気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自己認識は創造である

2012-07-29 09:35:10 | 宇宙時代の考え方

地球の70億の人々はそれぞれ身体を持って生活をしているのだが、その多くの人々が真実とはそぐわない盲信によって動いているかも知れない。

 

多くがその肉体レベルの物事に終始している、あるいは終始せざるを得ない状況にあるがゆえに、本当の文明の進展が阻害されているかもしれない。

 

意識的存在たる人類それぞれの「自分とは何か・・」という根本的な問いかけと、そして、その気づきの深まりこそが集合意識の現象結果としての文化・文明を進展させるのだが、

 

肉体・物質形態のあくなき存続に特化したレベルで固定された人類意識の選んだところの、資本(金)を資源とする物質繁栄主義の蔓延によって実のところは精神が疲弊し、挙句の果てはその物質文明の伽藍が今崩壊しつつある。

 

それは単に人類が本質の有り方から逸れてしまったが故のことである。

 

人々は、人間とは何か?とか、どこからきてどこえゆくのか?など思いもよらない状態で生活をしている場合もあるだろう。

 

それはいわゆる意識的無意識と呼ばれている状態であり、自己を意識、あるいは認識していながらそれが漠然としたものであり、その意識するということの本質に気づいていないということだ。

 

あるいは様々な既成概念の流布や教育等によって、人間としての本質の追究から逸らされてしまっていたとも言えるだろう。

 

人間とは何か?わたしとは何か?という本道の追求よりも、

 

とりあえずの生活の為の、あるいは幻想の栄耀栄華の為のお金の追究が先というわけだった。

 

取りあえず・・が、いつの間にか、それが、さも本質のごとく固定されたようなものだ。

 

それは欧米的な物質繁栄主義、搾取的自己繁栄主義の賜物であると言ったら言いすぎであろうか。

 

精神よりも物が先で、魂レベルの追究よりも肉体の保持や快楽が先であるという刹那的なことに特化してしまったプラグマティズム、現実功利主義とも言えるだろうか。

 

その主義主張も、確かに、それは主義でありまた「観念」にすぎないのだ。

 

その偏った観念の人類的な流布と意識的・無意識的洗脳によって、いたしかたなく人類的な観念の崩壊を今迎えているということである。

 

簡単に言えば、宇宙・大自然の有り方との調和、同調が外れたということである。

 

同調が外れれば、有意識的なあり方とすれば、フィードバックを掛けて揺り戻しをし、再度同調する方向になるのだが、それは再び新たな大自然との調和に戻ることになるのは火を見るよりも明らかである。

 

・・・・

 

人類社会の全ての根本は、想念、思い、あるいはその反応である感情にある。

 

様々な法律体系もその人類の想い、思考を社会秩序にそった形に成文化したものであり、あるいはまた科学の成果と言えども、人あるいは科学者の思考過程の先にある論理的で再現可能な1つの現象説明にすぎないのである。

 

つまり現実を説明する客観的方法とされる科学と言えども、自然を理解するための人間の思考と、様々な自然現象の再現性を上手く説明できる手法の1体系にすぎないのだ。

 

すなわち、人間の周囲には絶対客観というものは何も無く、思考あるいはそれを意識の働きというならば、それに従って、またそれに合う方向の「認識体系」のみがあるということである。

 

人間が認識をしなければ、世界があることもわかるはずもない。

 

逆に、世界があっても、それを認識しないでどうして存在することができようか。

 

世界とは、それを認識することで現われるところの「認識体系」の謂いである。

 

ここで認識を「意識の働き」と言いかえれば、

 

世界とは、あるいは宇宙とは、意識の働きそのものであるということだ。

 

認識することの一部に「知覚」の働きがあり、

 

「世界」とは我々が「知覚」することで現われているともいえる。

 

確かに、我々は、見る、聞く、嗅ぐ、感じる、味わうという五感の知覚作用を使っているが、

 

それは認識している・・ということの中の1つの具体的な手段である「五感」を使っていることである。

 

また五感以外の直感、ESP、テレパシー、あるいはスプーン曲げやサイババの物品出現なども、

 

意図的な認識、特定の方向にデザイン固守された意識がエネルギーを生み出し、現象化あるいは物質化することの証拠である。

 

何もびっくり仰天の超能力というまでもなく、人は自らの時空を自らで造り上げているということであり、

 

大勢の人々がごく普通の当たり前の、何の変哲もない観念あるいは苦渋が当たり前というような信念を持っていることで、その集団的に合意された世界を造り上げているというだけなのだ。

 

人間の有様としてどこか低位に、不自由に固定しているような集合観念のことを3次元的な「洗脳」観念と呼んで良いだろう。

 

・・・

 

多くの人は、多分、周囲の世界という<現実>を単なる現象として見ているだけ、あるいは聞いているだけ・・・と漠然と感じているかもしれないが、

 

あにはからんや、実は自らが造り出しているのである。

 

そういう見る、聞く、嗅ぐ等の「知覚」作用は、人間の認識作用の一部であり、認識の働きとは即ち人間の「意識」の働きのことであり、

 

また意識の働きの中枢とも言える思考、感情という意識的意識によって、現実が認識されているということなのだ。

 

簡単に言えば、現実は1つではなく捉え方によって幾通りも認識されるということであり、

 

もっと本質的に言うならば、

 

その認識に沿った形態でその人間の周囲という「現実」が顕れているということである。

 

・・・ここが肝心要なところであろうか。

 

主に人間に代表される自己意識、思考や認識というものが無ければ、

 

確かに物質形態が先にあって、あとで人間が現われたと単純化しても良いわけだが、

 

ふと気付けば、・・・

 

世界がそこにある」とわかるためには、まず! それを そう と「認識」する必要があることが理解出来るはずだ。

 

確かにコペンハーゲン的量子論の解釈では、観測する人間の状況によって素粒子の世界が変動することを説明している。

 

これは意識、人間の世界にあってはその認識自体が人間にまつわる世界を創造しているということの 『相当に控えめな表明』 なのである。

 

地球も相当に複雑に物体化しているが、そうであるためには地球も意識体でなければならず、

 

同じく、

 

そのフィールドの中にいる人類も複雑に肉体化しているが、そうであるためには人間もまず「意識体」でなければならない。

 

意識的存在は全て、その意識の働きとしての物質化現象といういわゆる<自己表現>をしているわけである。

 

逆に、現われた全ての物質形態、・・・鉱物、植物、動物等も、その程度は異なっていても、全てが意識の表現であり、そういう意味ではそれぞれがそれぞれのレベルでの自己認識を有しているということである。

 

山川草木 国土悉皆 成仏・・・・

 

大自然、人間国土含め、あらゆるものが仏(ほとけ)であるという言葉はまさにそういう意味である。

 

もっともさわりのない言葉で言えば、

 

どんなに複雑に絡んでいようとも、全ては「大いなる意識」の表れであり、そういう意味で元はひとつであるということである。

 

一段と大きい認識に至ったならば、我々はその大いなる認識をごく当たり前の日常世界に持ち来たらせることになるのだ。

 

たとえ多くの人々が未だそういう想いに至らなくても、

 

真実を見いだした者達はそれを超えてゆかねばならない。

 

勇気をもって古い自己認識からより大きな自己認識へと超えてゆく者達が増えれば、眠っている者達は周りの様子の変化に否応なく気付いて来るのだ。

 

意識進化の道とは、・・・

 

自己というものが、さらにより大きな存在であることに次第に意識的に気付いてゆくということである。

 

またより大きな認識に進む方向は、あらゆる全てが同胞であると知る方向であり、

 

また、それは

 

人類に古くから伝わる 「」 と言われるものである。

 

肝心なのは、外の世界の進化等ではなく、それを表現するところのあなたやわたし達の<意識>なのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。