日出づる国は不滅である。
太陽がある限り輝き続ける。
ある時は、それが見えない者が続出する時代となり、
ある時は、それを覆いかぶせようとする何かがあったとしても、
ある時は現代のように、あたかも岩戸に隠れたと見えたとしても、
一時、黒雲に隠されていようとも、
日出づる国はいつも・・ここ・・そこ・・にある。
あなたやわたしたちに普遍的に内在する「意識」の光がそうである。
それを識(し)っている者たちの与えあいやその集合の場が、
日、出でる国・・・本来の・・・日の本といわれる地である。
その地は、地球のへそ、命をつなぐへその緒なのである。
高次元と表面次元をつなぐポータル、結節点ともいえようか。
それは人々が意識の手をつなぎつつ、
それぞれの光を・・それぞれに放射しあうことで出現するのだ。
即ち与えあいや奉仕の意図と行為である。
まるい円を組んだ人々が、その円を中心にお互い向かってエネルギーを与えあえば、
そこに、人々の円陣の中心に、太陽のような光輝が増幅して現れるだろう。
イメージは容易だろうか。
〇に・・? である。
日・・・・ノ・・・・本は、多くの意識体の放射する光、
それぞれの、輝く希望を乗せた意識波動、思考、エネルギーによって
高次元から降りてくる・・・
すなわち、我々の世界がホログラムだと言われているように、
思考で創る3次元映画のフィルムが、3次元現実と云われる銀幕スクリーンに映し出されるということだ。
普通では気づかないかもしれないが、
我々の表層の肉体を含む、多次元多層に複合した身体も、魂の映し出す3次元的、あるいは多次元的ホログラムとも言えるだろう。
・・・
日出ずる国、
その国は、その惑星意識体のへそにつながりつつ、大自然・宇宙の根源の有り方を、
その精神という意識とエネルギーの流れにその輝かしい希望・意図を刻印することで、発露、出現するのだ。
これは感傷ではなく、今ここに居る・・現実である。
日出でる国の国是は、愚かで稚拙な、排外思想でも、軍事強化でもない。
自虐でも、他虐でもない。
自尊でも、自閉でもない。
それらは本質からそれてしまった、低次元での暗い影のようなものである。
うすうす感じているところの本質の・・・残念ながら、完全なる誤解である。
・・・
もし人に希望があれば、その高次での実物である、人間のその希望の「思考」を明確に保持し、
前頭葉にそのイメージを投影し、内面の眼(まなこ)で繰り返し観ることが大切である。
当たり前だろう。
自分の希望を思い描き、それを経験するのは自分であって、・・・・他人ではなかろう。
・・・
具体的に言えば、
人の頭部前面のエリアは、高次元からのエネルギー降下の為のシナリオ生成の場なのだ。
内面のイメージとは、言わば体験希望の為の、シナリオ用の銀幕スクリーンになっているのだ。
ところが、その創造のスクリーンが、外来種の様々な思考でごちゃごちゃになっているために、
わけのわからないごちゃごちゃの現実世界を知らず知らず投影・体験している。
・・・
翻って、
騒ぐだけ騒いでいるような世界の様相は、混乱した「思考」から生じている現象である。
尤もらしく固まった常識や、生きる為だけに急き立てる経済観念や、
お互いに闘争して栄冠を勝ち得るという妄想などは、
人間という意識体に装備された現実化能力、創造の分担能力に、
ノイズを流すための強化作為であり、またある意味での試練であったと言えよう。
なるほど、それら一見悪意、障りと見えるものは、
何が宇宙的な調和で、何が本質的な道なのか、
何が最もうれしく楽しいことなのか、
何が愛すべきことなのか、
上っ面の間に合わせでなく、単なる雰囲気やセンチメンタルな感傷ではなく、
心底理解すべきものに気づくためのものであったのだと言えようか。
そのため、人々は往々にして、その希望の思考が定まらず、ほとんどノイズだらけになっており、
まともな創造の波動への同調に定まっていなかっただけの話なのだ。
・・・
しかしながら、それに気付けば・・・それが変換点となる。
例え、未だその変換点の向こうにいる人々が騒いでいようと、
何をどう理論づけようと、
そのような物質偏重の思考は、魂の為の試練であり、不動の信念に至るための反面教師であったと悟る時期であろう。
おのれ自身から発する、思考という創造力を駆使し始めた者たちは、
もう外の騒ぎや問題に恐れ、動揺し、引きずられることはない。
すでに内から・・・外への本来の創造の流れに乗っているからだ。
今までの、招かざるに、外から来るやに見える、闇や、病や、無知や混乱は、
全き幻想であることがわかるはずである。
こころというフィルターをきれいに磨き、
思考という現実化のエネルギーに気づき、
その思考に、輝く想いを乗せ、穏やかなこころでそれ保持、掲げることを実行することだ。
そして未来や過去に意識を分散せず、今この時を生きるのである。
今は、不思議にもその希望が現れやすくなっていることに気づけるだろう。
魂である光は、常に空(くう)の一点から始まる。
創造とは、本来あるがままの中でうれしき楽しき花を咲かせること、
単にそれを地で行くだけのことである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。