我々は皆いつかどこかで思うものだ。
俺は、私は・・何で、生きているんだろうか?
そして死んだらどうなるのか?
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『そんなことわからない、それに死んだら終わりだよ。』
大体そういう答えを返してくるだろう。
しかしながら、その人は・・答えているが・・・実は 『答え』になっていないわけで、
要は、解らないことを正々堂々と言っているに過ぎない。
そういうのが分った風な『無知』というものであろう。
要は、何も調べていない、探究していない、解らない状態であることを示しており、
またその答えは「何かの受け売り」なのである。受けた物を何も斟酌せず、右に左に流すだけ、皆が言っているよ・・・って言うが誰も保証人もいない、そんな理由づけなのだ。
そういう刹那的人生観がさも当たり前だというのが、特にダメ押しのよう戦後吹聴された欧米流の思想である。
死んだら元も子もないから命を大切にするべきだ、というのがそれである。
命を大切にするのは当然だが、死んだら終わりだ・・・という嘘宣伝がそっと附随しているのである。
死んだら終わりだから、生きているうちに楽しく生きよう、物も豊富に獲得し、安楽に生きよう。
場合によって他人を出し抜いても仕方がない、嘘を言っても仕方がないじゃないか・・。
なあ・・、だって死んだら終わりで、人徳もくそもあったもんじゃないだろう。
そういうことになる。
ある意味では、決まって、未だにそういう意識レベルの存在達が世界の上層部分ではしゃぎまわっている、それが正しいんだなどというパフォーマンスを演じている、そんな時代に成り下がってしまった感もある。
テレビやラジオ、メディアで著名な人々の、全部とは言わず多くがそういう存在であろうか。
嘘を言っては、その他大勢の希望をかきたて、言葉と行為を使って自己利益、自己保身に利用する・・・そんな人たちが目立ってきた、いやあぶり出てきたということだ。
政治も経済もそういう村になっている。
分る人には解るはずである。
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昔から日本には、仏教、神道、あるいは修験道等を通じた、あるいは武士道などにおいて、それぞれに花開いた死生観というものがあった。
春の桜を愛するという無意識の自然に対する憧憬にそれが顕れている。
今は欧米流のマヤカシ物で出来た造花が主流となってしまったが、それも、もう棄て去る時期にある。
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死んだら終わりだから、生きているうちに楽しく生きよう、物も豊富に獲得し、安楽に生きよう。
場合によって他人を出し抜いても仕方がない、嘘を言っても仕方がないじゃないか・・。
なあ・・・だって死んだら終わりで、いざとなれば、人徳もくそもあったもんじゃないだろう。
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そういう無意識での、安易で浮ついた死生観が多くの人生の強烈な色づけをしているのだ。
余計なお世話だが、あなたはどうだろうか。
あなたとは肉体である・・・で終わりだろうか。
この文章を読んでいる方は多分違うことは分っている。
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確かに、今まではそういう時代であったといえるだろう。
多分数千年~数万年という直線時間軸を生きて来ただろうあなたやわたし達は、
どの時代も、どの時代も皆、そういう肉体レベルだけの存在を自分だと、感じざるを得なかったとも言えるかもしれない。
時折高次レベルから『魂の教師』が下生して来ても、烏合の衆が集まり来たりて、
ある時は磔(はりつけ)に処したり、自分とは違うとして、やんごとなき高みに祭り上げて、体よく誤魔化すぐらいだから、少しずつ光が差してくるにしても、多くがそんなことだったに相違ない。
そうやって多くの人々が・・・「死んだら終わり」 を繰り返してきた、
つまりこの次元世界で無意識に『転生』してきたというわけである。
魂のごく表層の記憶に、「死んだら終わり」 の恐怖の観念が根付いているから、
逆にそれから逃れるべく「必死に」 生存競争をするわけであり、
また生存に忙しいからとして目先のことばかりに捉われて、生存の間に、深く自己存在の何たるかの探究がなされない。
そうしているうちに肉体人生が終わる・・、そういう繰り返し。
自己が肉体でしかないという、この世界で魂の「獲得した知恵」?にもとづいて、
自己創造的に再び似たような人生、ちょっと違うが似たようなパターン人生に自己投入するわけだ。
人類社会で刷り込まれた、曲介した主たる観念の為に、それを起点とした自己創造、自己完結ループでぐるぐる回るようなものである。
回し車のハムスターのことを、決して笑うことなど出来はしない。
なるほど物質濃厚の観念世界では、木や草や紙のように、自らを朽ち果てるべきものと思い込むのも致し方がないし、
水平方向のことばかりで忙しく、それ以上の次元というか、垂直方向の自己の可能性の探究など、そうそうできるものでもないかも知れない。
そうではないだろうか?
ここに、こうして生きている我々は、
そういうある意味で得難いところの・・繰り返しの生死、無意識的転生経験をしてきたという事でもあるのだ。
例えて言えば、今までは夢の中にいて、あろうことかちょっとした悪夢にうなされてきたようなものである。
その悪夢とは、
「自分が単なる肉体である」という観念から生じている、競争と軋轢と誤解の数々の物語。
閉鎖された狭い観念世界の夢物語・・・それは・・・・自己認識で自己を決めている・・・狭い範囲での閉鎖されたレベルでの『自己創造』に他ならない。
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しかしながら、その繰り返す悪夢の世界は終わりを告げたのである。
前世を憶えている人々の増加、
前世を語る子供達の多くの科学的検証報告、
肉体死の経験の後に帰還した臨死体験者の体験談、
ヘミシンク等を代表とする体脱による多次元世界の経験者の話、
お花畑的と揶揄されるスピリチュアル系、チャネリングからの話もそういう筋のものである。
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ちょっと、書店、体験者、インターネットを探すだけでそれに接することが出来る時代、そういう情報が一気にこの世界に出てきているのがわかるはずである。
ここでの、こういう文章なども含めて、気づきある存在達、目覚めてきた魂達は容易にそれに接することが出来る段階に来ているのだ。
「求めよ・・さらば与えられん」
それがここにきて極めて容易になったということだ。
これは言わば、芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」、生前盗賊をやっていたカンダタを、迷いの地獄から救い出す、天から降ろされた1本の蜘蛛の糸のようでもある。
起承転結のストーリーで言うならば、既に「結」の終わりに差し掛かっている。
例えで言えば、教室で先生が問題の「答え」を出す段階になったようなものだろうか、
「実はそういうことでした・・・わかる人は、はい手を上げて~・・・」かもしれない。
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人間は肉体のみならず、幽体、霊体という風にいわれている、言わば周波数の異なる波動の重複した多次元的な意識体としての存在である。
その複合した波動、すなわち無限段階の波長の光とも言うべき存在を「魂」というならば、
肉体は魂のまとう一番外側の衣服なのである。
土地に合わせ、季節に合わせた衣服、それが肉体である。
なるほど我々の肉体は全部、地球の提供する素材で出来ている。
そういう視座に立っていえば、
肉体に固執し、自我に固執するのは、まるで、自分のものでもないなじんだ古い衣服にこだわって駄々をこねる幼児であろう。
人は皆、季節によって古い衣服を脱ぎ、また着替えるように、
魂は経験を通じた英知をより輝かせる目的で、様々な表層体を着替えるのだ。
着替えと成長を願うのは、親なる創造主、あるいは根源神、内在神の眼差しである。
それを駄々こねて、自分だけは安楽に維持しよう、死を遠ざけようとして、利己主義にはまり込み、
闘争や軋轢、殺戮等で、兄弟である多くの魂の経験を妨げ、カルマを自作しては再びはまり込む、
今まではそういう時代であったかも知れない。
いうならば次元降下した世界での経験群であったのだろう。
今行われている世界中のやらせや混乱、革命と称したカオス化は、霊的幼児たちの最期の時代、ドンずまりにおける駆け込み経験であろう。
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どんな形態にも自己投入できるところの自在なる魂達は皆、
あの時代、この土地、あの環境、この世界、そして幾多の星々という環境も含め、
あの人格、この性格、この経験、あの体験をしつつ、
存在宇宙、森羅万象内の様々な創造を目撃、探究、経験、成長するプロセスにある。
それを魂レベルの進化というならば、それは楽しい遊びとそれで必然的に得られる成長のようなものである。
生が苦しいものであるという宇宙で最もおバカな勘違いはもうやめようか、
生きることは・・・本来魂の成長のための楽しい遊び、聖なる遊戯なのである。
子供のころには色々な遊びを創造しては、暗くなるまでみんなで遊んだものではなかったか。
今はもう、こころの根っ子にある、うらぶれた強迫観念を、さっさと棄て去る時が来たのである。
古き観念を捨てられるか、執着してまた持ちこすか・・・・
自ら身軽になるか、重たい観念のままか、
これこそ結構な大仕事でもある。
しかしながら時は足早に過ぎゆく過程にあり、
直線時間であとどのくらいあるのだろうか。
いずれにしても、今はもう、2つに1つの分かれ道に差し掛かっている。
曇りなき眼で見るならば、昨今の様々な大自然の変移にもそれが現れているのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。