●今の肉体自己<本質の自己
自分が単なる肉体ではないということが認識できるならば、
本質の自己とは、時空を超えている存在であるということも理解可能であろう。
また、あなたの「本質」とは、今のような不自由な3次元的「空間」、あるいは直線的に流れているように見える「時間」を優に超えた存在であるということも認識可能であろうか。
そんなばかな・・という考えがあるのも確かだが、これが実に難儀な3次元的閉塞観念なのである。
時間空間を超えた本質・・言わば「魂」は、宇宙の中に目覚めた神なる根源・それ自身の・・・無数の『創造・観察点』であるとも言えるかもしれない。
ここで云う「神」とは、現在の宗教的な観念でイメージされる、あなたやわたしとは別個のどこかに鎮座まします別物の絶対者というものではない。
もう、そのような支配や被支配で誤魔化すような自己卑下的なイメージはさっさと払拭する時である。
・・・
●拡大された自己の自覚
存在全体として常に在り、そして自らがその全体であると認識しているところの「普遍的意識」が「神」というならば、
その全体の中のある一点で目覚め、部分たる自己をその意識において次第に拡大しつつ、部分から全体に帰還するという崇高な遊びの意識が、あなたやわたし達の本質たる「魂」であるということが出来るかもしれない。
これが聖書などの放蕩息子のたとえ話等で示されているストーリーの真意だろう。
実に、あなたも、言わば旅の途中の放蕩息子や放蕩娘なのである。
今この世界に居て、いろいろな経験をしつつ、また色々な思考や感情を形成しつつ、自らの理解が深まるような、そんな人生を歩んでいるのも偶然ではない。
●狭い集合観念による自己幽閉
あなた自身そして私たち自身の存在・・・それが証拠である・・と言っても、なかなか・・・なのかも知れないが、それは世間的で狭い自己認識によってそう思っているだけの話である。
それは人々の知覚、思考に重いフィルターが掛かっているということであり、そのフィルターとは、人々の自己認識に対する低位への集団誘導的自己イメージであり、
人間とは単なる物質的存在である等という『観念』が植えつけられていたということでもある。
それはまた魂レベル、精神レベルの進化や昇華よりも、肉体生存と生き残りのみに特化するように仕向けれていたという事もできるのだ。
まるで恐竜時代の呪いの名残りのようではないか。(笑)
そういう物質的自己、その人間関係である支配や被支配のマトリックスは、人類の内面、思考ベクトルに掛けられているのであって、原因は外の世界ではないのである。
常に因は内にあり、外はその表れでしかない。
我々はそういう現象の世界で遊んでいたというわけである。
何をどうしようもなさそな世界での喜怒哀楽感情、たとえそれが我慢できないような悲しみや、抑えきれないような怒りや、これ以上ないような倦怠であったとしても、
それは実に、より大きな「わたし」である魂にとっては、実に得難い「体験遊び」のようなものである。
・・・・・
●鍵は常に内鍵、全ては内面から生起する
「わたしとは・・・何者か?」
その答えは、・・・常に今の「自己の認識」そのものにある。
それが答えである。
「わたし」とは・・・・常に今・・・<わたし>である・・・と信じている・・・ところの在りようなのである。
簡単に言えば、常にあなたとは、あなたが自分は ○○ だ・・・と信じ込んでいるところの、存在であるということだ。
これはまた、ある時はある人格、ある場所では別の人格として様々にその自己認識を表現する、すなわち様々に転生する存在であるとも言えるのだ。
あなたが自分のことを、単なる今の人格、またはある時空点で生まれた知的な肉体であると漠然と思い込んでいる、それこそが世間一般の真実・常識であって、それが全てだなどと信じ込んでいるならば、
今のあなたは「それ」・・・なのであり、当然ながらそれ以上でもそれ以下でもない。
これが集団観念に幽閉されている・・籠の中の飛べない鳥・・・という意味だ。
・・
●自己は常に自己であり続ける
そう、「わたしとは・・・何者か?」・・の、
その答えは、・・・常に今の自己認識・・そのものにある。
あなたとは、あなたが「これが自己である」と信じている・・ところのそれ。
要は、人とはその意識の働きでの自己認識によって常に自己を定義している存在である。
意識は想いを発し、エネルギーを経由して様々に現象化する。
そう、自己認識とは自己がなんであるかを常に創造している働きなのだ。
それがあなたであり、わたしなのである。
実に、「汝ら、汝自身を知れ!」 ということの中に既に答えがあるわけだ。
それがある意味での正確な答えである。
・・・
ややこしいだろうか。
意識的存在は、意識の自己認識作用によって、様々に自己を現象化、形態化をしているわけで、
そうとは露にも思っていない鉱物という存在、植物という存在、動物という存在にも集合的意識があり、
そして、人は今、意識的な意識を有するまでになった『人間』という知的生命体を、この地球という生命圏で体現しているというわけである。
・・・
●転生舞台は地球だけに限らない
人間という知的生命体の表現形態も実に多種多様であることは、この地球上の人種の違いでも明らかなのだが、例えばそのような人種の違いは、実は宇宙的な生命表現形態の違いをもとにしているのである。
まるでアメリカという国が、白人・黒人・ヒスパニック等、地球のあらゆるところからやってきた人種のるつぼである様に、
この地球も宇宙のあらゆるエリアから派生し、入植したところの生命形態のるつぼであるとも言えようか。
これは生命の表現形態つまり肉体的なこととは限らず、魂レベルにおいても言えることである。
もっとも、アメリカの歴史は数百年であり経緯や系譜は未だ人々の記憶にあるわけだが、数万年という悠久の時間における宇宙からの入植や出奔などの出入り等は、その長い時間スパンが故に記憶が失われており、それが事実であるなどとは夢にも思っていない、ただそれだけのことなのだ。
例えば、アステカ、マヤ、ヒンズー、チベットなどの民族にはその古代から伝わる伝承があるが、一般的にはなんとなく古い物語としか思われていないのかもしれないし、またそれは文明が数千年前から起こり、それは今回初めて勃興したものだという先入観があるからであろう。
教科書での4大文明も、古い遺跡や断片的な記録からいって、単にそういう歴史があったはずだ・・というだけなのだが、いつの間にかそれしかないという、その他の可能性を排除した観念になっている事例は五万とあるのだ。
日本にもある竹内文書、カタカムナ文字などもそのような相当に古い文明のエッセンスの伝承と考えられるのだが、長い時間経過や人伝えあるいは書き写し等というプロセスによって、内容自体が変質・変換されているし、さらには現代人の先入観念によってそれらは異端あるいは捏造などという形で片づけられているようである。
しかしながら、どこか異端とされてきた伝承や記録のたぐいを見るならば、そこにとんでもなく壮大な人類の系譜を見ることが可能であり、過去の誰かの気まぐれな想像・創作などとは到底言えそうもないのである。
・・・
要は、この世界に現に生きている多くのあなたやわたし達の「魂」の転生といえばそういうものは、地球の今の時代のみならず、古代、超古代、あるいは近隣宇宙やさらに銀河エリアという壮大な時間空間をその舞台としているのだ。
そう・・・、気付ける者たちにとっては、それは無いというわけではなく、気付いていない、あるいは顕在意識に浮かび上がっていない、あるいは思い出していないということなのだが、・・・あなたはどう感じるだろうか。
ここにも、「その存在とは・・・その存在自身がどういう存在であるか・・と認識している」範囲の存在であるという・・・いわば存在原理によって今の自分を自己定義しているのである。
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●生命の表現舞台は宇宙大
昨今は数十年前と比べて、UFOなどという概念自体は本当に誰でも知っている状態になったようである。
よほどの近視眼的で頭の固い者以外は、それが本当は何かを知らないまでも、誰でもその言葉自体は知っているのである。
簡単に言って、これは宇宙人がどこかにいるとかいないとか、信じる信じない、あるいは未知への夢やロマンあるいは恐怖を感じるなどというような皮相なSF話等ではない。
これは人類の集合意識に大いなる変化があった印といえるものである。
それは我々という、様々な身体表現形を包含するところの生命体、意識的存在の舞台は宇宙大に広がっているということである。
人間は普遍的な『魂』であり、それは宗教的な言いまわしでは神の分け御霊として、いわば部分から全体への意識的な旅をしているわけであるが、そうであるならば、何も転生の舞台は地球にだけ限られたものではあり得ないだろう。
地球にしか生命がないなどと・・・いったい誰が証明したのであろうか。
責任者!出てこい~・・・であるが、責任者などいるわけもない。(笑)
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●普通の考え方
ある考えでは太陽の条件と、その太陽からの距離が実に絶妙であるが故にこの第3惑星に生命が誕生したとも言われているが、例えばそういうことだけを根拠にするならば、現在観測されている宇宙の銀河、恒星の数からしても、単なる確率計算であっても実に数百万程度の地球のような惑星が存在するだろうとされている。
また昨今はNASAやその他の公的、アカデミックな機関組織からも、その可能性や他の太陽系惑星の観測データがチラリ・ホラリと出てきているわけであるが、
それらは地球次元の周囲に相当数観測されるUFOやら、あるいは宇宙人とのコンタクト情報などを完全に無視する形での、いわゆる権威筋からの緩慢な宇宙情報リークであるとも考えられる。
彼らも末端の情報しかないのであるが、ちょっと知った観測事実を実際には持て余しているに違いない。
それをいつものように善意的にとらえるならば、大衆がパニックにならないようにという理由で、把握した事実を小出しにするというわけでもあろうが、
なるほど我々大衆も無知には違いないが、その大衆に観測事実を明確に伝えないという事は、逆にそういう大衆のおかげで存在可能なはずの、その支配層、あるいは権威筋自体の恐れを示しているのである。
ここにも、都合が悪いものは忘れてほしいのだが、そうもいかない見えないプレッシャーによって、仕方なく小出しにしているというエゴ的パターンが見受けられる。
それはまるで東北大震災と福島原発事故の甚大なる影響を伝えようとしないで、時間をかけて忘却効果を期待しつつ、情報を小出しにしてその影響と責任を回避しようとするどこかの政府機関のあり方と全く同じであろう。
あるいは、例えば江戸の世の終わりに現れた「黒船」によって、江戸幕府内で蜂をつついたような騒ぎが生じ、あっという間に旧態以前たる姿に終始した時の幕府はそれ自身を終焉せざるを得なかった歴史と同じことなのだ。
良し悪しは別として、新たな事実認識に至るべき時において、
あくまでもその認識を変えないままでは、その観念的在り方そのものが崩壊してしまうということでもある。
・・・
聖書に残っているイエスの言葉の記録の中に 「天には住まいがたくさんある」 というのがあるが、それは単なる比喩でもなんでもなく、当然ながら嘘でもないはずである。
地球という、ある意味で重力によって閉鎖された感のある3次元的惑星生命圏も、そのような大宇宙の中の時空舞台の1つのありふれた存在形態でしかないと考えるのが本筋である。
そうであれば、この地球さえも天(天空・宇宙)の中の1つの住まいなのである。
●多数の存在周波数帯域
例えで云えば、惑星時空とは宇宙に無限に拡散している意識波動の、ある一定の波長帯、周波数帯であり、それは電磁波の一定幅の波長帯によってそこに映像が映し出されるような画像システムのようなものであろうか。
それがスクリーンのように2次元平面的か、惑星生命圏という3次元的立体形か、あるいはより繊細な波動域での顕現形態かの違いでしかない。
つまり宇宙での文明の違いとは、規模と情報の内容や量、そして表される表現次元の違いでしかないということである。
・・・
昨今は人類の何人かに1人がUFOを目撃しているとされるのだが、あなたも見たことがあるかもしれない。自分も葉巻型の”半透明”のUFOが、なんと”横すべり”に自宅数百mの上空を滑空するのを見たことがある。
・・・
気付けば今の時代は、そういう天の住まいから訪れる存在達、聖書などで言うところの、天かける「人の子」達が地球次元の周囲に無数に飛来しているわけである。人々の目撃の全てが航空機の誤認識や凧や気球あるいは思い込み等ではあり得ない。
そして、それらは何をしに、つかず離れず地球という3次元周囲に飛来しているのだろうか。
相変わらずの、恐怖と闘争のハラハラドキドキの感情的刺激を売り物にしたハリウッド映画は全くの的外れであろう。
もちろん人間にも様々あるように、そういう拡大された自由度を持つ者たちにも様々あるということだが、光速という今の我々の『時空認識の壁』を超える「速さ」で来ている者たちが、わざわざ資源やレアメタル等を漁りにくるわけもなく(笑)、そんなことよりもさらに重要な何かを示しに来ていると考えた方がいいのである。
●袖すりあうも他生の縁
ひょっとしたら、そういう着かず離れず、また人類の生命表現への干渉を極力さけつつ観察しているものは、魂レベルでの、まるで知人か、親か兄弟か親類のようなものかもしれないし、そうであるからこそ、自由意思を犯すことなく何か極めて重要なメッセージをもたらそうとしていると考えられるのだ。
あなたやわたし達の「魂」の転生は、地球の今の時代のみならず、古代、超古代、あるいは近隣宇宙や、さらに銀河エリアという壮大な空(くう)をその舞台としているのであれば、
地球外の住まいから訪れているといわれる存在達は、いわば何か他生の魂の「縁」とでも言うべきか、
今ここに居る、あなたやわたし達の悠久の魂の経験と表現の記憶、より拡大された、いわば『魂の系譜』の中に含まれているところの、魂レベルでの訳知りな登場人物たちであるかもしれないのだ。
それは多分、魂たる自己を狭い時間空間において忘却するような<次元降下遊び>から、もう目覚める時期ですよ・・という合図を送ってきているということだろう。
いずれにしても、我々は、もう肉体形態のみでの私という自己認識から卒業し、魂レベルあるいは多次元的な自己への認識に至る必要があるということだ。
昨今は、魂の不滅性やそれが時空を超越していることの傍証をするかのような、臨死体験、幽体離脱、意識の体脱などの情報が世界に増えている時代である。
また魂の転生に関するアカデミックな情報や報告も増えているわけであり、それらは全てより自由度の高い自己への観念的飛躍あるいは自己認識の大いなるステップを上がる時期でもあることを示しているのだ。
自己とは、何者であるか?
今はもう、その一段大きな自己認識に至る時なのである。
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