気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂の諸相 (2)魂関係

2013-05-05 12:57:07 | 宇宙時代の考え方

●子供は大人を癒すために下生する

 

子供時代というのは、この世界においては実は人生の黄金期なのである。

 

 

自由に遊び、自由に踊り、いろいろな興味と好奇心に満ち満ちた魂の黄金時代なのだ。

 

 

往々にしてその後に関しては、この世界との折り合いと、魂の修行のための時間のようなものと言っていいかもしれない。

・・・

そうなのだ、親や周囲の人を通じての世知辛く荒い世界のネガティブな影響をある程度しか受けない子供時代こそは、人生において最も魂の輝いている時期なのである。

 

誰も皆同じように、この世界に赤子として素の意識で参入し、成長といわれるプロセスを通じて人格を形成していく子供の時代にも、大人の世界からの様々な精神的な苦悩や葛藤も漏れてくるものである。

 

大人が生きている社会では、生きるため、生活のため、あるいはお金のためという事で様々な苦労や徒労があるわけだが、そういう親たちの生きている社会での想念、感情的な歪を否応もなく受けてしまうということだ。

 

例えば時折起きる身内の諍(いさか)い等に接すること、相手を責めるような親同士の激しい言動に接すること、周囲の不安や不満の想念を内面に直接感じること等を通じて、

嫌も応もなく社会との関わりにおける感情的な歪を受けることになるのだが、ところが親や周囲の者はそんなこと等ほとんど感じていないのである。

 

赤子は可愛く愛らしいけれども、未だ人格を有していないどこか有機的な動物であり、周囲で何が起こっているのかわかるはずもない・・というような、通り一遍の世間的な先入観念で接していることが多いからである。

 

・・・違うだろうか。

 

●子供たちは魂の教師の役目を持っている

  

赤子もそれ、永遠の魂をもつ存在であり、見る、聞く、感じるなどの直接的な波動によって、あるいは想いや感情というより高次の直接感覚波動によって、いわば情報取得をしている等ということは露にも思っていないのである。

 

自己が何者であるかという本質的な理解をどこか有していない者は、他者をもそうしたものだと観ているわけだ。

 

これは親が悪いとか男親が荒っぽくて良くないとか、母親は優しく立派だとかの話ではない。

  

多くの人々は、いつの間にか踏襲している唯物論的常識観念、人間社会の狭い通念、生命に対する刹那的、感情的、あるいは近視眼的思考で終始しているということであり、たとえ親たちにとって可愛く愛らしい生命体に対してさえも、勢いそういう行動表現、思考発信を行ってしまうからである。

  

大人たちの生きている娑婆の世界、この3次元的世界での様々な葛藤や感情的歪は、その都度その都度赤子や子供に対しても大きな影響を与えているということに気付けるだろうし、

 

またその影響を通し、逆に、親は子供によって癒されているという真実にも判然と気づけるだろうか。

 

大人たちにしてみれば、自分達を含め子供たちを生かすために苦労をしている・・と信じ込んでいるわけでもあるが、どっこい実のところは子供によって霊的な癒しや教えを受けているのである。

癒しや教えと言っても、ペラペラと口角泡を飛ばしての説明や主義主張をするようなものではなく、

 

存在すること・・・そのものによって・・・黙って身を挺して癒したり教えたりしているのである。

 

なるほど、子はかすがいと言われるように、子供の存在によって夫婦の間が救われたとか、関係が維持できたとか、そういう事は実に多い筈である。

 

今生だけでなく、幾多の人生において子供や親を深く経験したものであればこういう事実に頷けるはずである。

 

・・・

 

●近親者や近しい関係者は「魂の関係」者

 

考えてみれば、こういう濃厚な人間関係があるという事、親子あるいは人生で行き交い出会う様々な『人の間』には、よく言う霊的あるいは魂レベルでの関係があるということである。

 

それは表層意識ではなかなか気づけないところの、人間関係ならぬ「魂関係」であるとも言えるだろう。

 

とかく因縁という言葉には、人生上の様々な歪んだ感情要素が絡むため、往々にしてどこかネガティブなものを交えて想像するわけであるが、

 

例えばあなたの周囲人間関係、その良し悪しは別として、比較的濃厚な人間関係には多くの場合ここでいう「魂関係」が存在するということだ。

 

それとも、生命表現とは、ビリヤードの玉が勝手に動き、ぶつかるようなランダムで偶然なこととでも言うのだろうか。

 

猫や犬や馬でさえもそんなことは感じてはいないだろう。

 

実に余計なお世話なのだが、あなたはどうだろうか。

 

いわゆるところの唯物論的洗脳から目覚めているだろうか。

 

 

●因縁とは魂の学びの為のポジティブな関係性のこと

   

絶対とは言えないものの、人間関係の裏側には、必ずと言っていいほどの魂関係がある。

 

それに気づくためには、良きにつけ悪しきにつけその、その「人の間」から安易に逃げたり、あるいは安直に理論づけして排除したりすることなく、そういう人間関係の大いなる深みを感じ取る必要があるはずだ。

 

人生とはある意味でそのためにあるとも言えるのだ。

 

要は、近しい人間は、良きにつけ悪しきにつけ、そのような様々な『人の間』の関係性を通じて、それを体現するとこところの『因なる本体』、魂の体験や昇華のためにこの世界にやってきている、そういう魂レベルでの同朋あるいは仲間であることを見破る心眼があるだろうか。

 

そういう意味ではあなたの周囲にいる存在達は、敵でも味方でもなく、同じステージの役者、登場人物なのである。

 

彼らがそれを知っているかどうかは問題ではなく、ねえ、解ってよ・・でもなく。

 

要は、「あなた」がそれに気づく事が出来たかどうかが・・・いわば魂の仲間内のテーマ・・なのである。

 

なるほど、こういう風な物言いに対しては、

人間とは、単なる肉体以上のものであるという気づきと理解があればこそ、判然とうなずけるものでもあるだろうか。

  

●魂グループは宇宙大にまでつながっている

そういう人間関係ならぬ「魂関係」にある存在たちを、ソウルグループあるいは魂グループ、類魂等とも言うようである。

 

例えばそういう関係を、肉体的な親類縁者と同じように、魂レベルでの『親類縁者』という言葉で表現してもそれほど外れてはいないかもしれない。

 

実のところ、その「魂関係」はこの地上の一角、狭い生活の場の中のものだけではなく、

 

地球全体という生命圏、そしてそれを含む宇宙的で広大な世界においてもつながっているのである。

  ・・・

いわゆる神なる根源においては・・・あなた は わたし・・・であり、

 

ソウルグループ等と言われる関係性は、

 

その・・・根源から発したところの分け御霊、

 

それぞれの「わたし」・・という、個性を持った魂顕現体における・・極めて近しい間柄とでも言えようか。

 

世間的な常識観念、表面ばかりの視野、表層の生存努力のみに終始するようにしつけられている間は、

 

心ここにあらざれば、目の前にある真実の数々の、何を見るとも、何も観えずなのである。 

 

そう・・・、見るとも観えない状態を闇夜あるいは闇と言い、なるほどそれが今までのカゴメカゴメの歌で云うような夜明けの晩だったということなのだろう。

・・・・・

かごめ、籠目      (この地球という、籠にくるまれた閉鎖次元世界)

籠の中の鳥は、    (その中に閉じ込められている自由な魂たちは・・)

いついつ出やる、   (それこそ、いつ出てくるのだろうか )

夜明けの晩に、    (夜明け前の、うす暗闇に光が差したころ・・)

つると亀がすべった (そして、何千年という長い時間と鈍重な空間が開かれた時に至り・・)

後ろの正面だーれ  (あなたを常に背後で観ていた、大いなる自己である魂に気づいただろうか)

・・・

(つづく)

 

 Angelphoto(すいません、写真を勝手にお借りしました。)

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。