぎをしている魂の姿なのであるといえようか。
・・・  
  
しかしながら時は過ぎ、学びのサイクル時間が無くなって来たにもかかわらず、人類が全般として、自己が本来何ものか?という深遠なテーマの方向に向かわずに、取りあえずの目先の物的充足のみに奔走してきた、どこか欧米型の物質文明世界が、もうすでに飽和した現状に気付けるだろうか。
・・・ 
それとも、未だに為替が・・、GDPが・・、流動性が・・、利率が問題・・なのだろうか。
 

とはいえ、時は至っても、<今の瞬間>は消え去ることはなく、また言わば多次元的存在である地球舞台も消え去る事はなく、

必然として、新たな文化・文明にシフト、今既に移行しているのだが、だからこそ、これからそれはもっとも苦しい峠越えとなるかもしれない。
・・・

古い価値観念、洗脳された重たい思考、過ぎたる物欲、・・そういう古い荷物を棄て去らなければ、決して次なる世界への<この峠>は越えることが出来ないだろう。

そう、ここが肝心かなめの峠、「魂」の進化における峠越えであると言えようか。

ラクダでは決して針の穴を通ることは出来ないと言われる意味を深く感じるべきであろう。

この手に何かを掴んでいれば、ほかの物は持つことが出来ないという意味でもある。


例えば、このまま流れて行く先で、
・・・
さらに衣食足りない傾向になり、礼節も忘れそうな世相となって、
さらなる経済大恐慌になっても耐えうるか?
庶民の銀行残高が、国の負債と帳消しでゼロになっても笑えるか?
預金封鎖と新円切り替えとなっても問題などないか?
・・・

国と国の争いに巻き込まれ、交易が止まり、食料が1/3以下になっても生きられるか?
勇ましく愚かな局地戦ゲームで、あ、こりゃまずいと、勝手なリセットができるのか?
・・・・
我知らず、必死になって、そんな道に人為的に誘われていることに気付けるだろうか。
まるで、最後に爆発して、すべてチャラ、ちゃんちゃんが得意なハリウッド映画である。


例えば、このまま大自然を無視し、収奪し続け、どこか敵対する流れの先で、
・・・
それまでは決して信じられない、地軸の移動があってもうろたえないか?
地殻が短期間で数十m、数百m上下しても耐えうるか?
悪想念で呼び寄せる突然の隕石落下にも驚かないか?
・・・
宇宙・大自然はそういう可能性を示しだしていることに気付けるだろうか。
 
これらは極端な話ながら、次第に現実味を帯びてきていると思えないか。

何も知らず眠っているならば、そういう驚天動地の目覚ましが、最終最後のアラームになるかもしれないと心得るべきではなかろうか。
次第に増えている事変、異変はその兆候であると感じる謙虚さは必要ではなかろうか。

誰が良いとか悪いとかの話でもなく、責任者出ろ・・とかの話でもなく、
それは単に、自分が曲がるべき角を曲がれなければ、崖から落ちても仕方がないというということだ。
重い荷物を満載した車では、角(かど)は容易には曲がれないという事でもある。

そして、
その重いおもりとは、身体の体重やらではなく、こころの重り・歪んだ観念のことである。

汚れたマインドがそのままであるのは、発展途上のこの世界で培ってしまった、他者への憎しみ・怖れ、あるいは自己探究の少なさ等が要因であろうか。

いやいや、それもさることながら、最も大きな誤謬があるとするならば、

わたし・・・という・・自己認識主体、自己創造を体現している<魂・意識>である自己を、
単なる肉体自我であるとする観念のなかに、気づかず知らずに埋没させていることである。



そう、例えこの先何があろうとなかろうと、

うろたえ、迷う、こころを観つつ、自らのこころを浄化し続けながら、

今の瞬間に在る・・・最も近い事実、当たり前の事実、不滅たる真我を意識しつつ、

その魂の・・・素の光を、身、口、意、想いを通じて、自己周辺に放射することが肝要なのだ。

そう、それぞれの<わたし>それぞれが中心であり、それが複合・調和しつつ、
 
常に、外の世界として展開していることこそ、
 
決して忘れてはならない真実なのである。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。