気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体とこころと魂と(8) 魂の進化

2012-11-17 09:34:27 | 覚醒意識

体はご存知のように極めて短い間の乗り物のようなものだ。

 

まるで組織で構成された立体的なスエットスーツのようなものだろうか。

 

そして今の人間は一定の学びが終わる時点で乗り物を降りることになる。

 

それもその多くが顕在意識では理解できない状況で降りてしまうことが多いだろう。

 

車を降りること、これがいわゆる人々がいう死であるが、これは単なる魂の転移にすぎない。

 

世間的な観念では目に見える肉体が動かなくなることで、その存在そのものが終わったと勘違いしているが、

 

それは人間が肉体だと思いこんでいることによる誤解であり、あるいはそれ以上の自己認識に至っていないせいである。

 

単にそういうことであるが、今のこの世界の人々は、眼に見える・耳に聞こえる、あるいは触って感じるような、波動域としては極端に狭い範囲の知覚に「縛られて」いるために、そこまでの知識、理解に至っていないせいでそう感じているわけである。

 

そういう風に感じている人は、車の車体、フロントガラス越しに見える風景、窓から聞こえる騒音ばかりに意識が集中しているドライバー・運転手のようなものでもある。

 

車の外の世界のみを見ていて、その大勢の車の流れの中で上手く運転することだけに集中させられているようなものである。

 

運転手が何時からその車(体)に乗ったのか、そのドライバーたる自分は何なのか、とんと忘れており、またその車の中から覗く、いわゆる世界の方にしか意識が行っていないということでもある。

 

それに明け暮れしていると、車(肉体)のほうがその存在感を持ってしまい、それを動かし改装し、燃料を仕入れ、あちらこちらに動き回る元である・・・「あなた」というドライバー(運転者)に気付かない有様となってしまうことにもなる。

 

当然運転手が無ければ車など動くはずもないのだが、それすらも気づかないようなものである。

 

運転手が車(体)を降りるのがいわゆる死であり、運転手が赤子として車(体)に乗ってくるのが生誕である。

 

簡単な比喩で言っているのだが、これは宇宙全体の極めて完全な仕組みで行われているところの、魂の学習システムの一環と言うことが出来る。

 

学習と言ってもそれは魂の経験とそのフィードバックを行うためのものであり、現世の詰め込み学習やら、意味の少ない複雑なだけの人為世界の仕組みの取り込みや論理・計算・記憶学習等とは全く無縁のものである。

 

肉体を使ったこの次元世界の体験と、こころによる吟味、反省、感慨を含めた総合的な宇宙の仕組みへの理解を促すものである。

 

そうすることで、肉体とこころの出現元である魂の拡大・深化を進める仕組みなのだと言えるだろう。

 

魂はその理解の拡大と深化によってその振動数を上げる・・・と言う表現でいうところの進化をするわけである。

 

意識~(意図)想念~エネルギー~現象化(肉体)  という顕現維持のプロセスを理解していれば、振動数の上昇とは、元に在る「魂意識」の振動数・周波数が高くなるという意味でもあり、あるいは意識の表現がより精妙になるということでもある。

 

これは光がより周波数を上げてその輝きが増しよりクリアーになってゆくという意味でもある。

 

振動数が上がることにより、その情報量は増え、微細精緻な認識と理解が可能になるのは、例えば電磁波通信などの情報工学的な方面からも理解が可能ではないだろうか。

 

即ち「創造主」の個別化された魂・意識が、自己の理解を深めつつ同時に宇宙全体の自己への深化と言うか、進化と言うか、あるいは大いなる無限の<わたし>への帰還の旅と言うか、そういう自己認識の拡大プロセスが本来の「魂の進化」と言うべきものである。

 

それぞれの自己を造った宇宙への理解を増してゆくということは、

 

まさに宇宙各所の無数の一点から目ざめたそれぞれの魂が、

 

拡大・伸長・深化しつつ、

 

宇宙という自らを再確認するようなものだ。

 

今我々が人間として・・今ここ・・・に在るということは、その道にあるということでもある。

 ・・・・

また宇宙の仕組みと言っても、機械論的なメカニズムのことではなく、どうして宇宙が、あるいはあなたやわたし達が存在しているのかというような謎を多次元的に解き明かすことでもあり、

 

それはまた、最初は戦々恐々かもしれず、あるいはドキドキするような、本来は実にワクワクする様な魂の学習プロセスといえるのである。

 

それが本来の科学的・哲学的アプローチでもあるだろう。

・・・・

 

ところが今までの世界は物資肉体中心の、まさにエゴ(我よし・我さき)のレベルの世界であったわけで、

 

つまり先の比喩で言えば、ドライバー(運転手)自体が何者か知らず、単に肉体(車)の維持と安寧だけに血道をあげ、

 

その挙句がお互い同士の衝突やら事故やらによって、宇宙の用意したせっかくの肉体(車)を無碍に降りる羽目になって、また繰り返しを行わなければならないことも多かったというわけである。

 

それはすなわち、魂意識という、言わばドライバー(運転者)が自らを見失っているような状態であったとも言えるだろうし、取りあえず目先にある肉体(車体)を維持せねばならないという観念のみが先走り、自己保身に明け暮れしたわけである。

・・・ 

車(肉体)は地球と言う次元世界の資質で造られ、親という器のコピーによって自然の中で用意され、その中に転移するという形で乗り込むわけなのだが、

 

魂意識の経験の1つである「今生限りの自我」の成長する間に、肉体・・それを自分の物だという偽感覚が備わってくるわけであるし、そして成長する過程で自己所有の物を断じて死守せねばならないという世間的な風潮によって煽られるのだ。

 

その為肉体保身のために自己の周りに様々な物資を集め、安楽な建物を造り、様々な組織を組み上げては最も安心できそうな地位にありつこうとするわけである。

  

そういう者が世の中で偉いのだという妙な観念があるがゆえに、まさに常に世は末に向かっているような天地逆さまの状態になるのも仕方がないだろうか。

 

今のあぶり出された歪みによって混乱を呈している政治経済、社会情勢を俯瞰すればそれを良く観ることができるはずだ。

・・・・

しかしながら、そんな競争・バトルばかりを行うことは、逆に身を縮め疲れ果て、本来の魂の為の肉体経験学習の多くを取り逃がすことにもなるのであるが、

 

・・・これがなかなか気付かないものである。

 

これはこの世界の人類独特の「波動の低さ」にも関係している。

 

波動が低いとは、認識レベルの粗さ、知識の偏り、人類観念の「狭さ」を意味している。

 

そうであるからこそ、何度も何度も上に戻り、また下に降りてくるような無意識的転生を繰り返すことになり、その無意識レベルから意識が目覚めるまでのこの世界での長い輪廻転生を要することになるのだ。

 

またそれも得難い魂の経験であるわけだが、そのようにして何百、何千億と言う魂達がその遍歴を経て、その間で膨大な経験と想念とプールしつつ居眠り続けたある時点で<大いなる援助>を通じて、どうしようもなく目覚めることになるようである。

今はちょうどそのステップUP、切り替わりの時代なのである。

 

またそれと同期をするようにこの地球もその役割を自認し、次なるステージへの自己変革を行うことが出来るのだ。

 

ある一定の割合の人類がある一定のレベルの魂の学習を超えたならば、それが起きると言われるのはまさにそういうことである。

 

あなたが単なる偶然の物質肉体でないように、そのあなたやわたし達の意識の表現形・魂達を受け入れている巨大な「意識体」であるこの愛すべき地球も、また古き舞台を卒業するのである。

 

意識体である人間が多次元的な層を包含しつつ転生しながら、魂の成長・深化、進化すると同時に、それをバックアップしている惑星意識も多次元層を包含しつつその1つの次元層を卒業するプロセスにある。

 

とはいえ、我々人間が今行わなければならないことは何かと言うならば、

 

外の世界の騒ぎや改革の戦、一か八かのやけくその勝負に参加することではなく、

 

・・・・ただ、今ある・・それぞれの<わたし>を観つめることである。

 

世界の様々な洗脳観念や誘導思考を与得る限りの<静謐さ>をもって鎮静化させ、

 

こころの中にあるそれらのうごめきや歪んだ心的エネルギーを観察し、

 

ほんらいそこには空(くう)という無限があることを理解することであろう。

 

空(くう)とは何も無いのではなく、全てを生じる「可能性」であることを理解することである。

 

あなたが自己を物質であると思っていればそれが出来ず、あなたがコロコロ変化するこころであると感じていればそれは出来ない相談であろう。

 

逆に、それらを生じさせるところの本源は、

 

肉体あるいはこころ、それを生みだしたところの・・・・魂・・それ・・であり、

 

また魂の本源は大いなる法則・・・あるいは愛と言える根本原理であり、また魂はそれから発した無数の<観察光>あるいは拡大深化する<根源波動>であると言えるだろうか。

 

謙虚にそれぞれの<わたし>を理解する方向に歩くことが今第一に大切なことである。

 

それは即ち、

・・・

無意識に流されずに、未知なるものへの好奇心が旺盛であり、

 

 

他者を悪く思わず、まず自己に謙虚であり、

 

 

外を批判攻撃せず、かえって自省的であり、

 

 

人に対しては出来るだけ優しく接し、

 

 

自己の言葉を主張する前に人の話を聞き、

 

 

知恵を持ちながら決してひけらかさず、

 

 

生活はつつましくあって、それで良しとする生き方でもあろう。

 

 ・・・

 

それは決して本来難しくはなく、また生きにくいことでもない。

  

 

それは今までもかつてこの日本にもあったことだし、当たり前のことなのだ。

 

 

ただ単にあなたやわたし達の中にあった、長い時代で巣くった嘘やエゴ的な観念をあぶり出し、洗い流すだけのことである。

 

 ・・・

なるほど・・難しいのは自己浄化・・・自分を省みる、観るということだけかもしれない。

 

そのためでもある・・・今・・日常にある生・・・、

 

ここが肝心なところである。

 

Photo

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿