あらゆる全ての素(もと)にあるのは、「空」(くう)であり、
また空(くう)とは無限の可能性を、それそのものに畳み込んだ、いわば無限の存在ベースのようなものであると考えることが出来る。
だから空っぽなのである。(笑)
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ちょっと難しそうな話であるが、
かの物理学者ディラックは、電子と陽電子がぶつかって「対消滅」して空間に文字通り消える現象から、空間は-電子・+電子で充満していると考えた。
電子と陽電子の対消滅を科学的に観察したことで、空間とは電子と陽電子の対の状態での「充満」と考えたのである。これはディラックの海などとも言われている概念だ。
空(くう)間は、一見何もない空(からっぽ)に見えるが、それは+と-の電子で中和しているからであり、それは逆にエネルギーで充満していることを示している・・というわけである。
これは今から出てくる、あるいは既にもう出て来ている真空エネルギー装置、フリーエネルギー発電等の元にある考え方であり、要は時間と空間の理解や認識はもう既にそういう段階に来ているということだ。
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今までわかってきた科学的な見解では、空間とは、それは、からっぽ・・・何もないように見えてそうではなく、エネルギーというか存在表現の為の無限の資質で満ちているということであり、
何度も言うように、これは仏教といえば、そういう範疇の教えである、「空即是色、色即是空」という般若心経の最重要概念そのものである。
そう、それはどこか遠くはるかかなたの宇宙にあるというわけでもなんでもなく、今現在のあなたやわたし達の周りにある空間も、その空(くう)そのものなのだということだ。
あなたやわたし達に最も近い?、常にそこにある・・・ところの「空間」というスペースは、実は空(くう)なのだということは理解が容易だろうか。
我々が、知らないまま、なんだかんだといって動き回っている空間は・・・まさに空(くう)なのである。
空(くう)に大気分子が浮かび、光が伝搬し、重力場があるということである。
空(くう)に素粒子が生じ、エネルギー密度が生成され、波動としてまた粒子として存在することが出来る。
空(くう)に惑星があり、恒星があり、銀河や超銀河、超銀河団がある。
空(くう)それ自体は、「空間」でも「時間」でもなく、それを顕在化させるところのベースそのものである。
空(くう)を生命場顕現の普遍的なスペース(宇宙)だとすれば、それはまた普遍的な「意識」の場ということができるだろう。
そして意識には距離も時間もない。
距離で定義される空間は、空(くう)の意識的な認識による1つの顕在化であり、
宇宙あまねくあるところの空(くう)そのものではない。
素の空(くう)には時間も空間もない。
例えば、宇宙での自由自在な移動等は、その空の本質を知っている意識的存在者の当たり前の行動手段である。
我々は今、空(くう)の本質を垣間見ることができる文明に移行しているのであるとも言えるだろう。
それが本来の宇宙的な文明ということである。
ここでの表現は特殊であるが、要はそういうことなのだ。
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物理学では光の伝動媒体としての空間に存在するエーテルというものの論議があったのだが、前世期始めのころのマイケルソン・、モーレーの実験でそれが存在しないということになった経緯がある。
このエーテルとは、例えば海の水のような何らかの透明な物質的媒体であるというものだが、そういう顕在的伝動媒体としてのエーテルは否定されたということになっている。
結局は光は波動媒体なく真空を伝搬するという事実は変わらないのであるが、しかしながらこれはエーテルなるものの否定であっても、空間自体の光の波動の伝導事実を否定するものではない。
ここがややこしい。
ただ、情報の伝搬を情報工学的にいうならば、必ずベースになる搬送波のようなものが必要であるということであり、波動が空間に存在しつつ伝わってゆくということは、その「空間自体が搬送波」そのものであると考えることもできるのである。
またその搬送波的な性質を持つ空間とは、極微から極大までのあらゆる種類の波動の搬送波になっているということになるだろう。
あらゆる波動に満ちているために、中和されているということもできるし、
存在諸物、物質が窮極ではエネルギー的な波動であれば、空間とはそのあらゆる波動を生じるところの未分化の素材ものそのものであるということになる。
話は変わるが、日本の密教の開祖あの「空海」は、そういう意味で自分の名前をつけたのだとすれば、なんたる存在であろうか。
確かに、全ては空の海、超簡潔に言えば、空即是色・・・ということだ。
空とは、何もないからこそ・・・何にでもなり得るということである。
言葉を変えれば、
要は、我々は空(くう)という無限の可能性、あらゆる波動の生じるところ、未分化のエネルギーの真っただ中にいるという事である。
そして、実はその未分化のエネルギーに波動的揺らぎをもたらすのは実は「想念」なのである。
オー・・!、マイ ゴッド!(笑)
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真っ白なカンバス(空)に描かれる様々な絵柄(現象)は、すなわち絵描き(神)の「想い」に他ならない。
宇宙、多次元世界が普遍的な生命場、あらゆる生命の満ちるスペースであるわけは、
空(くう)なる無限の可能性のなかに、
様々な絵柄を描くための、より深く高い意識の発露である
想念を創出するためであると考えられるだろう。
その仕組みそのものは「愛」といわれる場合もある。
そう、神の分け御霊である無数の魂は、言わば空(くう)という無限の可能性の中に現れた多次元的な創造光であるともいえようか。
その魂たる無数の光によって、空(くう)の中の未分化の想念が顕現され、そして未知が既知となり、闇が光に照らされつつ嬉しく楽しいところの様々な表現と進化が可能となる。
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これを改めて「実感」してみることが気付ける人びとにとって重要なことなのだと思う。
そう、「実感」とは、言わば頭の中の概念から、顕在化、外のへ表現プロセスの実施発意なのである。
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身近な話、例えば、あなたが何か不幸や不満を感じているのであれば、
なるほど、それを今「実感」してしまっている・・・ということであり、
それ、そのとおり、
幸福や平安、豊かさがない・・ということなのだ。
そう、それは当たり前だが、本質的に違うところは、
実感⇒結果 を理解せず、結果⇒実感 のほうに終始していたということだ。
だから、結果ばかりを追い求め、何時まで経っても実感が出来ずにいたというわけだ。
だから短い人生において、それをわかるまで繰り返すための輪廻なのである。
おーっと、なんという事だろうか! ・・そういう実感が出ないだろうか。
多くの人びとは未だ・・・十分に試して、<実感>してはいないかもしれないが、
まず先に・・・「実感」すべしなのである。
「実感」できれば、「感謝」が出てくるのである。
そして得られるのが経験という作物、果実なのである。
要するに因果、または時系列が逆であったのだ。
なるほど確かに、これでは籠の鳥のままである。
・・・
また実感するためには、そういう意識的法則を知り、信頼して実行することが必要になるだろう。
そこには赤子のような素直さと着実な進捗姿勢こそが必要であるはずだ。
刹那的な功利性や実利性とは無縁のものである。
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わたしとは・・・○○である(と認識している)ところの存在である。
これがいわば意識的存在としての在り方の宇宙的な法則なのだ。
行動すべきことは、あらゆる他者の不埒な想い、常識的な迷妄思考、常識とされる重たい観念を、さっさと頭や胸や丹田から追い払い、
まず、想念、観念レベルにおいて自己によって「生まれ変わる」必要がある。
自己の不都合(自虐)でなく、他者の好都合(被支配)でもなく、他者の不都合(支配)でもなく、
それぞれの魂における本来あるべき姿、そういう意味では様々な自己の好都合を「実感」すべしなのである。
もともと・・・本来どうあってしかるべきか・・・内面にあるコモンセンス、あるいは理想、あるいは本質、あるいは安心感、
そういう見えないベクトルを内面から感じ取り、内から外へと意識を発散、生じせしめるのだ。
要は様々な、例えば本来あるべき幸せイメージを・・・実感に変換するのである。
ある意味で本質的に自己都合な、嬉し・楽しの「実感」は、
我々顕在意識で感知されないレベルにおいて、
無限のエネルギー母体である空(くう)に確実にその揺らぎをもたらし、
未分化のエネルギーを生じせしめ、
その嬉し・楽しで変調された空間や時間という存在舞台を生み出すことになる。
そういう一段と自由度の高い生存フィールドのことを一段高い次元世界というらしい。
なるほど、今地球自体もそういうフィールドに遷移しているという話は、
それは何もおとぎ話や希望的観測や現実逃避、あるいはスピリチュアルな世界の架空の思い込みではない。
いつものように、あなたの直観は当たっているのである。
・・・
自己の意識の中にある様々な歪んだ観念を・・・空(くう)に戻し、
すなわち、それはそれと観ることで手放しつつ、
幸せを実感するところの新たな思考、想念を発生・醸成させ、
それを定在波化すること、定着させることが実に重要なことなのである。
世界の大勢が何をしているのかをドキドキ、きょろきょろ見ていたところで実際何もなりはしないだろう。
あなたの魂の顕現である、あなたの知覚する世界、
それを観るところの座標軸は・・・<あなた>でしかなく、
わたしの座標軸は・・・わたしなのだ。
そう、
それが、それぞれの<わたし>という、所謂ところの神の分け御霊の存在意義である。
また意識である魂、魂意識の自己観相は、
古くから言われてきた意識次元の拡大・上昇方法である。
様々に去来する様々な想いを、それ、想いとして観じること。
それに振り回されず、それを逆に随意に使用するまでに意識を純化すること。
そうすることで、
狭い顕在意識がより拡大することがいわゆる意識の進化、魂の昇華であり、
それが「道」といわれるものではないだろうか。