気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界は全て想念形

2012-07-09 08:34:56 | 心の科学分野

人間世界のあらゆるものは人間の想念の形である。

 

つまるところ、身の回り、世界にあるあらゆる物は人間の想念の造り上げる形態でしかないのである。

 

あなたは気付いているだろうか?

 

・・・

 

それとも全ては物質で出来た堅牢なものだと思っているだろうか。

 

物質とは、人間ではどうしようもないものだと思っているだろうか。

 

このどちらに想念が傾いているだろうか。

 

あるいは、

 

その物質を手に入れるためにお金が必要だと思っているだろう。

 

だからお金お金という人々が増え、その為に日夜頑張っているのだろうか。

 

・・・・すでに長い時を経て、取りあえず最も汎用的なものが「お金」であるという刷り込みがされてきたことに気付くだろうか。

 

お金で人が動き、人が何かを造り上げる、その造り上げた加工品を人が購入しお金が動き、そのサイクルを繰り返して様々な物を造ってゆくことが、即ち経済・社会の基本になっているということである。

 

人間世界のあらゆる構築物、構造物、加工物質、食品さえも、すべて人間の想念で造られていることを知っているだろうか。

 

当たり前の事実であるが、忘れていないだろうか。

 

しかし、想念で造ると言っても、現状では想いやイメージが直接形態化するレベルではなく、種である人間の想念、アイデア、イメージを設計思想として先ず生みだし、その想念をもとに、周辺の事物、最適な物質を集めて加工し、それを形に現わしているということである。

 

人間世界にあるあらゆる物は、たとえどんなものであろうと鉛筆であろうと、ウオシュレットであろうと、乗用車であろうとジェット機であろうと、その全ては、元々人間の想念であったことは間違いがない。

 

決して勝手にシンドバット的?に造られるものではない。

 

全ての物質加工形態の元に在るのは、想念であり、造られたものは想念形である。粘土細工もスポーツカーも、その造られる複雑さや人的関与の程度の違いはあっても、勝手に出現しているわけではない。

 

あらゆる物質形態の原因は『想念』であり、出来たものは『想念形』であることには違いがない。

 

人間はどうしても唯物史観的な観念に束縛されていた関係で、想念で形が決まることよりも、現われた物のほうに目が行くように促されていたために、その根本的な形態創造の仕組みを、あまり意味が無いもののように思いこんでいたのだ。

 

例えばあなたが何かの設計や創作、工芸、企画のような仕事を知っているならば、こういうことには何処か合点がいくはずである。

 

すくなくとも、すべての創作のスタートは、アイデア、思いつきにあるということである。

 

いわゆるところの、頭に思い浮かんでくるもの・・・・アイデア、思想・・それが全ての起点であることに気付けるだろう。

 

あなたやわたし達の回りにあるものの様々な加工品はすべて、誰かのアイデアから造られているのだ。

 

勝手に偶然にこの世界に出現したものではない。

 

極めて当たり前だが、この事実から深い意味を感じる者は少ないかもしれない。

 

・・・

 

すべての発端はまず想いであり、人間世界の全ての物事は『想念』から生じるのだ。

 

ただし多くの創作者達は、それらは単なるアイデアであり、それを形に現わすにはそれ相当のエネルギーと時間経過が必要であることを知ってもいるはずだ。

 

例えば何かの機械を造る場合、アイデア、設計の詳細を決め、それを造り上げる構造物質を選択し、それを加工して、アイデア・設計の詳細に従って実際に形態化してゆくのである。

 

アイデアから形態化までのそのプロセス自体は、その時々で発見される物質科学技術的な手法を利用しながら、時代を経て変化してゆくわけである。

 

しかしそれはあくまでも形態化の為のプロセスであり、

 

つまるところは、全ての根本には『想念』とその『形態化』の原則があることには変わり様がないのだ。

 

想念による詳細にしたがってそれが現実化・形態化する原則は変わり様がないのである。

 

・・・・

重要なのは、この想念の形態化の流れが、人間社会のあらゆる物事の根本にあるということなのだ。

 

科学技術的な製造工程に留まらず、例えば人間関係、マクロな社会の仕組みも全てこの『想念形』によって出来あがっているということである。

 

未だかつて、かつこれから先も、人間社会のあらゆる物事は、人々の『想念形』で構成されているということである。

 

科学技術が進んでいようがそうで無かろうが、人間社会の根本の原理原則は『想念』とその『形態化』なのである。

 

あなたや私たちの人生というか生活というか、どういうあり方というか・・それそのものも、あなたや私たちの「想念」によって構築されていることもまさに、この想念とその想念の形態化の原則どおりなのである。

 

あなたが誰かの想念で影響させられているだって?

 

あなたの生活が例えば政府によって造り上げられているだって?

 

あなたがどこかの悪者によってコントロールされるだって?

 

そういう他者を恐れる想念はもうやめにしないのだろうか。

 

自らの中に湧きあがる想念を恐れるような不可思議な有様に浸っているおばかさ加減にもほどがあるというものだ。

 

自らの想いは『自らの内面』と言われる方向から湧いてくることに気付いているならば、そのような恐れや不可抗的な外乱要因さえも自らが造り上げていることを悟れるのだ。

 

・・・・

 

人間世界の全ては、それぞれの人間達の想念と、その形態化されたもので出来ており、その全ての原因、起点はそれぞれの人間独自の意識活動なのである。

 

物質が??どういう活動をして、あなたやわたし達を規定しているのだ?

 

そういう思い込みこそが、そういう規定をしている想念形であることに気付くべきなのだ。

 

・・・・

 

I am that I AM  ・・・

 

わたしは、わたしが思うところの者である。

 

・・・・

人々が他者から規定されるという、いつからか思い込んでしまった想念によって、

 

様々な世界の軋轢や不幸なるものが製造されているという現実を見ようか。

 

それぞれのあなたが、生きるも死ぬも結局1人1人であるということは、その1人1人が自らの想いによって決して誰にも犯すことのできない世界を造り上げているということである。

 

それに気づかぬ意識レベルであれば、誰も嫌がる支配や強制という戦うべきものが影のように付きまとうことになる。

 

いやだいやだと言いつつ、なぜか嫌なことばかりを押し付けるような者たちが大勢いると感じるような今までの世界は、

 

それぞれのあなたが、自らのことを決めず、他者を期待し他者の想念を自らの想念と勘違いしていたということである。

 

想念は100%、自らのことを決める方向指示器なのである。

 

あるいは自らが自らの創造主である。

 

良いとか悪いとか、満足とか後悔とかの問題ではない。

 

人生は創造のプロセスそのままである。

 

他者のせいにせずに、自らの創造に潔く気付けるかどうかが肝心要である。

 

  

自らの想いを観ることが出来なければ、想念とその想念形で出来た世界の原則を知らず、他者の想念形の中で右往左往することだろう。

 ・・・

 

あなたの想いは、どこから湧いてくるのだろうか。

 

それは、

  

本来空(くう)であり、無限であるところの、時間も空間も超えてあるところのそれぞれの「わたし」から湧いてくるのだ。

 

空(くう)とは、何ものでもなく、また何ものでもありうるもの。

 

空(くう)とは、時間や空間さえも1つの可能性として含むところの「無限」である。

 

その中に湧きあがる様々な波動が「想念」であり、

 

その想念の形態化したものが世界である。

 

存在諸世界も宇宙も、人生も、社会も、個人生活も・・・・

 

同じ『自らの創造』の原則で貫かれている。

 

これこそが 現実 なのだ。

 

他者が今どうだろうと関係なく、楽しく面白く愛すべき信頼すべき『想い』を保持しようか。

 

基本の想念を自分らしく入れ替えようか。

 

ところで、

 

あなたはまだ想いが確実に顕れていることを、自らで確認、あるいは実証していないかもしれない。

 

そうであれば、それは自らで実証すべきではないか。

 

自らの想いを入れ替え、そしてそれを保持し・・そして、何が生じるか確認すべきであろう。

 

そう、・・・時は常に今・・・しかないのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして誠に有難うございました。