人間には第六感という感覚機能があり、それを簡単に言えば時空を超えた知覚機能であり、また身近な表現で言えば高次元的な情報送受信機能があるのだが、
それは・・・それを認識することで顕れて来る能力であり、また誰にでもある潜在的な本来的な能力なのである。
それを気付いて、認めてゆくプロセス、あるいは精神的な修練・修養等を経て顕在化していく性質のものであり、またそれは芸術や創作のように、何も無いところから在るところへ具体化するのと全く同じことなのだ。
3次元レベルを超えたような自由度の高い人間としての在り方は、本来特別でも難しいことでもないのだが、いつの頃からそうなったのだろうか。
やはり人類意識は直線時間で1万数千年前に次元降下したということも言われているが、多分そうに違いない。
宇宙・自然と一体化した中でのそれぞれの個性的意識表現としての<わたし>観から、
宇宙・自然と切り離された、個々バラバラの肉体単体存在としての孤独・単独な<わたし>観へと分化する経験だったのかもしれない。
そうしてみると、古くから日本という文化を中心として存在する「和」の意識はとてつもなく重要なものであろうか。
分化・単体化のサイクルから本来還るべき全体との調和としての『ユニティ』の意識を示していると考えられるからだ。
日本での様々な歴史や栄枯盛衰、欧米的な支配や事実の書き換え等があったとしても、
そんなことは実際どうでも良いわけで、
綿々として残る「和」の中核精神は人々の中に確かに生きている。
ここが肝心なところではないだろうか。
・・・・
意識を広げ、それによって可能となる様々な現象を経験するということは、
それは例えば畑に作物を実らせること、水面には見えない海のなかの魚を釣り上げるようなものであり、要は無限の可能性から1つ1つ具体化する創作、創造と同じものなのである。
私は実際に念写を試した経験があるため、意識がエネルギーを生じて直に現象化することは断言が出来る。
テレパシーや、以心伝心、読心、シンクロ二シティ、正夢・・・等と呼ばれる一種の超常的な現象と言われるものは、すなわち、時空を超えた次元からの意識的なアクセスによるものと考えた方が解り易いだろう。
また3次元的な有り方では理解不能な念力や念写、テレポート等も結局は高次元的な意識領域からのアクセス・現象化によって行われると言えるのである。
高い次元と言えば、それこそ何が何だか分からない別の世界、あちらの範疇に押しやっているのが常でもあろうが、
人は、今ここに・・・いながら、実はより高い意識次元にも確実に接続されているのだが、どうしてかこうしてか普通の我々の「今の意識」がそれに気付いていないということが言えるのだ。
それは例えば、
インターネットは使っていても、光ネットワークやら通信プロトコルなどの全包容的な背景インフラことは何も知らないのと同じようなものであろう。
また海の中にいる魚が水を求めて探し回るようなものだろうか。
我々は全てを包含し、全ての事象の元である「意識」の大海にいるようなものなのだが、今までは人間の五感という狭いフィルターを通じてのみ世界を観察していたし、それが全てだと思い込んでいたということなのだ。
今はもう、顕れた物質形態、量的表現に先立つところの意識の働き・精神的な領域への飛躍の時代が来ていることは疑う余地がない。
それを次元上昇という表現も可能である。
相変わらず回りの世界が変わっていないと思う人は、同じく相変わらず現象の方に眼を奪われ、そちらに意識をなびかせているわけで、
人々の内面にある・・・微妙で微細な、かつ現象化への影響力の極めて大きな意識的変容・・・を見逃しているのかもしれない。
・・・・
どのような体験、経験であっても、
意識的に何を正しいと信じているか、何をベースに考えているか、何が常識であると思い込んでいるか、というような信念あるいは固定された常識的観念によって、我々の経験にフィルターが掛かるのである。
観念のフィルターに全く透明感がなく、暗くて淀んだものであれば、我々の経験自体が暗くて淀んだ現象を体験することになるし、
重い・想いの観念のフィルターに気づかないで、暗い暗い・・・と嘆いていることを例えて、
闇の荒野でさ迷っていると言い、また、
観念のフィルターを浄化しつつ意識が拡大し、様々ななことが次第に明らかになって来たことを
眼が覚めた・・・・と表現しても良いだろう。
それはひとえに、それぞれの人の意識が拡大しつつ遂げて行くべきものである。
ーーーーーーー
前置きは長くなったし、話が全く飛んでしまうのだが、若いころに火星とおぼしき世界にリモートアクセスしたような意識体験を話そうと思う。
それはこういうことだった・・・・。
学生当時ご多聞にもれず、Jアダムスキーのコンタクト体験記や宇宙哲学なるものも興味を持って読んだ記憶があり、
大学で物理学を専攻し、何事も実際に確認し、納得しないでは決して信じないタイプのマインドを持つ私としては、
その真実に迫る感のある書物の中身の話と、地球上の天文学的常識見解とのギャップが大きいことに気付き、何とかことの真偽の確認が出来ないかと思っていた。
アダムスキーの宇宙人とのコンタクトでは、火星にも金星にも知的生命体がいるということだったが、地球の科学的な常識ではどちらも人など住むことは出来ない環境であるとされていた。
この認識?ギャップは何だろうか、と思っていたのだ。
・・・
しかしながら、少なくとも昨今の火星観測では、どうもそういう風な生命など存在出来ないというような常識が・・次第に・・薄まって来ている感もあり、例えば火星の空は青く、何かの文明かその痕跡や、動植物の生息もあるような雰囲気があるようだ。
・・・・
(火星への意識旅行)?
蔦の・・からまる・・?学生時代(1970年台)なのだが、家の自分の部屋で寝ころんでいた時に、
少しウトウトするような、しかし決して眠っていない状態、雑念も少なくなり、体も緊張感が無い状態になってきた。
その時に 「そうだ火星に行ってみよう」 という、顕在意識では到底考えつかない・・不埒な?想いを持った瞬間だった。
・・・
ふと気付けば大気圏遥か上空、地球全体を見るような視点に自分があり、
次に、
あっという間にその地球が横に縮んでしまい、縦長の楕円形になったその瞬間・・・
なんと、
既に地球ではないどこかの星の大気圏上空にいて、その星の上空から下降をしているようだった。
大気圏下を見下ろす丸い輪の中の視野であり、まるで宇宙船の底部の丸い覗き窓、観察窓から覗いているようなものでもある。
その底部の丸い大きな観察窓の視野の中に、何か無数のきらきら金色に光るものが浮遊しており、自分の視点が降下するのに合わせて随伴しつつ降下しているようである。
・・・
気付いたら、もうどこかの地表面上にいたようである。
雰囲気はどうかと言えば、・・・予想外ではあるが、
実に緑が豊富であるという実感であった。(え?、ここは本当に火星なのか)
・・・・
そしてその瞬間に頭の中というのか、意識というのか内面に強く何かが響いてきたのだ。
それは、深い緑を背景にしてこちらに気付いている・・何かの意識であり、
「おまえは何者か!?」
・・と、強く問いかけてきた。
それは思念のような明確で直接的なイメージであった。
どこからかやってきた者に対して、問い正すような強い感覚であったため、
自分ながらびっくりこいて、思わずとっさに、
「ち、地球から・・来た」(汗)・・・と答えたのだった。(結構横柄な答え方だが慌てている証拠である)
その時、何か阿吽(あうん)の感覚というか、納得というか、そうか・・というようなイメージがほんの一瞬来たようだった。
・・・
その瞬間、・・部屋に寝ころんでいる自分に意識が戻ったのだった。
ーーーーー
ほんの一瞬で、たったこれだけのことなのだったが、尋常ならざる内的体験と考えざるを得ないのも事実である。
コマ送りの漫画のような動的ビジョンの断片的な連なりであるが、白昼夢、夢想、想像とは違うし、完全に眠っている状態で見ている夢でもない、いわゆる半覚醒、変性意識での経験であることがわかる。
解った風に意識的なプロセスを言えば、
①変性意識において、 (ある意識状態)
②火星の内実を知ろうとした。 (ある意図をする)
③リモートアクセス、ビジョン的な旅行、転移 (その意図に沿った現象化)
④火星の総合意識との遭遇 (目的・対象とのエンカウンタ―)
⑤帰還 (意識が我に帰る)
・・・
ということも言えるだろうか。
これで得られた・・と思われる情報としては、
意識レベルでの情報取得や、それを象徴化、ビジュアライズした意識旅行的プロセスは時間と空間に左右されないということ、
以前太陽に行った?の記事でも示したが、例えば惑星という巨大形態であっても集合意識というか総合意識、(地球でいえばガイア)と呼ばれるような惑星意識があるということ。
赤い惑星と呼ばれる火星には緑、生息植物が存在すること。
・・・・等、ということだろうか。情報量としては少ないが意外な内容を含んでいる。
火星には濃い緑があるという知覚情報があったのが不思議なところであり、昨今の様々な火星探査機やキュリオシティ等での観察報道では、そんな豊富な植物生息の情報は出ていないようでもある。(表面上そうしているのかも。)
ひょっとして、現在でも火星の一部には豊富な植物が生息するのか、
あるいは、
アクセスした火星での時間軸のずれがあったのか、例えば過去とか未来、またはそれを包含する惑星の時空周波数帯域を構成する別次元層へのアクセスだったのか。
つまり火星の次元の異なる領域、時間軸のずれた領域へのアクセスだったのか、
あるいは、はたまた、好奇心が嵩じて夢の物語を潜在意識が造り上げたのか。
・・・等など、あれこれと左脳は考えるわけだが。
・・・
自分で知ろうと思ったならば、当初はほんの少しの情報であるかもしれないがそれを知ることは出来るものであるし、
また少し知れば・・・・またまた謎が深まるのも真実であり、
それらの断片を寄せ集めて行く意識的行為、行動、意図によって次第に世界と自己への認識が拡大してゆくものなのだ。
リモートビューイングに関しては、Jマクモニーグルやディムス少佐等が有名であるが、ちなみに10数年前に発刊されたアメリカのリモートビューイングに関する書物の中には、火星のことも描かれていて、
かつて高度な文明があったのだが、ある時の宇宙的な異変(隕石・遊星の近接近)によって滅亡した経緯だとか、
火星の人面顔とピラミッドに関わることや、他の宇宙文明によるの援助活動等の記事も出ていたと記憶している。
またリモートビューイング・遠隔透視に関しては、時間と空間を超えた働きがあるため、必ずしも現時点での情報を採取しているとは限らないということらしい。
マジに考えれば、頭がくらくらするようなことにもなるのだが、左右脳が連動した「意識」の状態は時間空間を超えることは実際そうなのだろうし、それに左脳が反応するとクラクラとなるか、あるいは完全な無視を決め込むことになるらしい(笑)。
普通の夢であっても、実際は、何かの次元か世界か、あるいはフォーカスレベルでの意識的『経験』なのであるが、
往々にして表面意識に解り易い概念や知識・イメージに変換されてしまうか、あるいは記憶から抜け落ちるか、そんなふうなことになっているようである。
夢も夢々おろそかにせず、しっかりと認識、評価、分析をする必要があるのだが、それを価値のない、何でもないものと決め込んでいるのが大方のようである。
夢で代表されるような様々な意識レベルの中には、例えば未来や過去を見通すことのできる魔法の杖?があるようなものなのであるが、表面意識の無理解と無知、あるいは先入観念によって、
文字通り「眠っている」のである。
・・・・
まさに、謡曲・・敦盛のごとく、
・・・・
思えば此の世は常の住み家にあらず、
草葉に置く白露、水にうつる月よりなおあやし、
金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる、
南楼をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり、
人間五十年、化天の内をくらぶれば、
夢まぼろしのごとくなり・・・・・。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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