気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識  (11)新たな次元軸

2014-05-05 09:50:30 | 見えないものから見えるものへ

空(くう)は充満する意識・・・、

 

それは要するに、いわゆる創造主、神、全ての元、ソース、根源のことであり、

 

それはそこ・ここ、あちら、こちら、俺、お前、あれ、これ等という個別化された現象形態、

 

あるいは人が想起する概念、思考、感情等を含む、あらゆるものが「それ」であるという意味である。

 

・・・・

それと我々とどういう関係があるのか、どういう利益があるのか?それでローン還せるの?

 

という感覚で、人にはついつい物事をとらえようとする「癖」があるのだが、

 

それは海の中の魚が、海は自分とどういう関係があるのかと思っているようなものだ。

 

そういう利害や関係性、社会性のものではなく、

 

それが全てである、そのなかに全てがあるという根本的なことなのだ。

  

我々は誰も皆、もともと、この世界に存在していなかった、

 

そして、今は生きて在るわけだ。

 

そうだろう?

 

そしてまた立ち去ることになる。

 

これは虚飾ない、嘘やごまかしのない事実である。

  

そう、もともと空(くう)であり、

 

そして今はこの時空間内に「在る」ということ。

 

人間だれも皆・・そうである。

 

違わないだろう?

 

また、空(くう)が、単なる空っぽ、永遠に何も無いのであれば、有など生じるはずもない。

 

ゼロに何を掛けてもゼロである。

 

しかしながら、

 

わたしは・・・在る・・・・と意識していることは、

 

その気付きが生じるのは、

 

大いなる普遍の「意識」で・・・・空(くう)が満たされているからである。

 

そう。。。。、わたしが意識している・・こと、が1つ、その証拠なのだ。

 

 

大いなる意識、全てであるところのそれが、

 

あなたやわたし達という存在として、『顕現している』のである。

 

I AM THAT ・・・  われはそれなり、

 

無限なるそれ、全包容的意識が有限体として顕現している、

 

それがそれ・・・、あなたやわたし達、動物、植物、鉱物を含めて、全てはそれなのだ。

 

ワンネスとか言うのは、そういう<ひとつ>が、無限に顕れて展開しつつ、

 

またすべてはひとつでもあり、

 

わたしもそれ、あなたたちもそれ、全てはそれ・・・だという事である。

  

一は即ち多なり、多は即ち一なり、

 

空即是色、色即是空・・・である。

  

しかしながら、こんなことを街中で叫んでそれを理解してもらう必要もないし、

 

それぞれの自分で静かに悟るべきものであろう。

 

・・・・

 

個別の物質形態だけに意識を向けている、それしかないと勘違いしている存在達が、

 

所謂ところの、3次元的世界の住人ということになる。

 

3次元とは縦横高さの空間のなかに、物として存在しているという「認識」で出来ている。

 

それに変化、動きを加えて物理化学では4次元とされているが、それ以上の次元要素が見当たらないと、

 

あちらこちらと、探しているわけである。

 

要は、それ以上物質的に認識できないということであるが、当たり前とも言えようか。

 

意識によって視覚化しなければ、現れないからだ!

  

 

高次元とはなんだろうか・・・とか、そういう探究もあるのだが、

 

ところが、その探している行為そのものは・・・『意識の働き』 に過ぎないだろう。

 

簡単に言えば、「思考」で、あーだこうだと思い巡らしているわけだが、

 

その思考、すなわち「意識の働き」自体に気付いていない。

 

それはなにせ、物銭金という有形物を探している思考形態に染まっているからだし、

 

眼に見える結果、つまり物質形態ばかりを追いまわしているからだ。

 

3次元的現実の中をいくら探しても宝物は出てこない。

 

追い掛け回しているそれ、そのもの、つまり「思考、思いめぐらし」、という「意識」の働き・・・・

 

それが3次元要素を超える「次元要素」であることに、なかなか気づかないわけである。

 

見えない解らないと探すだけではなく、意識で視覚化、現象化すること自体に、

 

高次元の働きがあるということに気付かなければならない。

 

 

これは量子場での微量子の挙動の「観察」と「現象結果」にも通じている。

 

 

通常高い次元というのを、さらに自由度と理解度が飛躍的にUPした次元と言うならば、

  

それは存在諸元の元にある。。。。「意識」のレベルの違いで色付けされるであろう。

 

 

それは創造のレベル、プロセスの違いであるとも言えようか。

 

・・・・

例えば、案、思考やアイデアは全ての文明創造物の設計図であることは気付けるだろう。

 

車もスマホも、家も道路も、全てがもともとは誰かの案、思考、デザインである。

 

元は、思い巡らし、すなわち思考であり、それは「意識の働き」なのである。

 

デザイナーや設計・開発の仕事にたずさわる人々は、明確に解るはずである。

 

思考が、多くは間接的なプロセスを経るものの、

 

間違いなく現実の製品や機能を生み出すのだ。

 

 

さらに、例えば、スプーン曲げやら物品引き寄せ、テレパシー伝達、念写などは、

 

その意識の働きの、直接的な現れである。

 

全てを手品、マジックに帰すことは誠にもって愚かな「思考」である。

 

人の意識が3次元的観念で閉じこもっている限り、そういう実際にある、「時空を超えた現象」自体が、

 

どうにもこうにも理解できないことになるし、決まって全てが嘘だと決めつけることになる。

 

不可思議な現象を、・・・・それってなんだろう? と思い巡らし探究するのではなく、

 

そんなもの在るわけない・・・と、不思議にも、さっさと決めつけるのである。(笑)

 

それは未知なるものに恐怖を感じる「癖」がついているからだ。

 

 

安心して信じることが出来るのは、公的他者の宣伝、プロパガンダだけということになる。

 

昔、大屋壮一という識者が、戦後の日本人の精神傾向を見て「一億総ハクチ化」と言っていたが、

 

言葉の品位は別としても、なるほど予言であったなと思う。

 

現代教育は、資本主義的繁栄の為の、従順な働き人を輩出するために、

 

未知なる事象の可能性や、こころという肝心なところは放置したまま、

 

自分で思考を巡らさないように仕向けられているという風潮もあるのだが、

 

結局は、自分でしっかり「選択」しているということである。

 

だから、誰が悪いとか、社会の巨悪のせいだとか、

 

そういう責任の他者転化や他者依存は本質ではないのである。

  

 

想念が、3次元的諸物を創造しているからには、

 

想念、意識の作用、・・・それが3次元的時空間を超えたところの、

 

いわゆる「新たな次元軸」ともいえるのだ。

 

元々、昔から今もあった・・・それ、

 

あなたやわたし達の・・・意識の働き・・・それが探していた「高次元要素」といえるのである。

 

・・・・

 

意識の働き、それはいわゆる「こころ」とか、精神とか言われて、何かの抽象扱いに堕されてきた。

 

それより、うんと解りやすく、計量、計測ができる、物・銭・金、

 

それで人々を方向づけながら、

 

その思考、創造、アイデアという、気づかぬ「高次元要素」を使って、文明を築きあげてきた、

 

そういうことなのだ。

 

西欧流の物質科学文明とは、そういうレベルの文化・文明である。

 

「こころ」がおざなりにされながら、目に見える威力、豪華さ、安楽さだけを形に顕してきたのだ。

 

そしてそれは飽和してしまい、自壊作用の真っただ中にある。

 

銭金物の経済は実際崩壊を始めており、人工的な色々なごまかしや手法で延命してはいるが、

 

その土台である「地球生態系システム」自体が、

 

必然的で明らかな変移をしていることに気付けるだろう。

 

 

また、そういう人工的な文化文明の飽和と一大変移の他に、

 

 

 

想いという、意識の働き、こころの重要性、そして、

 

最高・最大の発意であるところの「無条件の愛」「慈しみ」とされる意識の働きに、

 

気付く意識存在達が増えるにつれて、

 

地球という生命圏は確実に顕現形態の進化、つまり次元転換を行なってゆくだろう。

 

さらにより意識自由度の増えた世界、

 

自由であるがゆえに本質的な自己責任を理解できる存在達の表現場としての地球が、

 

新たに出現しつつあるということだ。

 

 

 

愛とは何か・・・・

 

他者のこと、他の事物も含め自分自身のように感じること

 

 

打算や無理強いや、誘導や宣伝、要求や見返り、投資と回収などというものは、古い意識レベルでの、おもちゃ道具のようなもの。

 

 

 

一は即ち多なり、多は即ち一なり、

 

なるほど、元はひとつであるから、

 

実のところ、無条件の愛・・・それがもっとも安心で、極めて自然な思考、感情、行為なのである。

 

逆に言えば、無条件の愛・・・・だから、他者はどうであっても関係ない。 

 

これはまるで毎朝昇る、あの太陽のような在り方でもある。 

  

まるで無条件の光の放散のようなもの。 

 

これから先は何があっても何がなくても、 

 

毎日毎瞬の生きてある生活のなかで、

 

 

出来るだけこの意識フィールドに近づくことが非常に大切な時節にある。

 

 

 

Thcaiv9s9k


 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。