真に感じるところによるならば、この次元世界の意識的存在達は、
実に小さな穴の中に自らを縛りこんでいるということが出来るかもしれない。
なるほど、3次元的地球ワールド・・・・それはとんでもないほど局限された世界であった。
そこまでやるか?というほどの「卑小さ」を演じることが出来る 「 It’s a Small World 」、
また自らの無限性をすっかり忘れることが出来る、言わば霊的逃避世界のようなものであった。
千と千尋の神隠しで、千尋の通ったトンネルは次元の通路を意味しているようだ。
・・・
一体何を言っている?
余計なお世話だろうが、あなたもわたし達も自らのことを「割引」過ぎているということだ。
そう、魂としての自己を極端に制限し過ぎており、また自らの存在を卑小な、物質の塊のようなものだと・・・「想い違い」しているということだ。
それは、我々の出どころであるところの「無限の意識」が・・・低い振動レベル、物質レベルに・・・固形化されていたということ。
固形化されたという表現は決して言い過ぎではなく、
すなわち3次元レベル、物質形態レベルへ、自らの「魂・意識」を落ち込ませていたという事実を言っているのである。
言い換えれば、無際限に自己を表現出来るところの、無限の意識を自由に「体現」出来る存在達が、
あろうことか、
単なる猿の子孫のごとき地上をうごめく生物、ちょっと他の生物より知的に優れただけの生き物であるという、
笑うに笑えない、あるいはもう笑うしかない存在にいつかしら落ち込んでいたということだ。
生物の時間かなんかで習ったことだろう。
ヒトは、猿の進化した生物・・・そんな通説が、さも現代科学でようやく解明された事実のような、
実に「壮大な嘘」を、小さいころから教え込むような文明とは、一体なんという自己卑下的文明だろうか!
表現型の進化は、それ自体の物質系の突然変異ではなく、それに宿る「魂・意識」の進化を物語る。
またこういう尤もらしい図柄そのものに、自らを制限した生き方にはめ込むようなイメージが含まれている。
嗚呼、人類はやはり数千年以上に渡って、次元降下を体験し続けてきたといえるのである。
それはあたかも天上の神々が、時間という「鎖」を身にまとい、いつのまにか地べたを這い回る姿に身を変じること、
卑小な肉体人間に自らを変化させるとは、一体全体・・・どういう自己創造なのか。
これもまた、ネガティブ方向ではありながら、あり得ない程の壮大な自己創造力とも言えるだろう。
自らの魂の無限性を・・・よくもまあ、ここまで制限することを探究してきたものだ。
その方面での達人であると、・・・ある意味でそういうことである。
しかしながら、あくまでも、自己を肉体に過ぎないという観念に沈み込んでいる場合は、
つまり今の物質が全てのような常識観念が、それが真実だと「思い込んで」いる場合は、
一体全体・・・何を言っているのかという「こころ」の反応となるだろう。
正直、あなたはどうだろうか。
あまりにも長く嘘のまかり通る存在世界に浸っていれば、
あたかも真実かのごとく、繰り返し話される迷妄観念、刷り込むような毎日の生活での常識観念の世界が、
・・・・それが事実であるかのような妄想で固定されるようになる。
時代時代の科学技術や思想の違いはあれ、そういうことが何千年にも渡ってなされてきたのだ。
そのなかで、もっとも重大な事がらは「人は社会的な動物」に過ぎないという思想であり、
要するに、人は死んだら終わりの単なる物質生命であるという観念である。
当然ながら、肉体は死んだら土に還り、大気に蒸発して消えてなくなるわけだが、
それは無限であるヒトの「本質」を言っているのではなく、物質組成としての肉体を言っているにすぎないのだが、
そういう部分的でしかない事象だけを表明することで、ヒトが肉体でしかないというような・・・・迷妄観念にしっかりと誘導しているということだ。
99%の事実と1%の嘘・・・・その1%の欠如によって、事実と全く異なったものとなることの代表例である。
非常に身近な話をすれば、さも、まともなニュースメディアや広報機関、雑誌や宗教紙、教科書さえも、
全て「ウソ」というよりは、真実であろうことの。。。ごくごく小さな断片のみを宣べているにすぎないのである。
そのごくごく小さな断片だけを、繰り返し大衆に伝えることにより、全くの方向違いにも誘えるのである。
我々愚かな民衆が、与えられる虚実の嘘で右往左往する姿が見えてくるだろう。
あるいはそんなことなどにも気づかない人々もいるだろうし、また事実など、どうでも良いとしている者たちもいるかも知れない。
そのように、ごくごく小さな断片だけを、繰り返し大衆に伝えることにより、全くの方向違いにも誘えることなるのだ。
このことは、今までも、そして、今でも行われている、世界のあらゆる出来事の周辺で、はっきりと分るはずである。
身近には日本の従軍慰安婦の報道の虚実とそれによる政治的駆け引き、
あの原発の一大事故の周辺では、今ほとんど何事も無いような状況宣伝、
ウクライナの騒動での虚々実々の報道や、裏で行われている人為的な事変、
日本周辺での尖閣列島での地政学的、あるいは海底資源周辺をめぐる危機のタイミングの良い誘発、
同じ会社の航空機事故の原因が、不究明なまま放置されようとするあり得ない現実、、
地球温暖化問題の世界的流布とその虚実性、.....
数え上げればきりがないほどの、嘘と真のまだら模様が現出されているであろう。
例えとして挙げたこれらは、全てどこか人為的な事件・事象であるにもかかわらず、
一体何が真実か・・・・わからぬ迷走状況にある事を示すのである。
こういう現況を観察するならば、外に出てくる情報そのものに、相当重大な「嘘がある事実」に、
判然と気づけるはずなのである。
ことほど左様に、大につけ小につけ、数千年にわたって、同じような虚実の世界で、
人類は迷妄観念の中でまどろんでいたということだ。
あなたもそうではないか。
そうやってこの世界で、繰り返し再生された人生であったろうか。
なぜそうなるのかと言えば、・・・・
肝心なところ、本当の現実の追求、真理への模索、自己探求をおざなりにしていたからなのではなかろうか。
自分以外の・・・外の世界に丸投げ、自分の尤も重要な真実探究を、他者にゆだねてきたということである。
それぞれの <わたし> を探究するよりは、肉体の生命維持だけに奔走させられ、
世相の渦の中で押し合い、へし合い、殺し合い、殺され合い、
往々にして、肉体を嫌々ながら離脱後に、
再び上位次元に浮かび上がっては、また下生して学びを続行する・・・そういうことを行なってきたのだ。
それが輪廻転生と言われるものであろう。
・・・・・
しかしながら、今は、今までの輪廻転生のような魂の学習形式が今変わってきているということに気付けるだろうか。
ヒトは死んだら終わりの刹那的、偶然の生命形態であるという固定認識は、
急速に廃れはじめているのである。
霊界通信やら、臨死体験、リモートビューのような超常能力、テレパシーやら引き寄せの法則などが知られるようになった、昨今の様子でも分るはずなのだ。
これらは、猿の進化しただけの、肉体人間の知覚機能の話ではない。
当然、その中にも虚実があるわけであるが、比較的容易に真実の部分が見える時代になっているだろう。
・・・・・
無知と本能、生存目的に特化した人生のサバイバル、
弱肉強食で方向づけられたタイプの、魂の学びの世界は、
既に十分すぎるほどの「飽和」をしたということだ。
またその舞台である、地球の3次元フィールドが、生態系の調和を保てなくなる、ギリギリの線を超えたということもあるだろう。
環境汚染物質の増大、生態系のを壊すほどの、人類のめくら的活動、生態系の破壊どころか、
他人様の命さえも、自らの金勘定に組み込むほどの拝金思想がはびこる状況に及び、
これ以上は無い・・・・というところまで来ているということなのだ。
お分かりだろうか。
命も、世界も、そして、それぞれの<わたし>達の・・・・<魂>も、
・・・偶然に在るわけではないということを。
我々は、あるいは、たとえ鉱物、植物、動物でさえも、その本質は宗教的に言えば、「神」であり、
神自らが、自らの多次元宇宙的な、壮大な創造物語の中で様々な姿を示現しつつ遊んでいるのである。
そして遊びは・・・成長する子たちの楽しさを顕しているのである。
それが魂の進化であり、意識の進化なのだ。
・・・そして今、新たな「学び・遊び」の次元に突入したということである。
しかしながら、頑として、古い霊的レベル、観念レベル、知的レベル、情緒レベルで自らを甘んじるとするならば、
それもまた個別化された神ならでは自由意思であり、
いつかどこかの時空環境での、再生・再演になることになるだろう。
肉体は死んでも、魂であるあなたは不死であるからである。
これは昔から伝わっている事実の伝承でもありながら、ポッと出のような、西洋的物質科学で論議され、迷信と決定づけられるようなレベルのものではない。
・・・・
執着を捨て、物へのこだわりを捨て、古い小さな個人我:エゴから抜けて、
こころ穏やかに、
愛をもって、そして、こころを込めて、
今残された古い次元を「学び・遊べる」ようになった者たちは、
実に、幸いな魂達なのである。