気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体とこころと魂と(9) 人間とは成長する本質・魂である

2012-11-25 09:46:58 | 覚醒意識

太陽はいつもそこにある。

 

そこにあるがゆえに我々は生きている・・・。

 

まー当たり前だと言われるだろうが、

 

これは科学的な・・という必要もない「事実」である。

 

こころが様々な社会観念というフィルターで曇っていない人間は、いつでも誰でもそれに気づくことが出来る。

 

これも、

 

実に簡単過ぎて、常に取り逃がしているかもしれない根本的な事実である。

 

その事実に向き合うのに、難しい化学式や計算式は必要が無い。

・・・ 

毎朝の晴れた日の輝くような黄金の光を感じるだけでわかるだろうし、

 

思わず知らず、顔の前で両の手を合わせることにもなるかもしれない。

 

光をもらうからありがたい・・というだけでなく、

 

朝の冷気を溶かしてくれるから有難い・・というだけではなく、

 

例えば太陽の、その光と熱を通じ、

 

今、我々が生きてること、それをサポートしている無数の存在があること、

 

その無数のサポート造り上げる宇宙的な周期、リズムの中で、

 

人間達がその毎日の生活によって次第に魂の体験・学びが深まること、

 

同じく進化する魂である、鉱物、植物、動物達が生き生きとして活動していること、

 

天と地、太陽と地球、宇宙と星々の無限のサポート・生かし合い、支え合っている有様に気付けるはずである。

 

そう・・・極めて簡単に言えば全ては「お互いさま」・・・なのであるが、このシンプルさに気付けるだろうか。

 

・・・簡単過ぎるだろうか?

 

それとも、次から次に繰り出される複雑なものの中に真実があると思っているのだろうか。

 

いいや、実はわけがわからないからこそ複雑怪奇になるのだ。 

 

今・・この時に、

 

何かありそうで実は何も無い、あるいは迷い道であそぶような社会観念を投げ捨て、 

 

本来の、人間としての顕れている「魂」としての根本的なあり方のほうに、あなたやわたし達のその意識を据えようか・・・。

 

意識を据えてそして行動に移すことである。

 

それは、 

 

目先の欲や得の獲得にその人生を賭けるのではなく、

 

大勢の無意識の人々の走り抜ける世の濁流に身を投じることなく、

 

これ見よがしの美しげな毎度のプロパガンダにこころを投資することなく、

 

こちらが良いとか、あちらが気持ちいいとかの嘘の呼び込みに耳を貸すことなく、

 

ただあるがままの大自然、宇宙の姿にこそ、我々の依って立つ根本があることを、こころの底から感じる生活を主眼とすることである。

 

そして何事にも意味があるということに、感謝することである。

 

身近な人々に、親や子や縁者や、あるいは近所の人々に、

 

あるいは道行く見知らぬ人々に、

 

あるいは電車に乗り合わせた赤の他人様にも、

 

時を同じくして、時代を同じくして生きているという御縁に、

 

感謝と共感を感じるところまで、

 

あなたの意識を深めようではないか。

 

この人生とは、この世界の魂の進化とは、それが1つの目的でもあるだろうか。

 

生きているということ、人類という仲間達と生きているということ、

 

そしてその意識次元は違えども、

 

あなたのこころの癒しの為に、あなたの食料となって支えている動物の為に・・・、

 

あなたの歩く風景に存在してくれている花や植物、石ころや建造物になっている鉱物達にも、

 

こころから感謝と共感を感じようか。

 

人間は意識的な魂存在として、

 

その意図と意識を想いや実感として放射出来る存在なのであればこそ、

 

感謝と共感と、そして思いやりを、意図しつつ投げかけることが出来るのだ。

 

溢れてきた人類のカルマの所産、銭金、生存、権力、ごまかし、真実隠し、陰謀や・・・24時間その事にことさら思念を集める時は過ぎたのだ。

 

顕れたカルマは、ただ灯篭の川流しのようにただ流れてゆくだけである。

 

・・・

我々はとかく世界、社会、人々の愚かさを嘆き批判するものであるが、

 

そのような人類の愚かさが見えるように、気付けるようになったことに感謝すべきではなかろうか。

 

様々な人生経験は、それぞれのわたし達の無知を英知に変え、無意識に意識の光をもたらし、汚濁をいかに濾過・浄化すべきかの極めて有意味な魂の成長のプロセスなのである。

 

そういう個々人のそれぞれの経験、体験をどうしてか社会通念にあてはめてしまうことで、失意と落胆におちいるケースがあるのだが、

 

どのようなことであっても、全てに意味があるということは<魂レベル>で考察すれば、自ずとその歪みは解けてゆくだろう。

 

魂レベルでは、何が良いとか悪いとかの、この世界の小さな価値基準は決して当てはまるものではない。

 

何事も経験しなければその意味はわかるはずが無く、

 

また多くの人々の苦難や憤り、あるいは成功感、達成感、あるいは悩みや苦悶にも意識を向け、

 

真の同情や共感を通じて自らの経験に転換することが出来るのも、

 

この人類という同胞達のおかげなのだと考えることが出来るだろうか。

 

平和でハッピー・・・なだけの上っ面の与えられた幸福は真の幸福ではなく、

 

まるで泥の中から蓮の花が咲くように、

 

自らをその明確な意識を通じて成長させつつ、

 

汚濁の風雨に耐え、無知の嵐を笑い飛ばし、やがては悲しみを歓びに変換し、

 

自然が促すところの、集合意識の創り上げる様々な変化・変節も、

 

その全てをあなたの足の下にあって、魂の成長と深化を支えてくれるものだと悟ることである。

 

何十億、何百億以上の魂達は・・・それを百も承知でこの表層の世界に飛び込んできたのではなかったか。

 

あなたはもう魂レベルで思い出したであろうか。

 

 

 ・・・

この期に及んで、

 

我欲の造り上げる世間の様々なバラエティさに騙されてはいけない。

 

他者に期待をあずけ、誰かが何かをしてくれると考えてはならない。

 

ある意味では、今の世界のどんな他者もあなたをことさら幸せにしようと真剣に動くものはいないのだ。

  

そうだろう。

 

主人公はそれぞれの<わたし>なのだ。

 

欲を抑え、我を張らず、全てに本来の調和を見いだす意識的な行為、

 

それらを主眼とした日常のありかた、

 

それは欲の少ない、質素でシンプルな生活かもしれないが、

 

別にそれでも普通に生きて行けるのだ。

 

いや・・それは逆に多くの真実を見いだす静けさに満ちた生活になるだろう。

 

今この時期に大切なのは、何でも暴発して終わろうとする観念の流れに巻き込まれずにいなければならないことなのだ。

 

政治権力や社会経済はその最後の胸突き八丁にさしかかったようだが、

 

訳知り顔をした、未だに目覚めぬ者達のかしましい声が響いている。

 

目覚めず、理解できずに持ち越す魂の、謂わば宿題のことを、すなわちカルマという。

 

カルマなど持ち越すな。

 

・・・・

 

宇宙も常にそこにあるし、太陽も常に顔を出してくれるし、尚更地球と言う土台は常に足の下で生命達を支えているではないか。

 

自分達で造ったものでもないにも拘らず、好き勝手に何百何千何万年をかけて培われた森林を伐採し、無軌道に地殻を掘り抜き、無分別に汚染物資を垂れ流し、あまつさえ、生命の遺伝子を壊す性質を持った原子崩壊最中の放射性物質を垂れ流しながら、

 

・・・・今・・誰も・・何もできずにいる・・のである。

 

例えば福島の問題は人為的英知でもって既に解消したのだろうか?

 

終わったのだろうか?

 

・・・

そう、

 

終わってしまったのは偽りの物質文明の方であり、

 

残ったものは、自然のほんのちょっとの操作を覚えただけの者達の、

 

茫然自失した姿だけなのだ。

 

いかに誤魔化そうとしても、いかに言いふらしても、如何に隠し立てしようとも、

 

現実化する事態に茫然自失することは、せめてもの人間らしさと言えるだろう。

 

逆に、そのような姿勢を持った人間がどれほどいるかが今問われている。

 

それは無知の知といっていいだろう。

 

何も知っていないことを知るという人間の真なる知への原点である。

 

宇宙大自然に謙虚でありその調和に沿った生き方をすることでしか、

 

真の知恵は生じないことを、こころの底から<知る>ことである。

 

世界は今大きく変容しているが、

 

事前に推察出来ない人々にとってはまさに驚天動地の変化もあるかもしれない。

 

しかしながら、それがどうしたというのだろうか、

 

それは人間の本質である<魂>の学びの為の、次なる段階へのシフトであると同時に、世界自身の進化・成長のためでもある。

 

忘れてはならないことは、

 

何を感じ、何を想い、何を学ぶのかは・・・

 

肉体やこころではなく <魂> なのだということである。

 

 

 

Photo

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。