前の記事では、人間の五感、認識によって人間の世界が顕れているということを話したのだが、これは一般的ではないことはわかっている。
しかしながら、繰り返しになるが、これは相対論と同じような観の転換を意味しているはずだ。
今は常識になった感のある物理学上の「相対論」によれば、世界、宇宙には絶対的な座標軸、あるいは絶対的な慣性系は存在しないということであるし、全ての慣性系(運動している者)は対等であるということである。
簡単に言えば、宇宙のあらゆるものはどれが静止して、どれが動いているのかという決め事はできない。
宇宙で絶対的な静止座標系はないということでもある。
いまいちピンとこないかもしれないが、
つまりすべては相関的な位置づけしかできないということだ。
またすべては等価、あるいは対等だということだ。
・・・
それを拡大解釈すれば、あるいはこれが真正だという1つの絶対的な尺度というものは存在しないということである。
要するに、現れた現象世界の諸事万端の中には、絶対的、不動のものはないということである。
・・・確かに、これは当たり前だと感じる方も多いかもしれない。
世界、宇宙は変化の中にあるということ、それを人がそれ風に言えば諸行無常という表現ともなるだろう。
あらゆるものは変化・変転することを旨としているということだし、確かにそれはそうだろう。
またそれを観察している意識・・・当然ながらあなた方やわたしでもあるが、その観察意識はそれぞれが等価であるとも言えるのだ。
身体、肉体、時間と空間を超えた、無数の観察意識を、・・・魂・意識と言おうか。
そのどの個別観察意識が真正で、どの個別意識が虚偽であるということは言えず、どれもこれも・・・逆に大いなる観察意識の部分であるとも言えるのだ。
あらゆるものを自らとする観察意識を、・・・神と言おうか。
観察することは即ち顕現であり、創造であるということだ。
観察主は即ち創造主ともいえる。
宇宙でも人間でも同じ法則だ。
だから、あなたが目を閉じれば目の前の対象物は、その間だけ「その物はあなたの世界からは消滅している」ということも言えるのである。
あるいは何かを信じ込んでいる場合には、それ以外のことは一切眼中にないということにもなる。
気付けるときが来なければ、何を言っても聞く耳をもたないというのも、そういうことである。
例えば、何か探し物をしていて、どうしても見つからないとして諦めかけた時、実はあなたのすぐそばにあったという経験は誰にもあるだろう。
自分の目の前に、ちょっと外れてそこに有ったのに、全然気づかなかった・・・等ということはよくあることだ。
ポケットにあったはずの100円玉を探しても見つからず、諦めてもう一度ポケットを探ったところ、奥の隅にあったということもよくある話ではないか。
それは、
「やばい!、あれを見失った!」 という観念が強く作用し、探し回らなければならない・・という行動・現象を導き出したのであり、逆にそれを諦めた瞬間、つまり、見失った・・探さなければ・・という強迫観念が多少とも失せた瞬間に、その物が出現したということも言えるのだ。
実によくある話ではないか。
また、そんなに頻繁にある話ではないが、本当のスプーン曲げもまったくおなじ法則の上にある。
それがそうなると、信じているというよりは、知っているからこそ簡単に金属も曲がってしまう。
TVで見た人も多いだろう。またTVによって忘れさせられたのかもしれないが・・。
昔かの有名なユリゲラーがTVに出演し、スプーン曲げなどを実演したところ、それを見ていた比較的多くの子供たちが、自分もできたと報告している。
中には焦ってズルした子もいたようだが、それでもってすべて嘘だったと考えてしまう大人は、本当に救いようがない。(笑)
要は、変な制約観念がない子供たちは比較的、いとも簡単にできるわけである。
余談ではあるが、
自分の例で言えば、スプーン曲げが流行った当時、(自分は子供ではなかったのだが)、残念がら曲げ落ちなかったが、持っているスプーンの首元が明らかに柔らかくなった記憶がある。
まあ、ちょっと真似した程度なので、そんなものだったのかもしれないが、あれは決して体熱によって柔らかくなったものではなかったことがわかる。
またポラロイド写真でイメージ念写をしたこともあるが、要は念を込めると称して、こころと体に力みがある間は何も映らなかったが、
疲れ果てて(笑)もうだめだと・・・諦めた時に、要は力みの観念が無くなった心境になったときに、・・・なんとたて続けに、何もない筈のネガフィルムに黄色い炎のようなものが映ったのだ。
「なんじゃ~これは!」みたいな。
今はない懐かしきコダック社のポラロイドカメラだったが。
自分ながらびっくり仰天するやら、やはりという達成感触やらが内面に湧き出したものだった。
この念写ついての実験は何年か前に記事にUPしているし、当時の数枚の写真は未だに持っている。
意識~エネルギー~現象化・・・というのは、単なるスピリチュアル情報の受け売りではなく、その時に事実として知ったのだ。
・・・
それが・・そうなる・・と、信じ込んでいるというよりは、知っている=すでに認識しているからこそ、以心伝心、テレパシー、シンクロニシティ現象にも遭遇する。
決して、知るまでは・・・、認識するまでは、それは「無い」のである。
それが、当たり前であると認識するがゆえに、それは現象として観察されるのだ。
・・・
物理科学上の素粒子論の解釈によらずとも、
人の先だった観念、思考がその人の行動や結果に大きく影響していることは明白である。
ここが肝心なところなのだ。
・・・
それとも、人間は行き当たりばったり、偶然によって生きているだけの物質、例えばビリヤードの玉のようなものだと思っているのだろうか。
何かによって突き動かされ、他とぶつかり合い、オロオロしては右に行き、左に転び、翻弄されては疲れて隅の穴に落ち込んで、またビリヤードの台の上に気づかず現れているような、そんな物質粒子ではあるまい。
人は、単なる人間という、時とともに地球上で偶然が重なって出来上がった有機物質の集合ではあるまい。
気付くべきは、
我々は世界、宇宙を観察している意識・・・であり、
観察対象である「物」ではないということである。
これを明確に自・覚・することを、目覚めるという。
語呂合わせではないけれども、 自覚 ≒ 目覚 である。
誰も証明して・・・くれる・・・ことのない、・・・自覚・・自己認識・・である。
観察者=創造者・・・としての自覚、目覚めである。
・・・
過去も、未来も、そして何時もあり、常にある、ここにも、そこにも在る・・・
それが「意識」であり、それはわたしでも、あなたでも、他人でもある、
木であり、水であり、空であり、星であり、ペットと言われる動物であり、花であり、
変化・変転する万物、森羅万象である。
・・・
それを『認識』している当の者、
・・例えばあなたは・・・そのあらゆるものの元にある、
・・根源の意識の一側面であり、またそれ『その』ものなのだ。
この世界にあってそれも良し、
ただ、荒く、暗めの観念から脱し、それに染まらず、
それを嫌も応もなく感じ、観察することがこの世界での人間意識の大きな目的である。
ある時は、
3次元的な観念世界に意識を生じさせ、知らずにそれに流されては、穴に落ち込み、また知らずの間に顕れてはまた流される、
その繰り返しの転生というその恩寵にも気付くときであろう。
赤子のように、目覚めぬ状態での輪廻、転生それもまた良しである。
しかしながら、今はすでに時は至れり。
何をことさら大げさに構えずとも良し、
どんな刺激的な感情を抱かずとも良し、
変化・変転する森羅万象の中にあって良し、
当たり前の日常の中にあって良し、
淡々とした生活の中にあって良し、
すでに不動・普遍の観察意識である自らに、・・・自らに気付けば良し、
あらゆる意識は、それぞれが永遠という名の時間と空間を超えた不動点であり、
それはまた、
神、あるいは根源意識、あるいは創造主そのもの・・でもある・・ということに気づくべきである。
目覚めた観察意識が増えれば、結果として、その投影される世界が変わってしまう。
他者が、世界が変わるのを待っている間は、未だ目覚めていないことに気づけるだろう。
他人が、外が変わるのでなく、それぞれの世界の中心である観察者の意識が変わるのである。
そう、観察者は創造者である。
無限か、大きいか、小さいか、違いはそれだけである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
次回は真空エネルギーに関する記事の予定です。
真実はひとつなのでしょうね。
http://www.yamatofuji.com/blog/2013/03/post-236.html
なるほど・・・、
多分あなたは<道>を歩いてきた方ですね。
ご縁に感謝します。
有難うございます。
ビッグバン理論や量子論を云々するのも一法ですが
大友克洋の漫画「AKIRA」には、一目瞭然の判り易さがありますゾ
なるほど、そうですね。
簡単で面白い物語の中にも何かしら真実を伝えることが
出来るということでもありますか。