気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

創造と観察  物は幻影であるという意味

2013-03-24 11:33:59 | 新たなる地平線

人は皆、創造者であり観察者なのだが、なかなか気づけないだろうか。

 

生きていることそのものが即ち創造であり、またその観察なのだが、そのような認識は、まるで常識から外れていると考えるかもしれない。

 

騒ぎの増大した外の世界の中にあっても、心魂を静寂に保ち、今までもあった何か重要なことに気づけるならばこれに越したことはないはずだ。

 

我々が、こうして生きている中で、基本的で当たり前とされる常識の幻想を見破れるなら、末法の世に生きている醍醐味が味わえることだろう。

 

そう、ある意味でこのような稀有の時代に居ることの醍醐味がお分かりになるはずである。

 

そのような稀有の時代も、稀有であればこそ、あっという間に終わってしまうこともわかるかもしれない。

 

ゆらゆらする時間のゆりかごから、今はもう起きだす時である。

 

・・・

1つ試してみよう・・・。

  

眼から鱗が落ちそうになるか、あるいはバカバカしくて話を飛ばしてしまうかもしれない。(笑)

 

・・・・

 

あなたの目の前にある、何かを改めて見ること。・・・例えばパソコンやスマホの画面でもいいし机でもでもいい。

 

そう、例えば机としてみようか・・。

  

あなたは、机 それを見ていることに気付いている、あるいは手などを乗せている触覚感覚に気づいているはずだ。

 

当たり前だ。

 

でも、最も基本的で根本的なことなので、当たり前だと言ってその感覚を通り過ぎないことが大切だ。

  

何か情報や想念、スケジュール、家族へのケアや仕事のことも、とりあえず横に置き、

 

要は、今この瞬間に在る・・・ことを「体験」することだ。

  

毎日やっているって?、  余計なお世話だが、実は意外と植えつけられた思考の中で眠っているかもしれない。

 

あなたやわたしたちの意識とその働きである思考そして、

  

眼、耳、触覚、味覚、臭覚という五感があるからこそ、様々な存在を感じることが出来る・・ことに気づくだろう。

 

極めて当たり前でありながら素通りしてきた、毎瞬、毎瞬のあなたの存在状況に、気づけるだろう。

 

そうだ、五感を通じて、あなたはこの世界に存在しているという・・・当たり前の<今>出来事に、静かに気づくことである。

 

覚者である、ニサルガダッタ・マハラジ は・・、

 

<わたしは在る>・・・・という事実にフォーカスすべしと伝えている。

 

確かに、思考や想念は力やエネルギーであって、決して本質ではない。

  

ましてや、物質や現れた形も思考や想念の影であり、本質では有りえない。

 

 尚更、銭金や快楽や、名誉や地位、他人の犠牲に立った権欲などは、影のその陰にもならない。

 

そう、それらはすべて集団思考のまゆの中の幻影である。

 

まるでマトリックスである。(笑)

  

・・・

 

いったい全体・・当たり前すぎて、何を言っているのかわからないならば、あなたは相当に世間の混乱思考、汚濁の観念の中に埋没しているということかもしれない。

 

想念の濁流、激しい内容のニュースやら、様々な刺激と恐怖を内在した情報やらに毒されているかもしれない。

 

・・・

 

そんなことよりも、今・・ここにあること・・その存在感を、他者の目でなく、子供や家族の姿態や言葉でなく、社会の意見ではなく、・・・自分で自分を感じることが、あなたにとって最も喫緊の課題なのではなかろうか。

 

あなたは今・・・自分が、生きて在る・・その事実を・・・今自分で、感じているだろうか。

 

それとも、常に急き立てられ、あなた以外の様々な観念の方を見ているだろうか。

 

あなた以外の世間という集合意識、荒廃極まった世界の集合意識の方に意識をフォーカスしてはいないだろうか。

 

そうやって、世間や世界の常識という、わかった様で何もわかっていない集合観念の価値観の中に自らを生贄にしてはいないだろうか。

 

・・・

 

 

さて、眼から鱗か、あるいは馬鹿話なのか・・・・これから話をしてみよう。

 

基本中の基本のエクササイズだが、

 

目の前にある「物」をとりあえず眺めてみよう。

 

机でもパソコンでも、自分の手でもいい。

 

そこにあることが分るはずだ。そう・・・いつものことである。

 

そうして、その眼をつむるか、顔の向きを変えてみよう。

 

そうすればその「物」は、あなたの視界から消え去るだろう。

 

 

  

しかしその物は、その間も、存在をやめて消滅したわけではない・・とあなたは思っている。

  

なぜなら、また眼を開けるか、顔の向きを戻せば、そこにその物が変わらずあることに気づくからだ。

 

その「物」は、眼をつむれば視界から消え、目を開ければ視界に現れる

 

言えるのは・・・そういうことである。

 

そんなこと当たり前だと言うだろう。

 

「物」は、眼をつむれば視界から消え、目を開ければ視界に顕れる

 

・・・・

 

常識的には、「物体」がそこにあるからこそ、光りが当たって、その反射光を見ている・・という解釈をするだろう。

 

また見えなくなっても、手で触ればそこに物体があることがわかるので、その物体は厳然とそこに独立して存在していると思うだろう。

 

物体、物質は・・・我々に無関係にそこに存在している・・・と感じているのだ。

 

それって、極めて常識の話だと思っている。

 

物質形態を示す諸物は、人間の存在に無関係に、独立して存在している・・・と考えているということだ。

 

しかしながら、

 

我々の五感から消えるならば、我々には存在していない・・ということを意味していると考えたことはあるだろうか。

 

言葉の遊びではない。

 

・・・・

 

我々の五感の全て、その物体からフォーカス・注意が外れた場合、独立して物体が在るという証拠はないのである。

 

ある意味で、

 

我々がその物体を見る時だけそれは存在し、見なくなれば消え失せているとも言い得るのである

 

対象物は、認識するからそれが存在し、認識しないものは消え失せているという言い方もできる。

 

・・・

そんな馬鹿なことがあるものかと思うかもしれない。

 

ある人がその物を見るとか、触るとかしなくなっても、その物はそこに在る・・・と主張するだろう。

 

なぜなら、第3者の目では、物が相変わらずそこにあると認識しているからである。

 

「あなたにその物が見えなくなっても、私にはその物がそこにあるのが見えるよ」 と言うからだ。

 

要は、ある人には見えなくなっても、第3者の目で見えるからには、物が消滅したとは言えず、ただその視界から外れただけであり、物体自体は存在しているというわけである。

 

・・・・

非常に基本的な認識の話なので、わけがわからないかもしれないが、極めて転換的な認識の話なのだ。

 

あなたが何かの物体に注目している間は、あなたにとってその物は存在しており、あなたがその物体から注意を外した場合、(見る、聞く、感じることをやめた場合)、その物体は存在しなくなる。

 

ただし、あなた以外の第3者にとっては、それがちゃんと存在しているのは、その第3者は未だその物体に注目している、つまりそれを「認識」して・・・いるからだ。

 

その第3者がその物体から注意を外し、見る、聞く、感じるなどをやめた場合、その第3者にとっても、その物体は存在しなくなる・・・としか言えないのである。

  

なぜなら、その系の中には誰もその物体を観察している者がいない・・・からだ。

 

さらにあなたと、第三者である誰かのほかに、新たなる第四者がいるならば、前と同じように言うだろう。

  

「やれやれ、おいおいお前たち、俺の目には<物体>が見えているよ。だからその物体が存在していないなどというおバカな考えはやめたまえ。」

 

そういう風に言うはずだ。

 

ところが、その第四者も、先の二人と同じように、その物体から注意を外したとしたらどうだろうか。

 

明確に言えることは、その3人にとってはその物体は存在しなくなった・・と言えるのである。

 

だって、認識されない物をどうして存在していると言える?

 

当人たちには認識が出来ないにもかかわらず、存在しているということは言えないだろう。

 

常に存在を言い立てることのできる第三者とは、観察者のことであり、観察者が居なければ、諸物は存在して・・いない・・・のである。

 

いやいや、物はしっかり存在しているよ!  ということは、観察者がいるからである。

 

その物を観察している者が誰もいなくなれば、そもそも・・物体がそこに存在しているということは言えないのである。

 

例えば、あなたが目の前の机をその視野から外し、触覚、臭いさえも感じないならば、その瞬間に机は消えているというのと・・・同義なのだ。

 

面白い言い方だと思うだろうし、唯心論的に聞こえるかもしれないが、

 

今当たり前になっている思考、・・・物が先に先行するという、唯物論的世界観とは全く異なる考え方である。

 

しかしながら、これこそが科学的、量子論的な解釈なのである。

 

量子物理の解釈は、観察者の存在とミクロレベルでの物質の存在は不可分であるとしている。

 

観察とは意識による知覚というべきものであり、その意識の働きがなければ物質は存在しないということであるが、これはいい加減な拡大解釈ではない。

 

要は、誰も観察していないならば、その対象物は存在しない・・・ということである。

 

観察することによって、存在諸物が現れているということだ。

  

人の認識の働きの、基本中の基本というのはそういうことである。

  

宇宙もそのようにして現れているし、その中の人間も例外ではない。

 

 

 

根本的に言えば、我々の見聞き、感じることが、その対象から外れてしまえば、

 

その間、その対象は露と消えるのである。

 

相変わらずそこにあるが、見えないということではなく、事実存在しなくなるのである。

 

再び・・見ることでそれがまた現れる・・ということだ。

 

極端な物言いで申し訳ないが、事実はそういうことである。

 

・・・・

誰かが大切な「鍵」をなくしたとしよう。 今まであったのに、どこかに置き忘れたと考え、それを探し当てるならば、その認識の中で再び現れたということである。

 

普通には、有る物を探し当てた・・と考えているだろうが、実は一旦存在しなくなり、改めてその物があなたの認識世界の中に再出現したと考えるべきものである。

 

 

 

 

つまり、

 

何かが在ると主張するからには、常に観察し、認識する第3者が居なければならないわけである。

 

いやいや・・物体は消えたのではなく、まだそこにあるよ・・と言うためには、常にさらなる第3者が居なければならないわけである。

 

極端に言えば、地球上のすべての人が認めていない物は、決して地球に存在などしていないだろう。

 

例えば宇宙にも観察者がいて、いやいや人類さん、そこにこういうものがあるよと言われたとして、地球の人類の大方があーそうだったと認識すれば、それはそこに存在することになる。

 

また仮に、宇宙全体の中で、誰も観察者がいないならば、そもそも・・その対象物が存在していることを・・誰が証明することが出来るだろう。

 

大きな話も小さな話も同じことであり、

 

要は、ある人が<その人の認識する範囲>で、その存在対象を認識していないものは、

 

かつて・そして今も・・・その人にとっては・・・存在してはいない・・・ということだ。

 

大方の人類の共通認識があればこそ、その認識の中でのみ諸物が存在できるということだ。

 

 

 

我々は見る聞く感じること、認識の働きを通して、その対象物を<創造><消滅>させているのである。

 

・・・・

 

 

もう一度確認してみようか。

  

あなたの目の前にある何かを見て、・・・

  

 

それから目を離してみよう。

 

あなたの視界から物体が見聞き出来なくなるが、

 

ちょうどその間は、その物は消えているということだ。

 

眼を再び向ければ、それがまた物体がそこに現れるのは、

 

再びその物体を、以前と同じように、あなたが認識することによるのである。

 

その対象物は、意識を有する人間の認識の働きによって、出現、消滅をしているということだ。

 

 

 

観の転換の話をしているつもりだが、人はそれをひとつの見方と言うかもしれない。

 

 

ままよ、それでも良いと思う。

 

先ほどの簡単、単純なエクササイズは、そういうことである。

 

見えなくなったり、見えるようになったりすることは、

 

即ち・・・我々の<認識の立体スクリーン上>に、出現したり、消滅したりするということなのだ。

 

我々の時間軸上における変わらない認識のおかげで、物も変わらずそこに有り続けるという形になるのだ。

 

単に、意識が変わらないおかげで、物質形態も変わらないということである。

 

 

 

それでは・・・、

 

 

意識を根本的に、認識を根本的に変えたならば、どうなるだろう・・・。

 

現れる形、世界は間違いなくその投影を変えるだろう。

  

それは意識を有する個人個人、あなた次第なのである。

 

本来でないと感じるならば、それに嫌々巻き込まれることも、流されることもないことが、お分かりになるだろう。

 

三界は唯心の諸現。

 

色即是空、空即是色。

  

これは単なる譬えや空念仏ではなく、事実の説明である。

  

あなたやわたし達の周囲の・・・、存在物は、まさに創造と観察によって・・・在るのである。

 

世には引き寄せの法則や、鏡の法則、マインドパワーの話が出ているが、

 

必死に念を込めずとも、こころの力こぶを入れずとも、他者を排除せずとも、

 

すでに自らの世界を知らず知らず創って、それを観察しているのである。

 

それを今まで気づかなかっただけの話である。

 

 

イエスが言ったといわれるように、

 

自らが何をしているのかわからない者たちの良き学習場が今までのこの世界であった。

 

 

どうしようもないと感じる程の愚かな者達による、今の日本や世界の様相、嘘や騙しのオンパレード、経済乱恥気騒ぎは、この地での最後のとどめ、うち止めを意味している。

 

この地の古き学びの演目はすでに終わったのだ。

 

皆が皆、創造と観察をする自らの本質に気づけば、何を恐れ、何にこだわる必要があろうか。

 

 

あなたもわたし達も、何時も今までも、自己を創造し、観察している者なのである。

 

実にそういうことなのだ。

 

Sk4


  

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。